タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

保健室のアン・ウニョン先生(チョン・セラン/斎藤真理子訳/亜紀書房)-レインボーカラーの剣とBB弾を武器に保健教師は戦い続ける!

 

 

私はこの物語をただ快感のために書きました。一度くらい、そういうことがあってもいいんじゃないかと思いました。ですから、ここまで読んできて快感を感じられなかったとしたら、それは私の失敗ということになります。

帯にも引用されている著者の言葉は、その自信の表れでもあるように思った。チョン・セラン「保健室のアン・ウニョン先生」は、大成功作と言っていいくらい、抜群に面白く快感を感じられる作品だった。

物語の舞台となるのは私立M高校。その学校の養護教師アン・ウニョンが主役である。作品全体は、学校内で起きるいくつかのエピソードを積み重ねた連作スタイルの長編小説で、生徒たちの恋愛模様や英語教師にまつわる謎めいた話、教科書の選定に関わる疑惑など、学園物の定番からちょっと(というかかなり)異質な10のエピソードで構成されている。

だが、本書はただの学園青春ストーリーではない。

主人公のアン・ウニョンは、ある特殊な能力をもっている。彼女には見えるのだ。他に人には見えないものが。死んだ人の霊、それ以上に気持ちの悪い生きている人間が生み出す感情、そうした魑魅魍魎がゼリー状の物体としてアン・ウニョンには見えてしまうのだ。

見たくなくても見えてしまうゼリー状の魑魅魍魎たちと、アン・ウニョンはレインボーカラーに光る剣とBB弾の銃を手に戦う。戦うためにはエネルギーが必要だ。彼女のエネルギー源となるのが漢文教師のホン・インピョである。

戦うためのエネルギー源が同僚の男性教師、と書くと愛の力がアン・ウニョンに活力を与えるかのように思われそうだが(多少そういう面もある)、アン・ウニョンにとってのホン・インピョは、文字通りのエネルギー源。彼には、巨大なエネルギーのカーテンで守られた強力なパワーの持ち主なのだ。その強力なエネルギーをアン・ウニョンは彼から拝借するのである。

そういう設定の中で展開する学園ストーリーが、甘酸っぱい青春ストーリーというわけにはいかない。

年に一回の消毒時以外は立入禁止となっているM高校の地下室から、さまざまな怨念や想念たちが、巨大な魑魅魍魎の姿で解き放たれ(当然ながらアン・ウニョンにしかその姿は見えない)、生徒たちを巻き込んで大パニックを引き起こす。(大好きだよ、ジェリーフィッシュ

いつもつるんで悪さばかりしているミヌとジヒョン。アン・ウニョンには、ふたりが白いゼリーのようなものでつながっているのが見える。ふたりの今後のためにも、その白いゼリーを断ち切ろうと考えたアン・ウニョンとホン・インピョがとって手段とは?(幸運と混乱)

M高校に転校してきたパク・ヘミンという女子生徒。彼女には、ある秘密があった。彼女は『ムシ捕り』という役割を担って、過去何度も生まれ変わりを繰り返していた。ヘミンが捕食するムシは、人間にくっつくと厄介なことになる。だが、彼女には悲しい運命が待ち構えていた。アン・ウニョンは、ヘミンの運命を変え、幸せな未来に導くことができるのか。(ムシ捕り転校生)

パニックストーリーからほのぼのストーリーまで、収録されているエピソードは硬軟織り交ぜて読者を飽きさせず、魑魅魍魎たちのイメージは想像力をかきたてる。アン・ウニョンの過去にまつわるちょっと切ない話もあって、特殊な能力をもってしまった彼女の苦しさがそこから伺えたりもする。

本書を原作とするドラマがNetflixで制作され配信されている。アン・ウニョンを演じるのは、韓国実力派女優のチョン・ユミ、漢文教師ホン・インピョ役はナム・ジョヒョクが演じている。チョン・ユミは、2020年10月に日本でも公開された話題作「82年生まれ、キム・ジヨン」キム・ジヨン役も演じていて、ほぼ同じ時期にタイプとしては真逆とも言えるふたつの話題作が日本で公開されたことになる。

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ドラマ版「保健教師アン・ウニョン」は、一部設定を変更しているところはあるが、原作のテイストをしっかりとおさえたエンターテインメント作品になっている。原作を読んでからドラマをみるか、ドラマをみてから原作を読むか。こういう場合、どちらを先にしようか悩むところだが、この作品については、個人的にはどちらを先にしてもどちらも楽しめると思う。

とにかく楽しみたい。嫌なこととかパーッと忘れてフィクションの世界に没頭したい。という方には絶対オススメできる作品だと思う。原作本もドラマもどちらも楽しめて、スカッとする作品である。

■チョン・セラン作品

 

 

 

 

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ののの(太田靖久/書肆汽水域)-私的に現時点で2020年のベスト。こういう作品との出会いがあるから読書は楽しい

 

 

またすごい本に出会った。

私にはいくつか好きな本のタイプがある。

読んでいる間、ずっと気分が高揚し、物語の世界を存分に楽しませてくれるエンタメ小説。何もかも忘れてとにかく楽しみたいときにはそういう本を読む。小説世界に没頭できる本がいい。

一方で、なかなか一筋縄ではいかないようなタイプの本も好きだ。読んでいる間、頭の上にずっと「?」が浮かんでいるような本。途中までは普通の本だなと思わせておいて、ある瞬間に「あれ?」となり、そのままゆっくりと物語の世界に引きずり込まれてしまうような本だ。これも、エンタメ小説とはまた違う意味で、小説世界に没頭できる。

「ののの」は、まさに気づいたら物語の世界に引きずり込まれていて、その世界に没頭できる本だった。

「ののの」は、太田靖久さんの初単行本となる短編集だ。太田さんは、2010年に新潮新人賞を受賞してデビューした。後に芥川賞を受賞する小山田浩子氏との同時受賞である。その後、本書にも収録されている「かぜまち」や「ろんど」などの作品を文芸誌に発表してきた。また、「ODD ZINE」というインディーズ文芸ZINEを自ら企画・編集して発行したりといった活動もしている。

本書は、新潮新人賞受賞作「ののの」を表題作とする短編集で、表題作のほか、「かぜまち」と「ろんど」の2篇が収録されている。どの作品も、読み始めはゆっくりと立ち上がり、すーっという感じで動き出す。だが、落ち着いていられるのは最初にうちだけだ。物語は次第にその本性をあらわしてくる。読者は、自分が物語の中で迷子になりかけていることに気づく。「あれ?」と思ってからが物語の真骨頂だ。

私はこの「あれ?」と思う瞬間が好きだ。

「ののの」は、男子中学生が事故死する場面から始まる。物語を語るのは死んだ男子中学生の弟(僕)。彼は、自営業の両親と兄の4人家族だ。もっとも、兄は冒頭で死んでいて、母親の存在は物語の中では一切触れられない。

兄の葬儀が行われた葬儀屋の横には、フェンスで囲まれた国有地があって、そこに野晒しにされた白い本の山がある。白い本の山に頂上には、目がひらがなの「の」の形をした巨大な鳥がいて、僕はその鳥を「のの」と呼ぶ。そして、「のの」がいる白い本の山を「のののやま」と呼び、それが少し省略されて「ののやま」と呼んでいる。

白い本の山? 目が「の」の字の鳥? 次々と「?」が浮かんでくる。この物語の世界に足を踏み入れる瞬間だ。ワクワクする気持ちと不安な気持ちが入り乱れるこの瞬間がいい。

「思い出になるのは、自分で思い出したことがあるだけよ」
「なあケンジ、絶対に懐かしがるなよ」

と、「ののの」の僕は出会った女性や父親にそう言われる。思い出になるのは自分で思い出したことだけ? 絶対に懐かしがるな? 頭の中の「?」はますますと増殖を続ける。増殖に増殖を続け、最後の最後まで油断できない。何度もページを戻り、書かれた文章を読み返し、頭の中を整理する。とても疲れる読み方を求められるが、それは心地の良い疲れでもある。その疲れを楽しむために「ののの」はある。

本書を構成する3つの短篇には、ふたつの共通する要素があると思う。

ひとつは、思い出や記憶(メモリー

「ののの」に登場する白い本の山は、記憶の蓄積、思い出の蓄積を意味していると読むこともできる。僕の兄が死んだこと。僕の父が死んだこと。ふたりの記憶が、白い本の山のどこかに埋もれているのではないか。そんな思いが読んでいるうちに頭に浮かんでくる。思い出すから思い出になる。絶対に懐かしがるな。思い出にばかり囚われて、自分自身を見失うなという強いメッセージのようにも思えてくる。

もうひとつの要素は、時間。「ののの」の中でも、「かぜまち」の中でも、時間は確実に経過していく。時間が経過すれば、それだけ思い出や記憶は蓄積されていく。そして、人も街の風景も変わっていく。

「ののの」の僕も、「かぜまち」の僕、ミツメ、モモナ、浅海も、少年少女の時代から時を重ねて、それぞれに大人になっていく。大人になる中で、ひねくれてみたり、素直になってみたりする。そのひとつひとつが思い出であり、記憶になっていく。時間を重ねるということは、思い出や記憶を重ねるということでもあり、そういう意味でこのふたつは、本書を語る上で外せない要素だと思う。

「かぜまち」と「ろんど」は、それぞれに異なる時期に異なる文芸誌に掲載された短篇だが、ふたつの作品は互いに強く結び付けられた物語になっている。「かぜまち」の中で僕やミツメが暮らしてきた町は、あるときを境に人の住めない場所になってしまう。空き地に積み上げられた黒い袋。海岸沿いにある汚染された建物。人の住めない場所と自分たちが暮らす場所をはっきりと区分するように建設されていく白い壁。それは、3.11後のフクシマを想起させる。

物語を「ろんど」に移す。父親によって組み立てられ、娘が操縦するドローン『ろんど』を語り手とする物語。自らの意思を有するかのように、もしくは得体のしれない何かに操られるように、『ろんど』は『母』と呼ぶ娘の庇護から離れ、空をさまよう。『ろんど』は、延々とどこまでも連なる白い壁を飛び越えて、人々の記憶からも地図上の記録からも失われた町へ降り立つ。

白い壁。壁に隔たれた人の住めない場所。『ろんど』が降り立った場所は、「かぜまち」で人が住めなくなった場所のさらに長い時間を経過した世界だ。あまりに長い時間が過ぎて、その場所は人々の記憶から完全に消去されている。誰も思い出さないから思い出にもならないし、誰も懐かしがることもない。「ののの」に出てきた、

「思い出になるのは、自分で思い出したことがあるだけよ」
「なあケンジ、絶対に懐かしがるなよ」

とも見事にリンクする。

本書には、神楽坂にある『かもめブックス』の書店員・前田隆紀さんによる解説冊子「人間という「不確かさ」の上を爆走する繊細な小説」が付属している。短編集「ののの」を読み終えて、前田さんの解説冊子の最初の一文を読んだ瞬間に思わず大きく唸ってしまった。

一見スルッと読み飛ばしてしまえそうな文章にも「何か意味があるのではないか?」と立ち止まってしまうのが太田靖久さんの小説です。

これこそが、読者(主に私)にたくさんの「?」を突きつけ、何度もページを戻っては読み返すという心地よき疲労を生み出す正体だと思ったからだ。

前田さんの解説冊子を読むと、短編集「ののの」を理解し楽しむためのポイントがわかる。ただ、(発行元の書肆汽水域・北田さんの受け売りだが)まずは解説冊子を読まずに、「ののの」を読んでもらいたい。まずは、太田靖久作品の世界の道標を持たない丸腰の状態で「ののの」の世界に足を踏み入れて欲しい。読んでいて苦しくなることもあるだろう。無理だと思ったら引き返せばいい。時間は気にする必要はない。ゆっくりと読み進んでいけばいい。いつかゴールの頂にたどり着くはずだ。

その頂には、目がひらがなの「の」の形をした巨大な鳥が待っているかもしれない。

 

書肆汽水域の本

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ロボット・イン・ザ・ファミリー(デボラ・インストール/松原葉子訳/集英社文庫)-シリーズ第4弾。チェンバース家の庭に突然現れたロボット(通算3回め)、またまたロボットをめぐる騒動が巻き起こる。

 

 

ちょっとポンコツで、でもかわいくて憎めないロボット・タングを中心にチェンバース一家が子育てや教育など家庭の問題と向き合い取り組んでいく人気シリーズの第4作である。

前作「ロボット・イン・ザ・スクール」では、ラストに日本から帰国したチェンバース一家の目の前にまた新たなロボットが現れたところで終わっていた。本作「ロボット・イン・ザ・ファミリー」では、チェンバース家の敷地に捨てられていたロボット・フランキーをめぐるちょっとミステリーっぽいストーリーと、前作から続くベンとエイミーのひとり娘ボニーのちょっと複雑な問題が絡んで、今回もベンの頭を悩ませる。

親友カトウの元にジャスミンを残して帰国したチェンバース一家。ジャスミンの件でタングとベンの間には不穏な空気が流れている。そんな一家の目の前に現れたのは、またしてもロボットだった。そのロボットは、タングやジャスミンと同じようにチェンバース家の敷地に突然現れた。“フランキー”というそのロボットには手紙が添えられていた。

-この子を機能させるために頑張ってみましたが、あまりにいろんなものでできていて、どうにも使いこなせなくなってしまいました。

こうして、フランキーはしばらくチェンバース家で預かることになる。ジャスミンと離れて傷心していたタングはフランキーを歓迎し、ボニーもどんな気持ちかは測りかねるもののフランキーを受け入れる。だが、フランキーのことはあくまでも一時的に預かっているだけなので、ベンは持ち主を探そうと調べ始める。

フランキーはメモリーを初期化されているようで、自分が何を目的に作られたロボットなのか、持ち主が誰なのかも覚えていない。識別番号も消されていて元の持ち主にたどりつくのは難しそうだ。

ベンの頭を悩ませる問題は、フランキーのことだけではない。ボニーの教育問題もある。学校に馴染めないボニーを自宅で学習させるホームエデュケーションを選択したベンとエイミーだったが、どうやらボニーはただ学校に馴染めないという以上の問題を抱えているようなのだ。

ベンを悩ませる問題はまだある。姪のアナベルが恋をしたのだ。相手は大学で教鞭をとっているフロリアンという教師なのだが、問題は彼がアンドロイドだということ。この件で、ベンの姉ブライオニーは夫デイブと対立してしまい、ベンは夫婦の間、母娘の間で板挟みのようになってしまう。

こうしてベンの頭を悩ませる問題が次々と巻き起こるチェンバース家。そんな混乱した状況にあって、自分もいろいろとパニックになりながらも問題解決に力を尽くそうとするベンの姿は、これまでと変わらないようで少し頼れる父親になってきたように感じる。ちなみに『パニック』という言葉は、フランキー問題に関わるポイントワードになっている。

シリーズも4作目となり、チェンバース家の物語もかなり広がりを見せるようになった。シリーズ第1作「ロボット・イン・ザ・ガーデン」では、突然小さな子ども(=タング)の“父親”となったベンが、慣れない環境に身をおきながらまだまだ幼いタングのために奮闘する『初心者パパの成長ストーリー』の幕開けという感じだった。そのころはまだエイミーとの関係もギクシャクしていた。それがタングの子育てを通じて変化していき、第2作「ロボット・イン・ザ・ハウス」では娘のボニーと新たにロボット・ジャスミンが加わって家族の姿が形成されていく。そのことでベンには父親としての自覚が深まり、家庭の大切さを考えるようになる、第3作「ロボット・イン・ザ・スクール」でチェンバース家は、家の中から外の世界へと足を踏み出す。ボニーが学校に通うようになり、タングも学校に行きたいと言い出す。それまで家庭内でクローズしていた問題が外の世界に踏み出したことで、社会のルールとどう折り合っていくか、どこに課題があってどう対処していくかという問題に直面することになっていく。そして、それまで見えなかったボニーの問題も少しずつ見えてくるようになる。

ボニーやタングの外の世界との関わりが増えていくことで、ベンとエイミーはより大きな親としての責任を感じるようになる。そして、本書「ロボット・イン・ザ・ファミリー」では、ボニーの教育問題もさることながら、アナベルとフロリアンの恋愛=人間とアンドロイドの恋愛の問題、介護や移民といった地域社会の問題も関わってきて、家族として地域に暮らす中では避けて通れないさまざまな問題があることを考えさせられる。

本書では、ラストにフランキーの謎が明らかになり、同時にボニーがもつ才能についてもベンたちは理解し尊重するようになる。そして、タングも成長し、さまざまな状況を理解し受け入れることを学んでいく。今後もチェンバース家や彼らの周囲の人々をめぐってたくさんの事件が起きるだろう。まだまだ先の展開が楽しみになるシリーズだ。

また、本書にはコロナ禍を舞台にした特別短編「ロボット・イン・ザ・パンデミック」が収録されている。ソーシャルディスタンスが求められる社会の中で、タングは自分が何か役に立つことがしたいと考える。さて、タングはどんな仕事を任されたのか。緊張感のある状況の中で、タングの存在が少しでも社会の癒やしになること。そういう存在になっていることに少し胸が熱くなった。

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きみにかわれるまえに(カレー沢薫/日本文芸社)-ペットを飼うこと、それは命を預かること。必ず訪れる別れを受け入れる勇気と覚悟をもつこと

 

 

新型コロナによるステイホームをきっかけにペットを飼う人が増えているという。その一方で、飼い始めたはいいが、自分が思っていたのと違うとペットショップに返品(命のある動物に対する言葉としては甚だ不適切な言葉だ)してきたり、保護施設に引き取りを依頼したりする飼い主も増えているという。

カレー沢薫「きみにかわれるまえに」は、ペットと飼い主、その出会いと別れを描く17篇の短編マンガが収録されている。『犬の十戒』になぞらえてそれぞれに『第○戒』としてタイトルがつけられている。

最初に収録されている「第1戒 きみの生涯はだいたい10年から15年です。でも私は80年くらい生きます。きみと別れてからも、私の人生は長く続きます。」は、まさに『犬の十戒』の「第1戒」とリンクする。

第1戒 私の生涯はだいたい10年から15年です。あなたと別れるのは、何よりも辛いこと。私と暮らす際は、どうか別れのことを念頭において下さい。(Webサイト「子犬のへや」より抜粋)

「きみにかわれるまえに」の第1戒は、SNSなどネット上でも公開されていて、私もリツートされてきた試し読みツイートで本書のことを知った。ちょっとチャラい感じの女性がペットショップで一目惚れした子犬を“伽悪栖(キャオス)”と名付けて飼い始める。彼女は仕事運も男運も悪く、非正規で働き、結婚サイトで出会ったハイスペック男とも長続きしない。それでも、たったひとつの癒やしであり支えである伽悪栖には、全力で愛情を注ぐ。やがて時は流れ、彼女も伽悪栖も年を重ねていく。伽悪栖は、老いて弱っていき、粗相をするようにもなっていく。ある日、彼女の夢枕に伽悪栖が現れる。伽悪栖は、飼い主に似たガラの悪い口調で「自分はもうすぐ死ぬ」と告げ、人生をやり直せるように戻してやると言う。もちろんそれは夢だ。やがて伽悪栖は、彼女の腕の中でその生涯を閉じる。

 

第1戒で伽悪栖にすべての愛情を注ぎ、結婚もせず不安定な仕事で面倒を見続けた彼女の人生は無駄な時間だったのだろうか。たかが犬のために、女性として一番輝けたかもしれない時間を費やすなんてもったいないと思う人もいるだろう。だけど、彼女が伽悪栖と過ごした時間が無駄だったなんてことはぜったいにそんなことはない。むしろ、これほどに充実して幸せな時間はなかったと思いたい。

子犬や子猫は、とんでもなくカワイイし、愛すべき存在だ。何をしてもカワイイし、懐いてじゃれてきたりするともうメロメロになってしまう。ステイホームでひとり家にこもらなければならない人たちがペットに癒やしを求めたくなる気持ちもよくわかる。

だが一方で、犬や猫や他の動物たちはみんな“生き物”なんだということは、絶対に忘れてはいけない。子犬や子猫は、必ず年をとる。いつまでもコロコロとかわいくじゃれついてくる子どものままでいるわけではない。

コロナによるステイホームで犬を飼い始めた人の中には、「お店で見たときはかわいかったのに、家に連れて帰ったら部屋の中でオシッコしちゃってかわくなくなった」という理由で買ってからほんの数日で返品しにきたケースもあるらしい。こうなると怒りを通り越して呆れてしまう。

犬や猫を飼うということは、命を預かるということだ。飼い始めた以上は、その子の生涯を最期まで見届ける覚悟がなければいけない。どのような理由であれ、途中で飼育を放棄してはダメだ。もし、どうしても飼育できなくなったら? 飼い始めるときは、そのときのことまでしっかり考えておかなければいけない。最期を看取るまで面倒を見続けられる覚悟をもつこと。万が一のときにその命を託せる道筋を準備できること。それができるかをペットショップで子犬や子猫を買う前に考えて欲しい。

以前、「老犬たちの涙」という本を紹介した。さまざまな理由で飼育放棄されてしまう老犬たちについて書かれた作品だ。「年をとってかわいくなくなった」とか「引っ越し先がペット不可で飼い続けられない」といった飼い主の勝手な理由で保健所や保護センターに捨てられる老犬たちの姿が記録されていて、その本を読んだときも命を最期まで預かる覚悟が必要だと強く感じた。

「きみにかわれるまえに」を読んで、改めて命を預かる覚悟について強く強く感じている。

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ロープとリングの事件(レオ・ブルース/小林晋訳/国書刊行会)-『世界探偵小説全集』の第8巻。ガサツで鈍重そうな探偵とインテリだがちょっと天然な相棒のコンビがふたつの首吊り事件の真実に迫るユーモアミステリー小説

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』の第8巻。本書は、元警察官の私立探偵ビーフ巡査部長と彼の行動を記録し探偵小説として世に送り出すワトスン役のライオネル・タウンゼントのコンビがふたつの首吊り事件の謎を解明するミステリーだ。

物語のあらすじを説明する前に、本書巻末の真田啓介氏の解説からビーフ巡査部長と相棒タウンゼントの人物像について抜粋しておく。

1930年代後半の初登場時には、ビーフ巡査部長は探偵役として異色の存在であったと思われる。田舎の村の警察官で、赤ら顔とほつれた生姜色の口髭の持ち主。人の笑いを誘わずにおかない鈍重な身のこなしと立居振舞。パブでビールを飲みながらダーツに興じるのが何よりの楽しみという御仁である。

 

ビーフの扱った事件でワトソン役をつとめているのがライオネル・タウンゼントだが、これが往々にしてビーフ以上に滑稽な存在である。ビーフとは対象的に高等教育を受けたインテリで、いろいろなことによく気がついて必要以上に気を回すけれども、いざというときには頼りにならない。とりすまして上品ぶっていて、悪く言えば自意識過剰のスノッブなのだが、作者の筆づかいには愛情のこもったからかいの気分が漂っており、憎めない人物として描かれている。

ガサツで無骨な田舎者キャラの探偵役と上品ぶったインテリの探偵作家というコンビ像が示すように、「ロープとリングの事件」は全体にユーモアの溢れた作品となっている。

そもそも、ビーフが事件の解明に乗り出すきっかけからして笑えてしまう。

ある朝、ライオネルの家へビーフが電話をかけてくる。彼はベイカー・ストリート(もちろん、かのシャーロック・ホームズ氏が暮らすベイカー・ストリートだ)近くにある自宅へ来るように言い、「大事件だ。絶対確実だぞ」と告げる。訝しみながらもビーフ宅を訪れたライオネルにビーフは『デイリー・ドーズ』紙の記事を見せる。それは、ペンズハースト校のロード・アラン・ファウクスという学生が体育館の梁に首を吊って死んでいるのが発見されたという記事だった。

自殺であることは明白と思われる事件だが、ビーフ「これこそわしにうってつけの事件だ」と意気込み、自ら事件解明のために乗り出すことを宣言する。

(略)わしは前から首吊り事件を手がけてみたいと思っていたんだ。若者がいろいろな方法で縄をくくりつけ、天井から首を吊る事件は何度も新聞で読んだことがあるだろう。そういう事件を調べてみたら面白いぞ

たいがいのミステリーで探偵役が事件の捜査に乗り出すきっかけは、事件関係者や警察などからの依頼によって重い腰をあげるパターンと、たまたま事件現場に居合わせてしまったり、何らかの理由で事件に巻き込まれてしまって、立場上事件の解決に乗り出さなければならなくなるパターンが多いと思うが、本書ではビーフが自ら新聞記事で事件を見つけ、それが自分が前から手がけてみたいと思っていた首吊り事件だから関わってみたいという想像の斜め上をいくパターンになっているのだ。いまでこそ、ユーモアミステリーということで、こうした「自分から積極的に事件に関わっていく」タイプの探偵も存在するだろうが、当時としては斬新だったのではないだろうか。

さて、事件捜査にノリノリのビーフに対してライオネルは乗り気ではない。なぜなら、事件のあったペンズハースト校には、兄のヴィンセントが勤務しているのだ。兄弟はあまり仲が良くないし、兄は弟を『気取り屋』と呼び、ライオネルが探偵小説を書いていることにも否定的なのだ。そんなところに、ビーフのような男と出向くのは気が進まないどころか是が非でも避けたかった。

しかし、ノリノリのビーフの勢いと最近執筆活動も滞っている状況からライオネルはペンズハースト校行きを了承する。ただし、ヴィンセントに捜査を拒否されたら諦めるという条件付きで。その結果、ビーフは受け入れられ、病欠中の門番の代役を数日引き受けるかわりに事件を捜査することになる。

事件の捜査を始めたビーフだが、ライオネルの目から見るとなんともどんくさく、まともに事件を捜査しているようにも見えない。ここでポイントなのは、本書が記録係である探偵作家ライオネル・タウンゼントの一人称で語られるということだ。真田氏の解説から引用したように、ビーフ以上に滑稽な存在であるライオネルは、教育レベルはビーフよりもインテリかもしれないが、ちょっと天然なところがあったり、観察眼についてもいろいろと見えていないところがある。だが、インテリであるがためかビーフの能力を過小に見ているようで、自分の方が優秀だと考えているフシもある。そんな彼の視点で記されているため、読者は終始ビーフが探偵として優秀とは思えないのだが、それゆえに最後の謎解きでの驚きが倍増するという効果があるように思う。

ペンズハースト校での事件捜査は、ライオネルから見ると一向に進展している様子がない。ビーフは、門番としての仕事をこなしながら生徒たちと交流したり、地元のパブに通ってビールを飲んだりダーツをしてばかり。苛立つライオネルをよそにビーフはその生活を楽しんでいるようにも見える。

こうして捜査が行き詰まりを見せた頃、ロンドンのスラム街でペンズハースト校の事件とよく似た首吊り事件が起きる。スタンリー・ビーチャーという若いボクサーがジムの天井から首を吊って死んでいるのが発見されたのだ。ふたつの事件には何らかの関連性があるのか。ビーフはふたつの事件の謎を解明するために捜査をすすめることになる。

ふたりの若いボクサーが、場所は違えども同じ状況で首を吊って死ぬというふたつの事件。偶然状況が似てしまっただけで無関係そうにみえる事件が、実はつながっていたというのはミステリーとしては王道の展開で、本書も当然そうなっている。ビーフは、ライオネルからみれば鈍重で行き詰まっているような捜査の中でふたつの事件をつなぐ事実を見つけ出し、事件の全容を明らかにする。純粋な謎解きとしてみれば驚きの真相というほどではないかもしれない。ただ、ビーフ巡査部長という探偵役が、ライオネル・タウンゼントという探偵作家のある種恣意的な筆によって優秀な探偵に見えないという伏線があるので、「あのどんくさいビーフがちゃんと事件を解決した!」という驚きがある。「ロープとリングの事件」の面白さはそれにつきるのではないかと考える。

 

 

ゴーストダンス(スーザン・プライス/金原瑞人訳/サウザンブックス)-「ゴーストシリーズ」3部作完結。未熟な魔法使いシンジビスは、魔法の力で世界を変えられると信じた。だが、それは未熟ゆえの甘い考えだった。

 

 

もしも魔法が使えたなら世界を変えられるんじゃないか、と思ったことはないだろうか。悪政によって民を苦しめる独裁者の行動を魔法の力で良識ある行動に変えることはできないか、と考えたことはないだろうか。

スーザン・プライスの「ゴーストシリーズ」3部作の第3部となる「ゴーストダンス」では、若い魔法使いシンジビスが魔法の力で非道な皇帝の気持ちを動かし、圧政に苦しむ北の人々を救おうとする。シンジビスは、魔法使いとしてはまだ未熟だが、魔法を使えば皇帝を動かすことができ、北の人たちを助けられると信じている。だが、その考えが甘かったことを思い知ることになる。

物語は、皇帝の圧政に苦しめられている北の地の男たちが、助けを求めて老魔女のもとを訪ねるところから始まる。
「このままでは北の地は破滅してしまう」と訴える彼らに老魔女は言う。「世界は破滅したりしない。ただ変わるだけだ」

男たちが去っていくのを見送ったシンジビスは、老魔女に「皇帝に呪文かければいい」と自分の考えを告げるが、老魔女は「魔法使いなんてなんの役にも立たないんだよ」と諭す。そして、まだ見習いの魔法使いであるシンジビスに、自分が死んだら東に住んでいる妹のところへ行くように告げるのだが、シンジビスは老魔女の言いつけは守らず皇帝に呪文をかけるために都に向かう。

北の地を民を苦しめる皇帝とは、どのような人物なのか。皇帝は強大な権力を持ち、広大な宮殿で暮らしている。宮殿には大きな建物があり、皇帝のために働く人々がそこにいる。強大な権力を有する皇帝が求めるのは永遠の命だ。そこに漬け込もうとするイングランド人のジェンキンズであり、彼はクリスチャンという少年を使って、皇帝に悪魔の存在と命の水の存在を信じ込ませようとする。

皇帝の命令は絶対であり、彼の一言で人の命はあっさりと断ち切られる。シンジビスが宮殿にたどり着いたときも、まさにいま皇帝の怒りに触れたパヴェル卿を反逆者として公開処刑しようとしていた。

残虐な皇帝を呪文で操ろうとするシンジビスだが、その試みはことごとく裏目に出てしまう。目の前に引っ立てられてくる囚人たちに告げられる量刑は、軽くなることはなく、むしろ残虐性を増す結果になる。シンジビスは、皇帝を呪文で操るどころか、皇帝の黒い天使として、皇帝の守り人のような役回りとなってしまう。

悪逆非道であり、永遠の命を求め、常に疑心に満ち溢れ満足に眠ることもできないほど疲れ果てている皇帝。その弱みにつけ込み、皇帝を騙して一財産を稼ごうと目論むジェンキンズ。皇帝の気持ちを魔法で動かし、苦しむ人たちを救いたいと願う未熟な魔法使いシンジビス。物語は、この3人を軸にして進んでいく。自分の力では皇帝を変えられないと知ったシンジビスは、本物の魔法使いの力を求めて『死者の世界(ゴーストワールド)』へ向かう。それも、たったひとりで。

『死者の世界(ゴーストワールド)』は、「ゴーストシリーズ」3部作に共通して登場する世界であり、シリーズ全体のストーリーの方向性や位置づけを決定づける世界である。そこは、夢や希望に溢れる天国ではない。むしろ、暗くてジメジメした場所のように感じる。魔法使いにとって、生まれの地であり、終焉の地であり、試練の地である。シンジビスもこの場所で試練を味わうことになる。そして、現実を見ることになる。

クライマックスシーンは圧巻だ。そもそも「ゴーストダンス」はダークな物語だが、このクライマックスシーンはダークを通り越してグロテスクささえ感じられるような場面が展開される。それは、ファンタジーというよりもホラーのようだ。無残に命が奪われ、周囲には血飛沫が舞う。血の海と化した部屋にたたずむシンジビスの姿は猟奇的である。

こうして、「ゴーストシリーズ」3部作は幕を閉じる。巻末の訳者あとがきによれば、第4部にあたる「ゴーストスペル」という作品があるそうだが、これは3部作とはテイストの異なる外伝のような作品らしい。外伝だとしても読んでみたい。

3部作を読んでみて、金原さんがこの3作をすべて訳したいと思った理由がわかったような気がする。第1作の「ゴーストドラム」だけでもひとつの物語としては成立しているが、「ゴーストソング」そして「ゴーストダンス」を読むことで、より「ゴーストシリーズ」の世界観を知ることができ、3つの物語の繋がりが見えてくることで物語の奥行きが感じられるようになってくる。

万人受けするファンタジーとは言えないかもしれないダークな世界が描かれるシリーズだが、ダークであるからこそ見えてくるものがある。人間の心の奥底に潜んでいる邪悪なものやネガティブな感情が、確かに存在するのだということを「ゴーストシリーズ」3部作は描いているのだと感じる。

 

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ゴーストソング(スーザン・プライス/金原瑞人訳/サウザンブックス)-嫉妬と憎悪と怒りによって生きる魔法使いクズマとは、現実世界に生きる私たちの姿なのかもしれない。

 

 

「ゴーストシリーズ」の第2作となる作品。「ゴーストドラム」でチンギスと対立する悪役として登場したクズマを中心とする物語だ。

「ゴーストソング」の物語は、夏至の日、猟師のマリュータとその妻イェフロシニアの間に男の子が生まれる場面から始まる。息子を授かったマリュータのところへ、ひとりの男がやってくる。その男は魔法使いのクズマだ。クズマは、マリュータの息子を自分の弟子としてもらいうけにきたのだ。

「ゴーストドラム」の物語が、冬至の夜に奴隷女に生まれた娘を老魔女が弟子としてもらいうけに現れる場園から始まったように、「ゴーストソング」はクズマがマリュータの息子を弟子として渡すよう要求する場面から始まる。奴隷女は娘を老魔女にわたすが、マリュータはクズマの要求を拒否する。そして、我が子を『不死』を意味するアンブロージと名付けた。

マリュータがクズマに息子を渡さなかったことで、「ゴーストソング」の物語は苦しみの物語へと動き出す。苦しむのは、マリュータだけではない。マリュータに息子を渡すのを拒まれたクズマは、トナカイを追う人々の野営地に現れ、彼らに呪いをかける。闇の中では狼の姿となる呪いだ。

こうして、マリュータとアンブロージの物語と呪いをかけられたトナカイを追う人々の物語が並行して語られる。アンブロージは成長すると、誰も教えたことのない話をし、誰も聞いたことのない歌をうたうようになる。彼の話、彼の歌を聞いたものは、誰もがそれに聞き入り、心を奪われる。アンブロージに、話や歌を吹き込んだのは、夜になると彼のもとに現れる熊だ。

狼の呪いをかけられたトナカイを追う人々の中から、『狐にかまれた子』がクズマへの復讐を胸に行動を起こす。「ぼくたちを狼に変えたことをつぐなわせてやる!」狐にかまれた子は叫ぶ。トナカイを追う人々は、大声でクズマの名前を叫ぶ。その声をクズマは聞く。そして、ほくそ笑む。

成長したアンブロージ、トナカイを追う人々の呪いを解くためにクズマの行方を追い求める狐にかまれた子、そしてクズマ。それぞれの物語はやがてひとつに交錯し、死者の世界(ゴーストワールド)へと彼らの運命を導いていく。

前作「ゴーストドラム」で、才能にあふれる一人前の魔法使いとなったチンギスに嫉妬し、悪逆非道な皇帝の妹マーガレッタに味方してチンギスを亡き者にしようと対峙したクズマ。彼がなぜそこまでチンギスに嫉妬し憎悪したのか。その理由が、この「ゴーストソング」にあるのではないか。200年間待ち続けた弟子の誕生を、ちっぽけな毛皮猟師マリュータによって拒絶され、クズマは怒り狂う。残酷な方法で、罪のないトナカイを追う人々を追い込み、アンブロージとして成長していく我が弟子をどうにかして我がものとしようとした。大いなる陰の物語である「ゴーストソング」の結末は、その陰をすべてのものたちの胸底に淀ませるように終焉する。

クズマの存在は、ある意味で、読者である私たちの姿を映し出しているのではないか。思い通りにならないことへの怒り。成功者に対する嫉妬。その嫉妬から生まれる憎悪。そうした私たちの胸の奥に常にくすぶり続け、何かのきっかけにブワッと大きく炎上する負の部分を描くのが「ゴーストソング」であり、クズマというキャラクターなのではないか。

「ゴーストシリーズ」全3作の中で、本作がもっとも私たちの生きる世界に近く、クズマがもっとも私たちの存在に近い。それだけに、前作「ゴーストドラム」とは違う感傷的な読後感を覚えた。本書を読んで、憎むべきクズマという悪役にシンパシーのようなものを感じてしまった。

 

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