タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「広場」崔仁勲/吉川凪訳/クオン-〈韓国最高の小説〉にも選ばれ、長く読まれ続けている作品。誰もが自らの『広場』を探し続けていると考えさせられる小説。

 

 

「人は広場に出なければ生きられない」

著者は本書の前書きをこう書き始めている。そして、「しかしその反面、人間は密室に引きこもらずには生きられない動物だ」と記す。

訳者あとがきによると、「広場」は、1960年に雑誌「夜明け(セビョク)」に掲載された中編をもとに1961年に長編小説として刊行された作品だ。著者の崔仁勲(チェ・イヌン)は、朝鮮戦争後の韓国を代表する作家のひとりであり、代表作「広場」は2004年に〈韓国最高の小説〉に選ばれているという。

小説の舞台となるのは、朝鮮戦争前から停戦後の時代。主人公は、李明俊(イ・ミョンジュン)という青年。彼が、中立国を目指す船に乗っている場面から物語は始める。

明俊は、日本の統合支配から解放された南朝鮮に暮らし、自らの『広場』を求めて北に渡る。朝鮮戦争の停戦後は、南へ戻ることを拒否し、やはり自らの『広場』を求めて中立国に向かう。

「広場」は、明俊が自らの『広場』、すなわち『自由』を求める物語だ。明俊は、南に暮らしながら自らが置かれている孤独を常に感じ続け、自らの居場所を探し求めている。それは、物理的な場所としての『広場』にとどまらず、友人との関係、恋人との関係の中での自由という『広場』でもある。

だが、著者自身が前書きで記しているように、人は『広場』を求めている。その反面で自らの内にある『密室』の引きこもる。そうした人間の業の象徴として、李明俊は描かれている。

南で暮らしていた明俊は、北で暮らす父が南に向けたプロパガンダ放送に出演したことで警察から執拗な取り調べを受ける。やがて彼は密輸船で北へ渡るが、そこでも『広場』を見つけることができない。朝鮮戦争に従軍し、停戦後は南へ戻るかその他の中立国へ行くかの選択を迫られる。そして彼は、中立国へ向かう船上の人となる。

明俊は、ただひたすらに『広場』を探し続ける。彼の姿は、朝鮮半島の混乱期という閉塞的な時代を舞台にしているからこそ、リアリティを有して描かれているように感じられる。だが、実際に読み進めていくと、明俊が探し求める『広場』とは、時代や土地柄や人間関係、思想信条に関わらず誰も等しく求め続けているものなのではないかとも思えてくる。まさに、いま私たち自身が、自らの孤独と不自由さを意識/無意識に関わらず感じていて、それぞれが自らの『広場』を探し求めているのだと思う。

訳者あとがきには、著者がこの作品に執着し、晩年に至るまで何回も修正・改作してきたと記しされている。「広場」は、韓国文学史上もっとも数多くのバージョンが存在する作品であるという。

明俊が自らの『広場』を探し続けていたように、著者も自らの『広場』を探し求め続けていたのだろう。明俊は、著者自身のことなのだと考えることもできるし、読者はそれぞれに明俊に自分自身を投影してこの作品を読むのだろう。だからこそ、「広場」は長く韓国で読まれ続け、韓国最高の小説にも選ばれたのだと思う。

「ZENOBIA(ゼノビア)」モーテン・デュアー文、ラース・ホーネマン絵/荒木美弥子/サウザンブックス-デンマークの作家が描き出すシリア難民少女の物語

 

 

遠く水平線が広がる海原に、ぎっしりと大勢の人を乗せたちっぽけな小舟が浮かんでいる。舟にはひとりの少女が大人たちと肩を寄せあって窮屈そうに座っている。やがて、おとなしかった海は波の荒れ狂う海へと姿を変え、ちっぽけな小舟はその波に飲み込まれる。少女は海に沈みながら、今よりもまだ幼かったときの家族との日々を思い出す。

北欧デンマーク発のグラフィックノベルZENOBIAゼノビア)」は、内戦状態のシリアから脱出し、平和な生活を求めて亡命を図る難民の姿を描いている。

2011年に始まったシリアの内戦は、2020年になった現在でもまだ続いている。アサド政権に反対する反政府勢力との対立により、シリア国内は大混乱し、国内各地の都市での戦闘や空爆によって多くの市民が犠牲となった。その状況が、今なお続いているのだ。

今から5年ほど前、1枚の写真が世界中に衝撃を与えた。内戦状態のシリアから家族とともに舟で逃げ出してヨーロッパを目指した3歳の男の子が、トルコの海岸に死体となって打ち寄せられた写真だ。今回このレビューを書くために検索してみたら、この写真は今でも多くのネットニュースサイトなどに残されていた。だが、私はネット検索しただけで検索結果のリンクをクリックすることはできなかった。なぜなら、見るまでもなく当時見た写真の記憶がまざまざと思い出されたからだ。波打ち際に横たわる子どもの姿はそう簡単に忘れられるものではない。

シリア内戦、シリア難民のことをデンマーク人の作家が描くことに不思議な感じがある。訳者はあとがきで冊書のモーテン・デュアーにしたときに彼が語ったことを記している。少し長くなるが引用したい。

「2015年、多くの人々がシリアからヨーロッパへと戦火をのがれるためにやってきました。その後SNSや既存メディアなどで難民問題について大きく取り上げられるようになりました。突然みんながまるでその専門家のように自分の意見を主張し、この問題をどう解決すべきかと議論がヒートアップしていったのです。私には、それが難民当事者たちを置いてきぼりにした、彼らの気持ちを考えていないもののように見えました。そこでほんの数分でもいいから心をおだやかにし、紛争の犠牲になった人々の命の尊さを考えたいという気持ちで物語を書きました。そういうわけで、この本には文章もとても少ないのです」

海の中で少女は思い出す。お母さんとのかくれんぼのこと。お世辞の下手なお父さんのこと。おじさんに連れられてたったひとりで舟に乗り込んだこと。

シリア内戦で犠牲になった人の多くは、なんの罪もない市民だ。子どももいるし、老人もいる。彼らはただ平和に暮らしたいだけなのに、内線に巻き込まれ、日々死の恐怖と向き合っている。

2年前にシリア人の少女バナ・アベドの「バナの戦争」という本のレビューを書いた。7歳のバナがTwitterで発信した「I need peace」というツイートをきっかけに世界が動いたことが記された本だ。「ZENOBIA」の少女はバナのような知恵もツールも持てなかったが、同じシリア人の少女だ。「ZENOBIA」の少女やバナ・アベドのように内戦の恐怖にさらされている人がシリアにはまだたくさんいる。

遠い日本に暮らしていると、シリアがいまどうなっているかなんて全然わからない。わからないのではなくてわかろうとしていないというのが正しいかもしれない。今なお、こうして死の恐怖にさらされる人がたくさんいることを考えなければいけないと思った。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

「1793」ニクラス・ナット・オ・ダーグ/ヘレンハルメ美穂/小学館-両手足を切断され両目をえぐり取られた惨殺死体。労咳で残り少ない人生を生きる法律家と戦争で左腕を失った義腕の引っ立て屋は猟奇殺人の謎を追う。

 

 

1793年のスウェーデンを舞台に、労咳(肺結核)を病んでいる法律家セーシル・ヴィンゲと、ロシアとの戦争に従軍して左腕を失い義腕となった引っ立て屋ミッケル・カルデルがコンビとなって猟奇殺人事件の謎に挑むミステリ小説。

著者はあとがきで、「1793年という年を選んだのは、ヨハン・グスタフ・ノルリーン警視総監がいたからだ」と記している。1973年のスウェーデンは、前年に国王グスタフ3世が暗殺され、1789年にフランス革命が勃発したヨーロッパ全体の流れもあって国内は混乱した状態にあった。政治は腐敗し、庶民は貧困にあえいでいた。その腐敗し混乱した時代の中で、ノルリーン警視総監は公明正大な人物であったとされている。だが、公明正大であったがためか在任期間が短った。そういう時代を背景にすることで、この物語が有する猟奇性や胸をえぐるような恐怖が増幅されている。

事件は、引っ立て屋のミッケル・カルデルが湖に浮かぶ惨殺死体を発見する場面からはじまる。それは、常軌を逸する悲惨な死体だった。両手足を切断され、両目をえぐり取られていたのだ。

ノルリーン警視総監からの事件の捜査を依頼されたセーシル・ヴィンゲは、カルデルとコンビを組んで動き出す。ヴィンゲが探偵でカルデルが助手・用心棒といった役割だ。このふたりの対比が物語を面白くしている。

ヴィンゲとカルデルが最初に会ったときの場面から引用してみる。

ヴィンゲは線の細い、痩せた男だった。不自然なほどに痩せている。カルデルとは似ても似つかない。(中略)カルデルはというと、肩幅はヴィンゲの二倍はありそうだ。軍人上がりのたくましい背中のせいで外套がきつく、不恰好なしわができている。(後略)

ヴィンゲは労咳を患っていて、警察の中では彼がいつ死ぬがで賭けが行われているほどだ。しかし、身体の病気に反比例するように頭脳は明晰であり、犯罪捜査では常に真実を追い求める。カルデルは戦争で左腕を失っていて同時に仲間を助けられなかったトラウマがある。ときに暴力的だが正義感の強い人物だ。

物語は全4部で構成される。

第一部 インデベトゥー館の亡霊
第二部 ほとばしる赤
第三部 夜の蝶
第四部 無双の狼

第一部で両手足を切断され、両目をえぐられた身元不明の惨殺死体が発見され、ヴィンゲとカルデルが捜査に乗り出す。いくつかの手がかりを掴み、捜査が進展していく中で、ふたりの友情が徐々に形成されていく。

第二部は、ある男が妹にあてた手紙というスタイルで事件が描かれる。残酷な描写が多く、直接な描写もあって読んでいて背筋が寒くなってくる。直接の描写ではなくても、作品全体の持つ空気感が恐怖心を増幅されるようにも思う。

第三部は、貧しい私生児として生まれた少女の物語だ。少女は、母親を失い自らも無実の罪をなすりつけられて紡績所(事実上の女子刑務所)に送られる。そこはまさに地獄のような場所であり、彼女たちを監視する管理人の悪逆非道な振る舞いには怒りを覚える。著者あとがきによれば、この紡績所の管理人や所長、牧師の関係は実際あった話らしい。

第四部では、猟奇殺人事件の真相が描かれる。読者は、第四部が始まって早々に驚かされることになる。やがてそれは杞憂に終わり、事件は解決に向けて動き出す。第一部で描かれたことと、第二部、第三部で描かれた物語が重なり合い、犯人へと結びついていく。そして、犯人の忌まわしい過去や破壊的な思想が事件の背景として存在することが明かされ、ラストの展開へと進んでいく。

いろいろな方から本書の面白さを聞いてきた。「読み始めたら一気読み」「年末年始に没頭した」などなど。この本の話をしてくれた方はみんな絶賛していた。実際に読んでみたら、その期待を裏切らない作品だった。

訳者あとがきには、三部作として続刊が予定されていて、2019年に続編の「1794」が刊行されたとある。翻訳されるのを心待ちにしたい。

「ネルーダ事件」ロベルト・アンプエロ/宮崎真紀訳/早川書房(ポケットミステリ)-1973年。激動のチリでカジェタノはパブロ・ネルーダと出会う。それがすべての始まりだった。

 

 

南米チリの作家ロベルト・アンプエロの私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公とするシリーズの第6作にあたるミステリ作品。

タイトルにもなっている“ネルーダ”とは、チリの詩人でノーベル賞作家のパブロ・ネルーダのこと。物語は、カジェタノが探偵稼業を始めるきっかけとなったパブロ・ネルーダまつわる事件について語られる。

カジェタノは、〈カフェ・デル・ポエタ〉のテーブルでコルタードとサンドイッチの食事をしながら、パブロ・ネルーダとのことを思い出していた。はじめて会った日のこと。彼の自宅を訪れたこと。そこでカジェタノは、ネルーダから人探しの依頼を受ける。相手の名前は、ドクトル・アンヘル・ブラカモンテ。ブラカモンテは医師で、癌患者の治療のための薬草を研究していた。

ネルーダの依頼を受けたカジェタノは、ブラモンテの行方を捜してメキシコへ飛ぶ。そして、そこからキューバ東ドイツボリビアと世界中を飛び回ることになっていく。

本書に描かれるのは、1973年のチリの激動の時代を背景とした物語だ。パブロ・ネルーダから依頼された人物の捜索を通じて、カジェタノはネルーダとの親交を深め、彼の人間としてのさまざまな面を知っていく。

まだ探偵としての活動はしていなかったカジェタノが、探偵業の基本を学ぶのがネルーダから渡された1冊の本、ジョルジュ・シムノン推理小説というのが面白い。カジェタノは、シムノンの小説を読み、そこに書かれていることから捜査について学んでいく。

メキシコでブラカモンテの行方を探すカジェタノは、彼がキューバにいるのではないかという情報を得る。彼にはベアトリスという妻があり、ティナという娘がいたことがわかる。そして、ベアトリスとティナが東ドイツにわたっていることを知る。東ドイツでティナの行方を突き止めたカジェタノは、彼女の自宅で入手した一枚の写真からベアトリスがボリビアにわたっていたことを知る。こうして、彼はチリ、メキシコ、キューバ東ドイツボリビアと旅を続けてながらネルーダの求める人物を探す。

カジェタノの人探しと並行して描かれるのがチリの社会情勢である。

当時、チリの大統領はサルバドール・アジェンデだった。ネルーダは大統領の要請を受けてフランス大使を務めていた。アジェンデ大統領時代のチリは社会主義国家であり、経済的には混迷した国だった。国民の不満が蓄積される中、1973年9月に軍事クーデターが起こってアジェンデ大統領は死亡し、ピノチェト軍事政権が誕生することになる。

そういう時代背景の中で物語は進んでいくのだが、そこには緊迫するチリの社会情勢の変化とパブロ・ネルーダというノーベル賞作家の女性遍歴が対照的に描かれている。本書は、「ジョシー」「マリア・アントニエタ」「デリア」「マティルデ」「トリニダード」という5つのパートで構成されている。ジョシー、マリア・アントニエタ、デリア、マティルデは、それぞれネルーダの恋人、最初の妻、二人目の妻、三人目の妻の名前である。(トリニダードについてはネタバレになる部分があるので割愛)

物語中に、ネルーダが彼女たちについて記したモノローグがある。これは著者による創作だが、カジェタノの人探しの物語とネルーダのモノローグがクロスすることで、読者はこの小説が単なるミステリではなく、パブロ・ネルーダというノーベル賞作家の人間的な一面を描き出そうとした伝記小説的な意味合いも含んでいると感じるだろう。

南米文学というとすぐに『マジックリアリズム小説』を思い浮かべてしまうし、チリの作家であれば、「精霊の家」のイサベル・アジェンデが思い浮かぶのだが、今回ミステリ小説である本書を読んでみて、当たり前のことなのだが南米の小説にも多様なジャンルの面白い作品があることを知った。

私立探偵カジェタノ・ブルレを主人公とするシリーズは、本書翻訳刊行時点(2014年)でチリ本国では第7作まで刊行されていた。翻訳されているのは本書のみである。本書がカジェタノが探偵業を始めるきっかけの事件を描いているならば、他のシリーズ作品では、彼が探偵として成長し活躍している姿が描かれているに違いない。『はじめての海外文学』での紹介をきっかけにして本書が少しでも多くの人に読まれ、シリーズの他の作品が翻訳されるのを期待したい。

「原州通信」イ・ギホ/清水知佐子訳/クオン-成長できない男の悲哀がユーモラスであり、どこか我が身に重ねてみたりするなど

 

 

文学を中心に韓国なさまざまな本を翻訳紹介している出版社『クオン』が手掛ける『きむふなセレクション・韓国文学ショートショート』シリーズは、1篇の短篇小説の日本語訳と韓国語原文を両方掲載し、かつ韓国語の朗読音声をYoutubeで視聴することができるという、韓国文学好きで韓国語を学びたい人にはオススメのシリーズである。

今回、シリーズ中の1作であるイ・ギホ「原州通信」を訳者の清水知佐子さんが『はじめての海外文学vol.5』に推薦されていたので読んでみた。

韓国で人気の長編大河小説「土地」の著者朴景利(パクキョンニ)先生が主人公の住む江原道原州市に引っ越してきた。というところから話は始まる。ただ、主人公と朴先生が物語の中で直接絡むというわけではない。というか、ふたりはただ近所に住んでいる(いた)というだけでなんら接点はない。主人公だけが一方的に朴先生の存在を利用しているだけだ。

こんな経験はないだろうか。

たまたま自分が住んでいる近所に有名芸能人が住んでいて、全然面識も近所付き合いもないのに仲良くしているような嘘をついてしまった。
学校の同じ学年や先輩、後輩に有名人がいて、自分を大きく見せようとその人の名前を利用した。

交流もなにも全然ないのに、まるで昔からの親友みたいなフリして自慢話をしてしまい、あとになって面倒なことなってしまったという経験がある人は、案外いそうな気がする。本書の主人公もそうだ。

本が出版され、ドラマ化され、大ヒットして有名作家になった朴先生。その近所に住んでいるというだけの関係なのに、それを大げさに自慢気に話して友人たちの関心を引こうとした主人公の浅はかさ。思わず笑ってしまう。でも、気持ちはわかる。

若かりし頃に大げさに話した朴先生との関係(もちろん嘘)は、大人になった主人公を窮地におちいらせる。アタフタする主人公が面白い。

短いからすぐに読める。そして面白い。まさに『はじめての海外文学』にピッタリの本だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「鯨」チョン・ミョングァン/斎藤真理子訳/晶文社-これぞエンタメ小説!圧倒的な想像力で創造される物語の迫力に魅了されました。

 

 

ワイドスクリーンバロックという言葉をご存知だろうか。

2020年1月に大阪の梅田蔦屋書店で開催された「はじめての海外文学スペシャルin大阪」イベントに登壇された翻訳家増田まもるさんのプレゼンで知った言葉だ。物語をいかに大きくいかにとんでもなく語るかが『ワイドスクリーンバロック』であり、いうなれば「徹底的に大風呂敷を広げる」ということ。物語の語り部(作家)の非常識で旺盛な想像力を最大限に駆使した物語が『ワイドスクリーンバロック小説』である。

チョン・ミョングァン「鯨」は、まさに『ワイドスクリーンバロック小説』である。

長い獄中生活の末に釈放されたチュニが、かつて自分が暮らした煉瓦工場に戻ってくるところから物語は始まる。生まれたときにすでに7キロという巨体だったチュニは、人並み外れた怪力の持ち主でもある。長い道のりを戻ってたどり着いたピョンデの街は、チュニが収監される理由となった事件の後に荒廃し、かつての栄華は完全に消え失せていた。

この物語のすべてが一編の復讐劇でもある。「第一部 波止場」の第2章「鬼」の最初に著者はそう記す。ピョンデで汁飯屋を営んでいた老婆の話から始まる一連の物語は、やがて壮大かつケレン味に溢れた騙りの世界に読書を誘い込み、その心をガッチリと掴んで離さない。まだるっこしい前書きも思わせぶりな前フリもすっとばして、いきなりドンッとピョンデの街なかに突き落とされるような感覚。一度落ちたら最後まで現実世界には戻ってこれないような想像の世界がそこに広がっている。

次々と姿をあらわす登場人物たちのインパクトは強烈だ。あまりの醜さに婚家を3日で追い出され、流れ流れてピョンデにたどり着いた汁飯屋の老婆。老婆の娘で、老婆に片目を潰された一つ目は、蜜蜂を自由自在に操る能力を持つ。

物語の中核をなすクムボクは、類まれなる才覚を持ち次々と事業を成功に導く実業家であり、説明不能な魅力で次々と男たちを惹きつける女性だ。クムボクの魅力に絡め取られた男たちは、魚売り、荷役夫のシンパイ、港町のやくざ刀傷、そして彼女ともに煉瓦工場を立ち上げるために奔走する文。彼らは、クムボクの前では従順であったり嫉妬に苛まれたりする。クムボクに翻弄され続ける男たちだ。

他にも、クムボクが女乞食としてうまやでチュニを産み落とすときに手助けし、それ以降クムボクを援助し続けた双子と彼女たちが飼っている象のジャンボだったり、クムボクが成功者としてピョンデに大劇場を建設したときに支配人となる幼馴染の薬売り、ピョンデの娼館から逃げ出しクムボクの愛人となった絶世の美貌を持つ売春婦睡蓮といった人物たちや、クムボクの娘チュニに関わる人物たち(トラック運転手や刑務所の女囚仲間、冷酷かつ残虐な看守鉄仮面)のどのキャラも強烈すぎる。

こうした登場人物の強烈さを演出するのが、著者による語りの巧みさだ。

クムボクの恋人となる刀傷について、著者は繰り返し書いていく。

稀代の詐欺師であり、悪名高い密輸業者であり、この町で並ぶ者のないドス使いの名手であり、音に聞こえた遊び人で、港町の娼婦たち全員のダンナであり、またやり手のブローカーでもある刀傷

こういう描写が他の登場人物にも同様にあって、読者はその人物のイメージをいやが上でも脳裏に刻みつけられていく。それはもう、とにかく圧倒的すぎてこんなレビューでは伝えきれない。本書を読んでもらうしかない。

登場人物の魅力だけではない。次々に披露されるエピソードの数々がどれもこれもたまらなく面白いのだ。

登場人物のインパクト、エピソードのインパクトを読者に植え付けるのが、本書の語り口である。それはまるで講談を聞いているような語り口。講談師がときに軽快にときに濃厚にときに盛大に講ずるように、著者はエピソードを畳み掛けるようにして積み重ねていく。それは、著者の物語師としての能力でもあるし、その魅力的な騙りをイメージを損なわずむしろより一層の迫力を加えて翻訳した訳者の能力でもある。読みながら「この本を元に神田伯山が講談にして演じたら猛烈に面白い演目になるんじゃないか」と考えてしまった。

あらすじなどストーリー紹介を一切していないので、どんな小説なのか全然わからなくなっているが、本書はあらすじなど知らぬままとにかくページを開いて世界に飛び込んでみるべき本なので、もうとにかく読んでくださいとしか言えない。マジですごいから読んでください。

 

「古くてあたらしい仕事」島田潤一郎/新潮社-『古くてあたらしい仕事』というタイトルにこめられた夏葉社10年の軌跡

 

 

ひとり出版社『夏葉社』の島田潤一郎さんが、ご自身が夏葉社を立ち上げるまでの日々や立ち上げてからのさまざまな出来事を綴った本。

「古くてあたらしい仕事」というタイトルが秀逸だ。出版業界はかなり以前から斜陽産業と言われ続けていて、特に町の本屋がどんどんと姿を消している。本を読まない人もたくさんいて、とにかく本は売れないというのが世間一般の認知になっている。本に関わるさまざまなシステムも旧態依然としていて批判されることも多い。そんな古い業界にあたらしく身を投じた島田さんの夏葉社10年の記録が本書には記されている。

島田さんは33歳で夏葉社を立ち上げた。きっかけは従兄の死。突然の事故で愛する息子を失った叔父と叔母のために本を作ろうと考えたからだ。それがヘンリー・スコット・ホランドの「さよならのあとで」である。亡くなった人を悼み、残された人がその存在を忘れずに生きるための想いが込められたこの1篇の詩。島田さんは、この詩を本にして贈ろうと決めた。

夏葉社を立ち上げるまでの島田さんは、なんだかフワフワと生きてきたように見える。大学を出てから出版社を立ち上げるまでは、本を読んだり映画をみたり音楽を聞いたりする合間に仕事を転々とする。そんな日々を繰り返してきた。

三二歳の無職のぼくは、ぼくを必要としてくれる人のために仕事をしてみたいと思うようになっていった。

仕事探しを続ける中で島田さんはその思いを募らせていく。そして、『ぼくを必要としてくれる人』=従兄(息子)を亡くした叔父、叔母だと思う。彼らのために自分ができることをする。それが「さよならのあとで」を本にして届けることだった。

こうして島田さんは『夏葉社』を立ち上げる。2009年9月。『夏葉社』という名前は「従兄と遊んだ夏の日々をイメージして」つけたという。夏葉社の事業計画書に島田さんは事業目的をこう書いた。

何度も読み返される、定番といわれるような本を、一冊々々妥協せずにつくることによって、長期的な利益を確保する。そのために、会社を応援してくれる本屋さんを全国に一〇〇店舗開拓し、それらの店を重点的に営業していく。

まさにいま、私たちが夏葉社の本を信頼して手に取る理由のすべてがこめられていると思う。私が最初に手にした夏葉社の本は、関口良雄「昔日の客」だった。図書館の新刊コーナーに置かれていた。萌黄色というのだろうか、淡い緑の表紙に記された「昔日の客」の文字。シンプルな装丁が逆に目を引いた。当時(今もなのだが)、私が住んでいる地域の本屋さんには夏葉社の本を置いているところはなかった。そういう意味では、地元の図書館が「昔日の客」を選書してくれたことに感謝しなければならない。

「昔日の客」はとても素敵な本だった。この本と出会ったことで、私は夏葉社という出版社の存在を知った。島田さんが作った本が読者である私に伝わった。

「さよならのあとで」を出版するために立ち上げた夏葉社だったが、最初に刊行したのは「レンブラントの帽子」、2冊めが「昔日の客」、3冊めは「星を撒いた街」である。いずれも復刊だ。「レンブラントの帽子」は装丁を和田誠さんが手がけている。島田さんは、まったく面識もない和田さんに長い手紙をしたためて送った。昨年(2019年)11月に神保町の『ブックハウスカフェ』で開催された本書の刊行記念イベントで島田さんは、10月に亡くなられた和田さんとの思い出を語っていた。すでに装丁家イラストレーターとして確固たる地位を築いていた和田さんが、まだ夏葉社を立ち上げたばかりの島田さんにどう接してくれたか。和田さんとの仕事がいかに緊張感があっていかに楽しいものだったか。ふたりの関係は、師弟のようであり、同士のようであり、親子のようでもあったのだと、島田さんの話を聞きながら思った。

作家の庄野潤三さんのご家族との交流の話も素敵だ。学生時代から好きだった作家の短篇集「親子の時間 庄野潤三小説撰集」出版のため千壽子夫人に手紙を出したことでつながった庄野さんのご家族との交流は、編集者と作家家族という仕事上の関係の垣根を越えて、親戚付き合いや友人同士のような関係になっていく。まだ小さい島田さんの息子さんを自分の孫のようにかわいがる千壽子さんたちの様子が微笑ましい。

和田誠さんとの交流。庄野潤三さんのご家族との交流。夏葉社の10年は、島田さんがたくさんの人々と出会い、仕事だけでなく人間としてたくさんの経験を築いてきた10年なのだと、本書を読んで思う。その経験は、夏葉社から刊行された本にギュッとつまっている。私たち読者は、島田さんが多くの人と出会った得た感動を本を通じておすそ分けしてもらっているのかもしれない。

この本を読んで、夏葉社という出版社に興味を持ったら、ぜひ夏葉社から刊行されている本も読んでみてほしい。