タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「四隣人の食卓」ク・ビョンモ/小山内園子訳/書肆侃侃房-裏庭に置かれた大きな食卓は、コミュニティにおける適度な距離感の必要性を象徴していると感じた

 

 

ご近所との付き合いは大事だ。向こう三軒両隣に住む隣人は、いざというときに頼りになる存在でもある。『遠くの親戚より近くの他人』という言葉もあるし、戦中には“隣組”という制度があって、「隣組」という流行歌もある(♪とんとんとんからりと隣組~格子を開ければ顔なじみ~、という歌詞の歌)。最近だと映画「この世界の片隅に」の挿入歌にも使われた。

しかし、ご近所のコミュニティが大切である一方で、あまりに互いの距離感が近いと無用なトラブルにも発展しかねない。また、個人や家庭のプライバシーが重要視される時代にあっては、他人の家庭に差し出口を挟むような行いは嫌がられるばかりで感謝はされない。隣人同士の付き合いは適度な距離感と互いのプライバシーを尊重する気遣いが大事になってくる。

ク・ビョンモ「四隣人の食卓」は、少子化対策の切り札として国家が建設した集合住宅を舞台に、そこに入居して暮らし始めた4組の家族の物語だ。

『夢未来実験共同住宅』と呼ばれる若い夫婦向けに国家が整備したこの集合住宅は、商業施設もない人里離れた山間部に建設されている。公営住宅ゆえの低家賃というメリットはあるが、入居条件は厳しく設定されており、さらに入居する家族には、『入居10年以内に3人の子どもをもうけること』というミッションが設けられていた。

高い競争倍率を勝ち抜けて集合住宅に入居した家族は4組。

有名企業に勤めるシン・ジェガンと専業主婦の妻ホン・ダニには、ふたりの息子(4歳のジョンモクと3歳のジョンヒョプ)がいる。
同族経営の会社に親族採用で雇われているコ・ヨサンと専業主婦の妻カン・ギョウォンには、4歳の息子ウビンとまだ乳飲み子の娘セアがいる。
会社員のソン・サンナクの妻チョ・ヒョネはフリーのイラストレーターとして在宅で仕事をし、まだ1歳5ヶ月の娘ダリムの子育てと仕事の両立に苦しんでいる。
薬局の補助スタッフとして働くソ・ヨジンは、映画監督を目指すも挫折し今では専業主夫をしている夫チョン・ウノとの間に5歳になる娘シユルがいる。

この4組の家族が、表向きは平和なコミュニティを形成しながら、それぞれに家庭的な問題や仕事の問題を抱え、ときに過剰とも言える隣人からの干渉や人間関係、なし崩し的に決まってしまったコミュニティ内のルールや子育てに関する意見の食い違い、さらには韓国社会が抱える男性優位の社会構造や家父長制による女性の生きづらさなど、複雑な事情が絡み合う中で、次第に不穏な方向へと展開していくというストーリーになっている。

国家プロジェクトとして建設された実験的共同住宅、10年以内に3人の子どもをもうけなければいけないという人道的に疑問符がつくようなミッションなど、舞台背景としての「四隣人の食卓」はおおよそリアリティとはかけ離れている。しかし、描かれている4家族の物語は、絵空事ではなく韓国、いや日本の地域コミュニティの中で現実に起きていることと共鳴していると感じる。私も読んでいて、自分の周りでも、ここまでの話はなくても現実にこれに近いような話はあるのかもしれないなと考えてしまった。

平和であるはずのコミュニティを象徴するのが、裏庭に置かれた大きな“食卓”だ。物語は、新たに入居してきたチョン・ウノとソ・ヨジンを歓迎する歓迎会の場面から始まるのだが、すべてを読み終えてから改めて読み返すとすでにこの場面から不穏さを醸していると感じる。和気あいあいとしてみえる“四隣人の食卓”からは、互いを尊重し支え合おうという繋がりよりもこの先に待ち受けるコミュニティの崩壊への第一歩がここからはじまるのだということを強く感じてしまう。

「訳者あとがき」の中で訳者がこの大きな食卓について、実際に体感してみようと家具店を回ったりしたが見つけられなかったという話を著者にしたときのことが書かれている。著者は訳者のエピソードを聞くと「なかなかないですよね」と笑いながらこう言ったという。

「食卓って、大きくなればなるほど、真ん中に広がるのは空白なんです」

大きな食卓を大勢の家族同士が夫婦も子どもたちも一緒になって囲んで和気あいあいと食事を楽しむ。そう書くとなんて平和な光景だろうと思うが、著者が言うとおり、大き過ぎる食卓の中心には、誰もどこからも手が届かない。届かない以上、そこには何も置くことはできず、ただぽっかりと空白だけが広がる。そのぽっかり開いた空白はけっして埋まることはないのだ。その埋まらない空白は、他人が踏み込んではいけない、家庭や個人の事情であり、その空白を正しく意識してコミュニティを形成しなければ、待ち受けるのは隣人トラブルであり、コミュニティの崩壊なのだ。

適度な距離感と相手のプライバシーを尊重する気持ち。大きな食卓の空白が意味するのはそういうことなのかもしれない。

「破果」ク・ビョンモ/小山内園子訳/岩波書店-65歳、女殺し屋“爪角”。ただカッコいいだけではない、その生き様。

 

 

ク・ビョンモ「破果」は、65歳の女殺し屋“爪角”(チョガク)を主人公とするノワール小説である。彼女は、その道45年のベテラン。長年にわたって冷静に彼女たちが『防疫』と呼ぶ殺し屋稼業をこなしてきた。だが、寄る年波には勝てぬもの。年齢を重ねていく中で、彼女は肉体的にも感情的にも自分の衰えを感じている。彼女が、『防疫』の帰りに衝動と気まぐれから捨て犬だった“無用”(ムヨン)を拾って飼うようになったのだって、年齢を重ねたことから生じる気持ちの揺らぎがあったのかもしれない。そして、無用の餌や水を交換し忘れてしまったり、トレーニングのために家を出てから、今度は忘れずに餌を出してきただろうかと不安になるのも年相応のことだ。

爪角が日々感じる“老い”は、ある程度の年齢に差し掛かってきた人ならば誰でも経験することだろう。私もアラフィフ世代となり、日々自らの老いと向き合っている。忘れっぽくなったり、身体が思うように動かなかったり、そんなことは当たり前に起きる。むしろ、爪角のように厳しい世界で現役で活動している65歳は見習うべき存在だったりする。殺し屋という稼業は置いておくとしても。

年齢的な面で爪角がもうひとつ直面しているのが、稼業からの引退だ。それは、彼女自身の意思ではなく、組織からつきつけられる引退勧告。「破果」に描かれる防疫の世界は、殺し屋稼業という非現実的な世界でありながら、その内実はかなり現代社会の構造をリアルに描いている。同業他社との競争や若手の台頭など、一般の企業で起きているような世知辛い事柄が防疫の世界でも起きている。爪角もいつ組織から引退を勧告されてもおかしくない。若手の殺し屋からすれば、彼女は“老害”ということにもなる。

中でも、“トゥ”という若い殺し屋は、爪角に対して妙に突っかかるフシがある。爪角は、なぜトゥが彼女に当たりが強いのかまったく見当もつかない。彼の態度を苦々しく思い、ときに痛めつけてやりたいと思うこともあるが、組織内で同業者が対立するのは本意ではない。第一、トゥは爪角からみれば腕は確かかもしれないがまだまだ若造だ。いざとなれば負ける気もしない。

なぜトゥがこれほど執拗に爪角に絡んでいくのか。その謎は本書の中で描かれる爪角の防疫のエピソードで明らかになる。数え切れないほどこなしてきた防疫の仕事の中の、ほんのわずかな接点。その接点をして、トゥは爪角を敵対視する。そして、物語のラストにふたりは文字通り命をかけた大勝負を繰り広げることになる。

自らの老いと戦いながら懸命に生きるひとりの女殺し屋。その姿は、ときに醜く、ときに弱々しく、ときに痛々しくも感じる。しかし、それ以上に、老いてなお戦い続ける姿は力強さやカッコよさを強く感じさせる。読んでいる最中、そして読み終えた直後は、この女殺し屋“爪角”の生き様に魅了され、ただただ「カッコいい!」と興奮していた。こうして、少し時間が経過した今、読了直後の興奮はまだまだ冷めやってはいないが、少しずつ寂しさも感じるようになっている。

その寂しさは、爪角の生き様を通じて、将来まさに高齢者として生きていくことになる自分に対する不安なのかもしれない。自分は爪角みたいにカッコよく生きる老人になれるだろうか。

「サバイバー」チャック・パラニューク/池田真紀子訳/早川書房-墜落しつつある航空機のコックピットでひとり淡々と自らの波乱の半生を語る“僕”。狂信的なカルト教団やメディアの狂騒など現代社会を描き出すこの作品がまさか20年以上前に書かれたものとは...

 

 

物語は、ハイジャックされた航空機のコックピットから始まる。語り部となるのはハイジャック犯である“僕”。“僕”は、この航空機をハイジャックし、すべての乗客乗員を解放した後、たったひとりコックピットに残り、ブラックボックスに向かって自らの半生を語る。航空機は、燃料も尽き、エンジンも停止していて、今まさに墜落しようとしている。“僕”の命は航空機とともに失われようとしている。それを踏まえて、本書は第47章から始まり第1章に向かってカウントダウンしていく。ページ数も443ページから始まり1ページまでカウントダウンしていく。カウントダウンは、“僕”の命が尽きるまでのカウントダウンである。

“僕”は、カルト教団信者の家庭に生まれた。次男として生まれた“僕”は教会の教義に従って17歳でコミュニティの外に出る。彼らの教団では、長男のみがコミュニティ内で妻を娶りコミュニティ内に留まることができる。外の世界に出た“僕”は、カルト教団の息子として周囲から偏見の目で見られるが、彼がコミュニティで虐げられたわけでも苦しめられていたわけでもないと知ると、あからさまにがっかりした顔をする。

“僕”は、ハウスクリーニングサービス員として働いている。そして、ひょんな偶然から誤って広まってしまった彼の電話にかかってくる悩み相談を受ける。

“僕”が17歳でコミュニティの外に出たあと、教団の信者たちはその戒律に次々と自らの命を絶つ。

クリード教会の信者たるもの、神に喚ばれたと感じたら、歓喜せよ。世の終わりが迫れば祝い、すべてのクリード教会信徒は神の前に自らを捧げよ、アーメン。

全信徒がそれに続かなければならない。知った次の瞬間には天国に向けて脱出しなければならない。

“僕”は、教団の生き残りとして、警察やケースワーカーの監視対象として命を監視されている。教団の生き残りは彼を含め僅かになっている。

極端な思想のカルト教団。その生き残りである“僕”に群がるメディア。コミュニティの外で生きる“僕”に浴びせられる狂信者を見るような人々の蔑みの視線。航空機をハイジャックして自らの目的を果たそうとする“僕”の行動心理。1999年に書かれた作品でありながら、本書に描かれる世界はアメリ同時多発テロからカルト教団問題に至るまで、本書が書かれて以降の21世紀の歴史的な世相を予言したかのような物語となっている。このカルト小説が、2022年という時代に改訳して再刊されたことは、担当編集者の熱烈なチャック・パラニューク愛ゆえとはいえ、的確なタイミングだったのではないかと思う。

 

「兎の島」エルビラ・ナバロ/宮崎真紀訳/国書刊行会-日本初紹介のスペイン若手作家に奇想・ホラー短編集。読者をなんともいえない不可思議な世界へと誘う11篇の物語。

 

 

 

2022年のサッカーワールドカップ予選リーグで日本がスペインを2対1で撃破し、グループリーグ1位で決勝リーグに進んだ。同じグループのドイツにも勝利しており、優勝候補とされるヨーロッパの2カ国を破ったというのは歴史的快挙と言えるだろう。

さて、これ以上サッカーについては語れる知識のない“にわか”なので、この話はこの辺でやめて、本の話をしよう。エルビラ・ナバロ「兎の島」についてだ。

「兎の島」は、11篇が収録された短編集である。作者は2004年にマドリード市若手作家コンテストで最優秀賞を獲得し、2007年に長編「冬の街」で作家デビューした若手の女性作家。その後、いくつかの文学賞を受賞したスペイン期待の作家である。日本で紹介されるのは本書は初となる。

11篇の短編はいずれもいわゆる奇想小説であり、不思議なテイストの作品であったり、ホラーテイストの作品であったり、はたまた人間ドラマとしても読める作品もあったりする。どの作品も、読んでいて少しモヤッとするような、掴みどころのない印象があり、それは悪い意味ではなく、それぞれの作品と「兎の島」という短編集全体の魅力になっていると感じる。

収録作品は以下のとおり。

ヘラルドの手紙
ストリキニーネ
兎の島
後戻り
パリ近郊(ペリフェリー)
ミオトラグス
冥界様式建築に関する覚書
最上階の部屋
メモリアル
歯茎
占い師

改めて短編タイトルを並べてみると、そのタイトルの付け方のセンスがいいなと感じる。「ミオトラグス」や「冥界様式建築に関する覚書」は、そのタイトルからはいったいどんな物語なのか想像もつかないし、「ストリキニーネ」や「歯茎」などは、なにかきっと恐ろしい物語が展開されるに違いないという気がして、タイトルだけでゾワゾワする感覚を覚える。そして、タイトルから感じさせるワクワクやドキドキ、ゾワゾワを実際に短編を読んでみて実際に感じることで、タイトルセンスの良さを実感することになる。

また、冒頭に「ヘラルドの手紙」という作品を置き、次に「ストリキニーネ」、「兎の島」と続く構成も上手い。「ヘラルドの手紙」は、男女の関係性を軸にした話で、奇想やホラーというよりも落ち着いたストーリーという印象を受ける物語である(かと言って安心して読めるかというと、これはこれで怖いのだが)。私自身、「ヘラルドの手紙」については、本書を読み始まる前の期待値もあって、ちょっとだけ「おや?」という印象を受けた。ところが、そこで気を抜いていると続く「ストリキニーネ」でガツンとした一撃を見舞われ、さらに表題作でもある「兎の島」で畳み込まれるような連続打撃を喰らわされる。そこからは一気にエルビラ・ナバロの描き出す各短編の世界線に取り込まれてしまう。私の場合は、最近特に遅読化が激しいので少しずつ読み進める形になったが、「ヘラルドの手紙」から「ストリキニーネ」、「兎の島」という流れに心を掴まれた読者の中には、ラストの「占い師」まで一気に読んでしまう人も出てくるのではないだろうか。(インパクトの強い作品ばかりでなく、合間に「パリ近郊」のような落ち着かせる作品が挟み込まれているのも上手い)

11篇のどれも奇想小説やホラー小説が好きな人にはオススメなのだが、ひとつあげるとするならやはり表題作「兎の島」である。

「兎の島」も、本書の帯に書かれている『川の中州で共食いを繰り返す異常繁殖した白兎たち』という惹句を意識して読み始めると、スタートは違った印象を受ける。主人公の“彼”が、カヌーで川へ漕ぎ出すのだが、この冒頭部分がなんとも人を喰ったような導入になっていて、読者をひとまず困惑させる。そこから“彼”は幾日も川でカヌーを漕ぎ、やがて中洲に上陸するようになる。その中州には、誰もよく知らない図鑑でも見つけられないような鳥が多数生息していて、その鳴き声に“彼”は悩まされる。そして、鳥対策として中洲に兎を放つのである。兎は鳥を食べ、やがて食べ物が不足してくると共食いを始めるようになり、ついには“食べるために子どもを産む”ようになる。その様子を観察していた“彼”がラストにどういう決断を下したのか。その決断の背景に冒頭の人を喰ったような導入部で記された内容が生きてくるのだが、その構成が実に上手い。共食いをする兎の存在はもちろん怖い。だがそれ以上に、その状況を作り出し、それを観察する“彼”という“人間”の存在こそが、「兎の島」という作品が含有する真の怖さなのである。

他の10篇も、「兎の島」と同等あるいはそれ以上に面白い。短編集は、収録順にこだわらず、自分が気になった作品、面白そうだと思った作品から読めるのが良いところなので、どこからでもまずは読んでみるのがいいと思う。

最後に、内容とはまったく関係ないが本書の装幀について書いておきたい。本書は、函入りで、本はしっとりと吸い付くようなマットな仕上げになっている、この仕上げは、ソフトマット仕上げなのだそうだ。とにかく肌触りがよくて、いつまでも触っていたくなる。兎が金の箔押しで印刷されているのも美しい。本書は、電子書籍版も発売されているが、多少値は張るけれどやはり紙の本でこの触り心地を味わってほしい。
(最後は内容ではなく装幀の話になってしまった笑)

 

「白昼の死角」高木彬光/角川書店-戦後の混乱した日本社会を背景に繰り広げられる頭脳ゲーム。法の盲点をついて行われる鮮やかな犯罪

白昼の死角(角川文庫版)

 

 

「狼は生きろ、豚は死ね」というキャッチコピーが、今でも記憶に残っている映画「白昼の死角」。本書はその原作となる。角川文庫版の初版は昭和51年(1976年)10月30日で、私が読んだのは昭和53年(1978年)9月30日発行の第8刷。いずれにしても、もう50年近く前に出た本ということになる。ちなみにカッパノベルス版で最初に出たのは1960年とのことなので60年以上前だ。現在は光文社文庫版が比較的容易に入手可能で、Kindle電子書籍もある。なお、映画は1979年に公開されていて、一部のサブスク配信サイトで現在も視聴できる。(私はU-NEXTで視聴した)

「白昼の死角」は、戦後すぐの混乱した時代を舞台として、法律の盲点をついた巧みな戦略戦術で大企業から大金を騙し取る詐欺師鶴岡七郎を主人公とするピカレスクロマンである。物語はまず、作家が熱海の温泉旅館で鶴岡七郎と出会い、彼が行ってきた驚くべき犯罪の数々を知るところから始まる。鶴岡の話に驚愕する作家に彼は、「ある時期になったら、今の話をすべて発表してもいい」と告げる。

つまり「白昼の死角」は、実際に起きた事件をもとにして書かれた小説という体裁になっている。鶴岡七郎をはじめとする登場人物の名前などは変更してあるが、書かれている犯罪行為はすべて現実に起きたことだという“設定”なのだ。

ただ、すべてが創作というわけではない。鶴岡が東大在学時に起こした『太陽クラブ』という闇金融会社と太陽クラブを起業した隅田光一という男には、モデルとなった事件、人物がある。興味のある方は『光クラブ事件』で検索してみてほしい。

隅田という男は、教授たちも一目を置くほどの秀才であり、太陽クラブは隅田が主導する形で発足した。しかし、頭が切れすぎるが故に線の細い隅田は、物価統制令違反で警察に逮捕され、太陽クラブの運営が厳しくなると、狂気の末に自殺する。隅田の弱さに気づいていた鶴岡は、自らはもっとうまく犯罪を成し遂げられると考え、法律の盲点をついた数々の経済犯罪に手を染めていく。

作中で鶴岡が実行する犯罪は、戦後間もないという時代的な背景を抜きにしても、鮮やかで痛快でもある。詐欺で金を騙し取る相手は大企業であるということも、鼠小僧のような義賊的要素があって、読んでいて痛快さを感じるのかもしれない。

例えば、手形のパクリ詐欺。これは、企業が発行した約束手形の割り引きを悪用して金銭を詐取する手口だ。混乱する時代、銀行が貸し渋りする中で資金繰りが苦しいのは大企業も同様であり、高い金利であっても街金業者を利用して一時的な運転資金を確保する必要がある。その弱みにつけこみ、鶴岡は仲間たちと共謀し、一夜にして、いや実質的にはわずか数時間のみ架空の会社を出現させて相手を騙し、手形を詐取する。後日、手形を騙し取られたと気づいた相手のところへ鶴岡は善意の第三者の顔をして、自分のところに持ち込まれた手形を買い戻してほしいとやってくる。相手は、一連の行為がパクリ詐欺だとわかっていても、法律上は鶴岡が持ち込んだ手形を買い取るしかない。なぜなら、手形が不渡りになれば会社は倒産してしまうからだ。こうして鶴岡は、鮮やかに大金を手に入れるのである。

私のように法律にも経済にも疎く、かつ物語の舞台となる時代を知らない読者からすると、本書で描かれる数々の犯罪がどの程度実現可能なのかはわからない。令和の時代の現在では間違いなく実現は難しいだろう。ただ、この物語の舞台となっている時代に比べて、格差が拡大していると思われる現代社会においては、鶴岡七郎のような大企業を相手に鮮やかに詐欺を働く犯罪者は、一部の人々からは義賊のようにもてはやされるかもしれない。

作品の舞台となった時代や作品が書かれた時代を考えると、現在の価値観からは少し眉をしかめたくなる場面や設定、登場人物のキャラクター像が多々あるのは必然であろう。手形をパクられた企業がサルベージ屋と呼ばれる反社会的勢力(ようするにヤクザ)に依頼して鶴岡七郎を襲撃する場面もあるし、当の鶴岡自身もヤクザとは切っても切れない関係にある。女性の登場人物たちも、鶴岡の罪を知ってそのことに苦悩しまっとうな道を歩むことを望みながらもただ従い耐えるしかない妻、鶴岡の悪事にほくそ笑み、彼の背中を押すようにして罪の道を歩ませる愛人といったキャラクターとして描かれる。彼女たちは、形は変われども鶴岡に寄り添い、彼のためには命をも投げ出す“尽くす女”たちだ。現代の小説では、フィクションであってもこうした男に従うだけの女性が描かれることは少ないだろう。企業と反社のズブズブの関係や男に尽くす女性といった価値観の違いは、古い作品を読むとその変化を強く感じられる。温故知新とはこういう読書経験からも実感できるものだ。

高木彬光の作品は、いまでも光文社文庫版で本書を含む代表的な作品が現役で入手できる。書店で文庫本を見つけられなくとも電子書籍化もされている。古書店でも比較的手に入りやすい作家かもしれない。私は高校生くらいのときに「刺青殺人事件」にはじまる『名探偵神津恭介シリーズ』にハマり、そこから社会派ミステリーの「人蟻」や「誘拐」、歴史上の謎にせまる「成吉思汗の秘密」、「邪馬台国の秘密」といった作品を読みふけった。今回、「白昼の死角」を読んでみて、高木彬光作品にハマっていたあの頃を思い出した。

 

「チベット幻想奇譚」星泉、三浦順子、海老原志穂編訳/春陽堂書店-チベットの現代文学を代表する作家たちが描き出す幻想世界。チベット文学体験の最初の一歩

 

 

先日(2022年10月8日、9日)、「チベット現代文学フェス2022」というイベントが開催された。チベット語で書かれた現代文学が翻訳出版されて10年の節目を迎えることから、それを記念して開催されたイベントである。2日間の日程だったが個人的な都合で参加は10月8日の初日のみとなったが、映画「ティメー・クンデンを探して」(ペマ・ツェテン監督作品)の上映会やチベット文学と映画制作の現在についての冊子「セルニャ」についての座談会、ラシャムジャ「路上の陽光」の一節の朗読、さらにこれまで翻訳されてきたチベット現代文学作品についての翻訳者座談会と盛りだくさんや内容に加え、サプライズゲストとして来日中だったチベットを代表する詩人であり舞台演出家でもあるプチュンDソナム氏の挨拶もあって、実に充実した1日となった。

チベット幻想奇譚」は、私が参加した初日の翻訳者座談会の中で、ラシャムジャ「路上の陽光」、ツェラン・トンドゥブ「黒狐の谷」、ラシャムジャ「雪を待つ」、ツェワン・イシェ・ペンバ「白い鶴よ、翼を貸しておくれ」と並んで紹介された作品である。若手から中堅まで、チベット現代文学作家たちが描き出す幻想小説、奇譚小説を集めた日本独自のアンソロジーとなっている。

本書は、大きく3つのセクションに分かれていて、10人の作家による13篇の幻想奇譚小説が収録されている。また、セクションごとに編訳者の作品解説が入っているので、作品の背景となるチベットの文化や風習などがそこで補足されているのも親切な構成。収録作品と作者、訳者は以下の通りである。

Ⅰ.まぼろしを見る
 人殺し ツェリン・ノルブ作/海老原志穂訳
 カタカタカタ ツェラン・トンドゥブ作/海老原志穂訳
 三代の夢 タクブンジャ作/星泉
 赤髪の怨霊 リクデン・ジャンツォ作/星泉
Ⅱ.異界/境界を越える
 屍鬼物語・銃 ペマ・ツェテン作/星泉
 閻魔への訴え エ・ニマ・ツェリン作/三浦順子訳
 犬になった男 エ・ニマ・ツェリン作/三浦順子訳
 羊のひとりごと ランダ作/星泉
 一九八六年の雨合羽 ゴメ・ツェラン・タシ作/星泉
Ⅲ.現実と非現実の間
 神降ろしは悪魔憑き ツェラン・トンドゥブ作/海老原志穂訳
 子猫の足跡 レーコル作/星泉
 ごみ ツェワン・ナムジャ作/星泉
 一脚鬼カント ランダ作/三浦順子訳

収録されている作品は、幻想奇譚小説という共通点はあるが、その作品世界観や物語の構造などはそれぞれに特徴的であり独創的である。「むかしむかしあるところに~」という書き出しで始まるようなおとぎ話を感じさせる郷愁を誘うような素朴さを持つ作品もあれば、芥川龍之介の作品を思わせるようなタイプの作品もあり、しっかりと構成された少し長めの作品もあれば、数ページで完結するショートショートのような作品もある。ホラー的な要素が強めの作品もあるし、思わず笑ってしまうような作品もある。チベットという土地柄や仏教に根付く作品もある。英米の幻想奇譚小説とは違う、どちらかというと日本の昔話やおとぎ話、古くからの言い伝え・伝承に通じる作品となっていて、だからこそ読んでいてどこか懐かしく思えるのかもしれない。

作品によって読み応えにバラつきもあるので、読んでいてググッと惹き込まれて前のめりに読み進めてしまう作品もあれば、肩透かしのようにサラッと終わってしまう作品もある。そこは読者として満足感が左右されるところになるかもしれない。

とはいいつつも、硬軟織り交ぜたバラエティ豊かな13篇が収録されていることは、これまでチベット現代文学になじみのなかった読者にとっては、そのとっかかりとして最適なアンソロジーになると個人的には考えている。私自身、おそらく今の時点で翻訳刊行されているチベット現代文学作品をほぼすべて入手して積んであるが、最初に読んだのが本書で正解だったかもと思う。特定の作家の長編や短編集ではなく、幾人かの作家の作品が収録されたアンソロジーは、チベット文学にかぎらず、その他の外国語文学を知る最初の1冊として有効なのかもしれないし、チベット文学やその他の外国語文学の入門編というだけではなく、海外文学の入門編としても有効かもしれない。

まだチベット文学を読んだことがないという方には、最初の一歩としてオススメのアンソロジーです。
 

「嫌いなら呼ぶなよ」綿矢りさ/河出書房新社-整形、SNS、不倫に老害、現代社会を巧みに切り取りエンタメに昇華させる作家の真骨頂

 

 

蹴りたい背中」で2003年に金原ひとみとともに第130回芥川賞を最年少受賞してから19年になるのかと思うと時代の流れを感じる。当時19歳だった綿矢りさも今やアラフォーである。

本書「嫌いなら呼ぶなよ」は、デビュー作「インストール」から数えて17冊目の単行本。4篇を収録した短編集である。

眼帯のミニーマウス
神田夕
嫌いなら呼ぶなよ
老は害でも若は輩

「眼帯のミニーマウス」は、整形がテーマの作品。主人公のりなは、とにかく自らをかわいく見せたい承認欲求のかたまりのような女性。化粧やネイル、かわいらしいファッションで全身を包み、インスタにアップしていいねを集める。かわいくあるためとあらば整形もする。リアルに付き合いのある周囲からは一歩引かれていたり陰口を囁かれていたり、イジメのような扱いを受けたりしているが、インスタで承認欲求が満たされればそれでいい。ただ、SNS上でも誹謗中傷のようなコメントを書き込まれたりしているのだが。

りなのように承認欲求に取り憑かれて自分を見失っている人は、男女を問わずSNS上に無数に存在している。自分の存在を肯定してもらうためにあらゆる努力を惜しまないが、第三者的にみるとやり過ぎとも思える過激さがあったりする。

あるとき、りなは整形していることが会社の同僚にバレてイジりのターゲットになる。それでも彼女はイジってくる周囲の人たちを内心で強く蔑みながら、むしろそのイジりを楽しむかのように振る舞う。そして究極のイジりに遭遇したとき、りなはついに周囲があからさまにドン引きするような突飛な行動に出るのである。それは、それまでりなというキャラクターにどこか眉をしかめて読んでいた読者が彼女の胆力を知り、見方を180度転換させて痛快ささえ感じさせるものだ。

「神田夕」は、大好きなYoutuber神田の推し活に余念のない“ぽやんちゃん”のニックネームで呼ばれる紗奈恵が主人公。Youtuber神田への愛ゆえに動画上がればまっさきにコメントする。ただ褒めるだけでなく、チャンネルをよくするためと考えて意見も書き込んだりする。とにかく熱心だ。だが、彼女の熱心な推し活にも関わらず神田はYoutubeTwitterだけでなくインスタやTilTokに手をだそうとする。

あるとき、働いている店の系列の居酒屋にYoutuber神田が来店していると聞きつけた彼女は、ヘルプを頼まれたフリをして居酒屋に行き、Youtuber神田の席を担当する。彼女が自分の熱心なファンとは知らぬ神田は、彼女の前で次々と彼女を落胆させるようなことをスタッフたちと話し出す。そしてついに、彼女は自分が神田やチャンネルスタッフからどのような存在と思われているかを知ってしまう。

匿名で発言できるSNSは、その自由さゆえに様々な利点を生み出す一方で、顔が見えないがゆえの安心感と気持ちの昂りから、受けた側からみると誹謗中傷と感じる強いキツイ発言が飛び交う場でもある。SNSがここまで発展する前は、ネットリテラシーという言葉をもって、インターネット上での発言を慎ましやかに節度をもって行うという流れもあったが、SNSの拡大がそういう民度もいつしか失わせてしまった感は否めない。「神田夕」はそういう時代を背景に、まさに現代社会を描いている。

表題作にもなっている「嫌いなら呼ぶなよ」は、妻の友人宅の新居祝いパーティーに参加した夫がその場で不倫について妻の友人たちから糾弾されるという話。ただ、この糾弾されるべき霜月という不倫夫がなんとも食えない男なのである。

かつて「不倫は文化」などという言葉が一世を風靡したことがあったが、霜月にしてみれば文化とは言わないまでも、自分がハンサムでもててしまうのだから仕方ないよねというニュアンス。そんな態度で糾弾の矢面に立っているから、口では申し訳ないやり直したいと言ったところで本心が透けてしまう。それが妻や友人たちを苛立たせる。

一方で読者としてみると糾弾している妻やその友人たち、また友人の威を借りて声高に主張するその夫たちも、霜月に負けず劣らず苛立たしいキャラとなっていると感じる。とにかく、出演する役者たちが揃いも揃って濃厚な存在感を示しているのである。読み終わるとなんとも言えない気分になるが、それがまた面白い。

ラストの「老は害で若は輩」は、アラフォーの小説家とライターのインタビュー原稿の直しを巡る不毛なメールでのやりとりに巻き込まれた若い編集者の物語。で、このアラフォーで老害の作家の名前が“綿矢りさ”という、自虐なのかと勘ぐりたくなる設定になっているのが妙技とも言える。頭の固いベテラン同士の間に挟まれて右往左往するしかない若手のいたたまれない感じや、自分の意見を意地でも曲げようとしない老害たちという、他の3篇と同様にキャラクターと設定と小説としてのストーリーや構成が巧みに練り込まれた作品となっている。

本書に収録されている4篇は、どれも現代社会で、誰もがなんらかの形で実際に経験したり、見聞したりしているテーマだと思う。私のような中年の、まさに老害と呼ばれる世代からすると、「老は害で若は輩」などを読むと、自分の言動が老害と思われるような言動になっていないかと不安になるし、若い読者は逆に作家とライターの板挟みになっている若手編集者の立場で共感する部分もあるかもしれない。また、「神田夕」のぽやんちゃんと自分を重ねて、SNS上での振る舞いを正当化したり反省したりする読者もあるだろう。

久しく読んでいなかった綿矢りさだったが、久しぶりに読んでみて、その作家としてのパワーがグンとレベルアップしていると感じた。その時代の空気や世相を巧みに盛り込んだ作品世界やストーリー展開、登場人物たちの造形と存在感、小説としての構成も面白いし、何より文章表現がすごい。芥川賞作家となると小難しい純文学と思われがちだが、本書に関してはとにかく面白いエンタメ小説という印象を受けた。面白い作家は年を重ねるごとに円熟味を増し、小説の面白さも増幅するのだなと感じる読書だった。