タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「単身者たち」多田尋子/福武書店-ひとりであることの自由と不自由。ひとりでいることの安心と不安。単身者であることの意味とは?

 

 

書肆汽水域「体温」から始まった『多田尋子作品を読む』の第4弾として読んだのは「単身者たち」である。書肆汽水域「体温」にも収録されていた短篇「単身者たち」を表題作とする4篇が収録された短編集だ。

 

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単身者たち ※第100回芥川賞候補(昭和63年/1988年下期)
白い部屋 ※第96回芥川賞候補(昭和61年/1986年下期)
夫婦
卒業展

収録作品のうち、「単身者たち」と「白い部屋」が芥川賞候補になっていて、「白い部屋」は第96回、「単身者たち」は第100回でそれぞれ候補になっている。

「単身者たち」については、書肆汽水域「体温」のレビューで書いたので、本レビューでは他の3篇について書いてみたい。

「白い部屋」は、8年前に夫を亡くした量子が夫婦で暮らしてきた公団住宅の部屋をリフォームする話を軸に、夫婦の話、両親との話が淡々と描かれる。とくにドラマチックな話ではなくて、私たちの身近でもあたりまえのように起こっていそうなオーソドックスな話だ。リフォームの様子と並行して、夫婦の話や両親との話が描かれる。結婚前のふたりの関係、新婚旅行で起きたこと、その後の夫婦生活のこと。夫が亡くなり、やがて実家の父が亡くなる。量子は、いつかは母と同居することになるだろうと考えるが、そんな心配をよそに母はむしろ元気になっていく。

「夫婦」は、宗吉とよし子の夫婦の物語だ。宗吉は性欲が旺盛で毎日のようによし子を抱く。よし子は何回か妊娠し、中絶を繰り返す。よし子の身体を気づかって我慢しようと考える宗吉だが、すぐにまた彼女を求めてしまう。話の内容は、ある意味では深刻なのかもしれないが、私はこの作品をコメディとして読んだ。宗吉とよし子の関係は、今の時代からみると古めかしい。よし子は夫を妻として支え、彼の仕事を手伝い、家事育児をこなし、夜は夫の欲望に身を捧げる。そういう夫婦関係があたりまえのようにあった時代があったのだ。発表当時(1988年)にどう読まれたかはわからないが、今の時代にこの夫婦関係は考えられないだろう。コントの設定みたいに感じられるかもしれない。

「卒業展」は、血のつながらない家族を描いている。主人公の真沙子は、美術学校の卒業制作のための部屋を借りることになる。不動産屋に世話してもらった部屋は長屋の四畳半で隣接する八畳間は大家の娘の部屋だという。その娘初子は、大家の養女だという。真沙子は、この部屋で暮らす中で初子と出会い、彼女をモデルにして絵を描く。

本書に収録されている4つの短篇には、多田尋子らしい男女の関係、親子の関係が描かれている。「単身者たち」と「卒業展」は、どちらも第三者からみた夫婦の関係が描かれている。第三者である主人公からみた夫婦の関係は一見すると奇妙で不幸せな印象を受ける。だが、そんな印象とは裏腹に当の夫婦はなんだか幸せそうでもある。

「白い部屋」や「夫婦」は、どちらも夫婦を描く物語だ。
「白い部屋」では、すでに夫は亡く残された量子が夫婦で暮らしてきた部屋をリフォームするが、それは夫婦としての思い出を消し去ってしまおうという意味ではないように思う。量子が思い出を消そうと考えているなら、夫婦で暮らした部屋は出て別の生活をはじめるだろう。
「夫婦」は文字通り夫婦の話で、しかもそれはどこか非現実的な印象をうける。でも、それは今の時代から宗吉とよし子をみるからで、昭和の夫婦とは彼らのような夫婦だった。私の両親も、彼らほどではないけれど、夫が外で働き妻は家庭を守るという価値観で生きてきた。今の時代には古い価値観ではあるが、今でも連綿と生き続けている価値観でもある。

多田尋子の作品は、1980年代後半から1990年代に書かれている。昭和の終わりから平成の始めのころだ。当時を時代背景として描いているから現代の読者からみると古めかしい作品もある。だが、「夫婦」で描かれている夫婦の姿が今でもどこかで連綿と生き続けているように、他の作品で描かれていることも古くてもどこか今の時代に合致していたり、今の時代の閉塞的な雰囲気だからこそ心に刺さったりする。

それが、多田尋子の魅力なのだ。

 

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