タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「聖なるズー」濱野ちひろ/集英社-犬や馬をパートナーとする動物性愛は性的倒錯行為なのか。それとも強すぎる動物愛なのか。

 

 

動物を相手にセックスをする。多くの人は、そのような性的嗜好を持つ人たちを変態と感じ、嫌悪するだろう。私もそうだ。

濱野ちひろ「聖なるズー」は、大学院で文化人類学におけるセクシャリティ研究に取り組む著者が、ドイツの世界唯一の動物性愛者団体ZETA (ゼータ:寛容と啓発を促す動物性愛者委員会「Zoophiles Engagement für Toleranz und Aufklärung」)のメンバーに会い、彼らの家に寝泊まりしながら調査を行った結果をもとに書籍化したノンフィクションである。2019年度第17回開高健ノンフィクション賞受賞作品。

著者が動物性愛を研究テーマに選んだのは、指導教官の勧めだった。

「ジュウカンやってみたら」
私は首をかしげた。
「ジュンタンですか……? 私はそんなに興味ないですね」
「ちがう、ちがう。獣姦だよ、獣姦」

『獣姦』を『絨毯』と聞き間違える程度の認識しかなかった著者だったが、なぜか妙に気になり獣姦について調べてみた。すると『獣姦』(bestiality)以外に「zoophilia」という言葉があるのがわかる。「動物性愛」のことだ。

さらに調べていくうちに著者は17分のショート・ドキュメンタリー動画を見つける。その動画でインタビューを受けていたのが「ゼータ」だった。

本書の「プロローグ」で著者は、自らの過去から語り始める。著者には、十代の終わりから二十代の終わりまでパートナーから性暴力を受けていた過去があった。その軛から逃れたあともしばらくは愛とかセックスを軽蔑していた。ようやく三十代の終わりになって大学院に入学し、セクシャリティを研究する道に進んだ。それは、愛やセックスを学術的に研究することが自らの軛から解放される手段だと考えたからだ。

著者は「ゼータ」のメンバーとコンタクトをとり、彼らの家に寝泊まりしながら「動物性愛」の実態を調査する。はじめは動物性愛者ではない著者からのアプローチに懐疑的だった「ゼータ」のメンバーたちも、接触を重ねるうちに多くを語るようになる。著者自身も最初は「獣姦」のイメージから彼らに対して不安を感じているが、話を聞くうちに彼らがけっして危ない性的嗜好をもっているわけではないことを知る。

動物性愛者(自らを「ズー」と呼ぶ)たちは、動物をただ性的な欲求を満たすための道具と考えているわけではない。彼らは心から動物たちを愛している。人間同士で異性愛や同性愛があるのと同じレベルで、ズーの恋愛は『異種愛』なのだ。人間と犬、人間と馬という種を超越した愛があるのだ。

彼らは、自分が愛する特定の動物の個体を「パートナー」と呼ぶ。夫だったり妻だったりもする。パートナーとは対等な関係にあり、それは日常生活でもセックスでも変わらない。人間同士の性愛と同じで相手の気持ちを尊重し、相手が求めていると感じたときに性的な関係になる。

ズーたちはパートナーである犬や馬がセックスを求めていると感じ取ることができるのだという。これは、動物性愛嗜好がないとなかなか理解はできそうにない。私も長く犬を飼い続けてきたが、彼らがセックスを求めていると感じたことはない。ただ、本書を読んでみて「あれがそうだったのかも?」と思うところがあった。だからといって「あのとき欲求を満たしてやればよかった」という考えにはならないのだが。

私自身は本書を読んだからといって「動物性愛」が理解できるとは思えないし、冒頭にも書いたように嫌悪感の方が強い。でも、それは生理的なものだから仕方ないだろう。同性愛がアブノーマルだ性的倒錯だと揶揄され迫害されていた(いる)ように、今はズーは性的倒錯と批判されている。だが、もしかすると将来彼らの性的嗜好が理解されるときが来るかもしれない。LGBTと同列に理解されるのは難しいかもしれないが、強い動物愛としてならば受け入れられることもできるかもしれない。

まだまだ「動物性愛」に対する理解へのハードルは高いが、少なくとも彼らが動物を傷つけるような人たちではないことは、本書を読んでわかった。

 

「おちび」エドワード・ケアリー/古屋美登里訳/東京創元社-“おちび”と呼ばれた少女は、フランス革命前後の激動の時代を強く生き抜いて、マダム・タッソーとなる

 

 

エドワード・ケアリー著/古屋美登里訳「おちび」(原題は『Little』)は、アイアマンガー3部作(「堆塵館」「穢れの町」「肺都」)から2年、エドワード・ケアリーファン待望の新刊だ。実に執筆に15年を費やしたという長編小説は、マダム・タッソーの数奇な生涯を描く歴史小説であり、それでいてエドワード・ケアリーの世界が築き上げられた最高の小説である。

「おちび」と呼ばれた召使いの数奇な人生と歴史に残る大冒険

エドワード・ケアリーは、まず最初にこの一文から物語を始める。主人公アンネ・マリー・グロショルツ(後のマダム・タッソー)の一人称『わたし』で語られる自伝の体裁で描かれる物語は、1761年に生まれ1850年に89歳で没したマリーの人生を、

その前 小さな村で(1761年~1767年)
第一部 一方通行の道(1767年~1769年)
第二部 死んだ仕立て屋の家(1769年~1771年)
第三部 猿の館(1771年~1778年)
第四部 ヴェルサイユ宮殿の戸棚(1778年~1789年)
第五部 民衆の宮殿(1789年~1793年)
第六部 静かな館(1793年~1794年)
第七部 処刑待合室と見かけ倒しの家(1794年~1802年
その後 故郷で(1802年1850年

の構成で記していく。それぞれで、マリーが生きた時代は激しく動き回り、その激動に合わせて彼女の人生も大きく動かされる。

1761年、アルザスの小さな村でアンネ・マリー・グロショルツは生まれた。軍人だった父は、七年戦争の激戦の中で負傷し下顎を失っていた。やがて、父は亡くなり、マリーは母とともにスイスのベルンに移り住むことになる。母がそこに暮らすクルティウス先生の家政婦として雇われたからだ。クルティウス先生は、人間の身体の一部を蝋で作ることを仕事にしていた。

クルティウス先生と出会い、母親を亡くしたことで、マリーは彼の弟子として仕事を手伝うようになる。人間の身体の一部を作っていたクルティウス先生は、やがて人間の頭部から型を取り肖像を作るようになる。彼の作った肖像は評判となり、多くの人が彼に肖像制作を依頼してくるようになっていった。

クルティウス先生とマリーは、新しい居場所を求めてフランスのパリへ移り、仕立て屋の未亡人の家で暮らし始める。クルティウス先生の肖像はパリでも評判となる。マリーは、未亡人の家の召使いとしてこき使われながら、クルティウス先生の技術を学び身につけていく。そして、国王ルイ16世の妹エリザベート王女の蝋細工教師として宮殿に召喚されることになる。

マリーが生きた時代のフランスは、まさに激動の時代だ。1789年にフランス革命が勃発し、王党派とみなされた人物は容赦なく連行され満足な裁きもないままにギロチンで処刑されていく。マリー自身もさまざまな理由をつけられて連行されてしまう。そんな厳しい時代環境の中で、マリーは蝋細工の技術を身に着け、強くたくましく生き抜いていく。

最初に記したように「おちび」は、マダム・タッソーという実在した人物の波乱に満ちた人生を、彼女が生き抜いた激動の時代を背景に描く歴史小説だ。しかし、ケアリーの筆は、この物語をただの歴史小説の枠に留めない。これまでの作品と同様に、ケアリー自身の手で描かれた数多くのイラストが物語の世界観を形成し、実在の人物であるはずの登場人物たちは、アイアマンガーシリーズのクロッドやルーシーのように不思議な存在感を持って物語の中で躍動する。この小説は、間違いなくエドワード・ケアリーの小説なのだ。

読み始めてすぐに、ケアリーが築いた物語の世界に引きずり込まれた。私の頭の中で、私の心の中で、マリーがクルティウス先生が未亡人がエドモンがエリザベート王女が国王が、その姿を現し動き出すのを感じた。マリーが経験するさまざまな出来事をともに体験し、あるときは悲しみ、あるときは憤り、そしてあるときは幸せを感じた。

アイアマンガー3部作を読んだとき、エドワード・ケアリーという作家のすごさを知った。そこから過去作の「望楼館追想」「アルヴァとイルヴァ」を読み、ますますその作品世界に魅了された。

「おちび」は、エドワード・ケアリー作品の集大成となる作品だと思う。読み終わってまず思ったのは「この作品を最後にケアリーは作家としての活動を終えてしまうのではないか?」という懸念だった。だが、『訳者あとがき』を読んで、すでにピノッキオを題材にした作品が完成済みで2020年秋に発表予定であること、子ども専門の病院を舞台にした作品を執筆中であることを知って安心した。これからもエドワード・ケアリーの作品を読み続けていくことができそうだ。

「臆病な成就」多田尋子/福武書店-夫婦でもない、兄弟姉妹でもない、血の繋がりのない関係でも支え合える人たちの物語

 

 

『多田尋子作品を読む』の第6弾。「臆病な成就」を読んだ。表題作を含む3篇が収録されている。

臆病な成就
慰撫
白蛇の家 ※第102回芥川賞候補(1989年下期)

1988年、1989年は、多田尋子の作品に対する評価が一気にあがった時期といえるだろう。「単身者たち」(短編集「単身者たち」収録)で第100回芥川賞候補、「裔の子」(短編集「裔の子」収録)で第101回芥川賞候補、そして本書に収録されている「白蛇の家」で第102回芥川賞候補と3期連族で芥川賞の候補となっている。1988年から1989年の2年間で7篇の短篇を文芸誌「海燕」や「文學界」に発表している中で3篇が芥川賞候補に選ばれていることになる。

この短編集に収録されている3篇のうち、「慰撫」と「白蛇の家」が1989年に発表された作品だ。(「臆病な成就」は1990年発表)

芥川賞候補になった「白蛇の家」は、とある市の新興住宅地に暮らす佐知子が主人公だ。彼女は、短大入学を機にこの市にきた。卒業後は小学校の教師となり、そのままこのまちで暮らしてきた。校長のすすめもあって、野廼屋という茣蓙問屋の跡取り息子浩の後妻となった。今は時代もすぎて、浩はすでに亡く、野廼屋も店を閉じた。野廼屋のあった場所には銀行が建っている。佐知子は新興住宅地の分譲住宅に暮らし、姑の政乃は老人ホームで暮らしている。ふたりがかつての問屋街を懐かしむように語り合う中で物語は語られていく。それは、多田尋子作品らしい静かな物語だ。佐知子も政乃も野廼屋には後妻として嫁いだ。似た境遇のふたりは嫁と姑というよりも人生の先輩と後輩のような関係を築いている。静かすぎて物足りない印象を受けるかもしれないが、静かさの中に描かれるリアルを感じて欲しい作品だ。

「臆病な成就」は、多田尋子の作品で一番描かれることの多い『結婚しない女性』の物語だ。調剤薬局を営む行子は、一生ひとりで暮らしていきたいと考えていた。それは、彼女の両親のことを見てきたからだ。仕事でほとんど家に帰らず、たまに帰っても酒を飲んでばかりいて、母親や行子が自分の思うようにならなければ暴力を振るうような父親とそんな父親に依存するしかない母親をみてきたからだ。それでも、総合病院で同期だった吉村のことは好意をもって接していた。数年ぶりに再開したふたりは、ぎこちなく関係を築いていく。

森子は歌手として近々オペラの舞台に立つことになっていた。まだまだ未熟な彼女にとっては、有名歌手とのダブルキャストとはいえ大きな舞台だ。だが、それだけでは暮らしていけるわけもなくピアノ教室を開いたり、アルバイトをしたりしている。その日は「詩人の集り」で歌を歌う仕事だった。会の後の飲み会を終えて帰る途中、森子は平岡という男性に誘われる。その席で森子は酒に酔い、平岡と朝を迎えることになる。(「慰撫」)

本書に収録されている3篇は、どれも支え合う関係が描かれている。「臆病な成就」の行子と吉村、「慰撫」の森子と平岡、「白蛇の家」の佐知子と政乃、それぞれが互いに支え合っている。

支え合う関係であっても、それぞれには深い関係はない。行子と吉村は過去に同僚であり行子が吉村に片思いをしていた事実はあるが、それ以上の関係ではない。森子と平岡も同様だし、佐知子と政乃は嫁と姑という関係ではあっても、それぞれが後妻であり家族としてのつながりはやや薄いといえる。

希薄そうな人間関係が、実は互いを支え合う上で重要なつながりになっている。そこに多田尋子の作品らしい世界観があるように思える。夫婦や親子、兄弟姉妹のように深い関係性が強いつながりを持つのはあたりまえで、その強さが逆に呪縛になることもある(「裔の子」などはその血の呪縛が主人公を苦しめていた)。他人同士のつながりだからこそ、客観的に互いを支え合えることができる。『遠い親戚より近くの他人』ということだろう。そうした関係性が救いとなることの方が多いのかもしれない。本書を読むとそう考えてしまう。

 

 

「裔の子」多田尋子/福武書店-家族のつながり、人とのつながり、さまざまなつながりが生み出す関係性はときに人を幸せにし、ときに人を苦しめる

 

 

『多田尋子作品を読む』の第5弾。多田尋子の商業誌デビュー作「凪」を含む4篇が収録された短編集「裔(すえ)の子」を読んだ。

収録されているのは以下の4篇

裔の子 ※第101回芥川賞候補(1989年上期)
殯笛
夢の巣

「裔の子」は、祖母、母、娘と続く女系家族の血のつながりを描く。それは、重い呪縛のように主人公沢子の心を蝕み続ける。
沢子の家は、寺の近くで墓参客に花を売ったり水桶や植木鋏を貸す店を営んでいる。家には、沢子の母と祖母が一緒に暮らしていて、店は主に母が見ている。沢子は寺の保育園で働いていた。

沢子の家には男手はない。祖父の存在も父の存在もほとんど感じられない。連綿と続く女系家族として描かれる。そこに、沢子の縁談話が持ち上がり、彼女は厚夫と結婚して家を出るのだが、祖母は過剰に夫婦に干渉してくる。若い夫婦のことを心配しているというわけではなく、毎日のように電話をかけてきても話のは自分の愚痴ばかりだ。どう話せば祖母や母に自分たちのおかしさをわかってもらえるか。沢子はそう考え続ける。やがて、夫婦の間に女の子が生まれると祖母は夫婦の家に毎日通ってくるようになり、そして事件が起きる。もともと精神的に不安のあった母が自殺未遂を起こすのだ。

祖母や母との関係、母親の自殺未遂、祖母の過剰なまでの干渉、生まれてきた子どもが女の子であったという事実。さまざまな要因が次第に沢子の心を蝕んでいく。女系家族の呪縛から逃れなければならないという強い思いが、そのためにはどうにか男の子を産んで血の因果を断ち切らなければという思いが次第に彼女を追いつめていく。

二人目の子どもを妊娠した沢子は、お腹の子が男の子であることを強く願う。男の子を産むためにあらゆる努力を惜しまない。だが、沢子は結局流産してしまう。そのことが、ついに沢子の理性を崩壊させてしまうのだった。

「殯笛」の『殯』(もがり)を辞書で引くとこう書いてある。(平凡社/百科事典マイペディア)

本葬まで貴人の遺体を棺に納め仮に安置してまつること。喪の一種とみられ,その建物を殯宮(もがりのみや)という。古代皇室の葬送儀礼では,陵墓ができるまで続けられ,その間,高官たちが次々に遺体に向かって誄(しのびごと)をたてまつった。

また、「もがりぶえ」という読みで『虎落笛』と書く言葉もあって、これは「冬の激しい風が竹垣や柵 (さく) などに吹きつけて発する笛のような音」を意味し、俳句の冬の季語である。

「殯笛」は、小さな居酒屋の女将秋代が恩人の葬儀の夜に店をあける準備をしている場面からはじまる。料理の仕込みをし店を掃除しながら、最近亡くなったふたりのことを思い出している。若い頃に結婚も考えていた野田のこと。看護婦だった秋代にこの小さな居酒屋の女将になることを勧めてくれた川津のこと。

『殯』という亡くなった人を偲ぶ慣習と、冬の風が吹きこんで発せさられる『虎落笛』と呼ばれる音との間に言葉としての関連性があるかはわからないが、誰か親しかったり世話になったりした人を失ったときに心の奥にぽっかりと穴があいて、その穴を寂しさという冷たい風がヒューと吹き抜けるのを感じながら、亡き人の記憶を思い起こすことは私たちは誰しも経験することだ。この物語で描かれる秋代も私たちと同様に亡き人の喪失感を感じながら懐かしい記憶を思い出すことで彼らを弔い、自らを慰めている。

「夢の巣」は、小さな劇団が舞台の小説で、これまでに読んできた多田尋子作品の中では異質な作品だ。もっとも、書かれたのはデビュー初期のころなので、多田尋子らしさが固まる前のいろいろなタイプの作品を書いている時期の作品だからそう感じられるのだろう。裏方仕事ばかりでなかなか役をもらえない主人公のユリエが、稽古場で劇団主催者の津村と話すうちに、自分の居場所について、自分の役割について考える。悩める若者の姿を描く作品である。

「凪」は、瀬戸内海の小さな島で暮らすすぎのと彼女が介護している義母カウの生活を描く。1985年1月号の「海燕」に掲載された多田尋子の商業誌デビュー作品だ。70歳をすぎたすぎのと90歳をすぎたカウ。カウは寝たきりですぎのの世話がなければ寝返りをうつこともできない。すぎのが明るいキャラクターとして描かれているので、あまり悲壮感は感じられないが、老老介護の厳しい現実はこの時代からすでに存在していたのだということを考えさせられる。

血がつながっているとか、つながっていないとか、人間関係を語る上でつながりは大切な要素だと思う。ただ、どのようなつながり方であれ、人間同士のつながりには、幸福なつながりもあれば不幸なつながりもある。つながっていることが人を縛りつけてしまうこともあれば、つながっていることで安心感を与えてくれることもある。

この短編集には、いろいろなつながりが描かれている。つながりから生まれるさまざまな出来事がさまざまな物語となって形作られていく。多田尋子に限らず多くの作家がそういう物語を生み出しているのだということを考えずにはいられない。

 

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「単身者たち」多田尋子/福武書店-ひとりであることの自由と不自由。ひとりでいることの安心と不安。単身者であることの意味とは?

 

 

書肆汽水域「体温」から始まった『多田尋子作品を読む』の第4弾として読んだのは「単身者たち」である。書肆汽水域「体温」にも収録されていた短篇「単身者たち」を表題作とする4篇が収録された短編集だ。

 

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単身者たち ※第100回芥川賞候補(昭和63年/1988年下期)
白い部屋 ※第96回芥川賞候補(昭和61年/1986年下期)
夫婦
卒業展

収録作品のうち、「単身者たち」と「白い部屋」が芥川賞候補になっていて、「白い部屋」は第96回、「単身者たち」は第100回でそれぞれ候補になっている。

「単身者たち」については、書肆汽水域「体温」のレビューで書いたので、本レビューでは他の3篇について書いてみたい。

「白い部屋」は、8年前に夫を亡くした量子が夫婦で暮らしてきた公団住宅の部屋をリフォームする話を軸に、夫婦の話、両親との話が淡々と描かれる。とくにドラマチックな話ではなくて、私たちの身近でもあたりまえのように起こっていそうなオーソドックスな話だ。リフォームの様子と並行して、夫婦の話や両親との話が描かれる。結婚前のふたりの関係、新婚旅行で起きたこと、その後の夫婦生活のこと。夫が亡くなり、やがて実家の父が亡くなる。量子は、いつかは母と同居することになるだろうと考えるが、そんな心配をよそに母はむしろ元気になっていく。

「夫婦」は、宗吉とよし子の夫婦の物語だ。宗吉は性欲が旺盛で毎日のようによし子を抱く。よし子は何回か妊娠し、中絶を繰り返す。よし子の身体を気づかって我慢しようと考える宗吉だが、すぐにまた彼女を求めてしまう。話の内容は、ある意味では深刻なのかもしれないが、私はこの作品をコメディとして読んだ。宗吉とよし子の関係は、今の時代からみると古めかしい。よし子は夫を妻として支え、彼の仕事を手伝い、家事育児をこなし、夜は夫の欲望に身を捧げる。そういう夫婦関係があたりまえのようにあった時代があったのだ。発表当時(1988年)にどう読まれたかはわからないが、今の時代にこの夫婦関係は考えられないだろう。コントの設定みたいに感じられるかもしれない。

「卒業展」は、血のつながらない家族を描いている。主人公の真沙子は、美術学校の卒業制作のための部屋を借りることになる。不動産屋に世話してもらった部屋は長屋の四畳半で隣接する八畳間は大家の娘の部屋だという。その娘初子は、大家の養女だという。真沙子は、この部屋で暮らす中で初子と出会い、彼女をモデルにして絵を描く。

本書に収録されている4つの短篇には、多田尋子らしい男女の関係、親子の関係が描かれている。「単身者たち」と「卒業展」は、どちらも第三者からみた夫婦の関係が描かれている。第三者である主人公からみた夫婦の関係は一見すると奇妙で不幸せな印象を受ける。だが、そんな印象とは裏腹に当の夫婦はなんだか幸せそうでもある。

「白い部屋」や「夫婦」は、どちらも夫婦を描く物語だ。
「白い部屋」では、すでに夫は亡く残された量子が夫婦で暮らしてきた部屋をリフォームするが、それは夫婦としての思い出を消し去ってしまおうという意味ではないように思う。量子が思い出を消そうと考えているなら、夫婦で暮らした部屋は出て別の生活をはじめるだろう。
「夫婦」は文字通り夫婦の話で、しかもそれはどこか非現実的な印象をうける。でも、それは今の時代から宗吉とよし子をみるからで、昭和の夫婦とは彼らのような夫婦だった。私の両親も、彼らほどではないけれど、夫が外で働き妻は家庭を守るという価値観で生きてきた。今の時代には古い価値観ではあるが、今でも連綿と生き続けている価値観でもある。

多田尋子の作品は、1980年代後半から1990年代に書かれている。昭和の終わりから平成の始めのころだ。当時を時代背景として描いているから現代の読者からみると古めかしい作品もある。だが、「夫婦」で描かれている夫婦の姿が今でもどこかで連綿と生き続けているように、他の作品で描かれていることも古くてもどこか今の時代に合致していたり、今の時代の閉塞的な雰囲気だからこそ心に刺さったりする。

それが、多田尋子の魅力なのだ。

 

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「秘密」多田尋子/講談社-結婚できる機会があるのに結婚しなかった女性。結婚とは何か。結婚すれば幸せなのか。結婚に対する価値観を問われているような短編集

 

 

書肆汽水域刊「体温」講談社刊「体温」に続いて、講談社刊の「秘密」を読んだ。書肆汽水域「体温」に収録されている「秘密」を含む4篇が収録されている。

毀れた絵具箱
遠い華燭
雑踏
秘密

東京の美術学校に通う朋子は、仕方なく出席した美術関係者の集まりで画材屋に勤める藤倉と出会う。藤倉は、一方的に朋子に思いを寄せ、彼女が授業で使う画材を安く売ってくれたり、帰省するときにはアパートから駅まで送り迎えしてくれたりと、過剰と思えるほどに接してくるようになる。朋子は、藤倉の存在を鬱陶しく不気味に感じているが、きっぱりと拒絶することもなく彼の好意に甘えてしまっていた。(「毀れた絵具箱」)

雑な言い方をしてしまうと、「毀れた絵具箱」はストーカー小説である。藤倉は、画材店の客である朋子に一方的に惚れ込み、宴会の帰りにわざわざ彼女を家まで送り、頼んでもいないのに画材や荷物の運搬を手助けする。朋子は遠回しに藤倉を拒絶するのだが、彼は「ぼくはきらわれていることをようく知ってます」と意に介さない。それどころか、藤倉は朋子に「結婚してほしい」と告げるのだ。朋子が先輩の酒井に頼んで恋人のフリをして断っても「ぼくは絶対にあきらめませんよ」と言う。

藤倉のような粘着質の男は、同じ男性である私からみても気持ち悪い。朋子も彼に付きまとわれるのは迷惑なのだが、何かと世話をしてもらえているので強く拒絶することができなくて、そこにつけこまれている。藤倉の巧妙さは、ある一線を踏み越えてまで執着しないところだ。物語が進んでいくと、藤倉は一時的に朋子の前から姿を消す。それにより朋子は、嫌いだったはずの藤倉の存在が逆に気になってしまう。そうして、常に藤倉は自分の存在を朋子に意識させ続けていく。実に厭な感じの作品だった。

「遠い華燭」は、これまで読んできた多田尋子作品の中ではじめての男性主人公の作品だった。大学生の耕司がようやく就職を決めたところから物語ははじまる。彼には、淳子という恋人がいるのだが、この淳子がなかなかに曲者で、耕司を振り回す。淳子は同じ大学生で、耕司よりも優秀だし家庭環境にも恵まれている。性格は真面目だが、それゆえに何を考えているのかよくわからないところがあって、耕司を困惑させる。

淳子は自立しているようでいて、実は依存性が高く関わった人間に重いと感じさせる女性だ。耕司の就職活動や、働き始めてからの仕事ぶりにも「帰りが遅い」「なぜ残業するのか」などとよく口を出す。耕司は次第に彼女への気持ちが冷めていく。そんなときに同じ会社の先輩社員友子と出会う。耕司からみた朋子は、真に自立した女性で淳子とは正反対の女性だった。

恋人の行動に悩まされ、このまま関係を続けるべきか悩む耕司は友子に相談相手になってもらっているうちに恋愛感情を抱くようになる。淳子との関係を続けるか、彼女と別れて友子を選ぶか。最終的に彼が下した決断は正しかったのか。優柔不断な男の末路を考えさせられる。と同時に、この物語の本当の主役は友子なのだということもわかってくる。

デパートの店員として働く網子は、お店が終わった帰り道で野島という若い男に声をかけられる。彼は、その直前にデパートの閉店間際に飛び込んできてネクタイピンを買っていった客だった。その出会いをきっかけに網子は野島と付き合うようになる。ふたりは付き合いを重ね、結婚を意識する年齢になっていく。野島は結婚を願望していたが、網子の方には結婚に踏み出せない事情があった。(「雑踏」)

本書のあとがきで著者は、「この作品集には、機会があったのに結婚する生きかたの方をえらべなかった女たちがたまたまそろってしまった」と記している。「雑踏」の網子は収録されている4篇に登場する『結婚をえらべなかった女性』の典型的なケースといえるかもしれない。網子が野島との結婚に踏み出せない理由はいくつかある。デパートに入社して間もない頃に出会った吉野という先輩社員の生き方への憧れ。父親もわからないまま網子を身ごもって出産し、そしてまた違う男の子どもを身ごもった末に子宮外妊娠で命を落とした母海子の存在。

表題作となっている「秘密」の主人公素子も、自分の出生の秘密とその秘密を共有する兄との関係から自分は結婚しないと決めて生きることを選ぶが、そこは「雑踏」の網子との共通項かと思う。網子や素子のように、自分の置かれた環境や過去の秘密を理由にして結婚を諦める女性は、おそらく今の世の中にはほとんど存在しないだろう。そもそも、「雑踏」「秘密」が書かれた1990年から1992年ころでも、そんな古臭い考えで結婚を諦める女性はほとんどいなかったと思う。

「毀れた絵具箱」の朋子や「遠い華燭」の友子のように、自分や相手の気持ちや態度から結婚に至らなかった女性たちがいる一方で、網子や素子のように自らの育ってきた環境によって結婚そのものを考えられない女性がいる。本書に登場するのは、結婚に対するさまざまな価値観だ。物語は女性の結婚観として描かれているが、同じことは男性にもいえることだと思う。結婚とはなにか。何が本当の幸せなのか。そんなことを考えたくなる短編集だった。

 

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「体温」多田尋子/講談社-『男性の存在感』が描かれる4つの短篇を収録する作品集

 

 

書肆汽水域から刊行された「多田尋子作品集 体温」で、多田尋子という作家の存在を知った。30年以上前に書かれた作品であり落ち着いた大人の恋愛を描く短篇小説は、古さを感じさせるが、それでいてどこかに新しさも感じさせて、「こんな作家がいたのか」という驚きがあった。

多田尋子の過去作品を読んでみたいと思った。残念ながら新刊書店で入手するのは困難で古書価も高いので購入するのは難しいが、幸いにして地元の図書館に蔵書があったので予約した。まず、書肆汽水域版でも表題作となった「体温」を含む短編集「体温」(講談社刊)を読む。

表題作を含む4篇が収録されている。

やさしい男
焚火
オンドルのある家
体温

「やさしい男」は、25歳以上年の離れた男性と結婚した組子が主人公。彼女は、夫の俊男が30年以上前から暮らしてきた公団住宅で、夫と息子の洋一と暮らしている。俊男には精神を病んだ常子という前妻がいて、彼は彼女をずっと支え続けてきた。常子は、俊男にだけは暴力的で攻撃的な態度をみせてくるような状態で、彼は常に彼女に振り回されてときに怪我をしたりもしてきたが、彼女を見捨てることはしなかった。常子と離婚し組子と再婚した今になっても、入院している常子の見舞いに行っている。それは、組子にとっては不愉快でもあるが、同時に好きなところでもあった。

『やさしい男』とは俊男のことだ。彼の存在をどう読むかによって、この作品の印象はだいぶ異なってくると思う。俊男の常子に対する気持ち、組子に対する気持ちは、やさしいという言葉だけでは片付けられない。彼のやさしさを否定的にみれば、優柔不断で八方美人である。計算高いととらえる人もあるかもしれない。ここまで善人にはなりきれないとも思う。一方で、自分との生活の中で精神を病んでしまった常子を献身的に支え続ける俊男を責任感の強いやさしい男としてとらえる人もいるだろう。読者にさまざまな印象を与える作品だと感じる。

「焚火」の主人公葦子は、幼稚園につとめる独身の女性である。物語は、彼女がまだ若いころに出会った園児の父西野との関係を描く。といっても不倫というわけではない。お互いに相手のことは思っているけれど、恋愛に発展するわけではなく、良き相談相手の関係だ。ときどきふたりであって酒を酌み交わし食事をする。それ以上の関係にはならない。そこがいい。妻子のある男と独り身の女が出会い恋に落ちる。その先にはお決まりのようにセックスがあり、ドロドロした恋愛模様が展開する。そんなお決まりのような『大人の恋愛物語』ではなく、地に足のついたリアルな大人の関係が、葦子と西野の関係として描かれているのだ。落ち着いた気持ちで読める。

「やさしい男」の俊男、「焚火」の西野、「体温」の小山は、いずれも組子や葦子、率子にとって尊敬する存在、頼れる存在の男性である。だが、「オンドルのある家」の梶は真逆の存在だ。物語は、寝たきりの伯母と暮らす季子が30年ぶりの友人ふじ子を駅で待っている場面からはじまり、季子の過去が描かれる。季子は、明確に自分の意志を持って生きるタイプの女性ではない。周囲に流されるように生きてきた。彼女を翻弄するのが梶であり、典型的なダメンズである。

「やさしい男」「焚火」「オンドルのある家」と並べてみると「体温」については、書肆汽水域版の作品集で読んだときとは違う印象を受けた。それは、本書全体を通じて描かれるテーマ性によるものだろうと思う。

私は、本書の4つの短篇の共通性は『男性の存在感』だと感じている。主人公はいずれも女性で、女性の目線で物語は記されているが、そこに描かれるのは主人公たちと対峙する男性たちの姿だ。精神を病んだ前妻への責任を果たそうとする俊男。葦子の良き理解者として大人の対応でこたえてくれる西野。どうしようもないダメンズの梶。亡き友の妻だった率子の相談相手として彼女に優しい愛情を注ぐ小山。4人はそれぞれに違うキャラクターであり、読者はさまざまな感情をもって彼らのことを読み解こうとする。共感するところもあるし、嫌悪するところもある。男の良いところ、悪いところ、強いところ、弱いところがみえる。

作品としてはやはり古いし、特にケレン味があるわけでもない。オーソドックスなスタイルの小説だと思う。だが、その飾らないところが逆にいま読むと新鮮なのだと、改めて感じた。

 

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