タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集」福井県立図書館/講談社-利用者さんの覚え違いやうろ覚えのタイトル。あなたはいくつわかりますか?

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100万回死ぬには100回生きなきゃね



 

 

『「100万回死んだねこ」ありますか?』
『小説で、「おい桐島、お前部活やめるのか?」みたいなタイトルだったと思うんだけど…』
カフカの「ヘンタイ」を借りたいんですが』

『はじめに「覚え違いタイトル集」、始めました』の冒頭に記されているこの3つの問い合わせは、まだまだ序の口だと本書を読んでいくとわかる。

本書は、福井県立図書館のホームページにあるコンテンツ「覚え違いタイトル集」から選りすぐりの覚え違いタイトルを書籍化したものだ。冒頭にあげたようなわかりやすい覚え違いやうろ覚えだけでなく、

ハリー・ポッターの書いたうさぎの本ありますか?』

という一体何の本を探しているのか皆目見当がつかない問い合わせもある。これわかる人いますか? 私は全然わからなかったです。答えが気になる方は本書を買って読んでもらうか、福井県立図書館のホームページで検索してみてほしい。

そもそも本書というか「覚え違いタイトル集」のWebコンテンツが作られ公開されるようになったのは、図書館のレファレンスサービスをもっとアピールする方法はないかというのがきっかけだったということが「はじめに」に書かれている。図書館のレファレンスサービスとは、ざっくり言ってしまうと利用者が探している本であったり、求めている情報を収蔵されている膨大な本の中から司書が探し出して提供するサービスである。私はあまり利用したことはないが、図書館にとってはある意味一番の肝であり売りとなるサービスではないだろうか。

福井県立図書館では、レファレンスカウンターに寄せられた問い合わせをデータとして記録していて、前述したホームページ用のコンテンツを探していたときにその面白さに改めて気づいて公開することにした。コンテンツ公開後は、福井県立図書館だけでなく、他の図書館や書店での覚え違い事例も寄せられるようになったという。

おしい!
それはタイヘン!
気持ちはわかるけど……
ん?
なんかまざってます!
なんかコワいっす……
よくわかりましたね!
お名前がちょっと……

という8つのカテゴリに分類して、ぜんぶで90の覚え違いが掲載されている。本の構成として、見開き左のページに問い合わせの内容、ページをめくったところにレファレンスの回答となっていて、読者が「これは何の本を探しているのだろう?」と考えながら読めるのも楽しい。読書好き、本好きの人には「何の本を探しているのでしょうか?」クイズ的に読むのも面白いだろう。

全編通じてとにかく楽しい面白い本だが、それだけではなく、図書館のレファレンスサービスが持つ役割であったり、図書館司書の知識や調査力といった専門職ならではスキルの高さを知らしめる内容にもなっている。本書の最後には、「レファレンスとは」「司書の仕事とは」について記した章もある。

最近は、図書館の運営や司書の雇用についてさまざまな課題が取り沙汰されている。中には、図書館業務を軽く見ている運営会社もあるように感じる。しかし、図書館の仕事は単に本を貸し借りするだけではない。むしろ、そういう業務こそが全体のほんの一部であり、本書にあるレファレンスのような専門性を求められる業務こそが、図書館に求められることなのだ。

本書を読んで、お腹がよじれるほど笑った後は、図書館の存在意義、図書館司書の存在意義を考えてみるのもいいかもしれない。

「カレーライフ」竹内真/集英社-5人のいとこたちが子どもの頃に交わした約束。王道の成長小説であり、読むとカレーが食べたくなる飯テロ小説

 

 

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「カレーライフ」と「カレーライス」

カレーライスが好きだ。おそらく、ほとんどの人が好きな料理のトップ3にあげるに違いない。もちろん嫌いという人もいるだろう。ちなみに私の亡くなった父はカレーライスが嫌いで、カレーの日は父だけ別の料理を食べていた。

竹内真「カレーライフ」は、みんな大好きカレーライスをめぐる物語だ。だが、ただ「カレー大好き」「カレー美味しい」という物語ではない。

ケンスケ、サトル、ワタル、ヒカリ、コジロウの5人はいとこ同士、毎年夏になると親戚たちが祖父の家に集まり、そこで祖父特製のカレーライスを食べるのが楽しみだった。そんな祖父が突然亡くなってしまう。その葬儀の席で、5人のいとこたちは「いつかカレー屋をやろう」と約束する。場所は祖父が営んでいた洋食屋。そこは、5人が毎年祖父のカレーを食べた思い出の場所だった。

子どもの頃に交わした子ども同士の他愛ない約束。そんな話はすぐに忘れられてしまうはずだし、事実、物語の語り部であるケンスケも忘れていた話だった。だが、ケンスケの父が子どもたちの約束を覚えていたことで、ケンイチは他のいとこたちを探し、カレー屋開業に向けて動き出すことになる。

ストーリーは、ケンスケがいとこたちを順番に訪ね歩き、カレー屋を開業するために動くというカレー屋を開くというのが基本となっていて、そこにケンスケたちの祖父の過去の秘密にまつわる謎解きのような話が盛り込まれていく。ケンスケが富士山麓アメリカのバーモント州、インド、沖縄と4人のいとこたちの消息を求め、また祖父のカレーの味や過去の秘密を解明するために旅を重ね、成長していく展開は、ロールプレイングゲームのようでもあり、手に汗握る冒険の旅というわけではないが、読んでいてワクワクする。

5人のいとこたちもそれぞれにキャラ付けがされていて、主人公となるケンスケはやや優柔不断で頼りないが、最初に仲間に加わりサポート役となるワタルは常にポジティブな愛されキャラのムードメーカーだし、年長のヒカリはしっかり者のお姉さん的な存在。ワタルの双子の兄サトルもヒカリ同様しっかり者であり、探究心の旺盛なキャラクターだ。もうひとり、最後に仲間に加わるコジロウは、他のいとこたちとは違う孤独を背負っていて、それも物語の中ではケンスケたちが探し求める祖父の秘密の解明に関わってくる。

ところどころ出来すぎで都合のいいストーリー展開だなと感じるところがあるし、単行本460ページで二段組という大長編で長いとも感じる。読んでいて中弛みを感じたところもあった。著者にとっては、小説すばる新人賞受賞後初めてとなる書き下ろし長編ということで、書きたいエピソードが次々と湧き上がったのだろうか。全部詰め込んでやれという感じで書かれたのかもしれない。

途中でそういう感じを受けたものの、終盤からラストのいとこたちが集まり、祖父の過去に隠されたある秘密が明らかになっていく展開は一気読みしてしまう面白さがあったし、なによりケンスケたちが自分たちのカレー屋で提供する祖父のカレーの味を探求し再現しているプロセスは面白かった。とにかく読んでいてカレーが食べたくなる。お腹が空いているときに読むと大変なことになるから気をつけたほうがいい。

この本は、自宅の本棚の奥に長年眠っていた単行本で、刊行は2001年だから20年前の作品になる。新しい本が出るとついつい買い込んでしまい、読むスピードが全然追いつかないまま本棚の奥や部屋の隅で積ん読になってしまう本たち。何年も積ん読放置したままの本は処分してしまうべきかとも思うが、10年20年経って、ふと目に留まり読んでみると面白い作品だったりする。本を買うのも積んでおくのもやめられない理由はそういうことなのだと、またひとつ言い訳を重ねてみたりする。

 

「いぬなんてだいきらい」ジョアン・L・ノドセット作/クロスビー・ボンサル絵/いしいしんじ訳-“だいきらい”だけど“だいすき”!

 

 

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いぬなんてだいきらい

ジミーのお誕生日にジョーズおじさんからプレゼントが届きました。ムクムクした毛並みの犬です。犬は一目散にジミーに駆け寄ります。

「あっちいけよ、シッシッ、ぼくはいぬなんかだいきらいなんだ」

大きいのも小さいのも犬はだいきらいだとジミーはいいます。でも犬はお構いなしにジミーにじゃれつきます。棒をくわえて「遊んで!」とおねだり。ジミーは「向こうへいっちゃえ!」と投げます。そのあとも犬ははしゃいでじゃれつき、ジミーは追い払うの繰り返し。でも、「きらい」を連発しながらもジミーはなんだか楽しそうです。「だいきらい」だけど、本当は「だいすき」なのかな?

「いぬなんてだいきらい」は、もちろん子ども向けの絵本です。小さい子どもに読み聞かせてあげると楽しそう。ジミーと犬のやりとりをみていたら、きっと犬が欲しくなっちゃうと思うな。

訳者は作家のいしいしんじさん。こんな言葉をよせています。

どくしゃのみなさんへ
だいきらい、だいすき、
どっちもだいじなきもちだね。
きみの「すききらい」をたいせつに。

誰でも「きらい」という気持ちになることがあります。なんできらいになるんだろうと考えてみることも大切だと思います。もしかしたら、きらいと思い込んでいるだけで本当はすきなのかもしれません。そういうことって、大人もちゃんと考える必要がありますね。考えて考えて、最終的にやっぱりきらいってなるかもしれないけど、それも間違いじゃない。狭い考えで決めつけるようなことはしちゃいけないってこと。

このおはなしで、最後にジミーと犬がどうなったのか。なかよくなれるといいですね。

 

「時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた」和田靜香/左右社-なぜ私たちはこれほどに生きづらいのか。少しでも疑問に感じたら国会議員に聞いてみよう!

 

 

政治に無関心でいられなくなった。いや、無関心でいてはいけないと思うようになったという方が正しいかもしれない。

きっかけはコロナだ。幸いにして私はコロナ禍でも比較的安定して仕事のある職業で、正社員として働けている。しかし、だからこそ世の中で困っている人たちに目を向けていかなければいけないと思う。

この本は、フリーライターとして活動する著者が、コロナ禍で自らが置かれた苦しい立場に疑問を感じ、この疑問の答えを求めて国会議員を訪ねて話を聞いた記録である。

フリーライターとして仕事をしているとは言っても、それだけで食べていくことはできず、コンビニやレストランなどさまざまなバイトを経験してきた和田さん。そのバイト代は常に最低賃金だった。そこへコロナがきた。非正規で働く多くの人、とりわけ女性が働く場所を失った。和田さんも例外ではなく、バイト先を解雇される。コロナ禍で人々が苦境に立つ中で、政府は何をしてくれたのか。アベノマスクという本人以外周囲の側近たちですらつけようとしないスカスカの布マスクを数百億円もかけて配り、苦境にいる国民への現金給付も渋々といった感じで10万円支給したがそれっきり。世界には国民にきちんと視線を向けて寄り添ってくれるリーダーがいるのに、なぜこの国のリーダーは、この国に暮らす人々の間に分断を作ろうとしているのか。

あらゆる疑問の答えを求めて、和田さんはひとりの国会議員を訪ねる。立憲民主党小川淳也さんだ。小川さんは2003年に総務省をやめて地元香川1区から当時の民主党候補として立候補。そのときは落選したが、2005年の総選挙で当選し、以降衆議院議員として5期をつとめている。小川さんのはじめての選挙から密着したドキュメンタリー映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」(大島新監督)が2020年に公開されて話題になった。私も本書を読んで小川さんの真摯に問題と向き合う姿勢に好感を持ち、Netflixで配信されている映画をみた。その映画からも小川さんという人間が真っ当な人だということが伝わってきた。小川さんのような人だから、和田さんとも真剣に向き合って答えてくれたのだろうと思う。もし、和田さんが面会を求めた相手が自民党の議員だったら、これほど真剣に相手をしてくれただろうか。いや、そもそも会ってくれただろうか。

和田さんは小川さんに、自分が感じているさまざまな疑問、これまでに経験してきたことから感じた疑問をぶつけていく。感情がどうしても先に立ってしまう和田さんは、ときに激昂し、納得のゆく答えを求めて小川さんに詰め寄ったりする。だが、小川さんは感情的になる和田さんに理解を示しつつも、冷静に、そしてわかりやすい言葉で疑問に対する自分の考えを説明していく。

「政治家の説明責任」という言葉が壊れたテープレコーダーのように日々のニュースで繰り返される。統計データを偽装したり、公文書を改ざんしたり、友人に便宜を図ったとの疑いをかけられたり、利害関係者から利益供与を受けたとの疑惑をかけられたり、数え切れないほどの問題を次々と引き起こしても何ひとつとして説明せず、それでいてあたかも説明責任は果たしたかのように権力を誇示し続けるのが政治家だと思っていた。しかし、本書で和田さんと真剣に対峙している小川さんは違っていた。きちんと政治家として向き合い説明する責任を放棄していなかった。

和田さんが小川さんにぶつける疑問は、コロナ禍での苦しさばかりではない。少子高齢化の問題、税金の問題、社会保障や福祉の問題、環境問題、エネルギー問題、そして政治の問題。これまでそうした問題を私を含め多くの人は、漠然とは不安に感じつつも放置してきた。和田さんは必死に勉強をし、小川さんの言葉を理解しようと努力する。懇切丁寧に説明してくれる小川さんもすごいが、それに応えるために勉強する和田さんもすごいと思った。

ただ、本書にも書いてあるが、小川さんの考えが100%正しいわけではない。本書を読んで、むしろ小川さんに反感を抱く人は多いだろう。納得する人もいれば不満に思う人もいる。肯定する人もいれば否定する人もいる。考え方はひとりひとり違うのが当たり前で、そうした中で自分と考えが一番近い人を選ぶのが選挙なんだと思う。

本書を読んでいたときは、ちょうど自民党の総裁選挙が真っ盛りで、メディアは連日4人の総裁候補を追いかけ続けていた。そして、このレビューを書いているいま、新しい総理大臣のもと衆議院選挙が行われることが決まっている。その選挙では、よく考えて自分の一票を投じたい。その一票は決して無駄ではないと信じている。

「赤い魚の夫婦」ダアダルーペ・ネッテル/宇野和美訳/現代書館-魚、ゴキブリ、猫、菌類、そして蛇。生き物の存在が醸し出す不穏さや不気味さ、あるいはユーモア。メキシコの女性作家による珠玉の短編集。

 

 

「短編集だし、1日1篇くらいのペースで読んでいこう」、そう考えていたのだが、気づいたら一気に読んでしまっていた。そのくらい面白い。

グアダルーペ・ネッテル「赤い魚の夫婦」は、表題作を含む5篇が収録された短編集。著者はメキシコの女性作家で本書が日本初翻訳となる作家である。

表題作の「赤い魚の夫婦」は、ある夫婦の姿を妻側の語りで描くストーリー。妊娠、出産、育児と女性が社会でキャリアを継続していくことに対するハードルの高さなど、現代社会で誰もが感じている理不尽さが描かれる。そして、その理不尽さをある意味象徴しているのが夫婦が飼っているベラという観賞魚だ。出産育児という逃れられない日々の中で次第に崩れ行く夫婦の関係が、オスメスつがいで飼育されているベラの姿と絶妙に重なっていく構図が怖くもあり切なくもある。単なる女性の生き辛さを描いた作品とは違った世界が感じられる。

読んでいて一番、いろいろな意味で怖さを感じたのは「菌類」だった。「わたしが子どものころ、母の足の爪に菌がいた」という一文から始まる物語。母は自らに寄生するこの菌を嫌悪するが、わたしはなぜか菌を守ってやりたいと感じる。そして月日は流れ、成長したわたしは音楽家として世界で仕事をするようになり、結婚もして平穏に暮らしていた。そこに現れたラヴァルという男性。わたしはいつしかラヴァルと関係を持つようになる。

「菌類」は、お互いに家庭を持ちながら惹かれ合う男女の物語としてのストーリーを有しているが、そこに不穏な存在感を見せてくるのが菌である。冒頭で母親の足に寄生した菌(水虫のことか?)を「守ってやりたい」と感じたわたしは、ラヴァルとの関係の中で「守ってやりたい」という感情をこじらせていっているように思う。歪んだ愛情とでもいうのだろうか、終盤の異様な質感が読んでいてゾワゾワと胸奥をまさぐってくるような気分になる。

他にも、ゴキブリが出てくる「ゴミ箱の中の戦争」、猫が出てくる「牝猫」、蛇が出てくる「北京の蛇」と、どの作品にも人間のある種あたりまえにある日常や誰しもが経験しそうなことや感情を描く中で、生き物たちの存在が、ある場面では不穏さや不気味さを醸し出し、ある場面では象徴性を表している。「北京の蛇」は、蛇に託された父親の哀切に胸をグッと締めつけられるような気がした。

海外文学を読んでいると、世界には本当にたくさんの魅力的な作家がいるのだと感じる。グアダルーペ・ネッテルは本書が初翻訳作品になるが、訳者あとがきや著者略歴を読むと他にも面白そうな作品を発表している。ぜひ他の作品も読んでみたい。

 

「芝木好子小説集 新しい日々」芝木好子/書肆汽水域-物語の中に巧妙に仕込まれた本質が表出したときにゾワッとした気持ちになる珠玉の短編集

 

 

横田創「落としもの」多田尋子「体温」太田靖久「ののの」と注目すべき作品を毎年出版している書肆汽水域が、今年刊行したのは芝木好子の短編集だった。

芝木好子は、1914年生まれで1941年下期の芥川賞(第14回)を「青果の市」で受賞した作家。1991年に亡くなっていて今年(2021年)は没後30年にあたる。命日は8月25日で、本書「芝木好子小説集 新しい日々」の発行日も同じ8月25日になっている。

本書は、芝木好子が発表した短編のうち花にちなんだ作品を集めた小説集である。今回も書肆汽水域の北田博充さんからご献本をいただいた。ありがとうございます。

収録されているのは次の8篇。

新しい日々
脚光
白萩
晩秋
冬の梅
遠い青春
老妓の涙
十九歳

表題作の「新しい日々」は染色工房が舞台。工房の主人が百合という若い娘を連れて帰ってくるところから話が始まる。なにやら訳ありな様子ながら工房の仕事に興味をもって取り組む百合と、彼女の図案のデザインセンスに驚きそして女性としても好ましく感じている工房の息子夏雄、さらには職人の雄次という青年も登場し、話は男女の恋愛模様や家族との確執などに進展するかと思わせるが、ラストは意外なほどに、まるで穏やかに押し寄せてきた波がそのまま穏やかに引いていくように終焉を迎える。

こう書いてしまうと退屈な小説のように思われるかもしれないが、収録された小説のひとつひとつには、ちょっとした表現に怖さを感じさせる巧みさがある。

「脚光」は、ある建築家の家で家政婦として働く女性からみた家族の姿が描かれる。オペラのプリマドンナとしての栄光を諦められず、我が子も家庭も省みることなく性懲りもない夢を追い続けるおくさまを、家政婦は冷ややかにみつめている。おくさまが家を出ていったとき、彼女はこう感じる。

おくさまのいないこの家の生活は、私とは不似合いな、不調和な、無縁のものにすぎない。私にとってはおくさまの在ることが、私の生きるあかしであった。私は闘ったり、つくしたり、たのしんだり、心配したりした。私はそこに仮託して生きた張りのある日々を忘れないだろう。

この場面を読んだときにゾワッとした。それまでに読んできた物語の中に描かれてきたこと、そしてその深淵に巧妙に見え隠れしていたものが、ここで解き放たれたのだと感じた。

こうした巧妙に仕組まれた物語の本質が、ある場面でスッと姿を表してくる。8篇の小説たちには、必ずどこかにそういう巧妙さが仕込まれている。だからこそ、どの作品も読者はしっかりと向き合って読む必要があると感じた。

芥川賞作家という経歴を持ちながら、没後30年、失礼ながら存在が薄れていた作家芝木好子。私自身、書肆汽水域からこの「芝木好子小説集 新しい日々」が刊行されなければ、もしかしたらこの先もずっとこの作家の存在も作品の豊穣さも知らないままでいたかもしれない。

最後に本書の装幀の話。本書には4種類の装幀がある。オリーブ、コルク、ボルドー、インディゴ。瑞々しさを感じさせるものから、円熟の渋みを感じさせるものまで揃っている。「梅田 蔦屋書店」のWebサイトが一番じっくりと書影を確認できるので、ぜひアクセスして見てみてください。どれも素敵で手に取りたくなります。

store.tsite.jp

 

「“いのち”のすくいかた 捨てられた子犬、クウちゃんからのメッセージ」児玉小枝/集英社みらい文庫-“殺される命”を“救われる命”にするために私たちができることはなにかを考えるきっかけとなる本

 

 

環境省が公開している統計資料「犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況」の最新データ(対象期間:2019年4月1日~2020年3月31日)によると、全国の動物愛護センターなどの行政施設に引き取られた犬猫の数は85,897匹(内訳は、犬:32,555匹、猫:53,342匹)に及び、そのうちの11,119匹は飼い主に返還され、41,948匹は別の飼い主に譲渡されているが、残りの32,743匹は殺処分されている。

www.env.go.jp

同じページに参考としてあがっている平成16年度の引き取り数が418,413匹でそのうちの394,799匹が殺処分となっているデータからみると20年弱で殺処分数は10分の1以下に激減していて、自治体の動物愛護センターや民間の保護団体の殺処分ゼロに向けた取り組みが成果をあげていると言えるが、それでも3万匹の犬猫が殺処分されているという現実に心が痛む。

「“いのち”のすくいかた 捨てられた子犬、クウちゃんからのメッセージ」は、生後2ヶ月で捨てられ収容施設に入れられた子犬が譲渡会を通じて新しい飼い主に家族として迎え入れられ、幸せを掴む姿を追ったドキュメンタリー。そして、クウちゃんのように新しい飼い主のもとへ引き取られる犬がいる一方で殺処分される犬や猫たちがいることも記されている。

環境省のデータに話を戻すと、施設に引き取られた犬猫たちの中で幼齢(まだ離乳していない子ども)の子犬、子猫の数は41,581匹あり、そのうち殺処分された数は19,227匹となっている。およそ半数の子犬、子猫が殺処分されているということになる。

本書でもまず、施設に引き取られた犬猫たちの多くが殺処分されているという現実が読者に示される。施設に収容された犬猫たちは、冷たい檻の中に閉じ込められ、飼い主が引き取りに来るか、新しい飼い主が見つからなければ殺処分になる。ガス室でもがき苦しみながら殺される。そんな運命をただ待つだけの犬猫たちの写真が、本書のページには並んでいる。春や秋の出産シーズンには、生まれたばかりの子犬や子猫を段ボールやキャリーバッグに入れた人たちが引き取りを求めて施設にやってくる。産まれても育てられない。譲渡先も探せない。すべて飼い主たちの都合だ。引き取られた子たちがたどるのが、殺処分という結末かもしれないということを考えてほしい。

ペットが子犬や子猫を産んでしまい、育てることも譲渡先も探すことができないのならば、親犬親猫が子どもを産まないように不妊手術をするなどの対応をすればいい。だが、施設に子犬や子猫を引き取らせようと考える飼い主にはそういうモラルも欠けている。「手術代がかかる」「手術を受けさせるのはかわいそう」などとできない理由を見つけて言い訳にする。

それでも、施設や民間団体の努力もあって、殺される命は少しずつ救われる命に変わっている。クウちゃんのように新しい家族に救われる命の数は少しずつ、だが確実に増えている。全国各地で殺処分ゼロを目指す活動が行われていて、確実に成果をあげている。

だけど、行政やボランティアの活動だけでは殺処分ゼロは実現できない。私たち飼い主も、ペットに適切な去勢手術や不妊手術をしたり、それができないのなら妊娠しないように気をつけるようにしなければいけない。そして、一番大切なのは預かった命は最期まで責任を持って面倒をみるということだ。犬や猫の寿命はだいたい15年~20年くらい。最近は医療やフードの質の向上などもあって長命の犬猫が増えている。15年後20年後まで責任を持って飼い続けるのが飼い主の義務だと思う。

新しい家族と暮らし始めたクウちゃんの様子も本書は伝えてくれている。幸せそうな家族の写真を見ると読者である私まで幸せな気分になれる。クウちゃんみたいに幸せな犬や猫がもっともっと増えてほしいと願う。

本書は、集英社みらい文庫から刊行されていて、すべての漢字にルビがふってあるので、ひらがなが読める子どもも読むことができる。ペットを飼いたいと思っている子どもたちがいたら、まずこの本を読んでみてほしい。もちろん大人も。そして、安易にペットショップで買うのではなく、譲渡会を通じて保護犬や保護猫を迎えるという選択肢も考えてみてほしい。

犬も猫も人間も、みんな幸せなのが一番です。