タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「おもろい以外いらんねん」大前粟生/河出書房新社-面白い以外はいらないけれど、面白ければなんでもいいというわけではない

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2021年のM1-グランプリで、50歳と43歳のコンビ錦鯉が優勝したことが話題になった。M1はコンビ結成15年以内という参加条件があり、若手漫才師の登竜門的な位置づけになると思うのだが、そこで合わせて93歳という中年コンビが優勝したのは、芸人を目指す人にとっては希望となったかもしれない。

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これはお笑いコンビ〈馬場リッチバルコニー〉が解散するまでの話。

 

大前粟生「おもろい以外いらんねん」は、その一文から始まる。物語は、“俺”(咲太)の視点で語られる。〈馬場リッチバルコニー〉は、俺の友人であるタッキーとユウキが結成したコンビだ。俺とタッキーとユウキは高校の友人で、タッキーとユウキは文化祭で漫才を披露した。本書の前半の半分くらいまでは、タッキーとユウキが〈馬場リッチバルコニー〉としてコンビを組み、文化祭で漫才を披露するに至るまでの3人の関係性と“俺”がふたりに対して抱く劣等感というか、ふたりと自分との間にある疎外感のようなものとの葛藤を描いている。

文化祭から10年。〈馬場リッチバルコニー〉はプロの芸人となり8年が過ぎた。お笑いファンの間での知名度はあるし単独ライブも満員になるが、まだ高い人気とまではいかない中堅若手コンビだった。新型コロナのパンデミックでお客さんを入れたライブや劇場公演ができなくなり、芸人たちはネットの配信番組などで糊口をしのいでいた。

〈馬場リッチバルコニー〉がプロになってからの物語は、プロの芸人が読んだら相当にリアリティがあるのだろうなと思う。実際、本書を読んで高く評価している芸人もいるようだ。私のような素人には、現実味はなかなか感じられるものではないが、コンビの関係性だったり、コロナ禍で芸人としての仕事が激減したり、お客さんの前でライブができないことで悩んだりすることは、共感とはいかないまでも理解できる気がする。

また、本書はあるお笑いコンビと彼らを見守る友人の葛藤だけを描いているわけではない。女性芸人の容姿いじりに対する違和感であったり、現代社会の有するさまざまな問題を受けて変化を求められていくお笑いの世界の苦悩もしっかりと盛り込まれている。タイトルの「おもろい以外いらんねん」には、「面白い以外の要素は不要」という意味とともに、「面白ければなんでもいいというわけではない」という意味も込められていると思う。そこが本書をただの芸人青春小説で終わらせていない要因なのではないだろうか。

錦鯉が優勝した2021年のM1には、6017組の漫才師がエントリーしていた。芸人として活動する人はさらにもっといるわけで、私たちのようなテレビでちょっとバラエティ番組をみているという程度の一般人にも知ってもらえるような芸人は、その大勢いる中でもほんの一握りでしかない。そのわずか一握りの存在になるために彼らは日々闘っている。生活のためにアルバイトをし、舞台に立ち続けている。夢と希望を胸にひたむきに頑張る姿はキラキラしてみえるが、その反面でなかなか日の目を見ないままに年齢を重ねていく姿には悲壮感も感じてしまう。そういう悲喜こもごも含めて芸人なのかもしれないが。

〈馬場リッチバルコニー〉も、いろいろと紆余曲折がありながら、ラストにはコンビとしてのある決断をする。それまでに少なからずも積み上げてきた実績を捨てて、新しく次の一歩を踏み出していくことは勇気のいることだろう。しかし、変化をおそれて現状にとどまっていては何も成長はできない。それは芸人の世界だけではなく、どのジャンルの世界でも共通していることだ。その共通点が胸にストンと落ちた時にこの小説の良さが実感できたように思う。

 

「スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星」ディー・レスタリ/福武慎太郎監訳、西本恵子訳/上智大学出版(刊行)、ぎょうせい(発売)-インドネシアを代表する作家ディー・レスタリのデビュー作。SFファンタジーっぽいタイトルだけど、さて実際は?

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「はじめての海外文学vol.6」で翻訳家の芹澤恵さんが推薦している「珈琲の哲學」の著者ディー・レスタリの小説家デビュー作品である「スーパーノヴァ」シリーズの第1巻が翻訳出版された。

「珈琲の哲學」のレビューにも書いたが、ディー・レスタリは現代インドネシアを代表する作家である。その作家のデビュー作である「スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星」は、2001年に自費出版本として刊行された。本書の冒頭に「『スーパーノヴァ』シリーズ日本語版への序文」として、本書日本語版のために著者が書いた序文が掲載されているが、そこには次のように書かれている。

最初は自費出版でした。初版七千部の出版費用のために私はすべての蓄えを掃き出しました。当時の私にとって七千部というのは、私がお婆さんになるまで売り続けなければならない途方もない数字だと思っていました。

しかし、著者の懸念は杞憂に終わる。初版7000部は最初の2週間で完売し、本書をきっかけに著者は職業作家としての人生を歩むことになる。スーパーノヴァシリーズは、その後2016年までに第6巻まで執筆、刊行される人気シリーズとなり、ディー・レスタリはインドネシア現代文学の顔となった。

記念すべきシリーズ第1巻となる「スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星」は、そのタイトルからSFファンタジーのような内容を想像するが、実際はそうではない。帯には『サイエンス・ラブストーリー』とあるように、恋愛小説である。だが、一風変わったテイストの物語になっている。

物語は、大きく分けて3つの登場人物パートがある。騎士と姫と流星が登場する小説を執筆しようとしている同性カップルのディマスとレウベン。多国籍企業の若きエリートのフェレー(作中では「レー」と呼ばれている)と彼を取材し恋におちることになる雑誌記者のラナ。トップモデルである娼婦でもあるディーヴァ。この3つのパートに加えて、インターネット上に現れ、人生相談や生きづらさを抱えた人たちへのメッセージを発信する謎の人物スーパーノヴァが存在し、それぞれが相互に絡み合ってストーリーを展開していく。

基本的にはディマスとレウベンが執筆している小説の中に登場する人物が、フェレーでありラナでありディーヴァでありスーパーノヴァとなるという作中作の構造なのだが、読んでみるとそんなに単純でもない。小説を書こうとしているディマスとレウベンの物語とフェレーとラナ、そしてディーヴァの物語はどちらもリアルで並行に進捗していて、あたかも作中作として連携しているように読める構成に仕立てているとも言える。その、ある意味で曖昧さを演出しているのが“スーパーノヴァ”という存在だとも言えるかもしれない。

どのような読み方をするのかは読者の感性だし、作品の解釈には正解も不正解もないと思うので、本書をどう読むかは読み手の数だけ千差万別だろう。私は、最初は作中作として読んでいたが次第にその構造に疑問を覚えるようになり、最終的には「これはひょっとすると作中作にみせて実はリアルな並行するふたつのストーリーなのでは?」と考えるようになった。もちろん、それが正解だとは言えない。

このようにいろいろと考えさせてくれるのが本書の魅力であり、その魅力が受け入れられたから自費出版の初版7000部が完売し、その後シリーズとして継続して第6巻まで書かれるような作品になったのだと思う。まだ翻訳は第1巻の本書だけだが、ぜひ今後も翻訳が進んで第6巻まで刊行されてほしいと思う。

 

 

 

「同志少女よ、敵を撃て」逢坂冬馬/早川書房-少女は戦争という狂気の世界でスナイパーとして生き抜いていく

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第11回アガサ・クリスティー賞を受賞したデビュー作品。受賞が決まったことがTwitterで流れてから、選考委員をはじめ早川書房のアカウントやゲラ読みやプルーフ読みしたと思われる書店員さんや書評家さんたちから次々と絶賛のツイートが流れてくるようになり、その前評判の高さに期待が高まっていた。と同時に、あまりに前評判が高すぎるような気がして、実際に読んだら案外ハマらないかもとも思っていた。

しかし、すべては杞憂であった。評判通り、いや評判以上に面白かった。私が勝手に抱いていた期待値の高いハードルをやすやすと超えてきた。

舞台は第二次世界大戦最中の独ソ戦。その戦闘の最前線で戦った若き女性狙撃兵の成長と苦悩、そして戦争がもたらす狂気が描かれていく。巻末にあるロシア文学沼野恭子さんの「推薦のことば」にも記されているが、独ソ戦を戦ったソヴィエトの女性兵士たちの証言を集めたノーベル文章作家スヴェトラーノフ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」(三浦かおり訳/岩波現代文庫)に出てくる女性狙撃兵の同書では語られなかった戦地での物語を具現化したような物語は、まさに“戦争のリアル”を描ききっていると感じる。

物語のプロローグは1940年5月。イワノフスカヤ村という小さな村に暮らすセラフィマは、忍び寄る戦争の足音もまだ知らぬままでいた。母とともに猟師として暮らすセラフィマだが、ある日その平穏な暮らしが一変する。村がドイツ兵によって全滅させられ、ドイツ狙撃兵“カッコー”によって母は命を奪われる。彼女自身はドイツ兵の慰みものとなる寸前、ソ連赤軍によって命を救われるが、その指揮をとっていたイリーナの行為に憎悪し、母を殺したカッコーとイリーナへの復讐を胸に刻む。

物語の主人公はセラフィマ。生まれ故郷をドイツ兵たちに破壊され、家族の思い出をイリーナによって奪われた。その憎きイリーナによって、彼女は一流のスナイパーとして訓練され、同じくイリーナに訓練されたシャルロッタ、ヤーナ(ママ)、アヤ、オリガとともに第39独立小隊として戦闘の前線へと足を踏み入れていく。

第二次世界大戦独ソ戦においてソヴィエト軍が女性兵士を多数戦線に投入していたことは、アレクシエーヴィチ「戦争は女の顔をしていない」をはじめとする文献等に記されている。「同志少女よ、敵を撃て」は、その歴史的事実や戦争の記録を背景にして、将来の夢や希望、愛情に満ち溢れていたはずの少女たちが、戦争によって家族や故郷を失い、その復讐のために過酷な訓練を生き抜き、さらに過酷な戦場へと駆り立てられて、敵兵と戦うというプロセスの中で、女性としてだけでなく人間としての根幹となる部分を少しずつすり減らし、兵士の顔へと変貌していく姿が描かれている。第39独立小隊の少女たちがどのように変貌を遂げていくか。そして、戦争が人間をどのように変えてしまうのか。その異常な世界の中で壊れずにいることがいかに困難であるか。「同志少女よ、敵を撃て」にはそういうさまざまな要素が盛り込まれていて、単なる戦争小説ではない世界が小説世界に存在している。

セラフィマたちが戦った戦争は、いつか終わりを迎える。ドイツはソヴィエト戦線で敗北しベルリンも陥落する。戦争が終わった後、スナイパーとして、マシーンとして戦ってきた少女たちはどのように生きる目的を見出すのか。なにより彼女たちは、この過酷な戦場を生き延びることができるのか。生き延びた先に何があるのか。ラストに描かれる少女たちの未来に戦争の愚かさを感じざるを得なかった。

 

 

 

「組織のネコという働き方 「組織のイヌ」に違和感がある人のための、成果を出し続けるヒント」仲山進也/翔泳社-“組織のトラ”にはなれなくても、“組織のネコ”として少し自由に働ければいいんじゃないか

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会社という組織で働いているといろいろなタイプの人材がいる。私が接してきた人の多くは、会社が決めたことや上司の指示に従って、組織としての目標を果たすために忠実に働くタイプだったように思う。私も、どちらかというとそういうタイプの人材かもしれない。

本書では、組織に属する人材を4つ動物に例えて分類している。ライオン、トラ、イヌ、そしてネコだ。

“組織のライオン”は、組織を統率するリーダーとしての人材。ライオンは群れで行動する動物であり、群れのリーダーが仲間を統率して生きていることから、リーダーシップ型人材をライオンに例えている。マネージメント能力の高い人材だ。

“組織のトラ”は、卓越した能力や人脈などを有し個人としてのパフォーマンスが高い人材。トラは群れではなく個々に生きる動物であり、かつ力強さがある。組織の論理にはあまり与しないが、個人としての能力が高く、何をしているかわからないけど成果を上げていて組織外からの評価も高い人材だ。

“組織のイヌ”は、組織に忠実で指示された任務を着実にこなす人材。イヌは飼い主に従順でしつけられたとおりに忠実に飼い主に従う動物であることから、組織や上司に忠実な人材をイヌに例えている。決められた職務を確実に遂行する能力がある。

“組織のネコ”は、パフォーマンスこそイヌだけど、ただイヌのように忠実であるだけでなく、ときに自分の論理で行動できるタイプの人材。ネコは飼い主に対してツンデレな動物であるが、ネコタイプの人材も同様で、絶対的に組織や上司に忠実であるわけではなく、時と場合によっては自分の考えで行動できる人材である。

本書は、「Biz/Zine」というWebサイトの連載「トラリーマンに学ぶ「働き方」」の記事をもとに書かれたものである。著者が連載の中で対談した“組織のトラ”たちのエピソードを中心に、トラとしての働き方が紹介され、そこから“組織のトラ”となるための“組織のネコ”としての生き方が書かれている。新しい働き方を模索している人には参考になる部分も多い。

これまで、日本の会社組織は“組織のライオン”によって統率された“組織のイヌ”が、職務を忠実に遂行するという組織人材モデルによって運営されてきた。しかし、そのモデル構造は機能しなくなってきている。そういう中で、私たちのような“組織のイヌ”として生きてきた人間がシフトしていかなければならないのが、“組織のネコ”という働き方であり、さらに上を目指すのであれば“組織のトラ”なのであろう。

一方で、これまで“組織のイヌ”として、ある意味組織に守られてきたた私たち世代の人間が、いきなり“組織のネコ”に変身できるかというとそれは難しい。“組織のネコ”は、自分の考えで行動できるが、同時に責任も伴う。自分の行動にしっかりとした責任を持てるかが“組織のネコ”に変われるか否かの分岐点かもしれない。

また、会社が社員に“組織のネコ”として自立した人材像を求めるのであれば、個人が自由に動き、かつ過剰に責任を求めない度量を持つことが必要になる。自由に動ける環境と適度なバックアップ、サポートを行うことが、これからの組織マネジメントには求められると思う。

最近会社で新しい働き方を考えようという話があって、私は直接そのワーキンググループに入っているわけではないのだがメンバーの考えを聞く機会があった。その話を聞いている時に思い浮かんだのが本書だった。読んでいくうちに、“組織のネコ”という働き方が自分にとっては理想に近い働き方だと思った。

私も会社員として組織に属して働ける期間も残り少なくなってきている。もちろん、まだまだ10年以上はあるが、10年はあっという間に過ぎていってしまうものだ。次のステップに向けて何かを始めようと思ったら、今から動き出さないと間に合わないかもしれない。将来の安心のためにも今から備えておきたいと思う。

 

「残月記」小田雅久仁/双葉社-9年ぶりの新刊。月をめぐる3つのストーリーは鋭く胸に突き刺さり、果てしない余韻を残す。

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「本にだって雄と雌があります」(新潮社)でわれわれ本好きのハートをがっちりと鷲掴みにした小田雅久仁の待望の新刊が刊行されるという話がTwitter上で目につくようになってから、ずっと発売日を待ち焦がれていた。日本の小説で刊行前から気になって、発売日をワクワクしながら心待ちにしたのは初めてかもしれない。

「残月記」は、表題作を含む3つの作品が収録されている。

そして月がふりかえる
月景石
残月記

ボリュームとしては「残月記」が全体の半分くらいで、残りを「そして月がふりかえる」と「月景石」が分け合っている。

まずいきなり「そして月がふりかえる」で小田雅久仁の世界に引きずり込まれる。苦労して大学准教授の職を得て、本を出し、テレビのコメンテーターとしても知名度を得た主人公・大槻高志。彼は、妻の詩織と小学校に入学したばかりの泰介、3歳になる長女の美緒との生活を大切にし、家族揃って外食する習慣を守り続けている。家から近い地元の落ち着いたファミリーレストランが家族の行きつけだ。その日も家族はいつものようにファミレスに行き、いつもように家族の時間を過ごしていた。高志がトイレに行くまでは…

誰もが月を見ている。そんな平凡な光景が不穏なパラレルワールドの入口になることを誰が予想できるだろう。そして、主人公が陥っていく、自分が自分ではない世界で感じる不安と困惑、そして異常さ。そういった不条理な世界がそこには広がっている。

「月景石」でも、月は私たちが存在する場所ではない異世界として存在する。若くして亡くなった叔母の形見となった“月景石”には、地球を仰ぎ見る大きな木を描いたかのような模様がある。叔母は「この石を枕の下に入れて眠ると月に行ける」と言う。「でも、絶対にやっちゃ駄目だよ。悪い夢を見るから」と付け加える。月日は流れ、月景石を枕の下に入れた主人公が見た夢は、悪夢なのかそれとも予知夢なのか。月の世界に広がる悪夢のような世界は、破滅へと突き進むこのリアルな世界に警鐘を鳴らしているようにも感じられる。

「そして月はふりかえる」と「月景石」、どちらも最高な作品だが、やはり本書の中では「残月記」が素晴らしい。

「残月記」は近未来のディストピアと化した日本を舞台する作品。月昂という感染症が世間を震撼させる中、西日本大震災という未曾有の大災害が発生した日本は、下村拓を為政者とする独裁国家となっていく。主人公である宇野冬芽は、幼い頃に母親が月昂を発症して亡くなり孤児院で育った。成長した彼も月昂を発症し、隔離されることになる。そして、独裁者・下村のサディスティックな悪趣味の道具として、不条理な戦いの場へと引きずり出されることになる。

独裁者による横暴な政治、月昂という恐怖の感染症、そして25万人以上の死者を出した未曾有の大災害。小説という想像の世界で日本は、想像を絶するようなディストピアとして存在する。しかし、ひとつひとつを見れば、このディストピアな日本は、リアルでも存在する可能性がある日本だ。独裁的な政治指導者の語る言葉になんらの不信も感じず、彼らの不正を追求することなく見逃している国民の姿は、小説の世界ではなく私たちの現実に存在している。であれば、「残月記」に描かれるディストピアな日本は、もしかするとリアルに将来私たちの前に現れる国家像であるのかもしれない。

「残月記」には、ディストピアな日本の将来像に対する不安だけではなく、そうした絶望的な社会の中で生き延びていこうとする人間の強さと純愛も描かれている。絶大な権力で人心を掌握する独裁者と独裁者の手の中で転がされながらも深く繋がり合う冬芽と瑠香の姿。その対比が読者に緊張感を与え、そしてラストに訪れる展開に胸を鷲掴みにされるのだ。

私にとって「残月記」は、ここ数年、いや十数年に読んだ作品で、間違いなくトップ3に入るほど感動した作品だった。今年(2021年)も1ヶ月を切ったが、2021年に読んだ本の中で圧倒的にナンバーワンの作品だと思う。

 

 

「失われた賃金を求めて」イ・ミンギョン/小山内園子、すんみ訳/タバブックス-“韓国”を“日本”に読み替えても何の違和感もないという悪しき現実

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韓国で、女性がもっと受け取れるはずだった賃金の金額を求めよ

と、本書「はじめに」の冒頭に書かれているとおり、イ・ミンギョン「失われた賃金を求めて」は、韓国における男女間での賃金格差について、その要因となるさまざまな男女間の差別を記している。

OECD経済協力開発機構)が毎年公表している加盟国の男女賃金格差に関するデータによれば、韓国は男女賃金格差が大きく31.48%(2020年最新データ)でOECD加盟国の中でワースト1位となっている。本書「はじめに」では、2016年データで36.7%とあるので4年で少し格差が縮まっているが、ワースト1位は不動である。ちなみに、日本の男女賃金格差は22.52%となっていて、イスラエルの22.66%に次いでワースト3位に位置している。これも2016年は24.6%でワースト2位だったから多少改善されたとみることはできる。あくまでも“データ上は”だ。ついでに書いておくと、韓国、イスラエル、日本は不動のワースト3カ国になっていて、その中でも韓国は他の追随を許さない安定したワースト1位を確立し続けている。

著者は、男女間での賃金格差が生まれる要因となる差別の問題について、さまざまな角度から記している。各章のタイトルを並べてみる。

1.昇進 止まっているエスカレーター
2.考課 「ふりだしに戻る」と「3つ前へ」
3.同一職級 傾いた床
4.与えられた条件 ハイヒールと砂袋
5.雇用安定性 消えていく女性たち
6.就職
7.進路選択
8.達成度評価
9.資源

例えば「昇進」について言えば、女性が昇進コースに乗ることは男性に比べると圧倒的に少ない。それでも、実力や努力で企業のトップに昇りつめる女性もいる。実力主義の社会ではそれは当たり前のことだ。だが、女性が実力や努力を認められるには、男性の実力や努力を凌駕していなければならないし、同じ実力同じ努力であれば女性よりは男性の方が昇進できる。

昇進コースに乗ることはエスカレーターに乗ることであり、男性にはエスカレーターが当然のように存在しているが、女性は壁をよじ登らなければいけない。最近になって女性にもエスカレーターが用意されるようになったが、なぜかそのエスカレーターはいざ乗り込もうとすると点検中で動いていないと著者は記す。

昇進すれば当然に賃金は上昇する。昇進エスカレーターに乗り込めた男性はスムーズに上の職級に昇り高い賃金を得るが、点検中のエスカレーターにあたってしまった女性は結局自分の足で(すなわち努力で)止まっているエスカレーターを登らなければ昇進できず高い賃金も得られない。

日本でも昇進に伴う男女の賃金格差は生まれている。厚生労働省が公表している「賃金構造基本統計調査」の報告書には「性別にみた賃金」のデータが掲載されているが、令和2年のデータでは、男性がもっとも高い賃金を得られるのは55歳~59歳のときで420,100円なのに対し、女性は50歳~54歳のときで274.700円である。男性は35歳を過ぎると30万円以上の賃金を得られるようになり、50代で40万円以上を得ているが、女性は生涯を通じて30万円を超えることはない。これは、男女間の昇進格差によるものだと言える。このことは、西口想氏による本書解説でも触れられていて、この賃金格差が年金支給額にも影響を与えるため、男女の賃金格差は老後の年金格差にもつながっていると指摘している。

昇進差別以外にも、仕事の成果に対する人事考課であったり、同じ仕事をしているにも関わらず賃金格差があったり、就職活動時の差別やそれ以前の進路選択や能力レベルに対する評価の格差など、女性だからということでハードルが極端に高くなったり、男性だからという理由で障壁が取り払われたりというありとあらゆる事実を、著者は実際に企業や学校で起きた事例を多数あげて明らかにしていく。

韓国発のフェミニズム小説やノンフィクションで多数言われていることだが、こうした男女間での差別の根源には家父長制の存在があり、その呪縛が古来より延々と女性たちを苦しめている。男性は働いて稼ぎ家族を養う存在であり、女性は男性を支えて家庭を守る存在であるという呪縛。その呪縛から逃れられない限り、男女間の差別は今後は延々と続いていくことになるだろう。

本書は“韓国の”男女賃金格差の問題を記しているが、“韓国”を“日本”に置き換えても、すべてのことが何らの違和感もなく読み込める。先にも記したように日本でも男女間の賃金格差はデータとして確実に存在しているし、2018年に明らかになった各大学の医学部における不正入試問題に代表されるような女性に対する進学や就職における差別もある。妊娠、出産、育児によりキャリアを諦めざるを得なくなるのは圧倒的に女性の方だ。

こうしたジェンダー格差の問題は、女性だけが努力してどうにかなる問題ではない。第一、これまで女性はずっと努力をし続けてきたのだ。これ以上なにを努力しろというのか。性別によって格差が生まれているという状況がおかしいことを、いい加減にすべての男性は認めなければいけない。男性とか女性とかの違いでエスカレーターが動いたり止まったりすることがなく、同じ仕事をしていれば性別で評価レベルが違ったり賃金が違ったりしない。結婚、妊娠、出産、育児でキャリアを諦める必要はなく、同じ実力、同じ努力であれば同じ土俵の上で同じ指標で正しく評価される。そういう社会にしなければいけない。

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付属の赤いシートを表紙や章扉にかざすと見えてくる現実とは?

 

「東京ゴースト・シティ」バリー・ユアグロー/柴田元幸訳/新潮社-オリンピックとコロナに翻弄される東京の町で作家が出会う人と幽霊たちとの奇妙なストーリー

 

 

2020年春、新型コロナウィルスの急激なパンデミックにより、世界中でロックダウンが行われた。バリー・ユアグローが暮らすニューヨークも厳しい措置がとられ、そのロックダウンに閉じ込められた部屋で彼は短い12の物語を書き続けた。それが、「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」である。

さて、本書「東京ゴースト・シティ」は、バリー・ユアグローが東京を舞台にして書いた22本の短編が収録された作品集である。新潮社の雑誌「波」に2019年5月号から2021年1月号まで「オヤジギャクの華」と題して連載されたものに最終話となる「その22 その後の顛末」(書き下ろし)を加えたものとなっている。

当初の構想段階から、現実世界の-具体的には2019年~20年の東京の-日常の変遷をたどり、そこにバリー・ユアグローという作者特有の奇想を盛り込んで化学変化を生じさせ、現実の東京とつながってはいるのだけれど決定的に違ってもいる「異形の東京」を生み出すことを意図していた(以下略)

そう「訳者あとがき」にあるように、本書はそもそも、オリンピック開催を目前に控えた東京という街を舞台にして、作家とそのパートナーが東京タワーの真下にあるアパートメントに滞在しながら、あるときは有楽町のガード下にある居酒屋で酒を飲み、あるときは有名なラヲタ(ラーメンオタク)とラーメンを食べ歩き、そしてまたあるときは市場移転後の築地で寿司を食べる日々をおくりつつ、太宰治三島由紀夫渥美清菅原文太といった人々の幽霊と出会うという奇妙な寓話世界を描くものだった。しかし、新型コロナによるパンデミックという、作家も編集者も、私たちの誰も想定していなかったことが起きたことで、物語の世界観も当初の構想とは異なるハンドリングを要求されるようになり、その絶妙なハンドリングの結果として出来上がったのが「東京ゴースト・シティ」なのである。

新型コロナのパンデミックという予測不能かつ深刻な現実に直面し、その事実を吸収しながらも、本書に書かれる22の物語はどれもユーモアにあふれている。オリンピック開催に向けて古き良き東京が失われ、無機質な建造物が街を埋めていくことを嘆く作家の言葉は、私たちが東京オリンピック開催に対して抱いていた違和感を表現してくれている。それも、ただ批判するのではなく、そこから笑いを生み出すところに作家のすごさを感じるのだ。

とまあ少し堅苦しく書いてみたけれど、本書はそんな堅苦しいものではない。22本の短編は、最初から最後まで終始一貫笑いが場を占めている。どこから読んでも、どの作品を読んでも、「アハハハ」と声に出して笑えるし、「ククク」とほくそ笑むこともできる。深刻ぶらず気取らず楽しく読むことが、今の私たちには必要だし、バリー・ユアグローの物語はそれを与えてくれる。

今は、この本が持つ不思議な世界観とユーモアを存分に楽しめることが幸せなのかもしれない。