タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「死の自叙伝」金恵順/吉川凪訳/クオン-“死”をテーマにした49篇プラス1篇の詩は、私たちに人間を本質とは何かを問いかけているように思う

 

 

まだ死んでいないなんて恥ずかしくないのかと、毎年毎月、墓地や市場から声が湧きあがる国、無念な死がこれほど多い国で書く詩は、先に死んだ人たちの声になるしかないではないか。

「『死の自叙伝』あとがき」で著者の金恵順(キム・ヘスン)はそう書いている。

この詩集が刊行されたのは2016年。“死”をテーマとして49篇の詩が収録されていること、そして冒頭に引用したあとがきに書かれた著者の言葉から、この詩集に深い意味が込められていると強く感じる。

やはり思い起こされるのはセウォル号事件だ。明らかな人災により沈没した船で数多くの若い命が理不尽に奪われたあの事件は、韓国の人々に大きく深い傷を残した。それはおそらく、いつまでも消えることのない忘れることのない傷だ。韓国の文壇では、セウォル号事件の前後で作家たちの創作に対する意識や書くことに対する気持ちが大きく変化したとも聞く。

「死の自叙伝」は、2018年に英語に翻訳されていて、その際に「リズムの顔」という長い詩が加えられている。日本語版である本書には「リスムの顔」も収録されている。英訳版「死の自叙伝」は、カナダのグリフィン詩賞という文学賞を受賞しているが、このグリフィン詩賞は“詩壇のノーベル賞”と呼ばれる権威ある文学賞であり(制定されたのは2000年とのことなので歴史的には比較的浅い)、この賞をアジアの詩人として最初に受賞したのが金恵順の「死の自叙伝」となる。

49篇の詩は、すべて死をテーマとするものだが、そのテイストはバラエティにとんでいる。「出勤 一日目」と題する第一詩は、地下鉄の駅で突然意識を失った私の視点で描かれる。ひとりの人間がゆっくりと死に向かっていくその横を人々が足早に通り過ぎていく。荷物を剥ぎ取り、服を剥ぎ取り、携帯で死にゆく人の姿を写していく人々と死にゆく者との対比が描かれていく。

詩を読むということは、その向こう側やその裏側、書かれていない事柄に意識を向けることだと思う。書かれている情報が少なく観念的でもあるなかで、そこにどのような物語を感じるか。読者の想像力が必要とされるのが詩という文学だということを「死の自叙伝」を読んでみて思った。そして、良い詩人というのは読者に豊富な想像力を喚起させるのだということも強く感じた。

訳者はあとがきの最後にこう記している。

『死の自叙伝』には、金恵順の持ち味である奇抜なイメージ、スピード感、時にグロテスクである力強さが存分に発揮されている。

先述したように、49篇の詩はひとつひとつ個性的でバラエティ豊かな作品となっている。訳者が書いているようにグロテスクとも感じられる描写もある。しかし、グロテスクさであったり、残酷さであったり、ときには無機質であるということも、すべては人間の本質を示しているのではないだろうか。“死”というのは、どのような人間でも取り繕うことのできない本質的な部分をさらけだすことなのではないだろうか。「死の自叙伝」にある49篇プラス1篇の詩を味わうことで人間の本質とはなにかを改めて考えてしまった。

 

「昔には帰れない」R・A・ラファティ/伊藤典夫、浅倉久志訳/早川書房-これぞ想像力と驚かされるヘンテコリンだけど惹き込まれる短編の数々

 

 

SF界のホラ吹きおじさんが語る抱腹絶倒、奇妙奇天烈な16篇

帯にはそんな惹句が書かれている。これは煽りでもなんでもなくて本当に抱腹絶倒で奇妙奇天烈なホラ話(この言葉が本当にぴったりだ)が収録されているのがR・A・ラファティ「昔には帰れない」である。そんな抱腹絶倒・奇妙奇天烈な16篇のラインナップは以下の通りとなっている。

素顔のユリーマ
月の裏側
楽園にて
パイン・キャッスル
ぴかぴかコインの湧きでる泉
崖を登る
小石はどこから
昔には帰れない
忘れた偽足
ゴールデン・トラバント
そして、わが名は
大河の千の岸辺
すべての陸地ふたたび溢れいづるとき
廃品置き場の裏面史
行間からはみだすものを読め
一八七三年のテレビドラマ

「素顔のユリーマ」から「昔には帰れない」を「Ⅰ」、「忘れた偽足」から「一八七三年のテレビドラマ」を「Ⅱ」として2部構成になっている。この分類について訳者のひとり伊藤典夫氏は「あとがき」でこう記している。

本書では収録作を大きく二つにわけた。第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。(中略)第二部はちょっとこじれているかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。

収録されている16篇はどれも面白かったのだが、個人的に気に入ったのは最初に収録されている「素顔のユリーマ」(伊藤典夫訳)と最後に収録されている「一八七三年のテレビドラマ」(浅倉久志訳)の2篇。

「素顔のユリーマ」は、こんな一文から始まる。

彼は一党の最後のひとりといってよかった。

“一党”とは? 『偉大な個人主義の最後のひとり』でもなければ『今世紀の真に創造的な天才の最後のひとり』でもない。彼=アルバートは、『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なのである。アルバートは、物覚えが悪く、4歳まで物もろくに言えなかったし、6歳までスプーンの使い方も覚えられず、8歳までドアのあけ方もわからないほどだった。彼は字が読めるようになっても書くことができなかった。そこで彼は“ズル”をするようになるのだが、ここからラファティの“ホラ吹きおじさん”ぶりが存分に発揮されるようになってくる。

文字が書けないアルバートは、自転車の速度計、超小型モーター、小さな偏心カム、おじいさんの補聴器からくすねた電池を使って自分の代わりに文字を書く機械を作った。その小さな機械を手に隠し持って機械に字を書かせるのである。

いや待て待て笑、右と左の区別さえ独特な方法を使わないとわからないような『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なアルバートが、そんな巧妙な仕組みの自動筆記機械を作り上げるという設定がもうこれでもかというほどのホラ話ではないか。

それからもアルバートが自分ができない分野をサポートする機械を次々と作ってズルを続けていく。計算が苦手だから代わりに計算する機械を作り、考えることをサポートするロジック・マシーンを作り上げる。もうありとあらゆる苦手なことを機械を作ってズルをすることで乗り切っていくのだ。いや、そんなすごい機械を作る技術があるならドジでもうすのろでも阿呆でもないだろ、というツッコミは野暮というもの。そのヘンテコリンな設定こそがこの物語の面白さなのだ。

こうして次々とあらゆる機械をアルバートが生み出し続けたことで次第に彼は機械たちに苦しめられるようになっていく。そして、その状況に対応するために彼はハンチーという機械を作るのだが、こいつがさらに彼を追い詰めるものとなっていく。だが、アルバートはドジでまぬけでうすのろで阿呆だから自分ではどうすることもできない。最後にアルバートはハンチーの助言によって大きな決断をする。ラストの一文はこう締めくくられる。

二十一世紀は、この奇妙なかけ声とともに始まった。

ヘンテコリンなホラ話の結末は、ヘンテコリンだからこそなんともいえない恐ろしさを増幅させるのである。

わずか20ページほどの短編に長々と書いてしまった。でも、もうひとつ印象的だった作品「一八七三年のテレビドラマ」についても少し書いておきたい。

「一八七三年のテレビドラマ」の“1873年”とは、イギリスでテレビの開発が始まったとされる年で、当然ながら“テレビ”という装置はまだまだ存在していなし、当然ながら“テレビドラマ”も制作されていない。つまり、「一八七三年のテレビドラマ」は、架空のテレビドラマについて書いている短編なのである。

テレビ草創期のテレビドラマ(“スロー・ライト”ドラマ)は、オーレリアン・ベントリーが制作したという設定でこの作品は語られていく。ベントリーが制作した13本のテレビドラマのひとつひとつの内容を説明していきながら、その中でひとつの奇妙な物語が構成されていくのである。

13本のテレビドラマは、冒険あり、ミステリーあり、迫力のレースがあり、恋愛があり、死がありとバラエティに富んでいる。ベントリー作品の常連とも言える(テレビ草創期のドラマだから役者の数も少ないはずなので、必然的に起用される役者の顔ぶれは同じくなっていくのだが)役者たちがどのような役柄を演じ、どのようなストーリーが展開されたのか。そのドラマのあらすじを読んでいるだけでも楽しくなってくるのは、ラファティという作家の凄いところだと思う。

さて、「一八七三年のテレビドラマ」はただオーレリアン・ベントリーが制作した13本のドラマの筋立てを並べ立てているわけではない。話が進むに連れて、ベントリーが残したドラマの記録の中にドラマとは関係のない会話が残されていることがわかってくる。そして、その謎の会話が個々のテレビドラマをいつの間にか繋ぎだし、そこにオーレリアン・ベントリーと看板女優クラリンダ・カリオペー、さらに他の役者たちの関係性が絡み合ってカオスな状況を作り出していく。読者は、ベントリーが残した13本のテレビドラマの話よりも、そのドラマの裏側で進行していく物語の方に次第に興味を持っていかれることになる。そして、最後にはこれまた奇妙奇天烈な展開に驚かされるのである。

紹介した2篇以外の作品も面白い作品ばかりだと思う。ヘンテコリンなホラ話であることはもちろんだが、どこか郷愁を誘うような作品だったり、ブラックユーモアな作品だったりとバラエティ豊富なので、どれかひとつは面白いと感じられる作品が見つかるのではないだろうか。

 

 

「パイド・パイパー 自由への越境」ネヴィル・シュート/池央耿訳/東京創元社-ドイツ軍の空襲が続く中、老人が語った彼の体験とは

 

 

ドイツ軍による空襲が連日のように続くロンドン。連日の戦局分析会議でくたびれ、夕食をとろうとクラブに足を運んだ私は、そこでジョン・シドニー・ハワードと出会い、彼が経験した壮絶な体験の話を聞く。

ネヴィル・シュート「パイド・パイパー 自由への越境」は、ドイツ軍による攻撃が激しさを増す中、老弁護士ジョン・シドニー・ハワードがドイツ軍の目をかいくぐりながら子どもたちを連れてフランスからイギリスを目指す道中を描く物語だ。

戦争で息子を失ったハワードは、その傷心を癒やすためにフランスの片田舎にあるホテルに滞在していた。ドイツによるフランスへの侵攻は次第に激化し情勢は厳しくなっていく。イギリス軍のダンケルク撤退の報を知ったハワードはイギリスへ帰ることを決める。そして、彼の帰国の話を聞きつけた同宿の夫婦からあることをお願いされることになる。それは、夫婦のふたりの子どもを一緒に連れて帰ってほしいというものだった。夫婦の夫は国際連盟の職員でスイスの本部を離れることはできないし、妻は夫のそばに残りたい。しかし、子どもたちを危険に晒すわけにはいかない。そこで、ハワードにお願いしてきたというわけである。

こうして、ハワードはふたりの子どもたちを連れてイギリスへ帰国の旅に出るのだが、ここからがこの物語のメインである。当初、鉄道などを利用してすんなりと帰国できる目論見だったハワードたちだが、ドイツ軍の攻撃が激しくなりフランス各所がドンドンと侵略、占領されていくことで移動ルートが次々と狭められていく。そして、次第に彼らは追い詰められていく。

また、旅の途中でハワードは、別の子どもたちも一緒にイギリスへ連れて行くことになっていく。ドイツ軍の攻撃によって両親を殺されひとり生き残った子やホテルのメイドの姪っ子など。本書のタイトルである「パイド・パイパー」は、「ハーメルンの笛吹き男」で笛の音色で町の子どもたちを連れ去ってしまう笛吹き男を指すが、フランスからイギリスへと命がけの旅を続けるハワードは、まさに善良なる“パイド・パイパー”である。また、作中ではハワードが草笛を作って子どもたちを楽しませたり励ましたりする場面が描かれるが、そこも“パイド・パイパー”たる一面であろう。

冒頭に、ドイツ軍の空襲が続く中でハワードが自らの数奇な旅の話を私に語っていることから、彼が無事に祖国に戻ってきたことは明らかだ。彼が子どもたち全員を無事に連れてこられたのか、子どもたちはイギリス到着後どうなっていったのか。その行末はラストにハワード自身の口から告げられる。

本書は1942年に刊行された。ハワードがイギリスへの帰国を決断するきっかけとなったダンケルクの戦いは1940年のことだから、ものすごくリアルタイムに書かれた作品である。リアルタイムに書かれた作品であるからこそ、そこには著者が戦争をどう捉えていて、その時代を生きている人たちや後世の人たちに何を伝えようとしたのか伝えてくれたのかを知ることができると思う。老体に鞭打ち、子どもたちを守ってイギリスへの旅を続けたハワードは、その点で見れば英雄といえる。一方で、老人や子どもや女性たちがその身を危険に晒し、命をかけて生きていかなければならないという異常な状況は、戦争というものの非日常性や非人道性を表していると感じる。戦時における英雄を描いているようにみせて、その根底には戦争の異常さを訴え明確に戦争を(その当時でいえばおそらくはナチスドイツを)批判する意志がこの作品には込められているのではないかと思った。

 

「ロボット・イン・ザ・ホスピタル」デボラ・インストール/松原葉子訳/小学館-第1作は劇団四季が舞台化し日本で映画化もされたベストセラー。第5作となる本作でもチェンバース一家にはいろいろなことが起こります。

 

 

第1作「ロボット・イン・ザ・ガーデン」が劇団四季によってミュージカル化されたり、嵐の二宮和也さん主演で映画化(映画タイトルは「TANG タング」)もされるなどベストセラーとなっている超絶カワイイロボット“タング”とタングと暮らすチェンバース一家のドタバタを描くシリーズの最新第5作が出た。今回のタイトルは「ロボット・イン・ザ・ホスピタル」。病院を舞台にしたどんなドタバタが飛び出すのだろうか。

wwws.warnerbros.co.jp

パンデミックの影響によるさまざまな制約も解除されてきて、チェンバース一家には平穏な日常が流れていた。元気に小学校に通うタングも、ホームスクーリングで学ぶボニーも、ベンとエイミーにもいつもと変わらない日々があった。

ただ、平凡で平穏な日常の中にもなにかしらのトラブルはつきものだ。物語が始まって早々にベンは隣人のミスター・バークスの手伝いをしていてが膝を骨折し、1ヶ月の不自由な生活を送ることになる。その傷が癒えたかと思えば、タングの宿泊学習に付き添いで参加して今度は手に火傷を負ってしまうのだ。

ベンにとっては災難の連続だが、どちらの怪我も彼自身の不注意が原因なので、同情はするけども思わずハハッと苦笑いしてしまう。そして、チェンバース家には、ベンの怪我だけでなくいろいろとトラブルが起きる。期限ギリギリになって学校のイベントに着る衣装が必要だと言い出すタング(小学生くらいのお子さんをお持ちの家庭なら少なからず似たような経験をしているのでは?)や学校の宿題を「やりたくない」とゴネるタング(今頃我が子の夏休みの宿題の進み具合にヤキモキしている親御さんも多いだろう)に頭を抱えるベンとエイミー。ホームスクーリングをしているボニーも友だちのイアンとの関係になにかあったようなのだがなかなか心を開いてくれない。前作までのように突然ロボットが庭に出現したりするようなハプニングは起きないが、その分どの家庭でも起きているような、子どもを育てていると「そういうことあるよね~」と共感しまくりな出来事が次々と起きる。その点では、前作までと比べてよりチェンバース家を身近に感じられる作品になっているのではないだろうか。

タングやボニーの問題だけでなく、ベンの姉ブライオニーにもこれまでにない変化がある。もともと彼女自身が夫との関係や娘アナベルとボーイフレンドのフロリアン(彼は精巧に作られたアンドロイドだ)の関係、同性パートナーを持つ息子ジョージーのこと等等いろいろと頭の痛い問題を抱えながら、姉としてベンとその家族を叱咤し支える役割を担っていた。そのブライオニーが、本作では交通事故に遭い(事故に至る経緯にはボニーが参加したSTEMコンテストの発表会があり、そのことがボニーの心を傷つけてしまう)、それをきっかけに自分を見つめ直そうと足を踏み出すことになる。

そしてタングだ。学校の宿題を「やりたくない」と拒否するタングは、どうやら学校でも問題を起こしているらしい。ベンとエイミーは、小学校からの呼び出しを受け、校長のミセス・バーンズと担任のグレアム先生からある事実を伝えられる。それは、タングにとって名誉なことでもあり、しかしベンやエイミーにしてみれば不安もあることだった。

シリーズ作品を第5作まで読んできて思うのは、チェンバース家がけして特別な家族ではないということだ。そして、少し見方を変えることで、彼らが経験することは私たちにも当てはまるところがあるということだ。たとえばボニーのこと。学校生活に馴染めず自閉スペクトラム症であるボニーにベンもエイミーも当初は困惑していた。同じような子どもを持つ家族はこの世には数え切れないほどいるだろう。私には子どもがいないので想像でしか語ることができないから綺麗事になってしまうかもしれないが、ベンもエイミーも自閉スペクトラム症の娘との生活を通じて多くを学び経験していると思う。ときにはイライラして娘にあたってしまったり、言葉選びを間違えて娘を傷つけてしまうこともある。それでもふたりは娘を思い、彼女にとって一番と思える選択をする。まだまだ幼いボニーだが、今後このシリーズが書き続けられる中で成長し、なにかしらの変化があるかもしれない。それを見守ることも読者としては楽しみであり不安でもある。また、タングについても彼をロボットとして見れば特別な存在かもしれないが、ごく普通の人間の男の子と考えれば、その言動や成長は微笑ましくもあり腹立たしくもある。でも、子どもの成長を見守るというのは、その子どもの言動に一喜一憂することでもあり、着実に成長していく姿に安心するということでもあると思う。まさに読者はひとりの男の子の成長をベンやエイミーと一緒にハラハラドキドキワクワクしながら見守っているのだ。

この先タングもボニーもドンドンと成長して、やがて大人になっていくだろう。このシリーズがいつまで続くのかは作者以外に知るよしもないが、親戚の子ども成長を見守るおせっかいなオジサンのような気持ちで今後も新作をチェックしていきたいと思っている。おそらく1年後くらいに出るだろう第6作をワクワクした気分で待ちたいと思う。

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「パパイヤ・ママイヤ」乗代雄介/小学館-SNSで知り合い小櫃川河口の干潟で出会ったふたりの少女が過ごす一夏の青春ストーリー

 

 

これは、わたしたちの一夏の物語。
他の誰にも味わうことのできない、わたしたちの秘密。

乗代雄介「パパイヤ・ママイヤ」は、SNSで知り合ったふたりの少女が出会い過ごした短い夏の日々を描く青春ガール・ミーツ・ガール小説である。最近は青春小説を読む機会がなかったので、新鮮な気分で読んだ。

登場人物は、“パパイヤ”という17歳の少女と“ママイヤ”という17歳の少女。物語はママイヤの語り「わたし」で綴られる。SNSでつながりあったふたりは、わたし(ママイヤ)の「おそろいにしようよ」の提案でパパイヤとママイヤになった。ふたりの共通点は「親がむかつく」ということ。でもそれは他のフォロワーにもたくさんいる。ふたりを結びつけたのはお互いが同じ県の同じ市で5キロと離れていないところに住んでいるということだった。

こうしてふたりは、小櫃川河口の干潟ではじめて会うことになる。そして、ふたりにとって忘れられない夏の日を過ごすことになる。

背が高くてバレーボール部に所属しているパパイヤと、部活はやってなくてカメラや読書を少し楽しんでいるママイヤ。ママイヤは運動もあまり得意ではない。対称的なふたりがそれぞれに家庭的な悩みを抱えていて、それを補い合うかのように互いを必要としていくという関係性は、読んでいると不安な気分になったり、共感できたり、でもやはり17歳の少女とのギャップを感じたりする。

小櫃川河口干潟で会うことを繰り返す中で、ふたりはひとりの男の子が干潟にある木の墓場で絵を描いているところに遭遇する。男の子が黙々と描いた絵はとても上手だったが、なぜか空は一面黄色く塗られていた。思わず「なんで黄色?」と問いかける。男の子は「見たままを描いた」と答える。しばしのやりとりがあって男の子は絵を描き直すことにする。黄色い空を描いた絵は、パパイヤが大きなウイスキーのペットボトルに詰め込んで海に放り投げこんだ。

男の子と会った翌週、ふたりは小櫃川河口干潟でホームレスの男性と出会う。ホームレスは、“きいれえもん”を集めていると言う。“きいれえもん”、つまり黄色いもの。所ジョンと名乗るそのホームレスは、彼が集めた“きいれえもん”をふたりに見せてくれた。桐のコレクション箱を埋め尽くす黄色。

この物語に出てくるのは、パパイヤとママイヤそしてふたりが出会った男の子とホームレスの所ジョンの4人だけだ。そして、男の子と所ジョンは、最初の出会いの場面でしかほぼ登場しない。

空が一面黄色く塗られた絵ときいれえもんを集めているホームレス。パパイヤとママイヤは、所ジョンに男の子が描いた黄色い空の絵をあげようと思いつく。そのためには、パパイヤが海に投げ込んだ大きなペットボトルを探す必要がある。だからふたりは、夏休みを利用して、流されたペットボトルを探して小櫃川河口干潟から袖ケ浦海浜公園、さらには小櫃川河口干潟から富津公園までの海沿いを自転車やバスで走り回る。走り回りながら、ふたりはお互いの家庭のことや学校のことを話していく。短い夏の冒険(というにはちょっとこじんまりしているけれど)を通じて、ふたりは互いを知り、読者はふたりを知っていく。

とりたててドラマティックな展開があるわけでも、胸キュンなラブストーリーが待っているわけでもない。ふたりの少女の夏物語は、もしかするありきたりで物足りないものと感じられるかもしれない。だが、それこそがリアルなティーンエイジャーの青春なのではないか。この物語に描かれる少女たちの姿こそが、いまのリアルな若者たちを描き出しているのではないだろうか。

思えば、自分にもパパイヤやママイヤと同じように青春の時代があった。もうセピア色に褪せてはっきりと思い出すことも難しいくらい遠い過去の話。パパイヤやママイヤのようなSNSでのつながりも、それどころか携帯電話すらなかった時代の青春。だけど、気持ち的にはパパイヤやママイヤと同じバイタリティがあったと思う。

パパイヤとママイヤが出会う小櫃川河口干潟やふたりが冒険する内房の海沿いの場所は、いまも私が住んでいる地元の風景だ。袖ケ浦海浜公園(最近では地元出身のバンド氣志團が主催する「氣志團万博」の開催地として全国的に有名)の展望台も富津岬に建つ展望台も馴染みの場所だ。地元が舞台になった小説というだけで、私の「パパイヤ・ママイヤ」に対する好感度は爆上がりなのである。

ふたりが出会い語らった場所、男の子が黄色い空の絵を描いた場所、所ジョンがきいれえもんを集めていた場所、小櫃川河口干潟については、こちらのサイトが写真も豊富で詳しいので興味のある方は参照してみてほしい。ふたりが出会った木の墓場や所ジョンが住みついていた揚水ポンプ場跡の写真もある。

bit.ly

冒頭にも書いたが、こういう青春小説を読むのは久しぶりだった。読む前は「中年のオッサン読者に若い女の子の青春ストーリーなんて楽しめるのかな」と思っていた。地元が舞台になっているから興味をもって読んだけど、作品的に理解できるか楽しめるかは未知数だった。結果、理解できているかは(パパイヤ、ママイヤと私との世代ギャップもあることだし)未知数だけど、とても楽しく読むことができた。そして、遠い昔を思い出して懐かしくも感じた。ときにはこういう青春を思い出させてくれるような小説を読んで、気持ちだけでもあの頃の自分に戻れればいいなと思う。

「フェリックスとゼルダその後」モーリス・グライツマン/原田勝訳/あすなろ書房-ナチスの手を逃れユダヤ人であることを隠して生きなければならないフェリックスとゼルダ。ふたりの未来に希望はあるのか。

 

 

私はどちらかというと長いものに巻かれるタイプの人間だと思う。自分の意見を強く主張するタイプでもなく、声の大きい人に追従して無難にことをやり過ごしてしまおうとする。もし、それが間違った行為であったとしても、自分が責任を問われることがなければ率先して異を唱えたりはしないかもしれない。

かつて、ヒトラーという独裁者を指導者としたナチスドイツと、軍事侵攻で占領されナチス支配下におかれたヨーロッパ諸国に暮らしていた人たちは、ナチスによるユダヤ人迫害、大量虐殺(ホロコースト)に対して反対の声をあげられなかった。一部に反ナチスを掲げユダヤ人救済の活動をした人もあったが、多くの一般市民はナチスの迫害行為を黙認し、中には積極的に加担する者もあった。

本書は、ナチスドイツに占領されたポーランドを舞台にした前作「フェリックスとゼルダ」の続編となる作品。前作のラストで強制収容所行きの貨車から飛び降りて脱出したフェリックスとゼルダが、その後どのようにナチスの目を逃れて生きたかが描かれる。

命からがら逃げるふたりが目にするあまりに残酷すぎる光景。丘の斜面にある大きな穴でからみあうように折り重なっている子どもたち。フェリックスよりも年上の子どももいれば、ゼルダより年下の子どももいる。それはナチスによって殺されたユダヤ人の子どもたちの死体だった。

ふたりは、ゲニアという女性に保護され、ユダヤ人であることがバレないように名前を変え、髪を染めたりする。それでも、ふたりは常にナチスに見つかるのではないか、ユダヤ人であることがバレて密告されるのではないかという不安、恐怖と戦っている。そんななかでも、ゲニアの家で飼育されているブタのトロツキーや犬のレオポルドとの暮らしは楽しかった。それでも、いつどのような形でふたりのことがナチスに知られてしまうのか、もし知られてしまったらふたりはもちろん、ゲニアもユダヤ人を匿った罪で厳罰が待っている。フェリックスはそのことに苦悩し続ける日々を過ごしていた。

フェリックスは本屋の息子であり本を愛する少年だ。彼は、危機的な状況に陥った時、不安な時にリッチマル・クロンプトンに「助けてください」と願う。リッチマル・クロンプトンはイギリスの女性作家で、ウィリアム少年と仲間たちを描いたシリーズ作品が人気の作家だという。前作「フェリックスとゼルダ」でゼルダを励ますためにフェリックスが話して聞かせていたのもリッチマル・クロンプトンの物語だ。本書でも、フェリックスを勇気づけ救ってくれるのはリッチマル・クロンプトンだった。

本書には、残酷な場面がたくさん出てくる。貨物列車から脱出したフェリックスとゼルダが丘の斜面でみつけた折り重なったユダヤ人の子どもたちの死体。ゲニアに連れられて出かけた町の広場に設置された高い木の柱に吊るされていたユダヤ人とユダヤ人を匿っていた人の死体。ナチス兵と警官、ヒトラー・ユーゲントによって見せつけられる強制連行されるユダヤ人の列とその列に向かって罵声を浴びせる町の人たち。

ユダヤ人を匿うこと、ユダヤ人に救いの手を差し伸べることは、ナチスへの反抗的態度であった。大衆は、心の中では罪悪感を抱きながらも自らに罰が下されることをおそれ、ナチスドイツの政策に賛同しユダヤ人を差別するマジョリティー側に立たざるを得なかった。その状態が長く続けば、いずれ罪悪感は薄くなり、「ユダヤ人は悪である」「ユダヤ人はこの世から抹殺されなければならない」という誤った思想が正しいことのように思えてくる。洗脳された大衆は積極的にユダヤ人を捕らえ、ナチスに差し出すことに加担するようになっていく。戦争という異常な状況も、洗脳を加速する要因かもしれない。

一部の声の大きな者の考えによって大衆が扇動され、弱者を差別する状況が当たり前となっていく。これは、今でも起きている。これだけさまざまな情報が簡単に手に入るようになり、その情報から個人が正しく自分で考えることができるようになっている現在であってもだ。むしろ、情報が溢れすぎているから、人々は自分で考えることをやめ、声の大きい者に従ってしまうのかもしれない。誰かに従っていれば責任をとらなくていいし、何より楽だ。

ナチスの影に怯えながら暮らすフェリックスとゼルダの運命がどうなっていくのか。そこには厳しい現実が待ち受けている。フェリックスとゼルダの物語はフィクションである。だが、物語の舞台となっている時代や環境は現実に起きたことだ。戦争によって引き起こされる現実の悲しさ、残酷さに胸が苦しくなる。

訳者あとがきによれば、「フェリックスとゼルダ」の物語はさらに第3作、第4作と書き継がれているそうだ。だが、調べた限りでは残念ながら翻訳はこの「フェリックスとゼルダその後」までしか刊行されていない。本書以降、彼らはどのような運命を生きたのか気になる。

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「フェリックスとゼルダ」モーリス・グライツマン/原田勝訳/あすなろ書房-ナチスによるホロコーストは、フェリックスやゼルダのような罪もない子どもたちすら虐殺したのだという事実は忘れられてはいけない

 

 

第二次世界大戦におけるナチスユダヤ人迫害、大量虐殺は人類史上最悪の人種差別事件である。ホロコーストとも呼ばれる大量虐殺の犠牲者数は正確にはわかっておらず、およそ600万人のユダヤ人が犠牲となったともされている。ホロコーストの犠牲者はナチスドイツが侵略した東ヨーロッパから旧ソ連に至る地域で確認されているが、その中でももっとも多くの犠牲者があったとされているのがポーランドだ。

本書「フェリックスとゼルダ」の舞台はポーランドである。

そして本書は、ナチスが支配するポーランドで無垢な子どもたちが少しずつ自分たちのおかれた状況を知り、いろいろな大人たちの助けをもらいながら生き延びようとする物語だ。

物語は、10歳の少年フェリックスが語り手となって進んでいく。フェリックスはユダヤ人だ。両親は本屋を営んでいたが、彼を山の中の孤児院に預けて、以来3年8ヶ月もフェリックスはこの孤児院で暮らしている。フェリックスは、きっといつか両親が迎えに来てくれると信じている。

本屋の息子フェリックスは、本を愛する子どもだ。そして、ノートに物語を書いている。ある日、フェリックスは孤児院にやってきた男たちが中庭で本を燃やしているのをみた。ナチスの男たちだった。フェリックスは彼らを許せなかった。そして、両親が営んでいる本屋の本も燃やされてしまうのではないかと思った。本を隠さなければと思った。

フェリックスは祈りを捧げる。神様、イエス様、聖母マリア様、法王様、そしてアドルフ・ヒトラーに。ユダヤ人の本屋がまた元通り商売できますように。そう、彼は信じていたのだ。ヒトラーがぼくらを守ってくれると。

10歳の少年にとって、ヒトラーが何者であるか、ナチスが何を為そうとしているのか、ユダヤ人がどのように扱われどのような運命をたどるのかは何もわからないことだ。神父様が、ヒトラーが私たちを守ってくださると言えば、それを信じる。ナチスは大好きな本を燃やしてしまうから嫌い。それ以上でもそれ以下でもない。だが、フェリックスが故郷の本屋に戻るために孤児院を抜け出し、道中でさまざまな事態に遭遇し、また故郷でもかつての隣人にひどい目に合わされたりすることで、少しずつ“ユダヤ人”という自分の存在がどのように見られているかを理解していく。それは、フェリックスにとって、少しずつ少しずつ苦しめられていくようなもの。少しずつ希望を奪われ絶望へと導かれているということだ。

生まれ育った町を追われたフェリックスは、両親を探してもっと大きな町を目指す。そして、その途中で家族を殺された少女ゼルダと出会う。ゼルダを連れて大きな町へ歩を進める中で、フェリックスは彼女を勇気づけようと物語を作って聞かせる。まだまだ幼いゼルダは、「なんにもわかってないのね」が口ぐせで、ときにわがままにフェリックスを困らせるが、フェリックスはそんなゼルダに優しく接する。

読んでいると、フェリックスもゼルダも本当に純粋な子どもだと感じる。あまりの純粋さに危うさを感じる。だけど、それは私たち読者がナチスによるユダヤ人迫害の事実を知っていて、その知識の上で物語を読んでいるから感じるものだ。当時を実際に生きていた子どもたち(もちろん大人たちも)は、ヒトラーユダヤ人迫害を指示していたことも、ナチスユダヤ人を捕まえて強制収容所送りにしていたことも、ヒトラープロパガンダによって人々がユダヤ人への憎悪を高めていたことも知らないのだ。

物語の中では、フェリックスはヒトラーを神様やイエス様と同列の存在として祈りを捧げている。ヒトラーが、フェリックスがおかれている状況を良い方向へと導いてくれると信じている。ナチスが本を焼いたことには憤りを感じたが、ナチスの兵士が大勢の人をトラックの荷台に乗せてどこかへ運んでいく光景をみて自分もそこに乗せてほしいと思ったり、兵士に狙撃されて危うく殺されそうになっても偶然の事故だったんだと思ったりする。それでも、少しずつフェリックスは気づいていく。ナチスユダヤ人を嫌っているのではないかと。だけど、彼らがユダヤ人を強制的に隔離し殺そうとしているとは思いもよらない。フェリックスは、ナチスに連行されるユダヤ人たちがナチス兵から「きれいで食べ物も仕事もたくさんある田舎に連れて行ってやる」と言われているのを聞いて、自分たちも一緒に連れて行ってもらおうと子どもたちを匿っているバーニーに訴える。もちろんバーニーはそれを否定する。ユダヤ人が連れて行かれるのはきれいな田舎なんかではなく、強制収容所だとバーニーは知っているし、待ち受けるのは死だけだからだ。

彼らはナチスに見つからないように息をひそめて暮らさなければならない。しかし、ついにナチスの手が彼らを捕らえる。フェリックスとゼルダ、バーニーと子どもたちは、強制収容所へと向かう貨物列車に乗せられる。

本書の冒頭にこんな言葉が書かれている。

身の上が語られたことのないすべての子どもたちに捧ぐ

子どもたちにとってばかりではなく、老若男女大勢のユダヤ人がナチスホロコーストの犠牲となったことは、未来永劫語り継がれていかなければならない。戦争がもたらす悲劇を忘れてはいけない。本書のような作品を通じて、平和な時代を生きる現代の子どもたちが、かつて自分たちと同じくらいの、いやもっともっと小さい子どもたちが、理不尽な理由で人間としての尊厳を奪われ、残酷に殺されていったことを知ってほしい。フェリックスとゼルダの物語からひとつでも多くのことを知り、同じ過ちは絶対に起こさないことを胸に誓ってほしい。

強制収容所へ送られるはずだったフェリックスとゼルダは、その途中で列車から脱出し、そこからナチスの目を逃れての生活へと入っていく。その物語は、「フェリックスとゼルダその後」に続く。彼らのその後の人生はどうなっていくのか。僅かな希望と大きな不安を感じずにはいられない。