タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「仙童たち 天狗さらいとその予後について」栗林佐知/未知谷-天狗にさらわれた4人の子どもたち抱える苦痛。天狗はその苦痛から彼らを救ったのだろうか

 

 

ある日突然子どもが行方不明になる。子どもの神隠しを昔は『天狗さらい』といって、天狗が子どもをさらっていったと考えられていたという。平田篤胤の「仙境異聞」は、江戸文政年間に天狗にさらわれたといわれる寅吉という少年の記録である。

栗林佐知「仙童たち 天狗さらいとその予後について」にも、平田篤胤と寅吉の話が出てくる。「仙童たち」は、天狗さらいをテーマにした学芸員の学会発表音声の書き起こしと、天狗にさらわれたとされる4人の少年少女たちの物語を交互に描いている。

神奈川県ツルマ市立タンポポ台中学の1年生4人が学校の遠足で行った大山で行方不明になり翌朝発見されるという事件が起きた。行方不明になった4人の少年少女、仏沢せいじ、鯨川かんな、井戸口俊樹、堀江桂は、途中ではぐれてしまった理由について記憶がない子もいたが、中には「天狗につかまれて空を飛んだ」などと証言する子もあった。そして4人は、2年生に進級して同じクラスになる。ただ、接点はそれだけだ。たまたま一緒に遭難し、たまたま同じクラスになった。事実としてはそれだけ。それでも、どこかで4人は見えないつながりを持ち続ける。

4人の子どもたちはそれぞれに複雑な事情を抱えている。軽い知的ハンデキャップがある仏沢せいじ。母親からの強烈な圧力から字が読めなくなった鯨川かんな。父親のいない井戸口俊樹。母親からの過度な愛情にうんざりし大人の女性に憧れ裏切られる堀江桂。少年少女は、それぞれに何かしらの問題や悩みを抱え、それぞれに日々を生きている。彼・彼女が大山での事件を経た今、そして未来が4つの短篇によって描き出されていく。

4人の少年少女それぞれの物語をつなぐように挿入されるのが、「証拠物件 遺留品(ICレコーダー)の残された音声」だ。郷土資料館の学芸員クジラガワ・カンナによる『多摩西南地域の天狗道祖神-庶民信仰をめぐる一考察』と題する研究発表は、多摩西南地域に広く分布する石仏や庚申塚などの庶民信仰の遺物を調査研究した成果であり、その中で『天狗道祖神』が登場し、天狗の人さらいについて熱く語られる。

『天狗さらい』という非現実を題材にしているが、ひとつひとつの短篇に描かれる子どもたちの姿は知的ハンデキャップや家庭内暴力、過度な期待とそれにこたえられないことへの苦悩や重責からの逃避など、今の時代に生きる子どもたちが現実に抱える悩みや不安を映し出しているように感じる。

著者はあとがきで「衣食住の苦労こそない子どもたちの苦痛」を軸としていたと記している。4人の子どもたちは衣食住には問題がないが、それぞれにさまざまな苦痛を抱えている。『天狗さらい』は、彼らの苦痛を解消するために必要な事件だったのだろう。天狗にさらわれ、新しい人生観、新しい価値観を獲得した子どもたちは、その経験によって苦痛への対処を学び、成長して大人になっていくのだろう。

「仙童たち」における天狗とは、子どもたちの苦痛を理解し、正しい道へ導く大人の役割を示しているのだろう。現実の私たちは、『タマヨケ坊』のように子どもたちに正しい道を教えられる大人になれているのだろうか?

「あの本は読まれているか」ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社-(プルーフ版先読み)東西冷戦下、一冊の本によって世界は変わるのか? 出版権200万ドル、初版20万部、世界30ヶ国で翻訳刊行のデビュー作。

 

 

4月刊行予定のラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」を発売前のプルーフ版で読む機会をいただきました。訳者の吉澤康子さん、版元の東京創元社さん、ありがとうございます。

本書は、デビュー作としては破格の200万ドル(約2億円)で出版権が買われたという作品で、初版は20万部。MWAエドガー賞の最優秀新人賞にもノミネートされ、世界30ヶ国で翻訳されたているという。

舞台となるのは、1950年代の東西冷戦時代。アメリカCIAは、ソ連に対してある特殊作戦を画策する。それは、ソ連国内では禁書とされたボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」をソ連国民の手に渡し、国家によって自分たちが迫害されていることを知らしめることだ。

作中にはさまざまな人物が登場する。西側には、ロシア移民の娘でCIAでタイピストとして働くイリーナと彼女の同僚のタイピストたち。イリーナが有するスパイとしての素質を見いだして「ドクトル・ジバゴ」を巡る特殊作戦へと組み入れるべく訓練するCIAのスパイたち。東側には、「ドクトル・ジバゴ」の著者ボリス・パステルナークと彼の愛人オリガ。ボリスの妻や「ドクトル・ジバゴ」の存在を抹殺した当局者たち。

物語は主に、東側はオリガとボリス、西側はイリーナが中心となって展開するが、特長的なのは各章で語り手が入れ替わっていくことだ。

西側のパートはこうなっている。

イリーナが語り手となる『わたし』の章
タイピストたちが語り手となる『わたしたち』の章
CIA諜報員サリーが語り手となる『あたし』の章
CIA秘密工作員テディが語り手となる『ぼく』の章

東側のパートはこうだ。

オリガが語り手となる『わたし』の章
『ボリス』を三人称で描く章

語り手が固定されていないと感情移入がしにくくなるデメリットはあるが、一方で同じ事物に対して複数の視点から描くことで生まれる効果もある。イリーナの視点で彼女の内面が描かれ、タイピストたちの視点でそのときの彼女の外見が描かれる。その対比によって、イリーナがどのような人物なのかが見えてくるように思う。

多くの登場人物、多くの視点で書かれているが、物語の主役は「ドクトル・ジバゴ」だと思う。一冊の本が世界を変えることができるのか? という命題をストーリーの中核に据え、その本に関わる人々の人生が描かれているのだ。

ドクトル・ジバゴ」に関わる特殊作戦を描いているので、本書はスパイ小説として読まれるかもしれない。だが、本書はそれほど単純な話ではない。登場人物たちはそれぞれに、それぞれの役割を果たすために行動を起こす。「ドクトル・ジバゴ」によって人生を狂わされる。「ドクトル・ジバゴ」によって多くの出会いを経て変わっていく。誰もが一冊の本に翻弄される。誰もが一冊の本に執着する。

出版権200万ドルや初版20万部、世界30ヶ国で翻訳といった前評判のハードルがあがりまくっているが、そのハードルを感じさせないほどに読み応えがあった。4月に刊行されたらまた読みたいと思うし、この本を読んだ他の読者からも話を聞いてみたいと思う。

 

 

「ニジノ絵本屋さんの本 本屋さんで、出版社で、絵本パフォーマー。」いしいあや文、小林由季イラスト/西日本出版社-絵本屋、出版社、パフォーマーと、さまざまな顔を持つ『ニジノ絵本屋』はこうしてできあがった

 

 

『ニジノ絵本屋』は、東京東横線都立大学駅近くにある絵本専門書店です。2011年にわずか1.5坪の小さなスペースからスタートして、2017年に現在の店舗に移転しました。

nijinoehonya.com

本書「ニジノ絵本屋さんの本」は、ニジノ絵本屋代表のいしいあやさんによるニジノ絵本屋の歩みを書いた本です。ニジノ絵本屋を構成する3つの要素『絵本の販売(絵本屋)』『絵本の出版』『絵本の読み聞かせ(パフォーマンス)』について、どうして絵本屋をはじめたのか。どうして出版を始めたのか。特徴的な読み聞かせパフォーマンスはどのようにして生まれたのか。そうしたニジノ絵本屋についてのアレコレが記されています。

そもそも、いしいさんは「小さい頃から絵本屋さんになりたかった」とか「もともと出版業界で働いていた」というわけではありませんでした。本に関しては完全な素人でした。そんないしいさんがニジノ絵本屋をはじめたのは、当時勤めていた会社のつながりから、小さな雑居ビルの小さなスペースで「なにかやってみないか」と声をかけられたからです。1.5坪のスペースで何ができるか考えたいしいさんは、両隣が小児科クリニックと薬局という立地から、絵本屋をやってみようと思い立ちます。

絵本屋をはじめることを決めたものの、どうやって絵本を仕入れたらいいのかすらわかりません。それでも、いろいろと調べたり、周囲の方々のアドバイスをいただいたりして仕入れルートを確保し、ニジノ絵本屋は開店します。

先日、いしいさんが登壇するイベントに参加しました。そのイベントでいしいさんはニジノ絵本屋開店時のエピソードをお話されていました。いしいさんは、「本といえば神保町!」と思い立って神保町に行き、街の案内所で「絵本を仕入れたいんですけどどこに行けばいいですか?」と訪ねたのだそうです。街の案内所の方もそんな問い合わせを受けるとは思っていなかったでしょうね。そのくらい知識ゼロのところからニジノ絵本屋はスタートしたわけです。

絵本屋としてスタートしたニジノ絵本屋は、2012年には絵本の出版にも進出します。1.5坪のスペースで絵本を仕入れて売るだけでは商売的には厳しいものがあります。そこで、いしいさんが考えたのが自分たちで絵本を作って売るということでした。

ニジノ絵本屋レーベルの最初の絵本は『はらぺこめがね』という絵本ユニットの「フルーツポンチ」という作品でした。

パン屋さんはパンを作って売っている!絵本屋さんが絵本を作って売るのは自然なことのはず!

ご自身でも「今振り返ってみると超絶安易な思いつき」と記していますが、その安易な思いつきに猪突猛進に突き進んでいくのがいしいさんのスゴイところです。『はらぺこめがね』という夫婦ユニットと出会い、彼らの作品で絵本を作ろうと奔走します。

本屋開業についてもまったくの素人だったいしいさんは、出版に関しても当然素人です。ですが、持ち前の行動力で『はらぺこめがね』のふたりと協力して、出版に至るさまざまなハードルを果敢に乗り越えていきます。こうして「フルーツポンチ」ができあがるのです。

ニジノ絵本屋は、『えほんLIVE』という絵本の読み聞かせパフォーマンスを行っています。一般的な絵本の読み聞かせは、子どもたちを前にして読み手が絵本のページを見せながら読んで聞かせるというスタイルです。ニジノ絵本屋の「えほんLIVE」は、音楽と融合して、まさに『パフォーマンス』として読み聞かせを演じます。各地のイベントなどにも出演していて、1月31日~2月1日に二子玉川で開催された本屋博でもパフォーマンスを披露していました。2019年には『サマーソニック』にも出演したそうです。

本書には、ニジノ絵本屋のさまざまな活動に関わってきた方々が「ゲストコラム」として、当時のこと、ニジノ絵本屋との出会い、いしいさんの人柄などを記しています。ゲストコラムを読んで思うのは、ニジノ絵本屋がさまざまな人たちの出会いの場所となっているということです。そして、その中心となっているのが代表のいしいあやさんの存在なんだということです。

実際、私もイベントでいしいさんのお話を伺って、とても楽しい方という印象を受けました。人を惹きつける求心力のようなものがあるとも感じました。ニジノ絵本屋に関わってきた人たちは、きっと「この人と一緒だと面白いことができるかも」と思って、いしいさんと一緒に動いてきたんだろうと思います。

私はまだニジノ絵本屋のお店には伺ったことがありません。いつかきっとお店に行ってみたいと思っています。

 

 

「広場」崔仁勲/吉川凪訳/クオン-〈韓国最高の小説〉にも選ばれ、長く読まれ続けている作品。誰もが自らの『広場』を探し続けていると考えさせられる小説。

 

 

「人は広場に出なければ生きられない」

著者は本書の前書きをこう書き始めている。そして、「しかしその反面、人間は密室に引きこもらずには生きられない動物だ」と記す。

訳者あとがきによると、「広場」は、1960年に雑誌「夜明け(セビョク)」に掲載された中編をもとに1961年に長編小説として刊行された作品だ。著者の崔仁勲(チェ・イヌン)は、朝鮮戦争後の韓国を代表する作家のひとりであり、代表作「広場」は2004年に〈韓国最高の小説〉に選ばれているという。

小説の舞台となるのは、朝鮮戦争前から停戦後の時代。主人公は、李明俊(イ・ミョンジュン)という青年。彼が、中立国を目指す船に乗っている場面から物語は始める。

明俊は、日本の統合支配から解放された南朝鮮に暮らし、自らの『広場』を求めて北に渡る。朝鮮戦争の停戦後は、南へ戻ることを拒否し、やはり自らの『広場』を求めて中立国に向かう。

「広場」は、明俊が自らの『広場』、すなわち『自由』を求める物語だ。明俊は、南に暮らしながら自らが置かれている孤独を常に感じ続け、自らの居場所を探し求めている。それは、物理的な場所としての『広場』にとどまらず、友人との関係、恋人との関係の中での自由という『広場』でもある。

だが、著者自身が前書きで記しているように、人は『広場』を求めている。その反面で自らの内にある『密室』の引きこもる。そうした人間の業の象徴として、李明俊は描かれている。

南で暮らしていた明俊は、北で暮らす父が南に向けたプロパガンダ放送に出演したことで警察から執拗な取り調べを受ける。やがて彼は密輸船で北へ渡るが、そこでも『広場』を見つけることができない。朝鮮戦争に従軍し、停戦後は南へ戻るかその他の中立国へ行くかの選択を迫られる。そして彼は、中立国へ向かう船上の人となる。

明俊は、ただひたすらに『広場』を探し続ける。彼の姿は、朝鮮半島の混乱期という閉塞的な時代を舞台にしているからこそ、リアリティを有して描かれているように感じられる。だが、実際に読み進めていくと、明俊が探し求める『広場』とは、時代や土地柄や人間関係、思想信条に関わらず誰も等しく求め続けているものなのではないかとも思えてくる。まさに、いま私たち自身が、自らの孤独と不自由さを意識/無意識に関わらず感じていて、それぞれが自らの『広場』を探し求めているのだと思う。

訳者あとがきには、著者がこの作品に執着し、晩年に至るまで何回も修正・改作してきたと記しされている。「広場」は、韓国文学史上もっとも数多くのバージョンが存在する作品であるという。

明俊が自らの『広場』を探し続けていたように、著者も自らの『広場』を探し求め続けていたのだろう。明俊は、著者自身のことなのだと考えることもできるし、読者はそれぞれに明俊に自分自身を投影してこの作品を読むのだろう。だからこそ、「広場」は長く韓国で読まれ続け、韓国最高の小説にも選ばれたのだと思う。

「ZENOBIA(ゼノビア)」モーテン・デュアー文、ラース・ホーネマン絵/荒木美弥子/サウザンブックス-デンマークの作家が描き出すシリア難民少女の物語

 

 

遠く水平線が広がる海原に、ぎっしりと大勢の人を乗せたちっぽけな小舟が浮かんでいる。舟にはひとりの少女が大人たちと肩を寄せあって窮屈そうに座っている。やがて、おとなしかった海は波の荒れ狂う海へと姿を変え、ちっぽけな小舟はその波に飲み込まれる。少女は海に沈みながら、今よりもまだ幼かったときの家族との日々を思い出す。

北欧デンマーク発のグラフィックノベルZENOBIAゼノビア)」は、内戦状態のシリアから脱出し、平和な生活を求めて亡命を図る難民の姿を描いている。

2011年に始まったシリアの内戦は、2020年になった現在でもまだ続いている。アサド政権に反対する反政府勢力との対立により、シリア国内は大混乱し、国内各地の都市での戦闘や空爆によって多くの市民が犠牲となった。その状況が、今なお続いているのだ。

今から5年ほど前、1枚の写真が世界中に衝撃を与えた。内戦状態のシリアから家族とともに舟で逃げ出してヨーロッパを目指した3歳の男の子が、トルコの海岸に死体となって打ち寄せられた写真だ。今回このレビューを書くために検索してみたら、この写真は今でも多くのネットニュースサイトなどに残されていた。だが、私はネット検索しただけで検索結果のリンクをクリックすることはできなかった。なぜなら、見るまでもなく当時見た写真の記憶がまざまざと思い出されたからだ。波打ち際に横たわる子どもの姿はそう簡単に忘れられるものではない。

シリア内戦、シリア難民のことをデンマーク人の作家が描くことに不思議な感じがある。訳者はあとがきで冊書のモーテン・デュアーにしたときに彼が語ったことを記している。少し長くなるが引用したい。

「2015年、多くの人々がシリアからヨーロッパへと戦火をのがれるためにやってきました。その後SNSや既存メディアなどで難民問題について大きく取り上げられるようになりました。突然みんながまるでその専門家のように自分の意見を主張し、この問題をどう解決すべきかと議論がヒートアップしていったのです。私には、それが難民当事者たちを置いてきぼりにした、彼らの気持ちを考えていないもののように見えました。そこでほんの数分でもいいから心をおだやかにし、紛争の犠牲になった人々の命の尊さを考えたいという気持ちで物語を書きました。そういうわけで、この本には文章もとても少ないのです」

海の中で少女は思い出す。お母さんとのかくれんぼのこと。お世辞の下手なお父さんのこと。おじさんに連れられてたったひとりで舟に乗り込んだこと。

シリア内戦で犠牲になった人の多くは、なんの罪もない市民だ。子どももいるし、老人もいる。彼らはただ平和に暮らしたいだけなのに、内線に巻き込まれ、日々死の恐怖と向き合っている。

2年前にシリア人の少女バナ・アベドの「バナの戦争」という本のレビューを書いた。7歳のバナがTwitterで発信した「I need peace」というツイートをきっかけに世界が動いたことが記された本だ。「ZENOBIA」の少女はバナのような知恵もツールも持てなかったが、同じシリア人の少女だ。「ZENOBIA」の少女やバナ・アベドのように内戦の恐怖にさらされている人がシリアにはまだたくさんいる。

遠い日本に暮らしていると、シリアがいまどうなっているかなんて全然わからない。わからないのではなくてわかろうとしていないというのが正しいかもしれない。今なお、こうして死の恐怖にさらされる人がたくさんいることを考えなければいけないと思った。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

「1793」ニクラス・ナット・オ・ダーグ/ヘレンハルメ美穂/小学館-両手足を切断され両目をえぐり取られた惨殺死体。労咳で残り少ない人生を生きる法律家と戦争で左腕を失った義腕の引っ立て屋は猟奇殺人の謎を追う。

 

 

1793年のスウェーデンを舞台に、労咳(肺結核)を病んでいる法律家セーシル・ヴィンゲと、ロシアとの戦争に従軍して左腕を失い義腕となった引っ立て屋ミッケル・カルデルがコンビとなって猟奇殺人事件の謎に挑むミステリ小説。

著者はあとがきで、「1793年という年を選んだのは、ヨハン・グスタフ・ノルリーン警視総監がいたからだ」と記している。1973年のスウェーデンは、前年に国王グスタフ3世が暗殺され、1789年にフランス革命が勃発したヨーロッパ全体の流れもあって国内は混乱した状態にあった。政治は腐敗し、庶民は貧困にあえいでいた。その腐敗し混乱した時代の中で、ノルリーン警視総監は公明正大な人物であったとされている。だが、公明正大であったがためか在任期間が短った。そういう時代を背景にすることで、この物語が有する猟奇性や胸をえぐるような恐怖が増幅されている。

事件は、引っ立て屋のミッケル・カルデルが湖に浮かぶ惨殺死体を発見する場面からはじまる。それは、常軌を逸する悲惨な死体だった。両手足を切断され、両目をえぐり取られていたのだ。

ノルリーン警視総監からの事件の捜査を依頼されたセーシル・ヴィンゲは、カルデルとコンビを組んで動き出す。ヴィンゲが探偵でカルデルが助手・用心棒といった役割だ。このふたりの対比が物語を面白くしている。

ヴィンゲとカルデルが最初に会ったときの場面から引用してみる。

ヴィンゲは線の細い、痩せた男だった。不自然なほどに痩せている。カルデルとは似ても似つかない。(中略)カルデルはというと、肩幅はヴィンゲの二倍はありそうだ。軍人上がりのたくましい背中のせいで外套がきつく、不恰好なしわができている。(後略)

ヴィンゲは労咳を患っていて、警察の中では彼がいつ死ぬがで賭けが行われているほどだ。しかし、身体の病気に反比例するように頭脳は明晰であり、犯罪捜査では常に真実を追い求める。カルデルは戦争で左腕を失っていて同時に仲間を助けられなかったトラウマがある。ときに暴力的だが正義感の強い人物だ。

物語は全4部で構成される。

第一部 インデベトゥー館の亡霊
第二部 ほとばしる赤
第三部 夜の蝶
第四部 無双の狼

第一部で両手足を切断され、両目をえぐられた身元不明の惨殺死体が発見され、ヴィンゲとカルデルが捜査に乗り出す。いくつかの手がかりを掴み、捜査が進展していく中で、ふたりの友情が徐々に形成されていく。

第二部は、ある男が妹にあてた手紙というスタイルで事件が描かれる。残酷な描写が多く、直接な描写もあって読んでいて背筋が寒くなってくる。直接の描写ではなくても、作品全体の持つ空気感が恐怖心を増幅されるようにも思う。

第三部は、貧しい私生児として生まれた少女の物語だ。少女は、母親を失い自らも無実の罪をなすりつけられて紡績所(事実上の女子刑務所)に送られる。そこはまさに地獄のような場所であり、彼女たちを監視する管理人の悪逆非道な振る舞いには怒りを覚える。著者あとがきによれば、この紡績所の管理人や所長、牧師の関係は実際あった話らしい。

第四部では、猟奇殺人事件の真相が描かれる。読者は、第四部が始まって早々に驚かされることになる。やがてそれは杞憂に終わり、事件は解決に向けて動き出す。第一部で描かれたことと、第二部、第三部で描かれた物語が重なり合い、犯人へと結びついていく。そして、犯人の忌まわしい過去や破壊的な思想が事件の背景として存在することが明かされ、ラストの展開へと進んでいく。

いろいろな方から本書の面白さを聞いてきた。「読み始めたら一気読み」「年末年始に没頭した」などなど。この本の話をしてくれた方はみんな絶賛していた。実際に読んでみたら、その期待を裏切らない作品だった。

訳者あとがきには、三部作として続刊が予定されていて、2019年に続編の「1794」が刊行されたとある。翻訳されるのを心待ちにしたい。

「ネルーダ事件」ロベルト・アンプエロ/宮崎真紀訳/早川書房(ポケットミステリ)-1973年。激動のチリでカジェタノはパブロ・ネルーダと出会う。それがすべての始まりだった。

 

 

南米チリの作家ロベルト・アンプエロの私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公とするシリーズの第6作にあたるミステリ作品。

タイトルにもなっている“ネルーダ”とは、チリの詩人でノーベル賞作家のパブロ・ネルーダのこと。物語は、カジェタノが探偵稼業を始めるきっかけとなったパブロ・ネルーダまつわる事件について語られる。

カジェタノは、〈カフェ・デル・ポエタ〉のテーブルでコルタードとサンドイッチの食事をしながら、パブロ・ネルーダとのことを思い出していた。はじめて会った日のこと。彼の自宅を訪れたこと。そこでカジェタノは、ネルーダから人探しの依頼を受ける。相手の名前は、ドクトル・アンヘル・ブラカモンテ。ブラカモンテは医師で、癌患者の治療のための薬草を研究していた。

ネルーダの依頼を受けたカジェタノは、ブラモンテの行方を捜してメキシコへ飛ぶ。そして、そこからキューバ東ドイツボリビアと世界中を飛び回ることになっていく。

本書に描かれるのは、1973年のチリの激動の時代を背景とした物語だ。パブロ・ネルーダから依頼された人物の捜索を通じて、カジェタノはネルーダとの親交を深め、彼の人間としてのさまざまな面を知っていく。

まだ探偵としての活動はしていなかったカジェタノが、探偵業の基本を学ぶのがネルーダから渡された1冊の本、ジョルジュ・シムノン推理小説というのが面白い。カジェタノは、シムノンの小説を読み、そこに書かれていることから捜査について学んでいく。

メキシコでブラカモンテの行方を探すカジェタノは、彼がキューバにいるのではないかという情報を得る。彼にはベアトリスという妻があり、ティナという娘がいたことがわかる。そして、ベアトリスとティナが東ドイツにわたっていることを知る。東ドイツでティナの行方を突き止めたカジェタノは、彼女の自宅で入手した一枚の写真からベアトリスがボリビアにわたっていたことを知る。こうして、彼はチリ、メキシコ、キューバ東ドイツボリビアと旅を続けてながらネルーダの求める人物を探す。

カジェタノの人探しと並行して描かれるのがチリの社会情勢である。

当時、チリの大統領はサルバドール・アジェンデだった。ネルーダは大統領の要請を受けてフランス大使を務めていた。アジェンデ大統領時代のチリは社会主義国家であり、経済的には混迷した国だった。国民の不満が蓄積される中、1973年9月に軍事クーデターが起こってアジェンデ大統領は死亡し、ピノチェト軍事政権が誕生することになる。

そういう時代背景の中で物語は進んでいくのだが、そこには緊迫するチリの社会情勢の変化とパブロ・ネルーダというノーベル賞作家の女性遍歴が対照的に描かれている。本書は、「ジョシー」「マリア・アントニエタ」「デリア」「マティルデ」「トリニダード」という5つのパートで構成されている。ジョシー、マリア・アントニエタ、デリア、マティルデは、それぞれネルーダの恋人、最初の妻、二人目の妻、三人目の妻の名前である。(トリニダードについてはネタバレになる部分があるので割愛)

物語中に、ネルーダが彼女たちについて記したモノローグがある。これは著者による創作だが、カジェタノの人探しの物語とネルーダのモノローグがクロスすることで、読者はこの小説が単なるミステリではなく、パブロ・ネルーダというノーベル賞作家の人間的な一面を描き出そうとした伝記小説的な意味合いも含んでいると感じるだろう。

南米文学というとすぐに『マジックリアリズム小説』を思い浮かべてしまうし、チリの作家であれば、「精霊の家」のイサベル・アジェンデが思い浮かぶのだが、今回ミステリ小説である本書を読んでみて、当たり前のことなのだが南米の小説にも多様なジャンルの面白い作品があることを知った。

私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公とするシリーズは、本書翻訳刊行時点(2014年)でチリ本国では第7作まで刊行されていた。翻訳されているのは本書のみである。本書がカジェタノが探偵業を始めるきっかけの事件を描いているならば、他のシリーズ作品では、彼が探偵として成長し活躍している姿が描かれているに違いない。『はじめての海外文学』での紹介をきっかけにして本書が少しでも多くの人に読まれ、シリーズの他の作品が翻訳されるのを期待したい。