タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「サブリナ」ニック・ドルナソ/藤井光訳/早川書房-サブリナが消えたことで起きる波紋。メディアに追い回され、ネットにはデマがはびこる。現代社会の抱える闇をえぐり出すような作品。

 

 

ひとりの女性が突然行方不明になる。女性の名前はサブリナ・ギャロ。しばらくして、新聞社などにスナッフビデオが届くとメディアやネットが騒然とする。メディアによる執拗なまでの取材攻勢。SNSを中心にネットに拡散する誹謗中傷デマ。それはまさに現代社会の闇ともいえる。

ニック・ドルナソ「サブリナ」は、グラフィックノベルとして初のブッカー賞候補となった作品。サブリナの失踪によって、恋人のテディは生きる気力を失い、友人のカルヴィンを頼る。また、サブリナの妹サンドラも姉の失踪によって悲しみの底に突き落とされる。

サブリナの喪失による彼らの絶望は、マスコミ各社に送られてきたビデオテープによってさらにどん底へと突き落とされる。ただただ絶望の底でもがき苦しみ立ち上がる気力さえ奪い取られた彼らに、さらに追い打ちをかけるのが、心無いマスコミによる執拗な取材であり、ネットにはびこる根拠のないデマだ。スナッフ動画がネット上に拡散し、それをみた多くのネット民がテディやサンドラ、カルヴィンたちに誹謗中傷の罵声を浴びせかける。心の救済を訴える偽善者が、彼らに手を差し伸べるふりをしてみせる。

「サブリナ」は、まさに現代社会を描いている。匿名の顔の見えない人たちが、見えないところから投げつけてくる正義を装った悪意は、いま私たちのすぐ近くで起きているリアルな出来事でもある。『リアリティーショー』というリアルを装った架空のストーリーの中で起きたことに過剰に反応し、ただ演じているだけのタレントに殺意まで抱く人たち。彼/彼女たちは、匿名という鎧で身を守りながら、相手の心をズタズタに傷つけるような言葉をネット上に吐き出す。彼/彼女たちには、罪の意識はなく、むしろ正義感から糾弾しているつもりになっていて、それゆえに相手を傷つけていることを想像することができない。そして、最悪の結末を迎えてはじめて自分の愚かさに気づくのだ。

だが、そこで終わることはない。今度は愚かさに気づいた彼/彼女たちが傷つけられる側になる。匿名の鎧を剥ぎ取って正体を暴こうとする別の匿名の彼/彼女たちが現れ、正義感という名の悪意を振りかざすのだ。ネット上では、この連鎖が延々と繰り返される。そして、やはり正義感を振りかざした新聞やテレビといったメディアが、「私たちには伝える使命がある」とばかりに煽り立てるような報道を繰り返す。

「サブリナ」を読んで感じるのは恐怖だ。サブリナが失踪し彼女の家族や恋人、その友人たちが絶望に突き落とされる恐怖ではない。メディアやネットが振りかざす正義を気取った悪意への恐怖だ。

芸能人が「それは間違っているよ」とつぶやいたことに対して、「芸能人のくせに口を出すな」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

性暴力被害にあった女性が声をあげたことに対して、「女の側にも責任がある」と叩きつけられる正義を気取った悪意。

そういう状況と「サブリナ」で描かれていることが重なって見えて、そこに恐怖を感じたのだ。その恐怖は本書を読み終わるまで消えることはなく、読み終わって時間が経った今でも胸の奥底でくすぶっている。

「サブリナ」が、普通の小説作品だったなら、ここまでの恐怖は感じなかったかもしれない。ただただ「厭な感じ」のする小説でしかなかったかもしれない。グラフィックノベルとして描かれているから、恐怖を強く感じたように思う。「サブリナ」の登場人物たちには表情がない。いや、表情はあるのだが、それが感じられないのだ。単調なコマ割りであまり表情を読み取れない登場人物たちの描写が続く。その淡々とした流れと描写が恐怖を倍増させていると思う。

淡々とした物語は、フェードアウトするかのように閉じられていく。何も終わっていないが、何かが始まる兆しはある。サブリナの事件に翻弄された人たちが、これからどのような人生を送るのか。どのようにして悲しみを乗り越えていくのか。希望とみるか、さらなる絶望とみるか。考えさせられる。