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「ピノッキオの冒険」カルロ・コッローディ/大岡玲訳/光文社古典新訳文庫-子どものときに読んだ絵本やディズニーアニメでみた“ピノキオ”とは違う“ピノッキオ”を堪能する

 

 

ピノキオ”といえば、絵本であったりディズニーのアニメ映画だったりでおなじみのキャラクターだ。ゼペットじいさんがつくったあやつり人形のピノキオが命を与えられ、コオロギのジミニー・クリケットピノキオの良心として彼を見守り、ピノキオは「勇気を持ち、正直で優しい子ども」になって本当の人間になろうとする。嘘をつくと鼻がニョキニョキと伸びたり、大きなクジラに飲み込まれたゼペットじいさんを救い出したりと、さまざまなことに巻き込まれたり、活躍したりする物語だ。

絵本やディズニー・アニメでしか「ピノキオ」を知らない私が、この物語にイタリア人作家カルロ・コッローディの小説が原作として存在することを知ったのはいつだったろうか。ちょっと時期は忘れてしまったが、原作の存在を意識するようになったきっかけは、NHK Eテレで放送されている「100分de名著」で「ピノッキオの冒険」が取り上げられたからだった。

カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」は、1881年から1882年に週刊誌で連載され、1883年に刊行された児童文学小説である。物語は、大工のアントーニオ(みんなからは“サクランボ親方”と呼ばれている)1本の棒っきれをみつけるところから始まる。テーブルの脚をこさえるつもりのサクランボ親方だが、その棒っきれが喋りだしたからびっくり仰天。結局その棒っきれを友人のジェッペットに渡し、ジェッペットはそいつであやつり人形を作る。ピノッキオの誕生である。

絵本やアニメでも“ピノキオ”は、ある意味では少年らしい、やんちゃな子どもとして描かれているが、コッローディの“ピノッキオ”は、もっともっとやんちゃな悪ガキである。ジェッペットによって生み出されたとたんに、ジェッペットのかつらをむしりとったり、鼻面を蹴り飛ばしたり、逃げ出したりする。優しく物事の大切な道理を教えてくれようとしたコオロギには木槌を投げつけて殺してしまう。やんちゃというよりは凶暴といったほうが近いくらいのいたずら小僧なのである。

とんでもない悪ガキのピノッキオだが、お人好しで騙されやすい少年でもある。とても純粋で無垢な子どもなのだ。ピノッキオを学校に通わせるために、ジェッペットは自分の上着を売ってアルファベット練習帳を買ってやる。ピノッキオはそのアルファベット練習帳を売ってしまう。なぜって、人形芝居がみたかったからだ。他にも、キツネとネコにうまいこと騙されてなけなしのお金を盗まれたり、木の枝に首吊りにされたりする。

とにかくもう、行く先々でピノッキオはトラブルを起こす。自らの自業自得で巻き込まれるトラブルもあれば、自ら進んで火の中に足を突っ込むようなトラブルも巻き起こす。もしピノッキオのような少年がリアルに自分の息子だったら、年がら年中頭を抱え肝を冷やしながら、迷惑をかけた相手に親として親まり倒していることだろう。

だが一方で、子どもというのはそういうものだとも思う。物語の中でピノッキオを優しく見守り、教え諭し、厳しく叱る存在である仙女がピノッキオにこう言い聞かせる場面がある。

「よくお聞きなさい、ピノッキオ! 子供はたいがい簡単に約束するものだけど、守る子はなかなかいないのよ」

思わず頷いてしまうお父さんお母さんがいるのではないだろうか。「後で片付けるよ」とか「僕がちゃんと面倒みるよ」とか、子どもは約束するけれど、気づいてみればその約束はいつの間にか雲散霧消している。この場面、案の定ピノッキオは仙女との約束を破り、友だちの甘い誘惑に誘われて遠くまででかけてしまい、そこでとんでもないトラブルに巻き込まれる。

でも、こうやって子どもはいろいろな経験を積み重ねていき、物事の分別を覚え、いろいろな仕組みやルールを理解して成長していく。その過程では、大きな事故に巻き込まれることもあるかもしれないし、病気や怪我をすることもある。大きな回り道をしたことに、大人になってから気づくこともあるだろう。そうした経験、そうした回り道が子どもがひとりの人として成長するために必要なルートなのだと思う。事実、いい大人になった自分が過去を振り返ってそう感じている。

ラストでピノッキオは人間になる。それはつまり、子どものレベルから大人のレベルに足を踏み入れたということだ。もしかするとそれは、無垢で純粋だった子どもの心を少しずつ失い、分別のあるつまらない大人になっていく一歩になるのかもしれない。でもそれが、すべてのかつて子どもだった大人たちが通ってきた道なのだ。大人になってから読む「ピノッキオの冒険」は、自分が歩いてきた道のりを振り返るために必要な物語なのかもしれない。