タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「雌犬」ピラール・キンタナ/村岡直子訳/国書刊行会-重苦しい閉塞感が漂う中で描かれるのは、究極の母娘物語

 

 

物語は、コロンビアの太平洋岸にある寒村を舞台に描かれる。主人公はダマリスというもうすぐ40歳になる黒人女性。彼女にはロヘリオという旦那がいて、夫婦の間には子どもはいない。子どもを授かるために祈祷やさまざまな民間療法を試したが、結局彼女は妊娠できず、子どもは諦めざるを得なかった。

そのダマリスが、一匹の雌の子犬をもらい受けるところからストーリーが展開していく。彼女は、その雌犬を溺愛する。自分には生まれなかった子どもの身代わりであるかのように愛情をそそぐ。雌犬が暖かく過ごせるようにと自分のブラジャーの中に入れて、その柔らかい乳房で雌犬を優しく包んでやる。その溺愛ぶりに従妹のルスミラからは「あんた、触りすぎてその動物を殺しちゃうよ」とまで言われてしまう。

ダマリスにとって雌犬は、実の我が子同然の、いやきっとそれ以上の愛情をそそぐべき対象である。しかし、成長した雌犬はある日突然ジャングルの奥に消えてしまう。ダマリスは必死に幾日もジャングルを探し歩くが、雌犬はみつからない。やがて、彼女がその存在を諦めた頃に、雌犬はひょっこりと戻ってくる。痩せ細り泥だらけになった姿で。ダマリスはそれまで以上に雌犬を甘やかし溺愛する。だが、その愛情を知らぬかとごとく雌犬はまた姿を消す。ダマリスは、雌犬の動物的な行動に振り回されることになっていく。

「雌犬」が描くのは、まぎれもない母娘の愛憎の物語だ。母であるダマリスと娘である雌犬の関係は、ペットと飼い主などという関係などではない。動物のとしての本能もあり自由奔放に生きる娘(雌犬)と相手は犬であると頭では理解していても、まるで人間の、自分が腹を痛めて生み育てた実の娘であるかのように、ときに異常とも思える愛情と憎悪を抱えて接する母(ダマリス)。その姿は、物語の舞台となっているコロンビア太平洋岸の村という場所の閉塞感と、女は結婚したら跡継ぎとなる子どもを生み育てることが存在価値であり役割であるという古くからの因習とが相まって、息苦しくさえ感じさせる。

雌犬の奔放さに振り回されたダマリスは、やがてその愛情を失い、雌犬を他人に譲ることになる。しかし、雌犬は慣れ親しんだ我が家に気軽に里帰りするかのように、ダマリスの元に戻ってくる。ダマリスは、雌犬を追い払い、雌犬は愛しい母親からの厳しい仕打ちに驚く。ダマリスと雌犬は、戻っては追い払われの関係を繰り返すのだが、それにもやはり、“ペットと飼い主”ではなく“人間の母娘”の関係性を感じてしまう。そして、ラストに描かれるのはこの物語ならではの衝撃であり、一方でなるべくしてなったラストでもある。

ダマリスと雌犬の関係性に目がいきがちだが、脇を固める登場人物たちもふたりの物語にかかせない存在となっている。ダマリスの夫ロヘリオは、漁師兼猟師であり、冒頭で自分が飼っている犬が尻尾に傷を負い、そこが化膿して蛆がわいているのを見つけると躊躇なくその尻尾をぶった切るような粗野な男であるが、ダマリスと雌犬の関係は静観している。かといって放置しているわけではなく、時にアドバイス的なことをしたりフォローしたりすることもある。雌犬を溺愛するダマリスに、触りすぎて殺しちゃうと告げた従妹のルスミラもやや嫌味ったらしい部分もあったりするが、悪い人間ではない。その他の人物たちもいろいろと個性的な部分はあるが、悪人はほとんど存在しない。また、ダマリスには子どもの頃に目の前で友人が海にさらわれてしまい、その友人が発見されるまでの間、エリエセルおじから毎日ムチで打たれ続けるという経験をしていて、その経験が彼女の心にトラウマとなっている。

ロヘリオが犬の尻尾を躊躇なくぶった切る場面や少女期のダマリスがムチ打たれる場面など、粗暴さや陰湿さといった人間性であったり、土着性だったりが「雌犬」という作品の雰囲気を作る重要な事柄であり、物語に深みを与えているのだと感じた。

こうして書いてみると、「雌犬」は重くて読みにくそうな印象を与えてしまうかもしれない。しかし、ストーリーはテンポも良くて、文章も難しくないので、むしろ読みやすい方だと思う。逆に言えば、テンポよく読める文章だからこそ、読んでいる途中のふとした瞬間であったり、読み終わった後に作品を振り返ったときに感じる物語の奥深さだったり、重さが際立って感じられるのかもしれない。