タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「春、死なん」紗倉まな/講談社-普遍的にあるのに避けがちな性をテーマにして人間の本質的な部分を見直す短編集

 

 

紗倉まな「春、死なん」は、人間の普遍的な欲求のひとつである性をテーマにした2編の短編が収録された短編集。表題作「春、死なん」は老人の性、「ははばなれ」は娘からみた母親の性を描いている。

70歳の富雄は、息子夫婦が建ててくれた二世帯住宅に暮らしている。6年前に妻の喜美代に先立たれ、今は同じ屋根の下に息子家族が暮らしていても、富雄は孤独である。そして、『傍目から見れば、富雄の七十歳の老体からはすでに抜け落ちたと思われているであろう性欲』は、若い頃と比べれば劣るがいまだに枯渇することなく、むしろ持て余すほどだ。そんな性欲を自慰行為でやり過ごす虚無感は、富雄を一層孤独にさせる。

「春、死なん」は、誰もがいずれ迎える老いと、老いてもなお枯れることはない性への欲求とのアンバランスさがもたらす心の不安を描いている。これまで、どこかで避けてやり過ごそうとしていた、あるいは存在しないふりをしていた老人の性をしっかりと描いている。

人は、誰かとつながっていることで孤独から逃れようとする。つながり方にはさまざまな形があり、必ずしもセックスを必要するわけではない。それでも、相手の肉体を求め合うことでつながりの深さを感じることもあるだろうし、セックスレスが互いの関係を希薄にする場合もある。深くつながりあっていた相手を失ったときの喪失感とそこから生まれる孤独感は計り知れないものがあるかもしれない。

「春、死なん」が描くのは老人の性だけではない。古くから暗黙の了解のごとく存在する家庭における男と女の役割とそこに見える違和感も描かれている。男として、女として、夫として、妻として、親として、子として、息子として、娘として、嫁として、さまざまに存在する“として”という暗黙のうちにレッテル貼りされた役割。その役割が安定して機能しているときは、誰もその違和感に気づかない。しかし、何かが少し変化して役割が不安定になったときに人は違和感を覚え、やがて不安を感じる。だが、その違和感や不安こそが実は本来の姿なのではないか。それを認めることで人は強くなれるのではないか。

“として”というレッテルが足かせになり、自由なようでいて実は不自由な生き方を私たちは強いられているのではないか。最後の場面を読み終えてふとそんな気持ちにさせられる作品だった。

「ははばなれ」は、娘の視点から母親の性を描く。

コヨリの母はあけすけな性格の女性だ。見た目とか体裁とかに頓着しないし、思ったことは無自覚に口に出してしまう人。母はコヨリを帝王切開で生んだが、そのことを当たり前のように受け入れて、あっけらかんと口に出すし、夫や息子に渋い顔をされても傷跡を隠さない水着を着る。そういう母だけど、墓参りから帰宅した家の前に立っていた不審な男を恋人と話したときは、コヨリも驚いた。しかも、母は彼がインポで悩んでいるという話までしてくるのだ。

あけすけな母親の性の告白がコヨリにとってショックなのは、母の性的な部分を知ったからというだけではない。コヨリは、夫との間に子どもができないことに悩んでいる。病院に行って検査を受けたりもしている。けれど夫はあまり問題意識を共有してくれていない。

「ははばなれ」という作品のポイントは、結婚、妊娠、出産という流れが当然であるかのように思っている私たちの認識が、当たり前ではないし、そのことについて男女で考えが噛み合わないもどかしさがあるということだと思う。それが、帝王切開の傷跡にまつわるエピソードだったり、コヨリの不妊のエピソードとして描かれている。これは、本作を読む人の性別だったり、置かれている立ち位置だったり、世代だったりで共感できたり、よくわからなかったりするところかもしれない。

本書は、老人の性、母親の性といった、あまり表立って語られることのないテーマが描かれているが、読んでみると性=セックスという話ではなく、性別、世代、夫婦、親子といった関係性や立ち位置の中で人間としての本質的な部分であったり、考え方や意識の乖離といった部分が存在することが描かれているのだと感じた。理解しているようで実際には何もできていない本質をしっかりと認識できた読書だった。

 

「ジョン・ウォーターズの地獄のアメリカ横断ヒッチハイク」ジョン・ウォーターズ/柳下毅一郎訳/国書刊行会-伝説のカルトムービー監督によるアメリカ横断ヒッチハイクの旅。最高のエンタメ作品なれど、下品な表現多目のためお食事中の読書はオススメしません

 

 

ボルチモアからサンフランシスコへ。カルト映画監督ジョン・ウォーターズは、66歳にしてアメリカを横断するヒッチハイクの旅を計画する。それを題材にした2篇の小説(フィクション)と現実のヒッチハイクの記録(ノンフィクション)で構成されるのが、本書「ジョン・ウォーターズの地獄のアメリカ横断ヒッチハイク」である。

まず、私も知らなかったので、最初にジョン・ウォーターズについて説明する。1946年生まれの映画監督で、代表作は「ピンク・フラミンゴ」。俳優としても活動していて、「チャイルド・プレイ」シリーズの一作にも出演している。作風は過激で下品。その悪趣味ぶりは代表作「ピンク・フラミンゴ」でいかんなく発揮されていて、公開当時は相当な物議を醸したようだ。本書を読むにあたって、この代表作である「ピンク・フラミンゴ」を観ておきたいと思ったのだが、ネットで作品情報を調べてみると想像を絶する内容だったので、きっぱり観るのは諦めた。幸い、私が利用しているNetflix等の配信サービスで「ピンク・フラミンゴ」を配信しているサイトは見つからなかったので、それも良かったと思う。どれだけ悪趣味な映画なのか知りたい場合は、作品名で検索してみてください。ただし自己責任でお願いします。

では本書の話だ。本書はジョン・ウォーターズが、ボルチモアの自宅からサンフランシスコのアパート(別宅)までヒッチハイクで横断しようと計画したことで始まる。そして、その旅の様子を本にして出版する契約を結ぶ。旅を前にしてジョン・ウォーターズの興奮はとまらない。と同時にさまざまな不安も錯綜する。そこで彼は、旅に出る前に、この旅で起こる最高の出来事と最悪のパターンを想像して小説として書こうと思い立つ。そして、現実の旅にチャレンジして無事に成功させ、その記録を書く。かくして本書は、ふたつのフィクション(「起こりうるかぎり最高のこと」、「起こりうるかぎり最悪のこと」)とひとつのノンフィクション(「本物の旅」)で構成されることとなった。

「起こりうるかぎり最高のこと」では、ヒッチハイク旅行のすべてが万事順調に進んだパターンが描かれる。天気は最高だし、ヒッチハイクも驚くほど順調で乗せてくれるドライバーはみんないい人ばかりだ。映画の次回作にポンとキャッシュで500万ドルを出資してくれる人(ただしマリファナの売人)、初期作品に出演してくれた女優との再会(ただし彼女は死んだはずでは?)旅のカーニバル一座と行動をともにし“刺青なし男”としてフリークショーに出演して観衆の面前で全裸にされ、挙げ句にナイフ投げの的にされたりもする。あれ、これ本当に“最高の旅”か? と思わないでもないが、ジョン・ウォーターズは終始楽しそうなので、彼にとってはこれが起こりうるかぎり最高のことなのだろう。なにしろ最後には素敵なお相手まで見つかるのだ。

「起こりうるかぎり最悪のこと」では、文字通り最悪なことが起きる。雨が降る中で親指を立てても泊まってくれる車はない。それどころか彼がジョン・ウォーターズだとわかると「カマ野郎!」だの「あんたの映画は大嫌い」だのと罵声を浴びせられる始末。ようやく捕まえたドライバーも泥酔したアル中野郎だったりして、ことごとくトラブルに巻き込まれる。空腹に耐えかねて腐りかけの弁当を食べたり(当然腹を下す)、カンザス州では違法セックスで逮捕されたりする。もう何がなんだかよくわからない災難が、次々とジョン・ウォーターズに襲いかかってくる。

こうして「最高のこと」と「最悪のこと」を妄想したうえで、いよいよ「本物の旅」が始まる。これは実際にジョン・ウォーターズボルチモアからサンフランシスコへヒッチハイクで旅した記録。ドキュメンタリーだ。現実のヒッチハイクが、「最高のこと」のように順調で楽しいものになったのか、「最悪のこと」のような絶望的な災難に見舞われることになったのか。サンフランシスコまでの長い道のりでジョン・ウォーターズが、彼の求める刺激を得ることができたかは「本物の旅」で明らかとなる。

あとがきで訳者が「訳しながら爆笑してしまった」と書いているように、本書は最初から最後までとにかく面白い。私も読んでいてお腹を抱えて笑ってしまう場面がたくさんあった。映画監督ということもあってか、どのシーンも映像が浮かんできて、ジョン・ウォーターズの喜怒哀楽がスクリーンに映し出されたかのように想像できた。ただ、その表現は下品で悪趣味なフレーズや下ネタのオンパレードでもある。それゆえ、読んでいて気分が悪くなる場面もあった。なので、グロかったり下品な描写が苦手な方は読むときは注意が必要だ。絶対に食事中に読んではいけない。閲覧注意である。

とまあ表現のグロさはあるものの、作品としては最高に楽しめるエンターテインメント小説であることは保証してもいい。賛否が分かれそうだけど。

「逃亡テレメトリー」マーサ・ウェルズ/中原尚哉訳/東京創元社-脅威評価値7%のブリザベーション・ステーションで発見された他殺体。事件の真相を解明するため弊機は捜査に乗り出す(渋々だけど)

 

 

「マーダーボット・ダイアリー」、「ネットワーク・エフェクト」に続く“弊機”シリーズ第3弾が早くも刊行された。今回は、ブリザベーション連合のステーション内で発見された他殺体を巡り、弊機がブリザベーション連合警備局とタッグを組み事件解明に取り組む。

ブリザベーション・ステーションのモール。3本の通路が交差するジャンクションは、死亡事故の起きる脅威評価はほとんどゼロの場所だ。なにより、ブリザベーション・ステーション自体、殺人事件の発生確率は7パーセントである。しかし、いま弊機とメンサー博士(ブリザベーション連合の指導者)、インダー上級警備局員の前に横たわっているのは、明らかに他殺体である。

本作「逃亡テレメトリー」は、こうして物語の幕を開ける。弊機は、メンサー博士の依頼によりステーション警備局と協力して事件の捜査にあたることとなるが、警備局の責任者であるインダー上級警備局員は、弊機を信頼しているわけではない。というか、そもそも人間たちは弊機を信頼していない。かつて暴走し大量殺戮事件を起こしたマーダーボットである弊機が、またいつ暴走を起こすかわからないし、警備局はそもそも弊機のステーション滞在には反対だったのだ。それでもメンサー博士は、弊機にも人格があるとし、警備局もいくつかの条件をつけて弊機がステーションに滞在することを認めた経緯がある。そこに今回の事件が起きたというわけだ。

こうして弊機は警備局とともに事件の捜査にあたることになる。だが、警備局側は協力的ではなく、平気もそれは想定済み。それでもいくつかの情報から被害者の身元や素性、足取りなどがわかってくる。そして、事件の背景にある事実が明らかになってくる。

SF濃度が高かった前作と比べると、本作はミステリー要素が強い。殺人事件があり、その捜査をアンドロイドと人間が互いに相手に不信感を抱きながらも協力して進めていくという構図は、先日読んだアイザック・アシモフ鋼鉄都市」を思い出させる。あちらは人間が主人公だったが、こちらは弊機が主人公だ。「鋼鉄都市」では、捜査を進めていく中で次第に互いを信頼する気持ちが生まれていき、最後には最強のバディが誕生していたが、本作でも、弊機の行動からインダーをはじめとする当初は弊機を信用していなかった人間たちが次第にその能力を認めるようになる流れがある。最終的に互いに認め合う関係になれたのかどうかは、実際に本を読んで確認してもらった方がいいだろう。まあ、相手は弊機だということを考えれば想像に難くないかもしれない。

ミステリーとしてもさまざまな要素が盛り込まれていて面白かった。弊機に言わせれば十分とは言えないまでも、ある程度しっかりした監視警備システムが構築されているステーション内で、誰に見られることも検知されることもなくどのようにして殺人が行われ、どのようにして死体がモールのジャンクションに運ばれたのか。被害者はなぜ殺されたのか。そしてなにより犯人は誰なのか。ラストに明かされる真相は、これまで本シリーズを読んできた愛読者としては、なるほどという感じだった。

本書には表題作でもある「逃亡テレメトリー」の他に、採掘場での任務エピソードを描く「義務」というショートーストーリーと、メンサー博士の視点で描かれる「ホーム-それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」の2篇が収録されている。「ホーム」の方は視点が弊機ではないというところで、これまでの作品は違う一面がみられると思う。

日本翻訳大賞受賞の効果もあってか、2021年10月に「ネットワーク・エフェクト」が刊行され、半年後の2022年4月に「逃亡テレメトリー」が刊行されと、怒涛の刊行ラッシュとなった「マーダーボット・ダイアリー」シリーズ。弊機に萌えた読者にとっては嬉しいことだ。このペースで次々と翻訳刊行というわけにはいかないだろうが、これからも確実に弊機の活躍する作品が翻訳されることを期待している。シリーズ作品の翻訳は、既刊本が売れなければ継続しなかったりするので、今後も弊機の物語を読み続けたいなら、シリーズ作品は絶対に購入しておかなければと思う。次の作品も絶対に買うぞ!

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「ネットワーク・エフェクト」マーサ・ウェルズ/中原尚哉訳/東京創元社-あの“弊機”が帰ってきた!シリーズ初の長編作品は、最後までスリリングな展開でワクワクしっぱなし!

 

 

本国ではSF作品に贈られるヒューゴー賞、ネヴュラ賞、ローカス賞の三冠(ヒューゴー賞ローカス賞については2年連続受賞)に輝き、シリーズ作品をまとめて翻訳刊行された前作で訳者の中原尚哉氏が第七回日本翻訳大賞を受賞した「マーダーボット・ダイアリー」。本書はシリーズ初長編となる作品で、ネヴュラ賞とローカス賞を受賞している。

前作でブリザベーション連合評議会議長メンサーの元にとどまることとなった“弊機”。本書ではメンサーの依頼を受け、ブリザベーション調査隊に同行して惑星調査に向かうことになる。調査隊にはメンサーの娘アメナも一員として加わっており、彼女の護衛も弊機の仕事だ。

事件は調査の帰路に起きた。当然現れた謎の船が接近してきたのだ。謎の敵船は調査隊の船に向けて攻撃を仕掛けてくる。弊機は調査隊を守るため敵船へのアクセスを試みるなかで、敵船がかつて交流したART(不愉快千万な調査船=アスホール・リサーチ・トランスポート)だと気づく。だが、今まさに調査隊を襲おうとしているARTは友人ARTではなかった。ARTはどうなってしまったのか。弊機たちは事態を収拾して無事にブリザベーション連合に帰還できるのか。

前作「マーダーボット・ダイアリー」の中でも登場し、弊機との舌戦を繰り広げつつも弊機をサポートして難局を乗り切ってきた盟友ARTの再登場にワクワクする読者も多いだろう。だが、今回ARTは弊機の知るARTではなくなっている。いや、ARTとしての存在が消されてしまっているのだ。弊機は、ARTを救い出すため奮闘することになる。そして、なぜARTが乗っ取られ調査隊が襲われたのか。何が目的で誰が動いているのか。最悪の事態を逃れるためにはどうしなければならないのか。そういった数々の難題に立ち向かうことになる。

弊機は、相変わらずの人間不信(人間嫌いと言った方がいいか)で、人間側からも完全には信用されていない(全員ではなく、信用している者もいれば、まったく信用していない者もいる)。そういう状況下にあって、警備ボットとしての役割を果たし、人間たちに対して憎まれ口を吐き出しながらも任務を全うしようとする。長編の連続ドラマの世界に没入することを唯一の癒やしとして、弊機はその身を危険に晒す。

前作で弊機に萌えた読者は、今回もその一挙手一投足にドキドキワクワクするだろう。長編ということで、前作と比べると途中でまだるっこしいと感じることもあるが、次から次と繰り出されるストーリー展開は読者を飽きさせない。

中盤以降、初期化され自分を取り戻したARTが加わり、弊機は事態の収拾のためにある作戦を実行する。その作戦内容と作戦決行からラストまでは、警備ボットを主役としているからこその展開と言えるだろう。まさか“弊機2.0”が登場するとは!

海外文学で、かつSFとなるとハードルが高いと感じられるかもしれないが、宇宙活劇的なエンタメ小説を読みたいと思っている人には、「マーダーボット・ダイアリー」シリーズはオススメの小説である。いきなり長編は無理そうと思ったならシリーズ第1作の「マーダーボット・ダイアリー」を読んでほしい。シリーズ3作目となる「逃亡テレメトリー」も刊行されていて、そちらはちょっと長めの中編というボリューム感で、内容もミステリーチックになっているので、より一層読みやすいし面白いと思う。

みんなで弊機に萌えようじゃないか!

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「掃除婦のための手引き書」ルシア・ベルリン/岸本佐知子訳/講談社-2019年に出た海外文学で一番の話題作。ようやく読みました。

 

 

2019年に翻訳刊行され、その年の海外文学の話題の中心となったルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」。2022年になって、文庫化され、新刊「すべての月、すべての年」が刊行されたということもあり、ようやく読んだ。

著者のルシア・ベルリンは、1936年に生まれ2004年に68歳で亡くなっている。父親が鉱山技師だったため幼少期は鉱山町を転々とし、父親が戦争に出征すると母親の実家のあるテキサス州エルパソで祖父母と暮らすようになる。祖父は歯科医だった。祖父、叔父、母がアルコール依存症という家庭環境で育ち、ルシア・ベルリン自身もアルコール依存症だった。3度の結婚と3度の離婚。シングルマザーとして4人の息子を育てながら様々な仕事をこなした。その中で小説を書き、アルコール依存症克服後には大学で教えるようにもなった。

ルシア・ベルリンの小説は、作家の人生で体験した出来事が色濃く反映されている。小説として書かれているすべての出来事がそうではないだろうが、ほぼ実体験を元にして書かれていると思う。

本書には24篇の短編が収録されていて、短い作品だと「わたしの騎手(ジョッキー)」は見開き2ページで完結するショートストーリーだ。先述したように、それぞれの作品が著者の体験を元にして書かれている。「わたしの騎手」は、救急救命室の看護師として働いていた経験から書かれた作品だし、他にも表題作は掃除婦として働いた経験を元にして書かれている。

24篇の短編は、どれも印象深い作品だが、個人的には「ドクターH.A.モイニハン」、「喪の仕事」、「さあ土曜日だ」に心を掴まれた。

「ドクターH.A.モイニハン」は、歯科医である祖父をモデルにした作品。とにかく鮮烈な印象を読者に与える作品だと思う。私も読んであっけにとられた。祖父はかなり腕のいい歯科医だったようだが、アルコール依存症であり、そういう意味ではかなりヤバそうな人物だが、そのヤバそうな印象を読者に突きつけるのが「ドクターH.A.モイニハン」なのである。抜歯のシーンは衝撃であり笑撃だ。

「喪の仕事」は、掃除婦としての経験にもとづく作品。不動産会社に雇われて住人が死んだ家の片付けをする中で出会ったある家族の姿を掃除婦の視点から描いていく。その家にひとりで暮らしていた父親が亡くなり遺品を整理しに来た姉と弟。ふたりの様子を伺いながら部屋の片付けをする掃除婦。遺された品々からふたりにとっての家族の思い出が掘り起こされる。淡々とした調子で書かれているからこそ、家族の死が心にもたらす作用がしみじみと感じられる。

「さあ土曜日だ」は、刑務所が舞台になっている作品。語り手であるおれは、刑務所でCDと出会い彼を読書に目覚めさせた。ふたりは刑務所の創作クラスで学ぶようになり、CDは創作の才能を伸ばしていく。創作クラスでは散文集を制作することになり、掲載する散文が足りないからと生徒たちに課題が出される。

「オーケイ、これで何をやってほしいかというと、長さが二、三ページで、最後に死体が出てくる話を書いてほしいの。ただし死体は直接出さない。死体が出ることを言ってもだめ。話の最後に、このあと死体が出ることが読者にわかるようにする。了解?」

「さあ土曜日だ」を最後まで読んで、この作品と作中で生徒たちに出されたこの課題との関係に気づくと、この物語がストンと胸に収まる感覚になった。こういうところがルシア・ベルリンの魅力なのだと思う。

24篇の作品の中には、あまり自分の感性とは響き合わないものもあった。最初の一編を読んだときは、もともと各所で絶賛されているという心理的なハードルもあってか、すぐには物語に入っていけなかった。だが、2篇目の「ドクターH.A.モイニハン」でググッと惹きつけられ、そこからは多少の上下動はあったが、どの作品も何かしらの発見があったり、印象を残すものだった。

ルシア・ベルリンは、「知る人ぞ知る」作家であったと著者略歴や訳者あとがきに書かれている。2015年にリディア・デイヴィスの序文(本書にも収録されている)を掲載した作品集が刊行されたことで再発見されることとなり、巡り巡ってその作品が翻訳され、私たちがこうして読むことができるようになった。そんな経緯も含めて、ルシア・ベルリンという作家とその作品は私たちに読書の楽しさ、面白さを与えてくれたと感じる。新刊「すべての月、すべての年」も読むのが楽しみになっている。

 

 

「サムデイ」デイヴィッド・レヴィサン/三辺律子訳/小峰書店-「エヴリデイ」の待望の続刊。Aとリアノンの恋の行く末は? Xの目的は? ラブストーリーだけじゃない。多様なストーリーが描かれる

 

 

毎日違う身体で目覚める“A”とAに恋したリアノンのもどかしく切ない恋を描いた前作「エヴリデイ」から4年、待望の続刊が翻訳された。Aとリアノンの関係や前作でAの前に現れたプール牧師の存在など、いろいろ気になる部分を多く残していた「エヴリデイ」のその後を描く。

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「エヴリデイ」のラストでひっそりとリアノンの前から姿を消したA。続編となる本書は、まずリアノンの視点から物語が始まる。

アレクサンダーという新しい彼氏はいても、いつかAが目の前に現れてくれるのを待っているリアノン。そんな彼女の前に現れたのは、Aに身体を利用された少年ネイサンだった。ネイサンは、Aに身体を利用されていたあの日何が起きていたのかを知りたかった。だから、手がかりとなるリアノンを探して会いに来たのだ。

リアノンとネイサンがAの消息を探す一方、同じようにAを探す存在があった。それが“X”だ。XはAと同じく他人の身体を借りて生きている。Aと違うのは、Aは毎日違う身体で目覚めるがXは宿主の身体にとどまりつづけられること。「エヴリデイ」で、プール牧師の身体を乗っ取り、Aの前に現れたX。そのときは強引に接触したためAに拒否されてしまった。次こそはAを手に入れなければならない。

純粋にAとの再会を望むリアノン。Aからあの日の真実を知りたいネイサン。Aを自分の仲間にしたいX。それぞれの思いの相手であるAは、リアノンへの愛を胸に抱えたまま、毎朝違う身体で目覚める日々を続けている。4人の世界線が再び交わるときは来るのか。それは幸せな世界線なのか、不穏な世界線なのか。「サムデイ」は、どこかにいつも不穏な感情を含みながら出来事を積み重ねていく。

プール牧師(X)と出会ったことでAは自分と同じように誰かの身体を借りて日々を生きる存在が他にもいることを知った。そして、Xから宿主の身体を完全に乗っ取ることができると知らされる。同じ身体にとどまりつづけることができればリアノンとの関係も変わる。だが、宿主を殺すことでもある。Aにはそれはできない。

Xという存在が登場したことで、物語は一気に不穏な空気をまとい始める。自分に適した宿主から身体を乗っ取り生きていこうとするXと、宿主の身体は宿主のものであり自分はその人生の中の1日を借りているだけだと考えるA。考えの異なるふたりは、本書の最後でリアノンやネイサンも巻き込んだ壮絶な戦いを繰り広げることになる。

Aとリアノンの関係がどうなっていくかも本書のポイントだ。読者としては、その行く末が気にかかる。前作のラストでリアノンの前から消えたAだが、リアノンもA自身も互いを完全に諦めることはできない。リアノンはどうにかしてAとの接点を取り戻したいと手を尽くす。そして、Aもリアノンの気持ちとなにより自分の気持ちに正直になっていく。ふたりは再会し、これからのふたりの関係をそれぞれに考える。ふたりが選んだ結果を読者はしっかりと受け止めてあげてほしい。

前作「エヴリデイ」を読んだとき、毎日違う身体で生きることで、男性や女性といった性別、白人や黒人といった人種、あるいはLGBTQといった様々なジェンダーが混在する人生を生きるAを主人公としたことが、ひとりの人間ひとつの性別ひとつの人種ではわかり得ない複雑な感情を読者に伝えてくれていると感じた。Aの視点からもそうだし、毎日違う見た目のAと会っているリアノンの視点からもそうだ。外見だけではわからない相手の内面をしっかりと思いやる気持ちが大切なのだと考えさせられた。

「サムデイ」には、AやXの他にもふたりのような存在が複数名登場する。匿名のチャットで自分の苦しみをつぶやくものがあれば、それに答えるものがいる。Aがリアノンに恋したように、出会い恋におちるものもいるし、Xのように宿主の身体を借り続け、その身体とともに人生を終わろうとしているものもいる。それぞれのエピソードを読みながら、人生は人の数だけがあるのだということを胸に刻んでおきたいと思った。

 

 

「NSA」アンドレアス・エシュバッハ/赤坂桃子訳/早川書房-インターネットと携帯電話が発達し、国民の情報がすべて監視される社会。それがもし第二次大戦中のドイツだったら? 戦慄のラストに震えが止まらない歴史改変SF

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※上下巻まとめてのレビューです

21世紀に生きる私たちは、当たり前のようにインターネットを利用し、パソコン、スマートフォンタブレットを使って、YoutubeTikTokをみたり、検索サイトで情報にアクセスしたりする。家族や友人、知人との繋がりもネットを介した通話やメールで行い、顔も知らない人たちとTwitterFacebookInstagramといったSNSで繋がり合う。こうしたネット上を行き交う個人情報を政府や企業は収集し、ビジネスに活用したり、人民統制に利用したりする。

もし、現代にあるような高度なインターネット環境が第二次世界大戦の時代に存在していたら。しかも、ナチスドイツに利用されていたら。そんな歴史のifを描くのがアンドレアス・エシュバッハの「NSA」である。文庫版ながら上下巻という大作。そこには、恐ろしい世界が記されている。

物語の背景を知るには、小説冒頭のページを一部引用しつつ説明するのが手っ取り早いだろう。(『』部分は引用)

『1851年、チャールズ・バベッジ卿が蒸気とパンチカードで動く「解析機関」を完成させ』たことで、情報の機械処理は進歩し、それにより他の技術も発展した。そして、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の時代には、ワードルネットの前身であるドイツネット』が誕生。ドイツネットは、第一次世界大戦で重要な役割を果たすが結果的にドイツは敗北する。時代がワイマール共和国に移ると、『大戦中に開発された携帯型電話が急速に普及』して、コミュニティメディアがさかんに利用されるようになる。これがナチ党の台頭に寄与することとなる。ヒトラーが政権を掌握後に新政府に引き継がれた国家保安局(NSA)は、ドイツ帝国時代からワールドネットの活動を監視し、個人口座の動き、アポイントメント、電子書簡、日記の書き込み、ドイツフォーラムでの発言など、ありとあらゆるデータにアクセスが可能だった』

ワールドネットはインターネット、コミュニティメディアはSNSやブログなどに置き換えるとイメージしやすいだろう。国民が受発信するすべての情報が、独裁政権によって完全に掌握された超監視社会を描くのが本書なのである。

この背景を踏まえて物語は進行していく。まず描かれるのは、NSAの存亡を賭けたあるデモンストレーションの場面。プレゼンの相手は親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーである。デモンストレーションの内容は、NSAが持つ情報から一世帯あたりで購入した食品の総カロリー数を算出し、それを世帯人数で割って一人あたりのカロリー数を求めるもの。これにより、平均的な一人あたりのカロリー数を上回る値を出した世帯には、届けられた以上の人間が生活しており、そこにユダヤ人が匿われている可能性があるのだ。そして、若干のトラブルはあったもののNSAの情報からアムステルダムに隠れ住んでいたユダヤ人が発見される。ヒムラーはこの結果に満足し、NSAはドイツを戦勝に導くための有効な組織として認められることになる。

このとき、ヒムラーへのデモンストレーションの現場には、本書の主人公となるふたりの人物がいた。ひとりはNSAのアナリストであるオイゲン・レトケ、もうひとりはプログラムニッターのヘレーネ・ボーデンカンプである。以降、物語はふたりの過去を描く形で、ふたりを中心に展開していく。その中で、レトケとヘレーネには、それぞれにNSAで働くことの意味と、背負ってきた秘密があることが記されていく。

ヒムラーへのデモンストレーションの場面、レトケはどうにかして結果を出そうと必死になり、ヘレーネは自分は作成したプログラムによって罪もないユダヤ人が隠れ家から見つけ出され、強制収容所送りになったことに恐怖する。この場面でのふたりの動きや不安の正体が、その先の物語の中で少しずつ形になり明かされていくところにこの作品の面白さがある。そして、レトケという男の歪な感情や粘質な復讐心であったり、へレームという女性の不安や女性ということで押し付けられることへの苛立ちや諦観といった、先進的な技術によって管理された社会に蔓延る古い価値観というアンバランスさも、21世紀の今にも通じるものがあり、そうした共感できる部分が物語をより身近な世界と結びつけて読ませるのかもしれない。

また、本書を読んでいる間にリアルタイムでロシアのウクライナ侵攻が起き、現代の戦争が情報戦であるということを再認識し、小説世界ほどではないかもしれないが、情報を制することが戦争の趨勢にも関与するのだということを再確認した。情報は、その利用方法、利用するものの倫理によって正義のためにも悪のためにもなる。ありとあらゆる情報が収集され管理されている社会だからこそ、情報が正しく使われているかを私たちは注意しなければならない。

レトケとヘレーネは、それぞれが抱える復讐心と秘密によって暗黙のうちに協力関係を結ぶことになる。そして、ふたりは偶然にアメリカの情報網から戦争の結末を大きく左右するかもしれない重大な情報を手に入れることになる。その情報がヒトラーに伝わり、ドイツの科学者が開発した最終兵器が使用されたとき、「NSA」で描かれる世界は、本格的なディストピアへの加速していく。

ラストシーンに描かれるレトケとヘレーネの運命。そこに多大なる恐怖を感じずにはいられない。そして、不安を感じずにはいられない。本書はSF小説だ。ここに描かれるのは、現実ではない世界だ。しかし、ここに描かれた世界がいつまでもフィクションのままだと自信をもって言っていられるのはいつまでだろうか。もしかすると、フィクションがリアルになる未来だってあるかもしれない。そこまで思わせる強烈なインパクトを与える作品だった。