タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「きらめく拍手の音」イギル・ボラ/矢澤浩子訳/リトルモア-『コーダ』はろう者と聴者をつなぐ存在。ろう者の両親を持つ著者だから書き得たろう者の世界

 

 

その光景に一瞬で魅了された私は、急いでビデオカメラの電源を入れた。頭上にカメラを高く上げると、前にいたろう者が振り向いて私を見た。彼はレンズに向かって手を振った。きらめく拍手だった。

イギル・ボラ「きらめく拍手の音」は、『コーダ』(CODA:Children Of Deaf Adultsの略)として、ろう者(聴覚障害者)の両親と聴者をつなぐ通訳としての役割を担ってきた著者が自らの体験にもとづいて描くノンフィクションだ。著者は本書出版以前に同名タイトルのドキュメンタリー映画を監督していて、映画は2017年に日本でも公開されている。

冒頭に引用したのは、著者が父を連れてアメリカの『デフネーション・ワールド・エキスポ』に参加したときに、エキスポ会場で見た光景を記したものだ。耳の聞こえないろう者たちは、手を打ち鳴らす拍手ではなく、両腕を高く上げて手のひらをひらひらと左右に回転させる。音ではなく視覚で拍手の音を作り出す。

ろう者と聴者をつなぐ通訳士『コーダ』としての役割を担ってきた著者は、その経験と両親の姿を映像と本として記録した。私たちは、映画や書籍の「きらめく拍手の音」によって、ろう者のことを深く知ることができる。実際、本書を読んでみると私たちがろう者について何もわかっていないことを認識させられる。

著者も幼いときから両親がろう者であることで偏見や同情の目で見られてきた。著者自身は多くの他者と同様に聴者であり音声言語で会話もできる。だけど、そのことも「両親が聴覚障害者なのに頑張っている」という目で見られる。両親がろう者だということで蔑まれることもある。

だが、本当にろう者は(あるいは盲者も)憐れむべき人たちなのだろうか。本書を読むまでは、私自身にも障害者に対する偏見があったように思う。蔑むわけではないが憐れむ感情はあったと思う。でも、実は本当に憐れなのは私の方なのではないだろうか。

ろう者と聴者をつなぐ手段のひとつに『手話』がある。私たちは『手話』と言うが、本書では『手語』となっている。韓国でも以前は『手話』と呼称されていたが、『手話』を韓国の公式言語として制定しようという動きがあり『手語』として使用されるようになった。2016年には「韓国手話言語法」が制定されて公式言語となった。日本人が日本語は話し、韓国人が韓国語を話し、アメリカ人が英語を話すように、ろう者は『手語』を話す。そう考えると、ろう者は障害を持つ人たちではなく、耳は聴こえないが彼ら/彼女ら自身の文化やコミュニティを有する人たちと考えることができる。「聴者である私たちから見て障害のあるかわいそうな人たち」ではなく、独自の言語や文化を持った人たちと考えることができる。

これは著者が出演したトークイベントの中で話していたことだ。著者は、「自分は音声言語としての日本語はできず通訳を介して話している。でも誰も私のことを障害者とは言わない」と話した。ろう者も音声言語としての言葉は聞き取れないし話せないが、『手語』という自分たちの言語を使って話をする。異国の人同士が通訳を介して会話することと、ろう者と聴者が手語通訳を介して会話をすることは同列なのだ。ならば、片方を偏見の目で見たり同情したりするのは違うのではないか。

自分の一方的な見方が、自分でも気づかないうちに偏見や同情を含んでいることがある。そのことに気づかされた。

 

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