タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ハンナのいない10月は」相川英輔/河出書房新社-学生自治会選挙の不正疑惑、女子学生の洋服盗難事件にスパイ疑惑。大学内で起きるさまざまな事件に『穏やかな狂人』はどう動くのか?

 

 

相川英輔作品は、これまで「雲を離れた月」「ハイキング」を読んできた。過去作はどれも日常にある恐怖や不安を描き、読んでいてスーッと背中に冷たいものが伝うような感覚を与えてくれる作品だったが、本作はこれまでとはまったく違ったテイストできた。

「ハンナのいない10月は」は、大学を舞台にしたミステリー小説だ。ミステリーといっても人が死んだりはしない。大学構内で起きる女子学生の洋服盗難事件や、学内に潜り込んだスパイの捜索、学生自治会選挙の不正疑惑などの日常の謎系のミステリーである。

ようやく就職の内々定を得た佐藤大地は、就職活動中に出席できなかった授業の修得について配慮してもらうために久しぶりに大学にやってきた。大地に不足している単位科目は3つ。うち2つまでは認めてもらえた。残すは「文学」である。担当教員は森川譲。彼は学内に住み込み、研究室でペットを飼っている変わり者と噂されており、『穏やかな狂人』と呼ばれる人物だった。

タイトルある『ハンナ』が、『穏やかな狂人』こと森川の研究室で飼われている猫の名前だ。本来、研究室で動物を飼うことは禁じられているのだが、ハンナのことは黙認されていて、学長の富井も学長補佐の椛島もハンナにはメロメロである。唯一、庶務課長の小山だけは、事はあるごとに森川にハンナをどうにかするように要請しているが……。

森川の研究室を訪ねた大地は、そこで学生自治会長の三田村栞と出会う。彼女は森川の研究室に入り浸っているらしい。大地は、森川に修得配慮をお願いするが、「ルールはルール」と簡単には許してくれない。森川が出してきた条件は、研究室に数千冊とある蔵書の中から、彼が最も好きな一冊をあてるというものだった。

「ハンナのいない10月は」には、表題作を含めて6つのエピソードが入っている。

1 ひとつがふたつに
2 ポルトガルの言い伝え
3 自治会選挙と夜の星
4 化石
5 激しい雨が降る
6 ハンナのいない10月は

それぞれが独立したエピソードにもなっているので、連作短編集としても読むことができる。本書全体を通じたテーマとしては、大学の経営存続問題があり、少子化の中で学生を集めなければならない私立大学の厳しさとライバル大学との競争からくるスパイ行為や評判を落とすためのデマといった問題に森川たちも巻き込まれていく。

スパイやデマといった問題への対応に、富井や椛島、小山たちは頭を悩ませるが、『穏やかな狂人』である森島はそういう話とは無縁でいたい立場だ。出世にも学内の派閥争いにも興味はない。ただ、研究室でハンナと過ごし、毎日同じ定食屋で曜日ごとに決まったメニューの定食を食べ、好きな本を読む。それでいいのだ。それだけがいいのだ。

だが、学内の状況は森川にそんな安寧は与えてくれない。なぜか彼は学内で起きる事件や疑惑の解決に乗り出さねばならないハメになり、最後には彼自身がトラブルの元となってしまう。

大学を舞台にして、ちょっと風変わりな教師が学内で起きる不可思議なトラブルに巻き込まれるミステリーということでは、奥泉光の「クワコーシリーズ」(「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」「黄色い部屋の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2」「ゆるきゃらの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3」とこれまで3冊刊行されている。日本文学を教えるダメ教師の『クワコー』こと桑潟幸一がさまざまで些細な事件に巻き込まれるミステリー小説のシリーズ)がある。クワコーは、正真正銘のダメ教師なので、本書の『穏やかな狂人』森川とはキャラクターとして比較にならないが、どちらも大学で文学(クワコーは日本文学、森川は西欧文学)を教えていることなど共通しているところもあって、芋づる式に紐付けして読んでみるのも面白そうだ。

「ハンナのいない10月は」で森川は、学生への不公平な単位付与疑惑で批判の標的のなる。この問題で後援会総会は紛糾し、マスコミは大学の姿勢を糾弾する。ネットも誹謗中傷の嵐が飛び交う。椛島や小山は、疑惑の調査、悪評の払拭、メディア対応に奮闘し、大地や栞は森川のためにネットの誹謗中傷に立ち向かう。そんな中、ハンナが姿を消してしまい、森川は自分が大学に迷惑をかけていることとハンナがいなくなったことで二重に落ち込む。

ラストに森川はひとつの決断をする。彼にとっては未来への一歩となる決断だ。森川とハンナの物語は、まだまだ続くのだと思う。それが続編として形になるのか、それとも読者がそれぞれの未来像を思い描くのか。個人的には、「森川&ハンナシリーズ」として続編を期待したいと思っている。

 

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「フライデー・ブラック」ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー/押野素子訳/駒草出版-ガーナ移民の両親を持つ著者のデビュー短編集。#BlackLivesMatter 運動に世界が揺れる今の時代に読む一冊。

 

 

2020年5月、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで白人警察官が黒人のジョージ・フロイド氏を逮捕する際に、8分46秒もの間フロイド氏の頸部を膝で圧迫し続けて死に至らしめる事件が起きた。この事件をきっかけにして、全米各地で大規模な抗議デモが起こる。デモ参加者たちは『Black Lives Matter』と書かれたプラカードを掲げ、黒人差別に対する抗議の声をあげた。

本書「フライデー・ブラック」は、直接に『Black Lives Matter』と関係するものではない。だが、本書に収録された12篇の短編は、いずれも黒人の虐げられる姿、人種の違いによる社会的な格差などを題材としているという意味で、両者を切り離すことはできないと感じる。

本書には、表題作を含めて12の短編が収録されている。

フィンケルスティーン5〈ファイヴ〉
母の言葉
旧時代〈ジ・エラ〉
ラーク・ストリート
病院にて
ジマー・ランド
フライデー・ブラック
ライオンと蜘蛛
ライト・スピッター-光を吐く者
アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」
小売業界で生きる秘訣
閃光を越えて

表題作「フライデー・ブラック」は、毎年11月の感謝祭(第4木曜日)翌日金曜に大々的に行われるブラックフライデーセールを題材にした作品。語り手であるショップ店員の“俺”からみた買い物客の狂乱ぶりが描かれる。開店と同時に売り場を目指して殺到する買い物客。店員に向かって「ブルー! 息子! スリークパック!」叫ぶ男性客。“俺”はその絶叫の意味を素早く理解する。

「俺の息子。俺のことをクリスマスに一番愛してくれる。ホリデー・シーズンは一緒にいられるんだ。俺と息子。欲しいものは一つ。たった一つ。息子の母親は買わない。俺が買わなければ。父親らしいことがしたいんだ!」

『ブラック・フライデー語』と呼ぶ狂乱の叫び声を瞬時に理解し、“俺”は次々と客をさばき売上をあげていく。売り場やフードコートには戦いに破れた客たちの屍が累々と折り重なり、その横で生き残った客たちが食事をしている。まるでゾンビ映画の一場面のような光景だ。

アメリカのブラックフライデーセールでの狂乱ぶりは、テレビのニュースで見たことがある。「フライデー・ブラック」に書かれるような異常さはないが、これに近いくらいの熱狂した客の様子が映し出されたのをみて「すごい」と思ったことがあった。ブレニヤーが「フライデー・ブラック」で描いたのは、その狂乱ぶりを皮肉った物語だ。

読んで怖さを感じたのは「ジマー・ランド」だ。ここに描かれる架空のテーマパーク『ジマー・ランド』は、ゲスト・プレイヤーが、自分の置かれた状況を判断し、自らの意思決定によって問題を解決し正義を行使する場を提供する。目の前に、いかにも素行不良で危険と思われる黒人がいる。ゲスト・プレイヤーは、黒人にどう接し、どう対処するかを判断し、自らの意思決定によって正義を行使する。その正義は暴力的かもしれないし、平和的かもしれない。

すべての短編が黒人差別問題を描いているわけではない。生まれてくる子どもの能力を出生前にコントロールできるようになった近未来で、最適化を受けて成功した子どもと失敗した子ども、最適化を受けていない天然の子どもの格差や差別を描いた「旧時代〈ジ・エラ〉」のようなSF設定の短編もある。

だが、すべての短編に共通しているのは、何らかの差別、格差、そして暴力性が描かれていることだ。人種差別、民族差別、貧富の格差、差別や貧困から生まれる偏見や対抗するための暴力。それらは、いま『Black Lives Matter』として世界中に広がる抗議のうねりの中核となることだ。

いま、このタイミングで本書を読むと、物語の世界と現実の世界がリンクしているように感じる。それは、本書に描かれている世界が現実に則しているからだと思う。

 

「英国風の殺人」シリル・ヘアー/佐藤弓生訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第6巻。互いに不穏な空気を醸す一族が集った聖夜の宴で起きた毒殺事件。ボトウィンク博士が解き明かす『英国でのみ起こりうる事件』とは?

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』第6巻。それぞれが互いに何らかの因縁を持つウォーベック一族が集まったクリスマスの夜、大雪に閉ざされた屋敷で行われた夜会の席でファシスト団体のリーダーとなったウォーベック卿の跡取り息子が毒殺された。古文書の調査のためにウォーベック邸に滞在していた歴史学者のウェンセスラス・ボトウィンク博士を探偵役とする本格ミステリー小説である。

「英国風の殺人」には、本格ミステリーの要素がつまっている。大雪で外部との連絡が閉ざされ孤立した屋敷で起きる殺人。そこに集まっていたのは、代々続く古い貴族であるウォーベック卿とその血族、ウォーベック卿に仕える執事、そして探偵役となる歴史学者である。事件の背景にあるのは、イギリスの貴族階級と労働者階級という区分と、その区分にもとづく政治的な体制の問題だ。

屋敷の主であるウォーベック卿は病の床にあり、彼の爵位の継承が一族の問題でもある。跡取り息子であるロバートは、『自由と正義連盟』の指導者であり、その団体はファシスト団体として知られている。ウォーベック卿の従弟サー・ジューリアスは、現政権で大蔵大臣を務める人物であり、ロバートとは対立する立場にある。さらに、ロバートとの関係に決着をつけたいと考えるレイディ・カミラ・ブレンダガスト、サー・ジューリアスが才能を見込んだ政治家カーステアズの妻であるカーステアズ夫人が加わる。彼らは、クリスマスの夜にウォーベック邸に集まった。ウォーベック邸には、卿に仕える執事のブリッグズがおり、途中から彼の娘スーザンも事件の鍵となる人物として加わる。

大雪によって外部からの応援が得られない中で事件の捜査にあたるのは、サー・ジューリアスの身辺警護のために同行したロジャース巡査部長である。彼は、サー・ジューリアスの警護という役割を果たしつつ、地元警察が到着するまでに最低限の捜査対応を行う。

そして探偵役となるボトウィンク博士。彼は、ウォーベック邸にある古文書の調査のために屋敷に滞在していて事件に巻き込まれてしまった。本書では結果として探偵役となっているが、積極的に事件捜査に乗り出したというよりは、学者としての探究心からいつの間にか事件の謎を解くポイントに気づき、最終的に犯人を指摘するに至る。

ロバート毒殺事件の翌日、病の床にあったウォーベック卿が息を引き取る。跡取り息子に続くウォーベック卿の死によって爵位の継承がどうなるかという問題が持ち上がる中、ブリッグズの娘スーザンが登場する。彼女の登場がウォーベック一族の運命を決めることになるが、そのことがさらに悲劇を生み出すことにもなる。

本書に描かれる事件の顛末を理解することは難儀なことだ。ラストの謎解きにおいてボトウィンク博士は「これは英国でのみ起きうる事件」だと言う。

「なぜ私は本件が英国風の犯罪であると主張するのか。それは動機が英国風だからであります。英国特有の政治的な要素に起因するからであります」(中略)「…今回の犯罪はすべての先進国の中で英国だけが、政体において世襲制の立法議員を維持してきたという事実がなければ起こりえなかったでしょう。(後略)」

ボトウィンク博士が事件の真相に気づけたのは、彼がイギリス人ではなく、かつ歴史学者であったからだ。彼は、貴族階級と労働者階級での微妙な言い回しの違いに疑問を感じ、また、歴史学者としての知識からこの事件がなぜ起きたのかを理解する。彼は、ロジャーズ巡査部長に『ウィリアム・ピットの生涯』を読んでみるように勧め、「なにが起こらなかったかが問題だ」と告げる。彼は、その歴史学の知識から、この事件が『英国風の殺人』だと看破するのである。

イギリスの政治制度や貴族階級、労働者階級といった身分制度を知らないまま読んだので、一読しただけではボトウィンク博士が言う犯行の動機が理解できなかった。いや、地位を得るという動機はストレートなのだが、ここに『英国風』という視点をはめ込むことは難しいのである。なので、このレビューを書くのにかなり苦労した。どうにか書いてみたが、ちゃんと読み溶けているのか自信がない。

本格ミステリー小説としては、読みやすかったし面白かった。なんか言い訳っぽくなってるけど、それだけ最後に書いておきます。

「サブリナ」ニック・ドルナソ/藤井光訳/早川書房-サブリナが消えたことで起きる波紋。メディアに追い回され、ネットにはデマがはびこる。現代社会の抱える闇をえぐり出すような作品。

 

 

ひとりの女性が突然行方不明になる。女性の名前はサブリナ・ギャロ。しばらくして、新聞社などにスナッフビデオが届くとメディアやネットが騒然とする。メディアによる執拗なまでの取材攻勢。SNSを中心にネットに拡散する誹謗中傷デマ。それはまさに現代社会の闇ともいえる。

ニック・ドルナソ「サブリナ」は、グラフィックノベルとして初のブッカー賞候補となった作品。サブリナの失踪によって、恋人のテディは生きる気力を失い、友人のカルヴィンを頼る。また、サブリナの妹サンドラも姉の失踪によって悲しみの底に突き落とされる。

サブリナの喪失による彼らの絶望は、マスコミ各社に送られてきたビデオテープによってさらにどん底へと突き落とされる。ただただ絶望の底でもがき苦しみ立ち上がる気力さえ奪い取られた彼らに、さらに追い打ちをかけるのが、心無いマスコミによる執拗な取材であり、ネットにはびこる根拠のないデマだ。スナッフ動画がネット上に拡散し、それをみた多くのネット民がテディやサンドラ、カルヴィンたちに誹謗中傷の罵声を浴びせかける。心の救済を訴える偽善者が、彼らに手を差し伸べるふりをしてみせる。

「サブリナ」は、まさに現代社会を描いている。匿名の顔の見えない人たちが、見えないところから投げつけてくる正義を装った悪意は、いま私たちのすぐ近くで起きているリアルな出来事でもある。『リアリティーショー』というリアルを装った架空のストーリーの中で起きたことに過剰に反応し、ただ演じているだけのタレントに殺意まで抱く人たち。彼/彼女たちは、匿名という鎧で身を守りながら、相手の心をズタズタに傷つけるような言葉をネット上に吐き出す。彼/彼女たちには、罪の意識はなく、むしろ正義感から糾弾しているつもりになっていて、それゆえに相手を傷つけていることを想像することができない。そして、最悪の結末を迎えてはじめて自分の愚かさに気づくのだ。

だが、そこで終わることはない。今度は愚かさに気づいた彼/彼女たちが傷つけられる側になる。匿名の鎧を剥ぎ取って正体を暴こうとする別の匿名の彼/彼女たちが現れ、正義感という名の悪意を振りかざすのだ。ネット上では、この連鎖が延々と繰り返される。そして、やはり正義感を振りかざした新聞やテレビといったメディアが、「私たちには伝える使命がある」とばかりに煽り立てるような報道を繰り返す。

「サブリナ」を読んで感じるのは恐怖だ。サブリナが失踪し彼女の家族や恋人、その友人たちが絶望に突き落とされる恐怖ではない。メディアやネットが振りかざす正義を気取った悪意への恐怖だ。

芸能人が「それは間違っているよ」とつぶやいたことに対して、「芸能人のくせに口を出すな」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

性暴力被害にあった女性が声をあげたことに対して、「女の側にも責任がある」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

そういう状況と「サブリナ」で描かれていることが重なって見えて、そこに恐怖を感じたのだ。その恐怖は本書を読み終わるまで消えることはなく、読み終わって時間が経った今でも胸の奥底でくすぶっている。

「サブリナ」が、普通の小説作品だったなら、ここまでの恐怖は感じなかったかもしれない。ただただ「厭な感じ」のする小説でしかなかったかもしれない。グラフィックノベルとして描かれているから、恐怖を強く感じたように思う。「サブリナ」の登場人物たちには表情がない。いや、表情はあるのだが、それが感じられないのだ。単調なコマ割りであまり表情を読み取れない登場人物たちの描写が続く。その淡々とした流れと描写が恐怖を倍増させていると思う。

淡々とした物語は、フェードアウトするかのように閉じられていく。何も終わっていないが、何かが始まる兆しはある。サブリナの事件に翻弄された人たちが、これからどのような人生を送るのか。どのようにして悲しみを乗り越えていくのか。希望とみるか、さらなる絶望とみるか。考えさせられる。

 

「愛は血を流して横たわる」エドマンド・クリスピン/滝口達也訳/国書刊行会-『世界探偵小説全集』の第5巻。女子生徒の失踪事件を発端に起きる連続殺人事件。事件をつなぐ謎の解明にジャーヴァス・フェン教授が挑む。

 

 

国書刊行会の『世界探偵小説全集』第5巻。学校の終業式を目前にして起きた女子生徒の失踪事件。最初はちょっとした不祥事と思われていたが、ふたりの教師が相次いで殺害されたことで重大事件へと発展する。事件の解決に乗り出すのは、終業式の来賓として居合わせたオックスフォード大学のジャーヴァス・フェン教授である。

カスタヴェンフォード校の終業式を前にして、カスタヴェンフォード女子高校のブレンダ・ボイスという生徒が失踪する。彼女は、失踪する直前にJ.H.ウィリアムズという生徒と密会する約束になっていたが、ウィリアムズはブレンダとは会えなかったという。さらに、理科校舎の化学実験室から劇薬が盗み出されていたことも発覚し、カスタヴェンフォード校のホラス・スタンフォード校長は頭を抱える。

そんな状況の中、アンドルー・ラヴ、マイケル・サマーズのふたりの教師が相次いで殺害される。ふたりは、同じ銃で撃たれて殺されていた。終業式に来賓として招かれていてカスタヴェンフォード校に居合わせたオックスフォード大学のジャーヴァス・フェン教授は、過去の経験から地元警察とともに事件の捜査に乗り出すことになる。現場の状況を調べ、関係者の証言を集め、容疑者をピックアップしていくフェン教授たちだが、その最中に第三の殺人が発生する。カスタヴェンフォード校から4マイルほど離れた田舎家で老女の死体が発見されたのだ。わずか24時間以内に3人が殺害され、ひとりが行方不明となったのである。

「愛は血を流して横たわる」は、エドマンド・クリスピンの長編第5作にあたる作品である(巻末リストより)。巻末に収録されている小林晋氏の解説によると、エドマンド・クリスピンは、オックスフォード大学在学中にジョン・ディクスン・カーの作品に出会ったことで探偵小説に魅了され、自らも探偵小説を執筆するようになった。1944年に処女作「金蝿」を発表し、この作品から探偵役としてオックスフォード大学教授のジャーヴィス・フェンが登場している。フェン教授を探偵役とする長編は9篇刊行されていて7篇が翻訳されている(aga-search.com情報)。

連続する事件の鍵となるのが、3人目の犠牲者である老女ブライ夫人の家で発見されたとされる古文書である。その古文書をめぐってサマーズがブライ夫人の家を訪ねていることや彼の口座から金が引き出されていることも判明する。オックスフォード大学で英文学を教えているフェン教授は、その古文書をめぐって一連の事件が起きたと推測するのである。

本作は、連続殺人事件という異常な犯罪状況を描いているが悲壮感やおどろおどろしさはなく、むしろコメディ的に展開する。フェン教授は完全無欠な名探偵というわけではなく、ところどころでピンチに立たされたりもする。追い詰められた犯人が逃走を図る場面では、犯人、フェン教授、警察がカーチェイスを繰り広げるのだが、フェン教授の愛車はトラブルを起こし、警察の犯人追跡を邪魔する格好になってしまったりして、緊迫する場面なのに笑えてしまう。

「消えた玩具」という作品と並んで、エドマンド・クリスピンの代表作にもあげられるという作品だけに、クリスピン初読みの私でも楽しく読むことができた。

これで『世界探偵小説全集』も第一期10巻の半分まで読んできた。次はシリル・ヘアーの「英国風の殺人」である。これまた全然知らない作家だけに、どんな作品か期待と不安が半々である。

 

 

「あふれる家」中島さなえ/朝日新聞出版-いつも誰かであふれている破天荒な家庭で育つ明日美のたくまして想像力豊かな毎日を描く自伝的長編。

 

 

主人公稲葉明日実(わたし)は小学4年生。もうすぐ夏休みになるというのに、母さんが事故で足を骨折し入院してしまう。

「ユタとハルねえがいないあいだ、明日実ちゃんをどうするのか」

「ユタ」は父さん、「ハルねえ」は母さんのニックネームだ。ハルねえが入院したことで、稲葉家にいる人たちはその問題を話し合う。何か問題が起きたときは、その場にいる人たちで解決するのが稲葉家のルールなのだ。

明日実は、父さんと母さんの3人家族だが、父さんはいつもどこかをうろついていて家にいない。だけど、家にはいつも人があふれている。父さんや母さんの友達や友達の友達とか、いろんな人が常に何人か家で寝泊まりしているからだ。ハルねえが入院したときは、バンドマンのトキオ、薬剤師のアキちゃん、前の日から泊まりに来たハイテンションな外国人二人組などが稲葉家にあふれていた。

中島さなえ「あふれる家」は、まったく普通じゃない破天荒な家庭に育つ小学生が主人公の作品である。中島さなえは、2004年に亡くなった中島らもの娘である。これまでに、「いちにち8ミリの。」、「ルシッドドリーム」などの小説作品やエッセイ集を刊行している。本書は、著者2作目の長編小説であり、はじめての自伝的小説である。

小説としてのデフォルメはあるとしても、本書に書かれる稲葉家は一般の常識(なにが“一般”なのかという話はあるが)からすれば、かなりブッ飛んだ家庭であることは間違いない。自伝的小説なので、モデルとなっているのは中島家となる。本書の稲葉家が、常に家族以外の人たちであふれかえり、ときにまったく見ず知らずの人たちが当たり前のように入れ代わり立ち代わり出入りしているように、中島家も、中島らもを慕ったり頼ったりしてたくさんの人たちがあふれていたのだろう。「中島らもの家なら、それも不思議じゃないな」と思う。

主人公の明日実は、この特殊な家庭に生まれ育ったため、家に両親以外の誰かが何人も出入りしたり寝泊まりしたりしていることが当たり前だと疑っていない。

わたしは小学校に上がるまで、どこの家も満員御礼で暮らしているのだと疑っていなかった。しかし、周りの人に話を聞いたり、テレビ番組を観たりしているうち、どうもうちは他と違って風変わりなのかもしれないと段々気がついてきた。他の人の家では、よく知らない大人たちに交じって、父さんと母さんがどこに寝ているかわからない、などということはないのだと。

小学生になって「どうも我が家は他とは違うらしい」と気づいたものの、だからといってこの家庭環境を嫌がるわけでもなく暮らしている。実にたくましい子どもだ。

小さいときからこういう環境で育った明日実は、たくましく、想像力の豊かな子どもだ。想像力というよりは妄想力か。明日実には、保育園の頃からちょっと油断するとすぐに妄想の世界に落ちてしまう癖がある。書道の時間に自分のサイン会のことを妄想したり、大好きな尾形先生と同じサーカス団の芸人になったりする。

稲葉家にあふれる人たちも変わった大人たちばかりだ。誰もが自由だし、誰もが何かしら闇を抱えている。まとも(なにをもって“まとも”とするかという話はあるが)な人は誰もいない。社会からはぐれてしまったような人が、吸い寄せられるように稲葉家に集まり、あふれているのである。だが、そんな彼らだからこそ、明日実のことに世話を焼くし、仲間が困っていれば協力して助け合う。血はつながっていなくてもそれ以上のつながりをみせる。

「自分もこんな家で暮らしたかった」などとは思わないし(思う人もいるかもしれない)、こういう家庭で生活していることを想像することも難しい。でも、現実に中島家は稲葉家のような家庭であったのだろうし、中島らもが人を惹き寄せる魅力をもった人だったのだということを「あふれる家」は物語っているのだと思う。

ところで、この本を読んでいることをツイッターとかで話すときに「作者の中島さなえさんは、中島らもの娘さんです」と話すと「中島らもの娘!」と驚かれる反応が多かった。中島らもが急逝して16年になるが、まだまだ中島らもという作家の存在が大きいのだなと感じた。

ちなみに、本書では最初の方で「父さんはたいていどこかをうろついていて家にはいない」とあるだけで、明日実の父ユタ(モデルは当然中島らも)は一切登場しない。ただ、カバー絵には中島らもを思わせる人物が描かれていて、そこでも存在感を表している。

これまで、中島さなえさんの小説作品はすべて読んで紹介してきた。『中島らもの娘』という部分が注目されがちだが、その作品はどれも魅力的で面白いものなので、もっと読まれてほしい作家のひとりである。

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「ジュディ・モードはごきげんななめ」メーガン・マクドナルド作、ピーター・レイノルズ絵/宮坂宏美訳/小峰書店-小学生のジュディと友だち、家族が繰り広げる元気で楽しい毎日!

 

 

『はじめての海外文学vol.5』で訳者の宮坂宏美さんが推薦している作品です。「ジュディ・モードとなかまたち」シリーズの第1巻になります。

主人公のジュディ・モードは、小学3年生です。物語は、夏休みが終わって新学期がはじまるという朝の場面からはじまります。いきなりジュディは“ふきげんモード”です。学校がはじまったら、毎日髪をとかさなきゃいけないし、勉強もしなきゃいけないからです。それに、新学期の席替えでフランク・パールのとなりになったらサイアクです。

ジュディがなによりいやなのは、友だちみんなが夏休みに手に入れたイケてる文字入りの新しいTシャツを着てくること。ジュディには、そんなTシャツはありません。だから自分で無地のシャツに大きなサメの絵を描いて、「あたしはサメを食べた」と書きました。

といった感じでこの物語ははじまります。主人公が最初から不機嫌になっているのが面白いですね。ジュディは、とにかく気分屋さんで、機嫌が良くなったり悪くなったり忙しいです。でも、小学生くらいの子どものときって、だいたいみんなジュディみたいだったんじゃないかなと思います。ちょっと気に入らないことがあったりすると、“きぎげんモード”になってお父さんやお母さんを困らせたりして。

ジュディたちが作る「自己紹介コラージュ」というのも、面白そうで楽しそうな宿題です。絵や文字や写真を使って自分をみんなに紹介するコラージュ作品を作ってくるというもの。想像力をかきたてる宿題だと思います。「自分ってどんな人なの?」とか、「家族はどんな人?」とか、「お気に入りのペットは?」とか、自分や自分の周りのことをちゃんと見て、それをどうやってみんなに伝えるかを考えるのって、むずかしいけれどワクワクしちゃいます。自分ならどんな「自己紹介コラージュ」を作るかな、と考えるのも面白いです。

ジュディもあれこれと考えて「自己紹介コラージュ」を作りあげますが、最後に弟のスティンクのせいである事件が起きます。お父さんがリカバリーしようとがんばりますが、ジュディの「自己紹介コラージュ」は大変なことに! でも、そんなピンチをジュディは機転を利かせて乗り切ります。

この本は、「ジュディ・モードとなかまたち」シリーズのはじまりとなる作品です。これからジュディと友だち、家族のお話が続いていきます。これからジュディやスティンク、ロジャー、フランクはどんな物語をみせてくれるのか。楽しみになる作品でした。

あ、それと、メーガン・マクドナルドが書くおはなしも楽しいですが、ピーター・レイノルズが描く挿し絵がまたいいんです。最後にドーンと見開きで描かれるジュディの「自己紹介コラージュ」は圧巻です。