タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「老いゆく愛犬と暮らしたかけがえのない日々 ワンコ17歳」サエタカ/KADOKAWA-老犬と過ごす日々の幸せを描くイラスト&エッセイ集。読んでいたら、我が家の歴代ワンコたちを思い出しました。

 

 

子どもの頃からずっと犬を飼ってきました。今の家に引っ越してくる前に暮らしていたところで1匹。今の家で生活するようになってからは、4匹のワンコと一緒に暮らしてきました。最初の1匹だけは、私がまだずっと幼い3歳か4歳くらいのときに飼っていたワンコなので、残念ですが記憶にまったく残っていません。2匹目のワンコからは、どの犬も子犬のときから亡くなるまでの記憶がしっかりと残っています。

引っ越してきて最初に飼ったのは、近所の空き家に捨てられていたワンコでした。黒白の柴犬の血が混じっていそうなオスの雑種犬でした。脱走癖があって、ときどき庭から脱走するのですが、そのたびにどこからか靴を持ち帰ってきていました。不思議なことに、片方だけ持ち帰るのではなくて、きちんと両足揃いで持ち帰ってくる、ある意味賢いワンコでした。

次に飼ったのは、父の会社の友人宅で生まれたワンコでした。やはりオスのワンコで、とにかく吠える犬でした。夜になって通りかかった近所の人に吠えて怖がらせてしまうことも度々で、今でもその方からは「怖い犬だった」と言われて恐縮しています。

その次に飼ったのが、親戚の家で生まれたビーグル犬でした。このワンコとの思い出が我が家には一番残っているように思います。初めて室内飼いしたワンコで、どこに行くにも常に一緒。買い物にも、旅行にも一緒に行きました。歴代ワンコの中では一番長生きで18歳3ヶ月生きてくれました。

そして今飼っているワンコ。この子は、前の飼い主さんが家庭の事情で飼い続けることができなくなっているのを親戚づてに話をもらって、我が家に迎え入れたワンコです。飼い始めてもうすぐ4年になります。今では我が家のアイドルです。

どのワンコもしっかり最後まで面倒をみて、最期を看取りました。今飼っているワンコももちろん最後まで面倒をみる覚悟です。

我が家の愛犬話はこのくらいにして、サエタカ「ワンコ17歳」の話をしましょう。本書は、著者のサエタカさんがX(旧Twitter)上で、『#秘密結社老犬倶楽部』というハッシュタグをみつけて、自分も老犬となった愛犬について、投稿するようになったことをきっかけに生まれたエッセイ集です。全編描き下ろしのイラストとエッセイで構成されています。

ワンコの寿命は15年から、長くて20年に届くかどうかというところ。人間に比べると本当に短い一生です。子犬で我が家に迎え入れたときは、永遠にアイドルとして暮らしていけると思っていても、10年、15年と過ぎてくると次第に動きが鈍くなってきたり、反応が薄くなってきたり、ずっと寝てばかりいたりするようになってきて、年をとってきたなと感じさせられるようになります。元気に走り回っていたワンコが少しずつ弱っていく姿に寂しくなったり悲しくなったりすることも多くなります。

ですが、ワンコとの関係は、ワンコが老犬になってからが本格的になってくるというのが、5匹の犬を飼ってきた個人的な感想です。老犬との生活は、大変なことも多いですが、それ以上に楽しいことが多いのです。これって、なかなか伝わりにくいことなのですが、ワンコやニャンコなどのペットを飼ったことがあって、その子が旅立つ日まで面倒を見続けた経験がある飼い主さんならわかってくれるのではないかと思います。

そういう意味で、サエタカさんの「ワンコ17歳」は老犬との生活の楽しさを伝えてくれていると感じました。たくさん共感できるところがありました。ページをめくって、ひとつひとつのエピソードを読んでいくと、その全てが我が家で一緒に暮らしてきた歴代ワンコたちの思い出と重なっている気がして、「あぁ、ウチのワンコもそうだったなぁ」と、あの子はこうだった、この子はこうだったと思い出が次々と浮かんできます。ワンコやニャンコの飼い主さんがこの本を読んだら、同じ気持ちになると思います。

サエタカさんのワンコは、17歳11ヶ月で亡くなりました。元気だったときに散歩した道をサエタカさんに抱っこされて、いつもの時間、いつもの河川敷で、ゆっくりと息を引き取りました。大好きな飼い主の腕に抱かれて天国に旅立てる。なんて幸せな旅立ちでしょうか。サエタカさんのワンコは、世界一幸せなワンコです。そんなワンコを縁があって迎え入れ、一緒に過ごしてきた17年11ヶ月の日々は、サエタカさん家族にとってかけがえのない日々だったに違いありません。

十数年間をともに過ごしてきたワンコを見送ることは、何回経験しても悲しくて寂しいことです。でも、それ以上に感じるのは、「ありがとう」という感謝の気持ちです。

ウチの子になってくれてありがとう。
楽しい日々を一緒に過ごさせてくれてありがとう。
たくさんの愛情を与えてくれてありがとう。
たくさんの思い出を残してくれてありがとう。

たくさんの「ありがとう」が溢れてきます。いつまでも忘れることはありません。この本を読んで、その気持ちは一層強くなりました。

「ハリケーンの季節」フェルナンダ・メルチョール/宇野和美訳/早川書房-事件を複数の視点で描くことであぶり出される貧困、暴力、ドラッグの闇深さ。暗闇の中に引きずり込まれるような作品

 

 

2021年9月に「今読みたい!スペイン語圏の女性作家たち-フェミニズムマジックリアリズム? それとも…?-」と題して開催されたイベントに参加しました(イベントの模様はこちらの記事で読むことができます)。

www.365bookdays.jp

当時は、グアダルーペ・ネッテル「赤い魚の夫婦」が刊行されて話題になっていましたが、翻訳出版される海外文学作品は英米が主体であり、韓国文学がブームとなって翻訳刊行数を増やしつつある中で、スペイン語文学の翻訳刊行数はまだまだ少ないという状況でした。

イベントの中では、スペイン語圏(スペイン、メキシコ、アルゼンチンなど)で注目され、全米図書賞にノミネートされるなど世界的な広がりを見せつつある女性作家たちの作品が紹介されていました。紹介された作品からは、ピラール・キンタナ「雌犬」(村岡直子訳/国書刊行会)セルバ・アルマダ「吹きさらう風」(宇野和美訳/松籟社)(イベント時の仮タイトルは「吹きすさぶ風」)が2022年に翻訳刊行され、その他エルビラ・ナバロ「兎の島」(宮崎真紀訳/国書刊行会)から始まった『スパニッシュ・ホラー叢書』も2023年に第2弾となるマリアーナ・エンリケス「寝煙草の危険」(宮崎真紀訳/国書刊行会)が刊行されました。イベント以降、スペイン文学の翻訳が少しずつ増えてきているように思います。

フェルナンダ・メルチョール「ハリケーンの季節」もイベントの中で注目の作家、作品として紹介されていたものです。2023年に翻訳刊行予定として紹介されていました。

物語は、メキシコの村を舞台に描かれます。村という狭小なコミュニティの閉塞感や貧困、ドラッグ、家庭内暴力といった重いテーマで描かれていて、各章ごとに主体となる人物が異なる構成も独特ですし、会話も地の文も混在する形で一切の改行もなく1章分の文章が書かれているという構造も特長的な作品となっています。

村の人から〈魔女〉と呼ばれていた人物が死体で発見される場面から物語は始まります。〈魔女〉は、鉄格子のある家にこもり、困窮する女たちに救いの手を差し伸べ、様々な薬を調合して与えたり、堕胎の世話をしていました。誰も〈魔女〉の名前は知らず、その生活ぶりも謎に満ちており、村の女たちを助ける一方で恐れられる存在でもありました。本書では、事件に関わったり、〈魔女〉と関わった人物たちの物語が各章で視点を変えて語られていきます。

本書は、全8章で構成されています。第1章で〈魔女〉の死体が発見され、第2章では〈魔女〉の物語が語られます。第3章では、ジョセニアという女性の視点で事件の目撃談が語られ、第4章では、ムンラという男の視点で事件に関わったと思われる息子ルイスミや家族のことが語られ、第5章ではルイスミに拾われた少女ノルマの複雑な家庭事情が語られます。第6章では、〈魔女〉殺しの罪で捕まったブランドの視点で事件のこと、事件に至るまでの経緯、〈魔女〉の真実が語られ、第7章では〈魔女〉がいなくなった後の物語、第8章では遺体安置所での物語が語られ、「ハリケーンの季節」は幕を下ろします。

物語の中で主体的な役割を与えられる登場人物は5人です。〈魔女〉、ジョセニア、ムンラ、ノルマ、ブランド。物語の中心にいるのは〈魔女〉になりますが、その他の登場人物たちもそれぞれに繋がっています。その関係性を踏まえながら読んでいくことで、それぞれの視点から“〈魔女〉殺し”の実体、〈魔女〉という人物の実体、村を覆う貧困やドラッグ、暴力の連鎖の構造といった暗闇の部分がクローズアップされてくるのだと思います。読者は、物語を読み進めることで、その暗闇の深さに引きずり込まれそうになります。いや、実際に物語の中の暗闇に引きずり込まれてしまうかもしれません。

冒頭に紹介したイベントで登壇者の松本健二さんは本作について、

近頃珍しい読者を拒絶するタイプの作品だと思います。(中略)精緻にゆっくり読むのが好きな方に向いていると思います。実験小説的な作品で、この人の文体などを読むと、南米の女性作家、厚みがあるなあと思わされます。考えながら繰り返し読むという読み方ができる作品だと思います。

と評されていました。今回、翻訳刊行された本書を読んで、松本さんの言われていたことをようやく実感することができたと思います。正直、文体も含めて、決して読みやすい作品ではありません。テーマも暗いです。それでも、読むことで見えてくることがたくさんある作品だと思います。登場人物の相関関係を意識しながら繰り返し読むことで、最初に読んだときには気づかなかったことに気づくという読み方もできるのではないでしょうか。

この作品の翻訳にはどれほどの苦労があっただろうかと考えてしまいます。あとがきでは、本書を翻訳していることに対して、「チャレンジングだね」とスペイン語圏の友人から言われたと書かれていました。文体もそうですが、著者の故郷でもあるベラクルス地方の方言で書かれているところも翻訳をチャレンジングなものにする要因だったようです。

翻訳の難しさについてメルチョールは、翻訳によって失われるものはあるが、バランスを考えて近い言葉で伝えることで翻訳は可能、それによって他国の読者に作品が届くと語っている。そうであるよう、ただただ願っている。

訳者あとがきの締めくくりは、こう記されています。本書に限らず、翻訳者が様々に工夫をし、たくさんの苦労をして、我々読者に世界中の文学作品を届けてくれる。そのことに感謝をして、読んで楽しむことが苦労に報いることになるのだと信じて、これからも海外文学をたくさん読んでいこうと思います。

 

「郊外の探偵たち」ファビアン・ニシーザ/田村義進訳/早川書房-小さな町で数十年ぶりに起きた殺人事件。現場を末っ子のおしっこで荒らしてしまった元FBIプロファイラーのアンドレアが事件の調査で掴んだこの町の忌まわしい過去とは

 

 

ニュージャージーの小さな行政区であるウェスト・ウィンザー署の管内でインド人青年のサトクナナンタン・サスマルが殺害される事件が発生し、ウェスト・ウィンザー署勤務のミシェル・ウー巡査とニケット・パテル巡査が現場となったガスステーションの保全業務をしている場面から物語は始まります。ウェスト・ウィンザー署管内での殺人事件は、30年以上前に妻を侮辱した夫が頭に電子レンジを叩きつけられて以来の出来事というくらい、この小さな行政区は穏やかな場所です。

ふたりの巡査が、捜査班到着までの現場保全をなんとかこなそうと奮闘している中で珍事が起きます。4人の子どもを乗せ、5人目を妊娠中の妊婦が現場にやってきたのです。彼女は、末っ子のトイレを借りようとガスステーションに車を乗りつけます。もちろん、そこが殺人現場であるとは知るよしもありません。彼女と巡査が揉めている間に、末っ子は我慢しきれずにおしっこを漏らしてしまいました。巡査は母親に抗議しますが、逆に言い返されてしまいます。彼女は、ふたりの巡査が現場の保全に関してどれだけの不手際を犯しているか、何ができていないのかを一気呵成にまくしたてます。その指摘はどれも的確で的を射たものでした。さらに去り際に彼女はこう伝えます。

「おまけにもうひとつ。着弾の角度からすると、犯人は車から降りて、発砲した可能性が高い」

殺人現場に現れて、末っ子のおしっこで現場を汚し(不可抗力)、抗議する巡査に的確な指摘をして立ち去った女性。彼女は、元FBIのプロファイラーで現在は専業主婦のアンドレア・スターンでした。アンドレアは、過去に自らのプロファイリングで殺人犯を特定したことがあり、今回のサトクナナンタン・サスマル殺害の現場に遭遇して、自分が過去の事件以来の高まりを感じていることを自覚していました。アンドレアは、元FBIプロファイラーとして今回の事件で警察に協力しようと決めます。

「郊外の探偵たち」には、アンドレアとコンビを組むもうひとりの登場人物がいます。プリンストン・ポスト・ウィークリー紙の記者ケニー・リーです。ケニーは、かつて州知事のスキャンダルを告発する記事でピュリッツァー賞を受賞するも、その後は鳴かず飛ばずとなり、焦るあまりに捏造記事を出したことでいまや完全に落ち目となっています。彼は、今回の事件の裏に何か隠された事実があるのではないかと警察の発表に疑念をもち、自身の名誉回復の機会になるのではと、事件の調査に乗り出します。

華々しい過去の経歴がありながら、結婚と子育て、でっちあげ記事による名誉失墜というそれぞれの事情によって現在はくすぶっているアンドレアとケニーは、調査の過程で偶然に出会い、お互いに調査に協力することとなります。主婦として母として妊婦として何かと行動に制約の多いアンドレアと記者としてある程度自由な立ち位置で動けるケニーは、相互に不足する部分を補いながら調査を進めていきます。

アンドレアもケニーも、インド人青年殺害事件の裏にこの町が隠している過去の事件が関わっていることに気づきます。プールの建設許可が、いかにももっともらしいが不可解な理由で却下されているのはなぜか。過去に農場で発見された骨とはなにか。さらに、かつて白人が経営する農場での苦役を強いられた黒人の歴史。そして、現在に至るも根深く残る白人による異人種への差別的言動。様々な人種が小さなコミュニティの中で混在しながら暮らしている町で、過去に起きた忌まわしい事件が、数十年を経た現在にまで影響を及ぼし、秘密は永遠に隠し続けられなければならないという呪縛のようなものに、警察も行政も囚われているというのが、物語の背景にあるのです。

本書を読んで感じたのは、アンドレアの家庭事情が意外にも家父長制となっていることでした。アンドレアは、FBIプロファイラーとして輝かしい実績がありましたが、ジェフとの結婚、妊娠を機に退職して専業主婦となります。その後、次々と子どもが生まれて現在は5人目を妊娠中です。そのような状況で、アンドレアが殺人事件の調査に首を突っ込むことに反対するジェフとの関係に、アンドレアは少しうんざりしています。遊びたい盛りの子どもたちの面倒をみることも彼女を疲れさせています。そんな憂うべき生活に活力を与えてくれるのが、今回の殺人事件であり、過去に起きた事件の謎を解くことなのです。アンドレアにとって事件を捜査することが、自らの存在価値を確認する手段となっているのだと感じました。

アンドレアとケニーは、FBIの協力も得て、ウェスト・ウィンザー署の署長を始めとする警察組織からの妨害も乗り越えて、過去にこの町で起きた事件の真相を解き明かし、さらにインド人青年殺害事件の真相も解き明かします。

ラストシーン。すべての事件の真相を解明した立役者としてアンドレアは記者会見にのぞみます。その席で、またしても起こる珍事。最初に事件現場で起きた珍事とラストの記者会見場で起きた珍事とのコンビネーションが、忌まわしい事件の記録の中でユーモアを生み出していると思います。

取り上げている事件や物語の背景など、相当に複雑で陰鬱となるところではありますが、本書自体は全編にわたってユーモアに溢れていると思います。軽快なテンポでスイスイと読めて、それでありながらアメリカらしい複雑な問題を含有している。読み応えのある作品ではないかと思います。

 

「吹きさらう風」セルバ・アルマダ/宇野和美訳/松籟社-整備工場を舞台に描かれる4人の物語は、まるでひとつの舞台劇のよう。その舞台を特等席で鑑賞しているような感覚になる作品

 

 

開演のブザーが鳴る。照明に照らされた舞台には4人の登場人物。自動車整備工のグリンゴ・ブラウエル、彼のもとで働く少年タピオカ、故障した車の持ち主で牧師のピルソン、彼の娘のレニ。車の修理が終わるまでの短い時間の中で、4人の物語が描かれていく。

アルゼンチンの女性作家セルバ・アルマダの「吹きさらう風」を読み終えて、いや読んでいる最中から、私は完成された舞台劇をみているような感覚にとらわれていました。4人の登場人物たちが織りなすドラマは、派手さはありませんがじんわりと胸に染み入ってくる物語だと思います。そんな胸に染みる物語を特等席で鑑賞しているという感覚が読書の醍醐味だなと思います。

牧師のピルソンは、娘のレニを連れて、アルゼンチンの辺境をキリスト教の布教活動をしてまわっています。その旅の途中、彼の車は故障して動かなくなり、たまたま通りかかったトラックに牽引されてグリンゴの整備工場にたどり着きました。こうして、この物語を構成する4人は出会います。

ピルソン牧師の説教はすばらしい。いつでも忘れられない説教をすると、教区中に名がとどろいている。
ピルソン牧師が壇上にあがると、人々は黙り込む。まるで出るのを阻もうとする悪魔と取っ組み合いをしてきたかのように、彼はいつでもいきなり躍りでる。

物語の中でそう評されるピルソン牧師は、信仰心の強い人物として描かれています。子どもの頃に経験した説教師による洗礼が彼を信仰に目覚めさせ、自らの説教師としての日々が信仰をより強くしてきました。ですが、それは客観的にみると異質な印象があります。信仰心が人間としての生き方を狂わせているように思います。そのことを一番感じているのが、もっとも身近で彼を見続けてきた娘のレニなのです。

母親に置いていかれたとき、タピオカは三年生になっていて、読み書きと計算はできた。自分も学校は了えていなかったグリンゴは、学校に通わせるのが必要だとは思わなかった。一番近い学校でも十キロ以上はなれていて、毎日送り迎えをするのはやっかいだった。八歳までに受けた教育で十分だ。あとは、大自然と仕事から学ばせようとグリンゴは決めた。自然と仕事は学問ではないが、学べば立派な人間になれる。

ピルソン牧師とは対象的な人物として描かれるのが自動車整備工のグリンゴです。彼は、信仰などというものには何も興味がありません。息子のタピオカと犬たちとこの場所で暮らし、自動車整備の仕事で生活しています。仕事と自然から多くを学ぶことでタピオカは成長できると考え、学校で学ばせることもしていません。手に職をつけれ食いっぱぐれることはないという昔気質の人間という印象を受けます。

説教師として信仰の素晴らしさを説いてまわる牧師と、学びは仕事と大自然から得られると考える整備工。ふたりの対象的な人物が邂逅することで物語は生まれます。ピルソン牧師は、タピオカが洗礼を受けていないことを知り、彼に信仰の素晴らしさを説きます。無垢な少年は、牧師の言葉に心を動かされていきます。グリンゴは、牧師がタピオカに信仰について話すことを否定します。

牧師と整備工の対立は、徐々にエスカレートしていきます。そのプロセスを追いながら感じるのは、この対立の中には、本来中心となるべきタピオカの存在が感じられないということでした。正確に言うと、牧師の中にタピオカという人間の存在が希薄なように感じられたのです。牧師は、まだ洗礼を受けていない無垢な少年に信仰の素晴らしさを教えたいという説教師としての使命感に突き動かされています。ただ、それは相手がタピオカでなくても構わないのです。この物語の中では、タピオカという少年がターゲットになっているので、牧師は少年のために熱心に話してくれているように描かれていますが、それはタピオカ少年のためではなく、自身の信仰のためなのだと感じるのです。

そしてラストシーン。修理を終えて走り去る牧師の車。

牧師はそれを見なかった。
タピオカはそれを見なかった。
レニはそれを見なかった。
パヨはそれを見なかった。
そして、グリンゴはそれを見なかった。

彼らが何を見て、何を見なかったのか。それは誰にもわからないことです。“それ”を見なかったことで、その後の彼らの人生がどう変わるのか、それとも何も変わらずにそれまでと同じ日常が繰り返されるのか。それも誰にもわかりません。ただひとつ言えること。それは、「吹きさらう風」というひとつの物語が幕を下ろしたということ。終演のアナウンスが流れ、読者は現実の世界に戻るということ。本のページを閉じたら、彼らの物語をゆっくりと心の中で噛み締め、彼らの人生とともに私たちの人生について考える。そんな時間を大切にしたいと思います。

「ガラム・マサラ」ラーフル・ライナ/武藤陽生訳/文藝春秋-インド発のミステリーだからってタイトルが「ガラム・マサラ」? なんか安直だなぁと思ったら中身はすごかった!

 

 

私はほとんどみていないのですが、インド映画(ボリウッド映画というそうです)がちょっとした(ちょっとどころじゃない?)ブームになっているみたいですね。本書巻末の解説でも、「バーフバリ」や「RRR」といった映画タイトルが取り上げられています。

ラーフル・ライナ「ガラム・マサラ」は、インド発のミステリー小説です。謎解きよりはサスペンスの要素が強いかなと思います。

物語は、本書の主人公であり語り部である僕(ラメッシュ・クマール)がルドラクシュ・サクセナ(ルディ)という青年とともに何者かに誘拐されて監禁されている場面から始まります。なぜ、このような事態に陥ってしまったのでしょうか。そこに行き着くまでの顛末を、ラメッシュがまだ幼い子どもだったときの話から描いていくのが「ガラム・マサラ」のストーリー構成です。

主人公ラメッシュ・クマールは、教育コンサルタントを生業としています。コンサルタントといっても実態は替え玉受験です。金持ちのドラ息子に代わって全国共通試験を受験し、ドラ息子を希望する大学へと進学させ、その見返りとして報酬を得るのがラメッシュの仕事となっています。

今回、ラメッシュが替え玉を引き受けたのはサクセナ家のドラ息子ルドラクシュ(ルディ)でした。条件は全国共通試験で1万位以内に入る成績をとること。この試験で1万位以内に入れば将来は安泰といわれているのです。ラメッシュはこの条件で依頼を受け、全国共通試験をルディになりすまして受験します。

ところが、ここで事件が起きます。なんとルディ(の替え玉ラメッシュ)は、全国共通試験でトップの成績をとってしまったです。このことで、ルディとラメッシュの人生は大きく変化します。ルディは一躍ときの人となり、彼には全インド中の注目が集まるようになります。ルディは、一夜にしてすべてを我が物にできるスターの椅子を手に入れたのです。ラメッシュは、ルディのマネージャーとなり、彼自身も莫大な稼ぎを得る立場となります。

物語の前半部分では、ラメッシュがルディの替え玉として試験を受けて、望外にも全国トップの成績を獲得したことから始まる騒動の出発点を描くのと並行して、なぜ試験で全国トップの成績がとれるラメッシュが替え玉受験という違法行為を生業とするようになったのか、その生い立ちが並行して描かれます。チャイ屋台を営む暴力的な父親と暮らしてきたラメッシュ少年が、どのような経緯で学問を身に着けたのか。クレアという修道女と出会い、学びの機会を得た少年にどのような試練が待ち受けていたのかといった成長と苦悩の日々が描かれます。

一夜にしてスターとなったルディは、彼を冠とするクイズ番組を任されるようになり、さらに国民的スターへとなりあがっていきます。ですが、その番組の中で起こしたある出来事をきっかけにしてルディとラメッシュは大きなトラブルへと巻き込まれていくことになります。

後半に入り、ルディとラメッシュが何者かに誘拐され、身代金要求を渋ったテレビ局への報復としてラメッシュの指が切り落とされ、さらにルディとラメッシュが別の誘拐事件を引き起こし、さらにさらにまた別の誘拐事件へと発展し、ついには全国を巻き込んだ騒動へと拡大していくストーリー展開は圧倒的です。後半は、途中で読むのをやめることができないくらいに展開が目まぐるしく、まさにジェットコースター小説という表現がぴったりではないと思います。エンターテインメント小説としての醍醐味を存分に味わえる作品だと思います。

そうしたドタバタしたストーリーの中で、ルディという若者の本当の姿が少しずつ明らかになっていきます。金持ちのドラ息子として登場したルディですが、ラメッシュが替え玉として全国トップとなり、自分が注目されるようになると、お決まりのように傲慢になり、ドラッグに手を出したりするようになります。ですが、テレビの冠番組を持ち、全国的なスターになってからのルディは、ドラ息子として登場したときとは違う若者に変化していきます。そして、誘拐事件に巻き込まれたことで、より一層自分の意志を持って行動できる強い人物へと成長していくのです。金持ちの息子として甘やかされて育てられたルディが、自らの意思に反して注目される立場となり、そのことに実は不安と苦悩を心のうちに抱えていく。そこから事件を契機にして強さを身に着けていく。そこも「ガラム・マサラ」という作品の魅力と言えるかもしれません。

書店の店頭で本書を見つけたとき、「インド発の小説だからって『ガラム・マサラ』というタイトルは安直じゃないか?」と思ってしまったのですが、読み終わった今となっては最初にそんなことを安直に考えてしまった自分を反省しています。(巻末の解説によれば、もともと著者が考えていた最初のタイトルが「ガラム・マサラ」だったとのこと)

本書の帯には、「北欧、華文、韓国の次はインド・ミステリーの時代だ」との惹句があります。この惹句のとおりインド・ミステリーのブームが訪れるかは未知数ですが、英米以外の世界各国の小説が読めることの幸福を読者としてはひしひしと感じています。今後もインドに限らず世界中の面白い作品が翻訳されるといいなと思っています。(ちなみに本書は英語で書かれたそうです)

「卒業生には向かない真実」ホリー・ジャクソン/服部京子訳/東京創元社-〈向かない3部作〉シリーズ完結。第一部のラストに起きる衝撃の事件。しかし、さらなる驚愕が待ち受けていた。ピップの決断は是か非か?

 

 

※ネタバレなしで書くことができませんでした。未読の方はご注意ください。

 

こんな衝撃の展開になると誰が予想できたでしょうか。

前作「優等生は探偵に向かない」のラストで、“チャイルド・ブランズウィック”という異名に縛られ続けたスタンリー・フォーブスを目の前で射殺され、かつ彼の葬儀の場でリトル・キルトンの人々の醜悪さを見せつけられたピップ。シリーズ完結編となる「卒業生には向かない真実」では、ピップは前2作で経験した出来事からくるトラウマやマックス・ヘイスティングスが裁判で無罪になったことによるストレスで深く心を傷つけられています。さらに、何者かがピップの周辺に現れ、ハトの死骸や謎のメッセージを使って彼女に警告を送るという事態も発生します。家族も警察も、彼女を救ってはくれません。ピップは、ドラッグを手にするようになってしまっています。

第1部の終盤、ダクトテープキラー(DTキラー)の標的となり、身体中をダクトテープでグルグル巻きにされて倉庫に置き去りにされたピップは、必死に抵抗してダクトテープの束縛を外して逃走します。そして、彼女をいたぶって殺そうと戻ってきたDTキラーことジェイソン・ベルを、ピップ自らの意思をもって殺害します。そうです、ピップは殺人犯となるのです。彼女がジェイソン・ベルをメッタ打ちにして殺害する場面で第1部は幕を閉じます。

問題はここからです。第2部に入ってピップは、さらに衝撃の行動にでます。彼女は、自らのジェイソン・ベル殺害の罪をマックス・ヘイスティングスになすりつけようと画策するのです。「自由研究には向かない殺人」や「優等生は探偵に向かない」の中で身につけた殺人に関する知識をフル活用し、さらにラヴィやカーラ、ナオミ、コナーやジェイミーといった恋人や親友をも巻き込んで自分のアリバイ工作をするとともに、マックスには睡眠薬を使って眠らせることで行動を奪い、彼のアリバイがないように工作します。そのうえで、マックスの車や服、帽子、靴、スマホなどを使って、彼がジェイソン殺しの実行犯であるかのように仕立て上げていきます。

いかに許しがたい因縁の相手とはいえ、マックスを殺人犯に仕立て上げようとするピップの行為を読者はどう理解すればよいのでしょうか。正義という意味では、冤罪を作り上げるピップの行為は非道な行為と言わざるを得ません。しかしながら、マックスが過去に行ったドラッグレイプ事件やその事件によって深く傷つけられてしまった犠牲者のこと、本来罰せられるべきマックスが裁判で無罪を勝ち取り自由の身となったことなどを考えると、ピップがマックスを犯罪者として罰するべき存在と考えたことも理解できます。しかし、やはりまったくの無実である殺人の罪をなすりつけるのはやり過ぎです。でも、でも、、、

間違いなく、ピップの行動に対しての賛否をどう考えるかが、読者の間で侃々諤々の議論になると思います。ピップの行為を擁護する者、非難する者、理解する者、途方に暮れる者があるでしょう。ひとつ言えることは、ピップはマックスに罪をなすりつけたことで幸せになるわけではないということです。彼女はこれからの長い人生で重い重い罪の十字架を背負って生きていくことになります。DTキラーと呼ばれた殺人鬼とはいえ、ひとりの人間を殺してしまったこと。その罪を無実の人間になすりつけて冤罪事件を生み出してしまったこと。なにより、多くの人を事件に巻き込んでしまったこと。こうした数々の罪の意識に永遠に苛まれながらピップは生きていくことになるのです。

本作のラストは、マックスが逮捕されてから1年8ヶ月後、彼の裁判での評決が下されてから数分後にラヴィからピップに送信されたチャットメッセージで終了します。事件以降ずっと連絡を断っていたラヴィからのメッセージに何か応えようとしているピップ。ここも、読者によっては解釈がわかれるところになるでしょう。ピップとラヴィは関係を取り戻せるのか。いや、そもそもマックスは裁判に有罪になったのか。実に思わせぶりなラストシーンです。

「自由研究には向かない殺人」でスタートした〈向かない3部作〉は、こうしてすべての幕を下ろします。サル・シンの冤罪を晴らすために動き出したピップが、最後に自ら冤罪事件を作り出すというエンディングにはいろいろと考えさせられますが、全体としてはよく練り込まれた構成になっていると思いました。読み応えのあるシリーズ作品なので、シリーズ第1作から順番にじっくりと読むと面白いと思います。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

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「優等生は探偵に向かない」ホリー・ジャクソン/服部京子訳/東京創元社-〈向かない3部作〉シリーズ第2作。友人の兄の失踪事件を調査するピップを待ち受ける心を押しつぶされるような結末

 

 

※前作「自由研究には向かない殺人」及び本作のネタバレがありますので未読の方はご注意ください。

「自由研究には向かない殺人」が2021年末ミステリーの各種ベストテンの上位に軒並みランクインし、高い評価を得たシリーズの第2作となる作品です。

アンディとサルに関する事件の調査を終えたピップは、その顛末を〈グッドガールの殺人ガイド〉というポッドキャスト番組として配信して人気を得ていました。リスナーからはシーズン2の配信を期待する声がありますが、ピップは自分の探偵稼業は終わりと考えていて、セカンドシーズンを否定していました。

そんなピップを友人のコナーが訪ねてきます。彼は、兄のジェイミーが行方不明になったと告げ、ピップに兄を探してほしいと頼みます。ですが、ピップはもう自分が何らかの事件に首を突っ込むことはしないつもりでした。サルの事件の調査のときに、家族やたくさんの友人を巻き込み、事件の真相を知ることでピップ自身も深く傷づいていたからです。それでも、コナーの頼みに応じ、まずは警察にジェイミーの失踪事件をちゃんと捜査してくれるように頼みに行きます。しかし、警察は事件性の乏しい失踪案件を捜査するのに重い腰をあげようとはしませんでした。だからピップは、再び探偵業に足を踏み出すことになります。

前作から本作を通じて感じるのは、ピップが実に正義感に溢れた人物だということです。「自由研究には向かない殺人」では、サルが恋人を殺して自殺したという汚名を被せられ、そのことでサルの家族が村八分のような扱いを受けていることに憤り、サルの名誉を回復するために事件の調査を進めていきました。本作では、父親に反発したジェイミーが勝手に家出しただけと軽視する警察の態度に憤り、ジェイミーの身を心から心配する彼の母や弟を信じて調査活動に身を投じます。どちらの事件も、他人事として見て見ぬふりをすることは簡単なことです。だけどピップは、そうすることができないのです。そんな彼女の正義感が、小さなコミュニティの中に隠されていた不都合な真実を白日の下に晒すことなります。それゆえピップに対する評価は二分され、彼女を信頼し協力的に接してくれる人と彼女を嫌い排除しようとする人が生まれます。

ジェイミー失踪事件の調査と並行して描かれるのが、マックス・ヘイスティングスに対する裁判です。マックスは、前作で睡眠薬を使って女性をレイプする事件を起こしていたことが判明し、彼の毒牙にかかったことがアンディ・ベル殺害事件の真相にもつながっていました。本作では、マックスの裁判の経緯も〈グッドガールの殺人ガイド〉のコンテンツとして配信されていきます。この裁判の結果も、ピップにとって大きなターニングポイントとなり、3部作の完結編となる次作の「卒業生には向かない真実」へと繋がっていくことになります。

ジェイミー失踪事件の調査を進めていく中でピップとラヴィは、ジェイミーがレイラという女性とチャットを通じてやりとりしていたことを突き止めます。レイラは、ジェイミー以外にも29歳から30歳くらいの年齢の男性とつながっていて、ピップはレイラが事件の鍵を握っていると推測します。レイラの存在が浮かび上がったところから、ジェイミー失踪事件の調査は加速し、それに合わせて事態はピップも想像しない結末へと向かっていくことになります。

〈向かない〉シリーズのテーマのひとつに“過去の呪縛”があると思います。「自由研究には向かない殺人」では、殺人犯としての汚名を被ったまま命を絶たれたサルとその家族、サルを殺害して犯人したてあげようとしたエリオットとその家族、マックス・ヘイスティングスの悪行を知りながら声もあげられず傍観者となった友人たちが、5年前の事件の呪縛に苦しめられました。「優等生は探偵に向かない」では、さらに根深い過去の呪縛がジェイミー失踪事件の根幹にあり、さらにラストではスタンリー・フォーブスという、過去の呪縛から逃れてリトル・キルトンの町で平和に暮らしたいと願っていた男の命と名誉が失われます。そして、スタンリーの死に直面したことで、ピップは深い心の傷を負うことになります。

前作「自由研究には向かない殺人」は、2019年にイギリスで刊行され、2020年にはブリティッシュ・ブックアワードのチルドレンズ・ブック・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。ジャンルとしてはヤングアダルト小説ということになるのですが、作品のテーマはかなりセンシティブで重いものになっていて、子ども向け、若者向けという印象はありません。前作はまだ明るい雰囲気も感じられましたが、「優等生は探偵に向かない」になると、明るい部分としてはピップとラヴィの恋愛やピップの家族(特に弟のジョシュアの存在)との関係が描かれますが、作品全体としては先述のように過去の呪縛によって悲劇的なラストを迎える展開になっていて、読み終わって胸が苦しくなりました。

それでも、作品としては前作よりも本作の方が完成度も高く、読み応えがあると思います。前作の読み心地を期待して読むと苦しく感じますが、ストーリー展開や登場人物たちの描き方などもとてもよく考えられていて、グイグイと読ませる力があります。

スタンリー・フォーブスの死に直面し、リトル・キルトンという小さな町の醜悪な一面を目の当たりにすることになったピップ。さらには、彼女がもっとも憎む相手マックスが裁判で無罪となったことで、彼女の精神的ストレスは頂点に達することになります。シリーズ完結編となる次作でピップにどのような運命が待ち受けているのか。不安な気持ちを抱えつつ、少しでも前向きで明るい結末が訪れることを期待したいと思います。

 

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