タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「あふれる家」中島さなえ/朝日新聞出版-いつも誰かであふれている破天荒な家庭で育つ明日美のたくまして想像力豊かな毎日を描く自伝的長編。

 

 

主人公稲葉明日実(わたし)は小学4年生。もうすぐ夏休みになるというのに、母さんが事故で足を骨折し入院してしまう。

「ユタとハルねえがいないあいだ、明日実ちゃんをどうするのか」

「ユタ」は父さん、「ハルねえ」は母さんのニックネームだ。ハルねえが入院したことで、稲葉家にいる人たちはその問題を話し合う。何か問題が起きたときは、その場にいる人たちで解決するのが稲葉家のルールなのだ。

明日実は、父さんと母さんの3人家族だが、父さんはいつもどこかをうろついていて家にいない。だけど、家にはいつも人があふれている。父さんや母さんの友達や友達の友達とか、いろんな人が常に何人か家で寝泊まりしているからだ。ハルねえが入院したときは、バンドマンのトキオ、薬剤師のアキちゃん、前の日から泊まりに来たハイテンションな外国人二人組などが稲葉家にあふれていた。

中島さなえ「あふれる家」は、まったく普通じゃない破天荒な家庭に育つ小学生が主人公の作品である。中島さなえは、2004年に亡くなった中島らもの娘である。これまでに、「いちにち8ミリの。」、「ルシッドドリーム」などの小説作品やエッセイ集を刊行している。本書は、著者2作目の長編小説であり、はじめての自伝的小説である。

小説としてのデフォルメはあるとしても、本書に書かれる稲葉家は一般の常識(なにが“一般”なのかという話はあるが)からすれば、かなりブッ飛んだ家庭であることは間違いない。自伝的小説なので、モデルとなっているのは中島家となる。本書の稲葉家が、常に家族以外の人たちであふれかえり、ときにまったく見ず知らずの人たちが当たり前のように入れ代わり立ち代わり出入りしているように、中島家も、中島らもを慕ったり頼ったりしてたくさんの人たちがあふれていたのだろう。「中島らもの家なら、それも不思議じゃないな」と思う。

主人公の明日実は、この特殊な家庭に生まれ育ったため、家に両親以外の誰かが何人も出入りしたり寝泊まりしたりしていることが当たり前だと疑っていない。

わたしは小学校に上がるまで、どこの家も満員御礼で暮らしているのだと疑っていなかった。しかし、周りの人に話を聞いたり、テレビ番組を観たりしているうち、どうもうちは他と違って風変わりなのかもしれないと段々気がついてきた。他の人の家では、よく知らない大人たちに交じって、父さんと母さんがどこに寝ているかわからない、などということはないのだと。

小学生になって「どうも我が家は他とは違うらしい」と気づいたものの、だからといってこの家庭環境を嫌がるわけでもなく暮らしている。実にたくましい子どもだ。

小さいときからこういう環境で育った明日実は、たくましく、想像力の豊かな子どもだ。想像力というよりは妄想力か。明日実には、保育園の頃からちょっと油断するとすぐに妄想の世界に落ちてしまう癖がある。書道の時間に自分のサイン会のことを妄想したり、大好きな尾形先生と同じサーカス団の芸人になったりする。

稲葉家にあふれる人たちも変わった大人たちばかりだ。誰もが自由だし、誰もが何かしら闇を抱えている。まとも(なにをもって“まとも”とするかという話はあるが)な人は誰もいない。社会からはぐれてしまったような人が、吸い寄せられるように稲葉家に集まり、あふれているのである。だが、そんな彼らだからこそ、明日実のことに世話を焼くし、仲間が困っていれば協力して助け合う。血はつながっていなくてもそれ以上のつながりをみせる。

「自分もこんな家で暮らしたかった」などとは思わないし(思う人もいるかもしれない)、こういう家庭で生活していることを想像することも難しい。でも、現実に中島家は稲葉家のような家庭であったのだろうし、中島らもが人を惹き寄せる魅力をもった人だったのだということを「あふれる家」は物語っているのだと思う。

ところで、この本を読んでいることをツイッターとかで話すときに「作者の中島さなえさんは、中島らもの娘さんです」と話すと「中島らもの娘!」と驚かれる反応が多かった。中島らもが急逝して16年になるが、まだまだ中島らもという作家の存在が大きいのだなと感じた。

ちなみに、本書では最初の方で「父さんはたいていどこかをうろついていて家にはいない」とあるだけで、明日実の父ユタ(モデルは当然中島らも)は一切登場しない。ただ、カバー絵には中島らもを思わせる人物が描かれていて、そこでも存在感を表している。

これまで、中島さなえさんの小説作品はすべて読んで紹介してきた。『中島らもの娘』という部分が注目されがちだが、その作品はどれも魅力的で面白いものなので、もっと読まれてほしい作家のひとりである。

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「ジュディ・モードはごきげんななめ」メーガン・マクドナルド作、ピーター・レイノルズ絵/宮坂宏美訳/小峰書店-小学生のジュディと友だち、家族が繰り広げる元気で楽しい毎日!

 

 

『はじめての海外文学vol.5』で訳者の宮坂宏美さんが推薦している作品です。「ジュディ・モードとなかまたち」シリーズの第1巻になります。

主人公のジュディ・モードは、小学3年生です。物語は、夏休みが終わって新学期がはじまるという朝の場面からはじまります。いきなりジュディは“ふきげんモード”です。学校がはじまったら、毎日髪をとかさなきゃいけないし、勉強もしなきゃいけないからです。それに、新学期の席替えでフランク・パールのとなりになったらサイアクです。

ジュディがなによりいやなのは、友だちみんなが夏休みに手に入れたイケてる文字入りの新しいTシャツを着てくること。ジュディには、そんなTシャツはありません。だから自分で無地のシャツに大きなサメの絵を描いて、「あたしはサメを食べた」と書きました。

といった感じでこの物語ははじまります。主人公が最初から不機嫌になっているのが面白いですね。ジュディは、とにかく気分屋さんで、機嫌が良くなったり悪くなったり忙しいです。でも、小学生くらいの子どものときって、だいたいみんなジュディみたいだったんじゃないかなと思います。ちょっと気に入らないことがあったりすると、“きぎげんモード”になってお父さんやお母さんを困らせたりして。

ジュディたちが作る「自己紹介コラージュ」というのも、面白そうで楽しそうな宿題です。絵や文字や写真を使って自分をみんなに紹介するコラージュ作品を作ってくるというもの。想像力をかきたてる宿題だと思います。「自分ってどんな人なの?」とか、「家族はどんな人?」とか、「お気に入りのペットは?」とか、自分や自分の周りのことをちゃんと見て、それをどうやってみんなに伝えるかを考えるのって、むずかしいけれどワクワクしちゃいます。自分ならどんな「自己紹介コラージュ」を作るかな、と考えるのも面白いです。

ジュディもあれこれと考えて「自己紹介コラージュ」を作りあげますが、最後に弟のスティンクのせいである事件が起きます。お父さんがリカバリーしようとがんばりますが、ジュディの「自己紹介コラージュ」は大変なことに! でも、そんなピンチをジュディは機転を利かせて乗り切ります。

この本は、「ジュディ・モードとなかまたち」シリーズのはじまりとなる作品です。これからジュディと友だち、家族のお話が続いていきます。これからジュディやスティンク、ロジャー、フランクはどんな物語をみせてくれるのか。楽しみになる作品でした。

あ、それと、メーガン・マクドナルドが書くおはなしも楽しいですが、ピーター・レイノルズが描く挿し絵がまたいいんです。最後にドーンと見開きで描かれるジュディの「自己紹介コラージュ」は圧巻です。

 

「一角獣殺人事件」カーター・ディクスン/田中潤司訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第4巻。鋭い角で突かれた死体。嵐の中、閉ざされた城の中で起きる殺人事件。王道の本格探偵小説。

 

 

『世界探偵小説全集』の第4巻。最近では「アンリ・バンコラン」シリーズが東京創元社から和爾桃子さんの新訳で刊行されているジョン・ディクスン・カーがカータ・ディクスン名義で発表したヘンリーメリヴェール卿(H.M卿)シリーズの一冊。

事件の語り手となるのは、元英国情報部員のケンウッド・ブレイク。休暇でパリを訪れていた彼は、カフェで情報部門のイヴリン・チェインと出会う。彼女は、ある任務に同行する情報部門と合流することになっていたのだが、ブレイクをその情報部門と勘違いしてしまった。だが、ブレイクは彼女の勘違いを訂正せず、さらに訂正するタイミングも逸してしまい、結果として事件に巻き込まれることになる。

イヴリンの任務は、オルレアンにある『盲人館』というホテルへ向かうことだった。理由は不明だが、ジョージ・ラムズデン卿が『一角獣』をロンドンに運ぶからで、フラマンドがそれを狙っているのだという。フラマンドは、フランス政府が何年も追いかけ回している怪盗で、フラマンド逮捕に執念を燃やすフランス警視庁のガスケ主任警部との決闘が話題となっているらしい。

勘違いされたままイヴリンと『盲人館』へ向かうブレイクだったが、途中でトラブルに遭遇して立ち往生してしまう。そこに、彼らを追いかけてきたH.Mが合流し、さらに故障で不時着した飛行機に乗っていたジョージ・ラムズデン卿たちも合流する。移動手段を失い途方に暮れる彼らは、ロアール河の畔に建つ『島の城』で一夜を明かすことになる。やがて、嵐のため『島の城』へ通じる橋が崩落し、一行は城主であるダンドリュー伯爵たちともども孤立した城に閉じ込められる。その閉ざされた場所で殺人事件が起きる。

本書は、ミステリー小説にあまり詳しくないので、ジョン・ディクスン・カー作品は読んだことがない。ただ、カーの作品の多くが翻訳されていて、作品に出てくる数々の密室トリックが有名なことは知っている。

「一角獣殺人事件」は、カータ・ディクスン名義で発表された作品だが、前述のとおりカー名義の作品も未読なので、翻訳されている彼の作品の中で本書は初読みということになる。内容は、“王道”と言ってよいのだろう、外部との交通、通信手段が失われて閉ざされた場所に集まったメンバーの中で殺人事件が発生し、居合わせた名探偵がその謎を解明するというミステリー。

本作のアクセントとなるのは、フランスを賑わす怪盗フラマンドと、フラマンド逮捕に執念を燃やすガスケ主任警部の存在だ。フランスを舞台にして、怪盗と怪盗逮捕に執念を燃やす警部といえば、いやでもアルセーヌ・ルパンとガニマール警部を連想する。私的には、ルパン三世と銭形警部の方がピンとくる。

外部との連絡手段を絶たれたメンバーの中にフラマンドとガスケもいるはずだが、彼らは変装の名人であり、誰もがフラマンドでありガスケでありえる。読者にとっては、語り手であるブレイクも疑惑の人物になるし、女性だからといってイヴリンがフラマンドやガスケの変装した姿ではないとも言い切れない。

フラマンドとガスケの対決という流れの中で、殺人事件は起きる。しかも、殺人を犯したあと犯人はこつ然と姿を消してしまうのだ。事件の瞬間は何人かの人物に目撃されており、逃走経路と思われる複数のルートには常に誰かがいて、彼らに姿を見られることなく現場を脱出することはできない。しかも、被害者は鋭い角のようなもので突き殺されていたが、その凶器が何かもわからず発見すらされていない。まさに不可能犯罪なのである。

この不可能犯罪の謎を解き、フラマンド逮捕に貢献するのが、H.Mことヘンリーメリヴェール卿である。H.Mは、アンリ・バンコラン、ギデオン・フェルと並ぶジョン・ディクスン・カー作品の探偵役らしい(Wikipediaでみた)。本作を読んだ印象として、H.Mは、“がさつなオジさん”という人物像が思い浮かぶ。大声でがなり散らすようにしゃべり、服装も少しだらしない感じなのだが、そのことを特に気にしているわけではない。ただ、外見はがさつでも頭脳は明晰で鋭い観察力を持ち、事件を解決に導いていくという感じだ。

探偵役のH.Mをはじめ、ケンウッド・ブレイクやジョージ・ラムズデン卿など主要なメンバーのキャラクター像がユニークに描かれていて、読んでいて楽しい。巻末に収録されている森英俊氏の解説では、密室研究所の著者でカーの大ファンというロバート・エイディー氏が、「『一角獣殺人事件』がカーのベスト本でないことはたしか」と評していることを紹介している(ただし、「妙に愛着を覚える作品」とも評している)。なるほど、他の作品と比較すると少し見劣りする作品になるのだろう。それでも、私のように初読みの読者からすれば、それなりに楽しい作品であったことは間違いない。

これまで読んできた『世界探偵小説全集』作品と同様、本書も刊行から25年が経過し新刊書店ではほぼ入手不可だと思う。東京創元社から文庫も出ているが(文庫版タイトル「一角獣の殺人」)、こちらも入手困難かと思うので、読んでみたい場合は図書館で借りてください。

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「ジュリアンはマーメイド」ジェシカ・ラブ 絵・文/横山和江訳/サウザンブックス-マーメイドに憧れるジュリアンにおばあちゃんがくれた最高のプレゼント

 

 

「あのね、おばあちゃん。ぼくもマーメイドなんだ」

プールからの帰り道、ジュリアンはマーメイドの姿をしたおねえさんたちと出会います。ジュリアンはマーメイドが大好きです。きれいなおねえさんたち見て、自分がマーメイドになった姿を想像します。

家に帰ったジュリアンは、あることを思いつきます。家にあるいろいろな物をつかってマーメイドになってみたのです。でも、その姿をおばあちゃんに見られてしまいます。きれいなマーメイドに変身したつもりのジュリアンを、おばあちゃんはあるところに連れ出します。そこでジュリアンを待っていたのは?

「ジュリアンはマーメイド」は、クラウドファンディングで支援を募り、さまざまなジャンルの海外作品を翻訳出版する『サウザンブックス』のプロジェクトで刊行された作品です。

主人公のジュリアンは男の子ですがマーメイドが大好きで憧れています。きれいに着飾ってマーメイド姿になったおねえさんたちに会って、自分もマーメイドになりたいと思います。自分がマーメイドになった姿を想像します。彼の想像の世界を描いた一連の絵が、彼のマーメイドに対する憧れを素敵に表現しています。

家に帰ったジュリアンは、おばあちゃんがシャワーを浴びている間に、カーテンや花で身を飾ってマーメイドになります。その姿を見たおばあちゃんは、ジュリアンを叱ったりせず、彼を連れてあるところへ向かいます。

自分の孫が、部屋のカーテンやら花やらを身体中にまとい、勝手に化粧品まで使っているのをみたら、たいていの場合その子を叱りつけるところです。でも、ジュリアンのおばあちゃんは、ちょっと不機嫌そうな顔はするものの、叱りつけたりはせず、マーメイド姿の彼を連れて出かけます。そこは、マーメイドやいろいろな海の生き物に扮した人たちが集まるパレード会場でした。ジュリアンのおばあちゃんは、孫の気持ちを汲み取って、パレードに連れていってくれたのです。

「ジュリアンはマーメイド」は、LGBTQをテーマとする絵本です。本書のクラウドファンディングサイトにある「作品の背景と魅力」では加えてこう書かれています。

本作の主要テーマはLGBTQであるとともに、ジェンダーにとらわれない、自分の気持を大切にすることが描かれています。

男の子のジュリアンがマーメイドになりたいと思う気持ちを、おばあちゃんは怒ったり悲しんだりせず、むしろ当たり前のように受け入れます。ジュリアンがマーメイド姿になっているのを見つけたときのおばあちゃんは、少し不機嫌そうな表情をしているので、もしかすると少しは怒りたい気持ちもあったのかもしれません。でも、ジュリアンを大切に思っているから、彼の気持ちを察してパレードに連れて行ってくれたのでしょう。

おばあちゃんがジュリアンを連れて行ったパレードは、ニューヨークのコニーアイランドで毎年6月に開催される『マーメイド・パレード』のことです。ネットで検索してみると、1983年からスタートして今年(2020年)で38回目になるパレードで、夏の大人気イベントなのだとか。2020年の開催は新型コロナの影響もあって開催するか未定のようですが、昨年(2019年)のパレードの様子はネット記事で見ることができます。参加者のコスチュームがどれも個性的です。それと、マーメイドということで露出度も高いですね。

途中にも書きましたが、本書はクラウドファンディングによる支援で翻訳刊行されました。私も支援したひとりです。私の選んだのは「書籍+出版記念イベントにご招待!」というコース。出版記念イベントでは、ドラァグクイーンによる本書の読み聞かせがあるそうです。今この状況ではすぐに開催とはいかないでしょうが、いつかコロナが落ち着いてイベントが開催されるのを楽しみにしています。(イベントの様子を「365bookdays」でレポートできたらいいなぁ)

 

「ロボット・イン・ザ・スクール」デボラ・インストール/松原葉子訳/小学館-「何で僕には学校がないの?」(タング、学校へ行くの巻)

 

 

ある日突然庭にあらわれたぽんこつロボット『タング』を中心に、ベンとエイミーのチェンバーズ夫妻が、ひとり娘のボニー、前作「ロボット・イン・ザ・ハウス」でチェンバーズ家の一員となった卵型ロボットのジャスミンを巡って奮闘するシリーズの第3弾。今回は、学校問題、教育問題にベンたちが翻弄される。

「何で僕には学校がないの?」玄関のドアが閉まるや否や、タングが尋ねてきた。
いずれそう言い出す気はしていた。

娘のボニーがプレスクールに通い始めた頃から、ベンはタングが自分も学校に行きたいと言い出すだろうと思っていた。前2作を読んできた読者にも、ベンの気持ちはよくわかる。なにしろタングは、いろいろなことに興味を示すお年頃なのだ。ボニーが毎日通っている学校に興味を持たないわけがない。

一方で、ベンとエイミーは娘ボニーの様子にも気をもんでいた。ボニーは学校でのことをあまり話してくれない。友だちのことも、イアンという男の子がいることしかわからない。プレスクールのときは、スタッフからは「打ち解けるのに時間のかかる子」だけど「学校にあがればきっと変わる」と言われたが、学校にあがってからも学校で何があったか話そうとしなかった。

はじめての保護者面談で担任のフィンチ先生からボニーの学校での様子を聞いたベンとエイミーは、タングが学校に通うことが、ボニーが学校になじむ助けになるのではないかと考える。校長先生との面談の結果、タングは学校に通うこととなり、一躍クラスの人気者になってしまう。だが、ボニーの状況にはほとんど変化はなかった。

ボニーとタングが学校に通う一方で、ジャスミンにも変化が生じる。彼女はオンラインの読書会に参加するようになり、やがてオフラインでの読書会に参加したいと言い出す。タングと違って分別のあるジャスミンだが、顔の見えないオンライン上はともかく直接他のメンバーと会うとなると、彼女がロボットであることが問題になるのではないか。ベンは、付き添いとして読書会に同行するのだが、そこで事件が起きてしまう。

「ロボット・イン・ザ・~」のシリーズは、人間社会に高度な能力を有するロボットが普通に共存している社会を描くSFな設定の小説だが、物語の中心となるのは育児、家庭、教育といった私たちの身近にある問題だ。ボニーを育てるだけでも大変なのに、タングやジャスミンも自分の子ども、自分の家族として受け入れ、真正面から問題に取り組み解決策を模索するベンとエイミーの奮闘ぶりは、ボニーやタングと同じくらいの子どもの育児に追われている親たちには共感できるところがたくさんあるはずだ。

本作では『学校』がテーマの中心にあるが、もっと大きく『社会との関わり』がテーマになっていると思う。親にとっても子どもにとっても、保育園や幼稚園、小学校にあがることは、それまで家庭内にとどまっていた人間関係に他者が加わってくることでもある。友だちとの関係、先生との関係を上手に築ける子どももいれば、なかなか社会になじめない子どももいる。ボニーとタングは、そのそれぞれを具現化したキャラクターであり、ベンとエイミーがその問題にどう取り組んでいくかは、堅苦しい育児書を読むよりも参考になるのではないだろうか。

本書のラストでチェンバーズ家は、ふたつの大きな決断をする。ひとつはボニーの学校問題に関するホームエデュケーションという決断、もうひとつはジャスミンについての決断だ。ネタバレになるので詳しくは書かないが、とても大きな決断とだけ言っておきたい。ホームエデュケーションについては、訳者あとがきに解説されているので、そちらもぜひ。

そして、最後の最後に待ち受けていた最大級の出来事。これは次回に何かまた大きな展開が待ち受けていることを予感させる。チェンバーズ家の奮闘はまだまだ続きそうだ。

 

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「ルシッドドリーム」中島さなえ/講談社-「これは夢だ」と自覚して見る夢“ルシッド・ドリーム”でつながる4つの短編たち

 

 

“ルシッド・ドリーム”とは、自らで「これは夢だ」と自覚して見る夢のことであり、“明晰夢”とも言われる。本書は、そのルシッド・ドリームを題材とした様々な人間模様の描かれる連作短編集である。

八丁堀の駅近くで開催されるルシッド・ドリーム・スクール(LDS)。そこに集う人々を主人公とする4篇が収録された連作短編集である。それぞれの人生が巧みに連携し合ってひとつの物語になっている。

大学を卒業して鉄道会社に入社した小路は、乗務員試験に落ち続け、いまだに駅員として乗客からの理不尽なクレーム応対に明け暮れる生活を送っている。偶然受け取ったチラシでLDSを知り、ルシッド・ドリームの魅力に取りつかれた彼は、夢をコントロールすることに魅せられる。だが、同棲していた恋人を失ったことで初めて現実世界での彼女の存在の大きさに気づく(ゆらゆら)。

天才歌舞伎役者苑若の息子として幼い頃から舞台に立ってきた一之助は、中学生になって次第に舞台に立つことに疑問を感じるようになる。ヘヴィメタルに夢中になった彼は、ロックドラマーになりたいと考え始めるが、学校と歌舞伎の稽古、舞台をこなす毎日の中ではドラムの練習もままならい。思うようにいかないことに苛立つ一之助は、友人からルシッド・ドリームの話を聞き、せめて夢の中で夢をかなえようと、夢のコントロールを実践するが、そのことを父に知られ、激しく叱責されてしまう。喧嘩して家を飛び出した一之助だが、実は両親は自分のためにいろいろ考えてくれていたことや、父のことを誤解していたことを知り、意識が変わる(奈落の赤獅子)。

ネットの世界でしか自分を出すことができずリアル世界では誰とも交流できないひきこもりの由理は、オンラインゲームの世界でノアと名乗り絶大な人気を誇っていた。ノアは、“RYUKA”という恋人とのラブラブな毎日をブログで報告する。もちろんそれは由理の妄想であり、RYUKAは空想の産物だ。由理はLDSに通い、夢をコントロールする術を身につけると、夢の中で理想の恋人RYUKAとの生活を実現させる。しかし、近所の新築工事現場でRYUKAとそっくりの青年を見つけたことで、由理の中に迷いが生じ始める。由理は、リアル世界での恋愛を実現したいと青年に告白するが、そのことで自らのリアルを逆に突きつけられ、現実を知ってしまうのだった(Written by RYUKA)。

父に連れられて行った温泉宿でみたマジックに魅せられ、マジシャンになったファイアー高橋は、有名になり、多額のギャラを手に入れ、結婚をする。幸せと思われた生活だったが、彼自身の放蕩癖が災いして家庭は崩壊し、仕事も次第に減っていく。人生を完全に転げ落ち、老ホームレスになり下がった彼は、定期的にLDSの教室に通っていた。講義終了直前の15分間だけの参加なら受講料はとられない。彼は、いつもその時間になると教室に現れ、講師の姿を見つめる。講師は、彼の成長した息子だった。マジシャンは、息子にマジックを見せるという一世一代の舞台に立つことを決めるのだが……(折れた魔法の杖)。

4つの短編はそれぞれに主人公の人生を描きながら、どことなく相互につながっている。ルシッド・ドリームというあまり聞き覚えのない事柄を題材にして、ファンタジックな世界観を構築している構成は、どことなく著者の父中島らもの世界観に通じる部分もあるように思える。中でも、第4短編の「折れた魔法の杖」に描かれる父親としてのマジシャンの姿は、著者から見た父中島らもが投影されている部分があるのではないだろうか。

前作「いちにち8ミリの。」に続いて上梓された本書。前作の書評にも書いたかもしれないが、読者はどうしても中島らもと比較してしまうものだ。だが、前作、そして本作といずれも読者をしっかりととらえるだけの確固とした世界観が築かれていたように思う。“中島らもの娘”という冠が取れるにはまだ時間は必要かもしれないが、早晩それも取り払われる時が来るだろう。実は秘かに直木賞とか狙える逸材なのではないか、そんな気もしている。

 

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「放課後にシスター」中島さなえ/祥伝社-星海女学院の生徒たちに代々語り継がれる『シスター峰事件』とは?

 

 

中学生、高校生くらいの頃、学校に代々語り継がれてきた噂話があったという人は多いだろうか。夜中になると自殺した生徒の霊が出るといった怪談話もあれば、◯◯年の卒業生が在学中に先生と駆け落ちしたみたいな話もあるかもしれない。

「放課後にシスター」は、とあるミッション系の中高一貫女学校に代々受け継がれている『シスター峰』に関わる噂話の真相を探ろうとする物語だ。

星海女学院には30年以上にわたって語り継がれてきた噂話がある。それは、ひとりのシスターが突然に姿を消したという話だ。『シスター峰事件』と呼ばれる噂話は、代々で微妙に変化しながら受け継がれて、それぞれのストーリーができあがっている。真相ははっきりしていない。本書では、その噂話の真相を探ろうとする高校生たちが主人公となる。

『シスター峰事件』は、この学院に通う卒業生、在校生の間では知らぬもののない話だ。しかし、その真相は完全に藪の中であり、根も葉もない噂話としてそれぞれが好き勝手に話を作っているのが現状である。

かつて、この学院に在学していた『わたし』は、教師として再び学院に戻ることになる。そして、感謝祭前のあの日に先輩や後輩、友達と交わした『シスター峰の失踪事件にまつわる謎解き』のことを思い出す。好き勝手な噂話ばかりが飛び交うシスター峰の失踪だったが、わたしたちは次第にその真相に近づいていく。古い卒業アルバムで顔を黒く塗りつぶされていたシスター峰。なぜか歌われなくなったシスター峰の作った讃美歌。修道院の中で封印された部屋として存在していたシスター峰の居室とそこに残されていた謎のメモ。伊豆にある系列校の学院長がシスター峰の失踪について何かを知っているという話。そういった断片を少しずつ積み重ねて、わたしたちはシスター峰の事件の真相に行きあたる。

女子校というある種の閉鎖空間では様々な噂話が飛び交い、様々な解釈が飛び交う。そういう空気感が本書から感じられる。

シスター峰の存在そのものは、最後まで本書は明らかにしない。噂話から始まって、ある真相に行きつくまで、シスター峰の存在は誰かの口伝でのみ語られる対象でしかない。肝心の登場人物を実体として最後まで作中に登場させず、他の登場人物の証言でのみ浮き上がらせるという趣向の作品となっている。

シスター峰の存在は、物語のアクセントでしかなく、それほど重要なポジションではない。シスター峰を巡って繰り広げられる少女たちの言動や行動、それを後押しする好奇心、そして思春期特有の焦燥感が本書のポイントなのだと思う。

 

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