タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「十五匹の犬」アンドレ・アレクシス/金原瑞人、田中亜希子訳/東宣出版-もし動物が人間の知性を持ったら、幸せなのか不幸なのか。15匹の犬たちの葛藤する姿を我が身に照らし、幸せとは何かを考える。

 

 

物語は、トロントにあるレストランバー〈ウィート・シーフ・タヴァーン〉のある夜の出来事から始まります。

レストランバーにあったのは、アポロンとヘルメスの姿。言わずと知れたギリシア神話に登場する神です。ふたりの神はそのレストランバーで、人々が神を崇める態度に酔いながら他愛もない会話に興じていました。そして、その流れである賭けをすることになります。それは、動物が人間の知性を持ったなら、その動物は幸せになるのか不幸になるのかというものでした。知性を与えられた動物が死ぬときに1匹でも幸せだったならヘルメスの勝ち、そうでなければアポロンの勝ち。こうして、酔った神々の戯れから、近くの動物病院に預けられていた15匹の犬に人間の知性が与えられることになります。

動物が人間のような知性を持っていたら、その動物たちは幸せなのか。アンドレ・アレクシス「十五匹の犬」が問いかけるのは、動物が人間同様の知性を持つことの幸不幸です。それは、知性を持つことが当たり前の人間に対する問いかけでもあります。この物語は、読者に対して「あなたは知性を持っていることに幸せを感じていますか?」という問いを投げかけているのです。

ふたりの神によって知性を与えられた15匹の犬たちは、それぞれに複雑な変化をみせていきます。ジョークを飛ばすようになったり、詩を吟ずるようになったり、徒党を組んで他の犬を痛めつけたり殺したりする連中もいれば、孤高の存在として生きる犬もいます。15匹の犬たちは、自らに与えられた知性に戸惑い、混乱します。知性を持ったことで、犬としての行動に疑問を感じたり、羞恥心を持ったりします。その一方で、元来の犬としての本能もあり、その相反する知性と本能に葛藤するようになります。

知性を持つことで生じる羞恥心や苦悩、様々な葛藤は、犬が人間の知性を持ったから生まれたものですが、それは私たち人間のひとりひとりが日常的に抱えているものでもあります。「十五匹の犬」に描かれる15匹の犬たちの姿は、そのまま私たち人間の姿でもあると言えるのではないでしょうか。犬たちの苦悩し葛藤する姿を見ることは、客観的に自分自身を見ることになっているように思います。他者を攻撃し自分の優位性を築こうとする者がいれば、ずる賢く世渡りする者もいる。15匹の犬たちが作り出す社会は、私たち人間社会の縮図でもあると読んでいて思うのです。

動物が知性を持ったら幸せなのか不幸なのか。ふたりの神が掲げる賭けのテーマは、私たち人間に対する問いかけでもあります。15匹の犬たちがたどる運命の物語を読んで、それぞれの犬たちの行動や苦悩、葛藤に我が身を重ねてみて、自分が幸せなのだろうかと自問する。それは、かなり哲学的であり、ある意味禅問答のようなものかもしれません。ですが、本書に登場する犬たちの中には、自分自身と近い存在の犬がいるかもしれません。

幸せ/不幸せの基準や定義は、明確に決まっているわけではありません。その人がどう感じているかという個人的な問題です。15匹の犬たちは、それぞれに知性を持った人生を過ごし、それぞれに最期の時を迎えます。客観的にみて、幸せだっただろうと感じさせる犬もいれば、不幸だったと感じさせる犬もいます。でも、それは読者という神視点での印象です。実際は幸せだったのかもしれないし、不幸だったのかもしれない。いずれにせよ、犬たちが少しでも幸せであればいいなと思うし、私自身も幸せでありたいなと思います。

 

「チビ犬ポンペイ冒険譚」フランシス・コヴェントリー/山本雅男、植月惠一郎、久保陽子訳/彩流社-夏目漱石「吾輩は猫である」のネタ本?とも言われる18世紀イギリス小説

 

 

明治の文豪夏目漱石が、デビュー作「吾輩は猫である」を発表したのは1905年になります。名前のない猫の一人称視点で飼い主である苦沙弥先生やその家族、門弟たちの姿をユーモラスに描くことで、当時の日本社会を風刺的に描き出す小説です。読んだことの有無に関わらず、そのタイトルを知らない者はほとんどいないのではないでしょうか。

その誰もが知る有名な作品のネタ本となる作品があったとしたら? 本書「チビ犬ポンペイ冒険譚」は、丸谷才一氏が「漱石は『猫』執筆にあたって本書を参考にしたに違いないと力説していた」と巻末の「訳者付言」で触れられているように、動物を主人公として当時の社会風俗描写や社会を風刺する作品となっているという点で「吾輩は猫である」でネタ本と言えるかもしれません。もちろん、それは憶測でしかなく、漱石自身が本書を読んだのか、参考にして作品を書いたのかはわかりません。可能性としてはありそう、という程度です。

「チビ犬ポンペイ冒険譚」は、そのタイトルどおりポンペイという小犬が主人公となってストーリーが展開する作品です。「猫」のようにポンペイ視点の一人称で語られるわけではありません。というか、ポンペイは言葉を発しません。物語は、ポンペイの生涯において彼に関わった人々の姿を描いているのです。

ポンペイは、1735年5月25日にイタリアのボローニャで生まれます。父は貴族に飼われていたジュリオ、母はその貴族が寵愛する高級娼婦に飼われていたフィリスです。ポンペイは、娼婦の客であった英国紳士に引き取られてイギリスへとわたります。そして、テンペスト夫人に引き取られることになります。

こうしてポンペイの人生(犬生)がスタートします。上流階級の家庭で何不自由なく生活する日々を過ごし、やがてちょっとした事故でテンペスト夫人とはぐれてしまうと、そこからは、商家の息子(親とは違って商売の才能はない放蕩家族)、ナルシストな近衛連隊の大尉、エールハウスの経営者の娘、盲目の乞食、旅籠の女将、シオドアとオーロラ姉妹といった具合に違う飼い主のもとを転々とすることになります。十分な富の下で自由気ままに愛される日々が続いたかと思えば、貧者の下で苦しい暮らしを送ることもありました。優しくされることもあれば暴力的に扱われることもある。実に波乱万丈な人生です。

ポンペイの人生を描く中で、18世紀のイギリスの風俗や社会風刺が描かれていきます。様々な階級、立場の飼い主のもとを転々とすることで、その階級、立場の人間がどのような生活を送っていたのか、彼らを巡る社会的な状況はどのようなものだったのかを描いているのです。

波乱万丈な人生を歩んだポンペイは、14歳でこの世を去ります。晩年のポンペイは、彼の所有権を巡る争いごとに巻き込まれるなど、最後まで波乱万丈の中に生きていましたが、その最期は御主人様の手厚い看病も受け、愛されたまま旅立ったのです。まあ、死後にも御主人様の深すぎる愛情に翻弄されるところはありましたが。

吾輩は猫である」のネタ本ではないか? という謳い文句に興味を惹かれて読み始めた本書ですが、途中からそんな話は関係なく、ポンペイの波乱万丈な人生と次々と巻き起こる出来事に惹きつけられて、最後まで楽しく読んでしまいました。ラストでポンペイが犬としては幸福な最期を迎えられたのもよかったです。犬好きとしては最後に犬が不幸になる終わり方は悲しいですからね。

本書を「吾輩は猫である」のネタ本だと感じるかどうかは読者次第でしょう。巻末の「訳者付言」でも、「そうした興味で本書を読まれる楽しみもあります」と書かれているとおりで、読んでみて、「このあたりは『猫』と似ているな」とか「『猫』のあの描写はこの本の影響があるかも」なんて考えながら読むのも楽しいと思います。

「親愛なる八本脚の友だち」シェルビー・ヴァン・ペルト/東野さやか訳/扶桑社-タコと人間の友情。設定は奇抜だけど、内容は傷ついた心の再生と家族のありかたを描くハートウォーミングストーリー

 

 

タコが高い知能を持っているという話を聞いたことがあります。試しにGoogleで〈タコの知能〉を検索してみると、実に様々なタコの知能の高さを示す雑学や事例がヒットします。

「親愛なる八本脚の友だち」の主人公は水族館で飼育されているミズダコです。名前はマーセラス。この水族館にとらわれてから1300日になります。ミズダコの寿命は平均で4年ほどなので、マーセラスの余命は残り160日ほどです。物語は、「とらわれの身の生活一二九九日め」というマーセラスのモノローグから始まります。

物語のもうひとりの主人公が、水族館の清掃員として働くトーヴァ・サリヴァンです。彼女は、ひとり息子を若くして亡くし、夫にも先立たれて、今は家族と過ごしてきた家でひとり暮らしています。友人関係には恵まれています。なじみのスーパーの店主イーサンは、どうやら彼女に気があるようです。

ある夜、いつものように水族館内の清掃作業をしていたトーヴァは、休憩室を掃除中にテーブルの下に濃いオレンジの物体が押し込まれているのを見つけます。置きっ放しのセーターかなにかと思ったそれは、水槽から抜け出していたミズダコ(マーセラス)でした。トーヴァは、テーブルの下でコードに絡まり動けなくなっているマーセラスを救ってやります。これが、トーヴァとマーセラスの出会いでした。

こうして、余命わずかなミズダコと老婦人との奇妙な交流がスタートします。よりファンタジー色が強めの作品であれば、ふたりは心で会話したりして物語が進んでいくのでしょうが、本書ではテレパシーで通じ合うといったような演出はありません。トーヴァは、マーセラスの脱走癖を知りつつもそれを見守り、マーセラスはその知性でトーヴァの言葉を理解し彼女が抱える孤独を癒やす。言葉ではコミュニケーションできないひとりと一匹ですが、どこか互いに理解し合っているというのが、トーヴァとマーセラスの関係なのです。

こうして人とタコとの奇妙な友人関係が始まります。ここに関わってくるのがキャメロン・キャスモアという若者です。バンドマンとしての夢を追い求めるもうまくいかず、仕事をしても長続きしない。キャメロンは完全なダメ人間です。子どもの頃に母親に捨てられ、父親が何者なのかもわからないという孤独も抱えています。そんな彼が、父親と思い込む人物に会うために車を走らせる途中でトーヴァの暮らす街にやってきます。そして、いくつかの偶然が重なり、水族館の清掃員として働くことになります。

キャメロン、トーヴァ、そしてマーセラス。ふたりと一匹が交わることで、物語は動き出します。マーセラスは、ふたりを観察し、あることに気づくのです。それは、複雑な家族の真実でした。

高い知能を持ったタコが、人間と交流して、物語が展開していく。設定だけみると奇抜な内容なのではと思ってしまいそうです。ですが、本書については、そのような奇抜さはありません。むしろ、ハートウォーミングで穏やかな物語になっています。若くしてひとり息子を亡くした孤独な老婦人と父親を知らず母親にも捨てられた孤独な若者。交わるはずのなかったふたりが偶然に出会い、さらにタコを介して互いの存在と関係を知っていく。本書は、心を痛めた人の再生の物語であり、家族について考える物語です。

残された命を使って、トーヴァに寄り添うマーセラスの姿には胸にこみ上げてくるものがあります。トーヴァとマーセラスの別れの場面。そして、すべてを受け入れたトーヴァとキャメロンの新しい人生の始まり。気持ちが殺伐としたときに心が癒やされる作品でした。

「成瀬は信じた道をいく」宮島未奈/新潮社-成瀬あかり再び!

 

 

前作「成瀬は天下を取りにいく」で読者に強烈なインパクトを与えたあの成瀬あかりが帰ってきました!

本書には5つの短編が収録されています。

ときめきっ子タイム
成瀬慶彦の憂鬱
やめたいクレーマー
コンビーフはうまい
探さないでください

前作と変わらず、成瀬は彼女に関わる人たちにいつの間にか影響を与えていきます。本人には、まったくそんな自覚はありません。タイトル通り、成瀬は成瀬の信じた道をいくだけです。そんな成瀬と接することで人々は自分の弱さと向き合い、彼女の自然体な姿に共鳴して自身を見直していくのです。

ゼゼカラ(成瀬と幼なじみの島崎で結成された漫才コンビ)の活動を目の当たりにして、ゼゼカラ推しとなった小学生のみらいは、学校のときめきっ子タイム(総合学習)のテーマにゼゼカラを調べて発表することになります。みらいは、推しの活動を調べることに張り切りますが、はじめは協力的と思っていた同じ班の友人が陰でコソコソと悪口を言っているのを知ってショックを受けます。それでも、成瀬や島崎と出会えたことでふたりから勇気をもらいます。

スーパーに行くと些細なことにクレームを入れたくなってしまう言実。でも、彼女はそんなクレーマーな自分を嫌悪し、やめたいと思っています。そんな彼女に、ある日成瀬が声をかけます。成瀬は、細かいことでもクレームを入れてくれる言実に、「いつもお客様の声を寄せてくれる熱心な人物だから」とスーパーでたびたび起きる万引き犯の発見に協力してほしいと頼みます。言実は拒否しますが、偶然万引きの現場を目撃してしまい…。

祖母、母と続けてびわ湖大津観光大使に選ばれ自身もその任に選ばれると信じるかれん。成瀬とともに観光大使に選ばれた彼女は、求められる役割をそつなくこなしていく中で、成瀬の言動に翻弄されていきます。ですが、成瀬と一緒に活動をしていく中で、成瀬に影響され、次第に彼女自身のうちなる本当の自分を表に出すことの大切さに気づいていきます。

前作「成瀬は天下を取りにいく」でもそうだったように、本書でも成瀬はただ成瀬として自然体で存在しています。それが、成瀬の当たり前であり、それが成瀬の魅力です。自然体でいるということは、簡単なようで実際にはとても難しい。他人からどう見られているかとか、こんなことを言って相手はどう感じるだろうかとか、私たちは多かれ少なかれ他者からの見られ方が感じられ方を気にして、自分を繕っていると思います。自分では自然に振る舞っているつもりでも、自然に振る舞うことを意識してしまう。それが当たり前なのだろうと思います。

だからこそ、成瀬のような人物に出会ったとき、彼女の嘘偽りのない自然体な言動に困惑し、不安になり、でも最後には感化される。本書に収録されている5つの短編でも、成瀬と出会った人たちは、それぞれに彼女から影響を受け、自分の生き方を見つめ直し、自分の気持ちに正直に向き合うようになっていきます。

本書で成瀬は高校生、そして大学生(京都大学!)になります。滋賀を離れることなく、びわ湖大津を世界に発信するべく日々を過ごす成瀬。いつの日か、本当に彼女がびわ湖大津の存在とその魅力を世界に轟かせるかもしれません。成瀬の未来はまだまだこれからです。今後どれだけ彼女の世界が広がっていくのか楽しみでなりません。

s-taka130922.hatenablog.com

「シャーロック・ホームズの護身術バリツ 英国紳士がたしなむ幻の武術」エドワード・W.バートン=ライト/田内志文訳/新見智士監修/平凡社-シャーロック・ホームズをライヘンバッハの滝から生還させた格闘技バリツ。そのもととなったとされる幻の武術バーティツの創始者による解説書

 

 

「崖っぷちから落ちかけたぼくたちは一瞬ふたりそろってよろめいたんだ。でもぼくは日本の格闘技であるバリツを少々かじっていて、何度もそれに救われたことがあってね。ぼくをつかんでいる手をするりとすり抜けると、教授はおそろしいような悲鳴をあげて何秒か足をばたつかせ、空をつかもうと両手を振りまわした。だけど必死の努力もむなしく、ついに崖から落ちてしまったのさ。崖っぷちから覗いて見たら、延々と落ちていく教授の姿が見えた。やがて岩にぶつかって跳ね返り、水しぶきを立てて滝つぼに落ちてしまったよ」

これは、本書「シャーロック・ホームズの護身術バリツ 英国紳士がたしなむ幻の武術」(以下長いので「バリツ」とします)の「監修者まえがき」および第1章扉裏にある「空き家の冒険」の引用です。1893年に発表された「最後の事件」で、宿敵モリアーティ教授と戦い、ライヘンバッハの滝でともに消息を絶ったとされていたシャーロック・ホームズですが、10年後の1903年に「空き家の冒険」で復活します。その中で、ホームズがライヘンバッハの滝で生還できたのが、彼が習得していた日本の武術バリツという武術でした。

ところで、ホームズの命を救った日本の格闘技バリツとはいったい何なのでしょうか。シャーロック・ホームズシリーズの作品を読んだことがある方の多くが、「バリツって何?」と思った経験があるのではないでしょうか。柔道でもなく、剣道でもなく、空手でも合気道でもない謎の武術バリツ。その謎めいた武術のもとになったと言われているのが「バーティツ」です。

本書は、「バーティツ」について解説した本になります。著者は、エドワード・ウィリアム・バートン=ライト。彼が日本で学んだ武術などをもとに生み出したのが「バーティツ」です。本書は、1899年から1900年にイギリスの「ピアソンズ・マガジン」に掲載された「バーティツ」の解説を全訳したものになります。

本書は、バーティツの技を使った護身術の解説書です。第1章、第2章では新しい護身術として、背後から羽交い締めにされた場合や上着の襟を掴まれた場合、殴りかかられた場合などのシチューエーションに応じた護身術について写真入りで詳細に説明しています。内容はとても実践的で、日本の柔術などがもとになっているからか、親近感を覚えます。見たことある、聞いたことあるような護身術がバーティツとして解説されている印象です。

第3章、第4章は杖を使った護身術の解説になっています。杖(ステッキ)を持ち歩いているシチュエーションというのは、日本人的にはなじみはありませんが、19世紀末から20世紀初頭のロンドンの街頭で、杖を手にした英国紳士同士が対決している様子を思い浮かべながら護身術の解説を読んでみるのも面白いかと思います。

第1章から第4章については、このように真面目な護身術(いくつかシチュエーション的に笑ってしまいそうなところもあるのですが)についての解説になっていますが、付録の「強い男に見せるには」は、ちょっと違った内容になっています。2本の指で男を制圧する、4人乗った椅子を持ち上げる、体を浮かせた状態でふたつの椅子の上に横になり胸に上に人を乗せるといった、びっくり人間大集合的な技が紹介されているのです。巻末の訳者あとがきによれば、この付録として書かれている技は、バーティツの魅力をアピールする広告的な役割と当時の芸人たちが披露していたパーラー・トリック(隠し芸)のネタばらしの意味合いもあったとのこと。バーティツ普及のためにいろいろな策を練っていたようです。

ホームズの命を救った護身術バリツのもととなったとされるバーティツですが、残念ながらほとんど普及することはなく数年でほぼ完全に閉鎖となってしまったのだそうです。「空き家の冒険」でホームズがバリツを使ったとされたときには、バーティツはすでに終了した武術でした。こうしたバーティツの創設から終了、その後の復活に至る経緯などは監修者である新見智士さんのまえがきやあとがきに詳しく記されています。

長く幻の武術となっていたバーティツですが、2002年になって世界各地の愛好家によるネットワークが発足し、バーティツ協会として活動するようになります。19世紀の護身術として“スチームパンク・マーシャルアーツ”と呼ばれることもあるようです。

120年以上前に消えた幻の武術が、こうして私たちの前に紹介され、また脚光を浴びる。シャーロック・ホームズのファンの人もそうでない人も、本書を読んでバーティツの魅力を見つけてみてください。

 

「化学の授業をはじめます。」ボニー・ガルマス/鈴木美朋訳・文藝春秋-「料理は化学です。化学とは変化です」。化学がエリザベスの運命を切り開く!

 

 

最近では、物理や科学、数学などの理系分野で学んだり活躍したりしている女性は珍しくありません。

ボニー・ガルマス「化学の授業をはじめます」の主人公エリザベス・ゾットも、優秀な研究者です。彼女の能力は、男性研究者をはるかに凌駕しています。彼女が所属する研究所でも、その能力はトップクラスといえます。

しかし、この物語の舞台は1960年前後のアメリカ。その時代、女性が理化学の研究分野で働くことは考えられないことでした。女性とは、結婚して子どもを生み、家庭を守るために存在するものという考え方が当たり前の時代だったのです。それだけ才能や知識を持っていても、女性ということだけでその才能は認められず、勤務するヘイスティングス研究所でエリザベスは、自分より能力の劣る研究者の実験助手という役割しか与えてもらえません。

男性優位の科学界で苦闘するエリザベスの唯一の味方となるのがキャルヴィン・エヴァンズです。エリザベスに負けず劣らぬ有能な化学者ですが、ちょっと変わり者であるがゆえに、性差など関係なく対等な研究者としてふたりは接近していきます。ですが、その関係も突然に終わりを告げ、エリザベスはまた研究所で孤立していきます。そして、妊娠が発覚したことで彼女は研究所を解雇されてしまうのです。

女性だから正規の研究者になれない。妊娠したから職場を解雇される。女性だからという理由で様々な圧力を受ける社会。物語の舞台となる時代的な背景があるとはいえ、ここまでの性差別社会には驚かされます。と同時に、ここまで露骨な形ではなくても、性差による様々な差別や格差、生きづらさは現代社会にも存在していることに気づかされます。

研究所を解雇され、無職のシングルマザーとなってしまったエリザベスですが、娘マデリンのお弁当を巡るある出来事をきっかけにテレビ局に勤めるウォルター・パインからテレビ番組の司会を任されることになります。それが〈午後六時に夕食を〉です。テレビ局側からは「セクシーに、男性の気を引く料理を教えろ」と衣装やスタジオセットが準備されますが、エリザベスはそれをことごとく無視し、自らの化学の知識を使って科学的に料理の解説をしていきます。これが視聴者に受け、〈午後六時に夕食を〉は大人気番組となるのです。エリザベスの存在が周囲の人々や番組の視聴者に影響を与え、変化していきます。しかし、人気司会者となったエリザベスをメディアが放っておくはずもなく、さらに番組内での発言によって、彼女を巡る状況は思わぬ方向へと進んでいくことになります。

本書は、男性優位社会で女性が働くことの難しさ、女性は家庭を守るものという凝り固まった意識が人々の中に根強かった時代と向き合い闘った主人公の姿を描く作品であり、テーマ的には重苦しいものだと思います。ですが、そのテーマをユーモラスな作風で描き出すことで、読みやすくて楽しめる作品に仕上がっていると思います。何より、主人公のエリザベスを始めとする登場人物たちのキャラクターがどれも魅力的です。エリザベスを支える側のキャルヴィンやハリエット・スローン、娘のマデリンに愛犬シックス=サーティー(彼の存在のなんと魅力的なことか!)、悪役であるヘイスティングス研究所のドナティ博士や人事部秘書のミス・フラスクさえも見事にその存在感を示しています。

500ページ超の長編小説ですが、最初から最後まで飽きさせることなく読み進めることのできる作品だと思います。内包されたテーマは深刻なものかもしれませんが、読んでしまえば深刻さよりも楽しさの方が断然上回るでしょう。最後には、スカッと胸のすく展開とホッと安堵して胸が熱くなる結末が待ち構えています。2024年を代表する海外文学作品になるんじゃないかなと思います。

「パリ警視庁迷宮捜査班魅惑の南仏殺人ツアー」ソフィー・エナフ/山本知子・山田文訳/早川書房-シリーズ第2弾。パリで起きた元警視正殺人事件と未解決事件をつなぐ20年前の銀行強盗事件。特別班がたどり着いた真実とは

 

 

“死神”、“疫病神”と呼ばれる警部補、人気小説家・脚本家として活躍する警部、アルコール依存症の警部にスピード狂の巡査部長、ギャンブル依存症の警部補。パンチドランカーになった元ボクサーでパソコンオタクの警部。そんなパリ警視庁内の曲者たちの寄せ集め集団を率いるのは、過剰防衛で無防備な犯人を射殺してしまい6ヶ月の停職処分となったアンヌ・カペスタン警視正。彼女が率いる特別班の活躍を描くシリーズの第2弾となるのが、「パリ警視庁迷宮捜査班魅惑の南仏殺人ツアー」です。

前作「パリ警視庁迷宮捜査班」では、この曲者たちの寄せ集め集団である特別班が、それぞれの個性を発揮し、ふたつの未解決事件をつなぐ謎を解明し、パリ警視庁内を震撼させる結末を導き出すという成果をあげました。ですが、その成果は特別班に対する評価にはつながりませんでした。むしろ、警察内の仲間の秘密を暴いた奴らというレッテルを貼られ、裏切り者扱いされてしまう有様です。特別班を率いるカペスタンとしては、どうすれば特別班の存在を認めてもらえるかに頭を悩ませる日々でした。

本作では、パリで起きた殺人事件の捜査に、特別班にもお声がかかります。司法警察局長ピュロンからの呼び出しを受けて現場に赴いたカペスタンは、この事件の捜査に自分たち特別班の他、刑事部と捜査介入部(BRI)も関わっていることを知ります。そして、特別班がなぜ呼ばれたのかも。

事件の被害者は、セルジェ・リュフュス。元パリ司法警察警視正だった人物。そして、アンヌ・カペスタンの元夫ポール・リュフュスの父、すなわちカペスタンの元義父にあたる人物だったのです。

刑事部、BRI、特別班による三つ巴の捜査がこうして始まります。特別班のメンバーは、捜査記録から同じ手口、同じ謎めいたギミックを用いた未解決の殺人事件にたどり着きます。リュフュス殺人事件とこれらの未解決事件を結びつける因縁とは何か。そこには、1992年に起きた銀行強盗事件がありました。被害者は、銀行強盗事件になんらかの形で関わりがあったのです。それは、カペスタンにとっては衝撃的な真実でした。

さて、パリ警視庁内の厄介者集団である特別班ですが、本作から新メンバーがひとり登場します。“ダルタニアン”と呼ばれているアンリ・サン=ロウ警部です。彼がなぜ“ダルタニアン”と呼ばれているのか。彼は、自分が王の銃士としてこの仕事をしていると思いこんでいて、中世の騎士の精神で行動します。そのため精神疾患を患っていると診断され、精神科病棟に入院していたのです。その“ダルタニアン”が退院し、特別班に加わることになります。

さらに、特別班には“2匹”の補助員も在籍しています。ロジエールの愛犬ピロットと、メルロのペットのネズミ(ラタフィア)です。この2匹、単なる特別班のマスコット的存在にとどまらない存在感を示しています。本作の中で、パリで開催された〈パリ・サンジェルマン〉と〈チェルシー〉のサッカーの試合に駆けつけたフーリガンたちの暴動を特別班が制御しようと奮闘した際には、ピロットもラタフィアもフーリガンたちの尻に噛みついて戦うのです。

シリーズ第1作となる前作を読んだときも思いましたが、本シリーズに登場する特別班のメンバーたちの個性は実にバラエティに富んでいます。テレビドラマ化に適した推理小説のための『ポラール・アン・セリー賞』を受賞しているということから見ても、本シリーズが、テレビドラマや映画などのメディア化向きの作品だと評価されているのがわかります。そのうちに、Netflixとかで配信されるかもしれません(ちょっと期待しています)。

20年前の銀行強盗事件によって結び付けられた3件の殺人事件。その結末は、カペスタンにとって苦しいものになったと言えるかもしれません。彼女が事件の捜査を通じて知った真実、そして元夫であり被害者の息子であるポールが、父の死によって知ってしまった真実。その悲しくて切ない真実は、作品が全体的にユーモラスになっているので、そのギャップでより一層胸苦しく感じられるものでした。

フランスでは、シリーズ第1作が15万部を超える人気となり、シリーズ第2作となる本書、さらにシリーズ第3作まで発表されていることが、前作「パリ警視庁迷宮捜査班」の訳者あとがきで記されていました。ぜひシリーズ第3作も翻訳刊行してほしいです。特別班の次なる活躍を読める日が来るのを期待しています。