タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ビア・マーグス-ビールに魅せられた修道士」ギュンター・テメス/森本智子、遠山明子訳/サウザンブックス-モルト工場で発見された古い手記に記されていたのは、ビールに魅せられた男の人生の物語だった

 

 

ビールといえばドイツ、ドイツといえばビールとは、日本人の多くが認識していると思います。

あとがきで訳者も書いているように、私たちの頭の中ではドイツとビールは切っても切り離せない関係がしっかりとできあがっている。

それゆえ、「ビア・マーグス」=「ビールの魔術師」と題された本書は、ビール醸造の歴史を背景に描かれるストーリーに期待を感じずにはいられない作品だ。サウザンブックスのクラウドファンディング支援のリターンとして2021年7月の一般販売に先駆けて読む機会を得た。

物語は冒頭、本書の主人公であり、ビール醸造に魅せられ修道士となり、のちに『ビア・マーグス(ビールの魔術師)』と呼ばれるまでになったニクラスが、彼を執拗に追うベルナルトと対峙する場面から始まる。ベルナルトは、2つのビールジョッキを差し出す。ひとつは新鮮なビール、もうひとつは毒草の入った悪魔のビール。ニクラスはそのひとつを受け取り一息に飲み干すとバッタリと倒れる。

「ビア・マーグス-ビールに魅せられた修道士」は、ビール醸造にその人生を捧げたニクラス・ハーンフルトの書き残した手記をもとに描かれる物語だ。ひとりの男が、ビール造りの魅力に取り憑かれ、ビール醸造家になるために修道院に入り、その技法を極め、ついには『ビア・マーグス(ビールの魔術師)』と呼ばれるまでになる。そのプロセスの中で、ビール造りのためのさまざまな創意工夫があり、発明があり、失敗や挫折もある。そのひとつひとつを乗り越えていくことで、ニクラスはビール醸造家として成長し、ヨーロッパ中にその名を知らしめていく。単なる醸造家としてだけではなく、商売人としても才能を発揮し、ニクラスの作るビールは評判を博すようになる。

ビール醸造家としてニクラスが成長していく物語が本書の主軸であるならば、そこに絡んでくるのがベルナルトの存在だ。ベルナルトとニクラスは、同じ修道院の親友だった。だが、やがてベルナルトはニクラスを異端者として追い詰めるようになり、ニクラスの命を執拗につけ狙うようになる。そして、プロローグに描かれる直接対峙の場面へとつながっていく。

ニクラスがビール醸造家として成長していくストーリーとしての面白さもさることながら、ビール醸造に関する歴史的な背景も知ることができるのが、本書の魅力と言えるだろう。ニクラスが考案するビール醸造の技法は、さまざまな変遷を繰り返して現在のビール醸造技法にもつながっていく。著者は熟練のビール醸造家であり、研究熱心なビールマイスターでもあるという。作家デビュー作となった本書が評価され、〈ビア・マーグス〉シリーズは全5冊が刊行されているとのこと。となると他の〈ビア・マーグス〉シリーズ作品も読んでみたい。

あくまで個人的な感想だが、ひとつだけ不満があるとすれば、エピローグの内容がちょっとクドいと感じた。本書の構成が、ニクラスの手記をもとに描かれている体裁になっているので、エピローグでは物語に出てくる地名や場所、人物について歴史的な事実などを説明するようになっているのだが、物語の余韻を楽しみたいと考えると、エピローグ前、第3部の最終28章で終わっていた方がよかったかなと気がする。もちろん、プロローグに始まって第1部、第2部、第3部と展開する物語は、前述のような内容でとても面白く、ラストにはミステリーらしい展開も用意されている。

ビールが好きな人、ビール醸造の歴史に興味のある人にオススメしたい作品だし、ビールを飲まない人でも読んで面白いと思うのでオススメしたい。

 

「きらめく拍手の音」イギル・ボラ/矢澤浩子訳/リトルモア-『コーダ』はろう者と聴者をつなぐ存在。ろう者の両親を持つ著者だから書き得たろう者の世界

 

 

その光景に一瞬で魅了された私は、急いでビデオカメラの電源を入れた。頭上にカメラを高く上げると、前にいたろう者が振り向いて私を見た。彼はレンズに向かって手を振った。きらめく拍手だった。

イギル・ボラ「きらめく拍手の音」は、『コーダ』(CODA:Children Of Deaf Adultsの略)として、ろう者(聴覚障害者)の両親と聴者をつなぐ通訳としての役割を担ってきた著者が自らの体験にもとづいて描くノンフィクションだ。著者は本書出版以前に同名タイトルのドキュメンタリー映画を監督していて、映画は2017年に日本でも公開されている。

冒頭に引用したのは、著者が父を連れてアメリカの『デフネーション・ワールド・エキスポ』に参加したときに、エキスポ会場で見た光景を記したものだ。耳の聞こえないろう者たちは、手を打ち鳴らす拍手ではなく、両腕を高く上げて手のひらをひらひらと左右に回転させる。音ではなく視覚で拍手の音を作り出す。

ろう者と聴者をつなぐ通訳士『コーダ』としての役割を担ってきた著者は、その経験と両親の姿を映像と本として記録した。私たちは、映画や書籍の「きらめく拍手の音」によって、ろう者のことを深く知ることができる。実際、本書を読んでみると私たちがろう者について何もわかっていないことを認識させられる。

著者も幼いときから両親がろう者であることで偏見や同情の目で見られてきた。著者自身は多くの他者と同様に聴者であり音声言語で会話もできる。だけど、そのことも「両親が聴覚障害者なのに頑張っている」という目で見られる。両親がろう者だということで蔑まれることもある。

だが、本当にろう者は(あるいは盲者も)憐れむべき人たちなのだろうか。本書を読むまでは、私自身にも障害者に対する偏見があったように思う。蔑むわけではないが憐れむ感情はあったと思う。でも、実は本当に憐れなのは私の方なのではないだろうか。

ろう者と聴者をつなぐ手段のひとつに『手話』がある。私たちは『手話』と言うが、本書では『手語』となっている。韓国でも以前は『手話』と呼称されていたが、『手話』を韓国の公式言語として制定しようという動きがあり『手語』として使用されるようになった。2016年には「韓国手話言語法」が制定されて公式言語となった。日本人が日本語は話し、韓国人が韓国語を話し、アメリカ人が英語を話すように、ろう者は『手語』を話す。そう考えると、ろう者は障害を持つ人たちではなく、耳は聴こえないが彼ら/彼女ら自身の文化やコミュニティを有する人たちと考えることができる。「聴者である私たちから見て障害のあるかわいそうな人たち」ではなく、独自の言語や文化を持った人たちと考えることができる。

これは著者が出演したトークイベントの中で話していたことだ。著者は、「自分は音声言語としての日本語はできず通訳を介して話している。でも誰も私のことを障害者とは言わない」と話した。ろう者も音声言語としての言葉は聞き取れないし話せないが、『手語』という自分たちの言語を使って話をする。異国の人同士が通訳を介して会話することと、ろう者と聴者が手語通訳を介して会話をすることは同列なのだ。ならば、片方を偏見の目で見たり同情したりするのは違うのではないか。

自分の一方的な見方が、自分でも気づかないうちに偏見や同情を含んでいることがある。そのことに気づかされた。

 

youtu.be

 

「天使のゲーム」カルロス・ルイス・サフォン/木村裕美訳/集英社文庫-作家として成功した青年の前に現れた謎の編集者。そこから青年の周囲で不可解な事件が起こり始める。「風の影」に続く『忘れられた本の墓場』シリーズ第2弾

 

 

前作「風の影」(木村裕美訳、集英社文庫)に続く『忘れられた本の墓場』シリーズの第2弾となる作品。本作でも、「風の影」と同様に『忘れられた本の墓場』や『センペーレと息子書店』といった印象深かった場所が登場する。

本書の主人公は、ダビッド・マルティンという若手の作家。物語は彼の一人称で語られる。

新聞社『産業の声』の雑用係として働く17歳のダビッド・マルティン。彼は、『産業の声』の人気ライターであり、筆頭株主の息子であるペドロ・ビダルの推薦で、穴埋めで頼まれて書いた作品が認められ雑用係として働きながら物書きとしての一歩を踏み出す。やがて、彼が書いた『バルセロナのミステリー』が評判となり、同時に『産業の声』社内で嫉妬を買うようになったこともあって、独立して作家一本で生活することになる。

バルセロナのミステリー』が認められたダビッドは、イグナティウス・B・サムスンペンネームで連載をもつことが決まる。以前から目をつけていた“塔の館”と呼ばれる不吉で仰々しい雰囲気の館に暮らすようになり、休みもとらずひたすらに作品を書き続ける生活が始まる。だが、順風満帆と思われた彼の身に不幸が襲いかかる。絶望に打ちひしがれるダビッドの前に現れたのはアンドレアス・コレッリと名乗る謎の男だった。コレッリは、自分のために1年間執筆をしてくれれば多額の報酬となんでも望むものを与えるとダビッドに告げる。出版社との契約に縛られていることを理由にオファーを断ろうとしたダビッドだが、その矢先に出版社が火事となり共同経営者のひとりが焼死、もうひとりも重傷を負う。警察は出版社とトラブルになっていたダビッドに疑惑の目を向ける。

ダビッドの周りで起こる不可解な事件。“塔の館”の残された謎。アンドレアス・コレッリという男の謎めいた存在。作家として順調に執筆活動を続けていくダビッドは、次第に不穏な渦の中に巻き込まれていく。

そんな不穏な物語の中でダビッドが心を許せる場所が、『センペーレと息子書店』だ。ダビッドは幼い頃から『センペーレと息子書店』の店主に世話になっていて、作家になってからもそれは続いていた。作家志望のイサベッラをアシスタントに紹介してくれたのも店主だった。

「風の影」が、ひとりの作家と謎と彼の作品に魅せられた少年の成長を描く作品だったのに対して、「天使のゲーム」はサスペンスなタッチとホラー、オカルト的な要素を融合させたエンターテインメント小説になっている。ダビッドは、作家として独立したときにその雰囲気に惹きつけられるようにが“塔の館”という古びた館に移り住む。そこに潜む不可解な過去と、アンドレアス・コレッリという謎めいた編集人の醸し出す寒々しいオーラは、読んでいてゾワゾワと背筋が寒くなってくる。

本書は、『忘れられた本の墓場』シリーズでは、「風の影」に続く第2部にあたる。シリーズは全4部作となっていて、第3部となる「天国の囚人」は翻訳されているが、第4部の「The Labyrinth of the Spirits」は未訳となっている。「天国の囚人」もまだ読めていない中で言うのもなんですが、第4部にして完結編となる作品も翻訳が出ることを期待しています。

s-taka130922.hatenablog.com

 

 

 

「老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る」ロバート・クーヴァー/斎藤兆史、上岡伸雄訳/作品社-晴れて人間となり学問を極めたピノッキオ。老境を迎えて故郷に戻った彼が見舞われる散々なトラブル

 

 

勇気を持ち正直で優しい子になって人形から人間になったピノッキオは、その後どのような人生を歩んだのか。ピノッキオのその後を描いた感動の続編!

本書は、そんな作品ではない。著者はロバート・クーヴァー。となれば一筋縄ではいかない曲者な作品であろうことは容易に想像できる。なにせあの「ユニヴァーサル野球協会」(白水uブックス)ロバート・クーヴァーなのだ。

 

 

 

「老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る」は、人間になったピノッキオが成長して老人となり、生まれ故郷のヴェネツィアに帰ってくるところからはじまる。ピノッキオは人間になったあと、学問の世界で優秀な業績を成し遂げ、ノーベル賞を二度も受賞した。アメリカの大学で教授として学生たちを指導してきた。そのピノッキオが、老境を迎え自らの故郷に戻り、自分の過去を見つめ直して自伝の最終章を仕上げるために、故郷に戻ってきたのである。

だが、到着するなりピノッキオは次々と災難に見舞われる。それはもう目を覆いたくなるほどの不幸の連続だ。本来の目的地とは遠く離れた場所に降ろされ、泊まる場所も見つけられず、自伝の原稿が入った荷物も失ってしまう。100歳を超える老人ピノッキオにとっては耐え難い屈辱の出来事だ。

さまざまなトラブルに見舞われる中で、ピノッキオはかつての仲間たちとの再会も果たしていく。もちろん仲間たちだけではなく、まだ人間になる前の人形時代にピノッキオを騙してお金を盗ったり木から吊るして命を奪おうとしたキツネとネコにもだ。

ポストモダン小説作家として知られるロバート・クーヴァーの作品だけに、コッローディ「ピノッキオの冒険」のパロディであると同時にさまざまな社会風刺とも思われる作品になっている。エンターテインメント性もありながら、それ以上に社会に対する批評的なニュアンスもたっぷりの散りばめられていて、そこが面白さであるし、読みにくさにもなっている。

「訳者あとがき」にあるように、本書はコッローディの「ピノッキオの冒険」を元ネタにしたパロディ小説であるが、作品内にはディズニー映画「ピノキオ」に言及している場面もある。本書の中では、ピノッキオがディズニーに協力し自らを題材にした映画を制作したという話になっていて、ディズニー映画まで取り込んでネタにしてしまうところは面白い。

腹を抱えて笑うような作品ではないが、全編にわたってニヤニヤやクスクスがとまらない、ジワジワくるタイプの作品になっている。けっしてスイスイ読めるような作品ではないし、アメリカの社会情勢や政治情勢を知らないと何が面白いのかよく理解できない場面もある。なにより、「ピノッキオの冒険」を読んでいないと面白さは半減してしまうだろう。読んでいなくても構わないのだが、読んでいた方が楽しめるのは間違いない。

生まれ故郷のヴェネツィアでさまざまなトラブルに老ピノッキオが、最後にどのような運命をたどるのか。鈍器とまではいかないがズッシリと分厚くて密度の濃い本書を読みながら、その行く末を見守ってほしい。

ちなみに、けっこう下品なシモネタ(ピノッキオの鼻にかかわるものなど)も満載なのでそれはそれで楽しんでください。

「前田建設ファンタジー営業部」前田建設工業株式会社/幻冬舎-マジンガーZの地下格納庫、実際に造れる? 総工費はいくらかかる? 実在の建設会社が真面目に考えます!

 

 

アニメに登場するロボットや巨大建造物を実際に造ることはできるのか? もし造ったら総工費はいくらくらいになるのか? アニメをみながらそんな興味を持ったことがあるという人は少なからずいるだろう。

本書「前田建設ファンタジー営業部」は、そんな夢を本気で実現しようとしたらどうなるかを検証したおふざけのようで実は真面目なドキュメンタリー(?)である。

まず、『前田建設ファンタジー営業部』が、実在する企業の部署であることは記しておきたい。『前田建設工業株式会社』は、2019年には創業100周年を迎えた老舗の会社で、関門橋福岡ドーム東京湾アクアライン海ほたるパーキングエリアなどの建設に携わってきた実績を有する大手ゼネコンである。

そんなゼネコン会社の前田建設が2003年に立ち上げた組織が『ファンタジー営業部』だ。本書のまえがきにはゼネコンに対して人々が抱くネガティブなイメージ(汚職とか談合などのことか)を払拭したいとの考えからスタートしたとある。若い人たちに建設会社とはどういう会社なのかをわかりやすく伝えるにはどうすればよいかを考えた結果生まれたのがファンタジー営業部なのだ。

ファンタジー営業部が手掛けるのは、現実にありえない架空の建物や構造物を建設するプロジェクトだ。その第一弾として取り上げられたのが、マジンガーZに登場する地下格納庫である。機械獣とよばれる敵ロボットが出現したときに、マジンガーZが発進するあの地下格納庫だ。ファンタジー営業部は、テレビアニメの映像から構造を推測し、必要な設計を行い、費用を見積もり、実際に建設した場合の総工費を算出する。そのプロセスには、建設に必要なさまざまな分野のプロたちとの交渉や構造物の強度に関する計算など、まさに建設会社、ゼネコン会社としての前田建設のノウハウが詰め込まれている。

やっていることはあきらかにおふざけだ。だが、おふざけも真面目に取り組めばひとつのストーリーとして成立する。現実の巨大建造物プロジェクトがドキュメンタリー番組で取り上げられて、人々の感動を誘うように、本書も「バカだなぁ」と笑いながらも真面目に取り組むところにちょっと感動したりする。

驚くことに、最近になってこの「前田建設ファンタジー営業部」は映画化された。私は映画をみていないが、いったいどういう映画になっているのか興味深い。

maeda-f-movie.com

 

なお、ファンタジー営業部の活動は現在も続いているようで、ホームページ上ではプロジェクト9まで公開されている。アニメだけではなくゲーム(「グランツーリスモ」のレース場)の世界にも進出していたりする。書籍化としては、本書の他、「銀河鉄道999」の高架橋を建設する工事を取り上げた「前田建設ファンタジー営業部Neo」と「機動戦士ガンダム」の地球連邦軍基地を建造する「前田建設ファンタジー営業部3 「機動戦士ガンダム」の巨大基地をつくる!」が刊行されている。

 

 

企業のイメージ戦略にはさまざまな手法が取り入れられ、各社ともに工夫を凝らしているが、前田建設ファンタジー営業部という切り口は注目のされ方としては大成功していると思う。ただ、客観的なエビデンスを入手していないので、このプロジェクトによってどのくらい前田建設に経営上のメリットが出ているのかはわからない。そういった現実的な話を持ち出すのは、ファンタジー営業部だけに野暮というものだろう。

www.maeda.co.jp

 

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「6代目 日ペンの美子ちゃん」服部昇大/一迅社-マンガ誌の広告で誰もが目にしたことのあるあの「日ペンの美子ちゃん」が単行本に!?

 

 

日ペンの美子ちゃん」をご存知だろうか。私が小中高校生くらいのときにマンガ誌に掲載されていた広告マンガだ。日本ペン習字研究会(略して「日ペン」)のボールペン習字通信講座のイメージキャラクターである。昭和47年

タイトルに“6代目”とあるように、「日ペンの美子ちゃん」はこれまでに6人のマンガ家によって描き継がれてきた(初代:矢吹れい子、2代目:森里真美、3代目:まつもとみな、4代目:ひろかずみ、5代目:梅村ひろみ、6代目:服部昇大)。本書には美子ちゃんの履歴書が載っているのだが、その経歴によれば、デビューは昭和47年(1972年)の「月刊明星」とのこと。その後、昭和52年(1977年)に2代目、昭和59年(1984年)に3代目、昭和63年(1988年)に4代目が登場している。4代目登場から5代目登場までは昭和63年から平成18年(2006年)とおよそ20年ほど間が空いているが、Wikipedia情報などによれば、インターネットが普及してメール利用者が増え、手紙などの文字を書く機会が減少したために「日ペンの美子ちゃん」の露出も減少したということになるらしい。

そもそも雑誌の広告ということもあって、頻繁に目にした記憶はあるけれど内容までは覚えていなかったというのが正直なところだ。なので、ある日書店のコミック売り場で本書を見たときに、「こんな本が出てるのか!」という驚きとともに、「『日ペンの美子ちゃん』懐かしい!」という郷愁の想いを抱いた。思わず手に取り、内容もあまり確認せずにレジに持っていった。

日ペンの美子ちゃん」は、基本1ページ9コマで構成されている。時事ネタや当時の流行などを盛り込み最終的にはペン習字通信講座の宣伝につなげるというのがパターンだ。私が子どもの頃に見ていた「日ペンの美子ちゃん」がどのようなネタを描いていたかについては一切記憶がないが、子どもから高校生くらいを読者とするマンガ誌で見ていたので、あまり政治的だったり社会的な内容ではなかったように思う。

本書の美子ちゃんも、1ページ9コマの基本レイアウトは変わっていない。各話では、「逃げ恥(逃げるは恥だが役に立つ)」ドラマがヒットして、星野源の「恋」もヒットしていたときは、美子ちゃんが歌手に憧れ、ギターを手に商店街でストリートミュージシャンとなる。美子ちゃんの前にはたくさんのひとだかりができて、「自分に才能がある!」と喜ぶ美子ちゃんだが、人々が注目したのは彼女の歌ではなくキレイな文字だったというオチがつく。

また別の話では、美子ちゃんが選挙演説をする首相の前で集まった人たちにビラ配りをしている。選挙応援かと思いきや「隣で日ペンのチラシを配っている」という美子ちゃん。投票用紙に書くときに自分の文字の汚さに気づく人が多いから選挙のときは勧誘の書き入れ時だという。チラシを配りながら選挙公約ポスターに目をやると消費税増税の文字。他にもいろいろな税金が高くなっていると憤る美子ちゃんの後ろで選挙カーに乗った首相(どうみても安倍さん)がちょっと困ったような申し訳なさそうな表情で佇んでいるというオチ。

先にも書いたように、すべては日ペンの通信講座につながるようなストーリー立てになっているのだが、あらためてまとまって読んでみると、こんなマンガだったのかと驚いた。中には無理筋なものもあるかと思うが、その時代の世相を取り入れてコミカルなショートストーリーに落とし込んでいっているのは面白い。

昭和の時代から平成、令和と続くロングセラーである「日ペンの美子ちゃん」。最近ではマンガ誌などの紙媒体ではなく、公式ツイッターで週イチペースで新作が公開されている。ネット環境でも美子ちゃんの存在感は健在で、マンガだけでなく、最近ではスケボーのプロ選手とコラボしたりもしているようだ。活躍の場が、過去には考えられなかった分野に拡大しているように思う。

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ボールペン習字を通信講座で習う人がいまどのくらいいるのかは想像もつかないが、コロナ禍でステイホームが求められる中で習い事のひとつとして受講している人もたくさんいるだろうと思う。日ペン以外にもペン習字講座を実施しているところは多々あるだろうが、『ボールペン習字講座=日ペン』という方程式が私たちの頭の中にできあがっているのは、やはり美子ちゃんのおかげということなのかもしれない。

 

「ピノッキオの冒険」カルロ・コッローディ/大岡玲訳/光文社古典新訳文庫-子どものときに読んだ絵本やディズニーアニメでみた“ピノキオ”とは違う“ピノッキオ”を堪能する

 

 

ピノキオ”といえば、絵本であったりディズニーのアニメ映画だったりでおなじみのキャラクターだ。ゼペットじいさんがつくったあやつり人形のピノキオが命を与えられ、コオロギのジミニー・クリケットピノキオの良心として彼を見守り、ピノキオは「勇気を持ち、正直で優しい子ども」になって本当の人間になろうとする。嘘をつくと鼻がニョキニョキと伸びたり、大きなクジラに飲み込まれたゼペットじいさんを救い出したりと、さまざまなことに巻き込まれたり、活躍したりする物語だ。

絵本やディズニー・アニメでしか「ピノキオ」を知らない私が、この物語にイタリア人作家カルロ・コッローディの小説が原作として存在することを知ったのはいつだったろうか。ちょっと時期は忘れてしまったが、原作の存在を意識するようになったきっかけは、NHK Eテレで放送されている「100分de名著」で「ピノッキオの冒険」が取り上げられたからだった。

カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」は、1881年から1882年に週刊誌で連載され、1883年に刊行された児童文学小説である。物語は、大工のアントーニオ(みんなからは“サクランボ親方”と呼ばれている)1本の棒っきれをみつけるところから始まる。テーブルの脚をこさえるつもりのサクランボ親方だが、その棒っきれが喋りだしたからびっくり仰天。結局その棒っきれを友人のジェッペットに渡し、ジェッペットはそいつであやつり人形を作る。ピノッキオの誕生である。

絵本やアニメでも“ピノキオ”は、ある意味では少年らしい、やんちゃな子どもとして描かれているが、コッローディの“ピノッキオ”は、もっともっとやんちゃな悪ガキである。ジェッペットによって生み出されたとたんに、ジェッペットのかつらをむしりとったり、鼻面を蹴り飛ばしたり、逃げ出したりする。優しく物事の大切な道理を教えてくれようとしたコオロギには木槌を投げつけて殺してしまう。やんちゃというよりは凶暴といったほうが近いくらいのいたずら小僧なのである。

とんでもない悪ガキのピノッキオだが、お人好しで騙されやすい少年でもある。とても純粋で無垢な子どもなのだ。ピノッキオを学校に通わせるために、ジェッペットは自分の上着を売ってアルファベット練習帳を買ってやる。ピノッキオはそのアルファベット練習帳を売ってしまう。なぜって、人形芝居がみたかったからだ。他にも、キツネとネコにうまいこと騙されてなけなしのお金を盗まれたり、木の枝に首吊りにされたりする。

とにかくもう、行く先々でピノッキオはトラブルを起こす。自らの自業自得で巻き込まれるトラブルもあれば、自ら進んで火の中に足を突っ込むようなトラブルも巻き起こす。もしピノッキオのような少年がリアルに自分の息子だったら、年がら年中頭を抱え肝を冷やしながら、迷惑をかけた相手に親として親まり倒していることだろう。

だが一方で、子どもというのはそういうものだとも思う。物語の中でピノッキオを優しく見守り、教え諭し、厳しく叱る存在である仙女がピノッキオにこう言い聞かせる場面がある。

「よくお聞きなさい、ピノッキオ! 子供はたいがい簡単に約束するものだけど、守る子はなかなかいないのよ」

思わず頷いてしまうお父さんお母さんがいるのではないだろうか。「後で片付けるよ」とか「僕がちゃんと面倒みるよ」とか、子どもは約束するけれど、気づいてみればその約束はいつの間にか雲散霧消している。この場面、案の定ピノッキオは仙女との約束を破り、友だちの甘い誘惑に誘われて遠くまででかけてしまい、そこでとんでもないトラブルに巻き込まれる。

でも、こうやって子どもはいろいろな経験を積み重ねていき、物事の分別を覚え、いろいろな仕組みやルールを理解して成長していく。その過程では、大きな事故に巻き込まれることもあるかもしれないし、病気や怪我をすることもある。大きな回り道をしたことに、大人になってから気づくこともあるだろう。そうした経験、そうした回り道が子どもがひとりの人として成長するために必要なルートなのだと思う。事実、いい大人になった自分が過去を振り返ってそう感じている。

ラストでピノッキオは人間になる。それはつまり、子どものレベルから大人のレベルに足を踏み入れたということだ。もしかするとそれは、無垢で純粋だった子どもの心を少しずつ失い、分別のあるつまらない大人になっていく一歩になるのかもしれない。でもそれが、すべてのかつて子どもだった大人たちが通ってきた道なのだ。大人になってから読む「ピノッキオの冒険」は、自分が歩いてきた道のりを振り返るために必要な物語なのかもしれない。