タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

リアノン・ネイヴィン/越前敏弥訳「おやすみの歌が消えて」(集英社)-ある日学校を銃撃犯が襲った。6歳の少年の目線で記される事件の恐怖、その後の家族の苦悩、そして大人たちの崩壊と再生

 

おやすみの歌が消えて

おやすみの歌が消えて

 

 

まっくらなクローゼットの中で、ザックたちは息をひそめていた。バン、バン、バンと銃撃犯が放つ銃声が響いてくる。その日、ザックが通う学校に銃撃犯がきたのだ。そして、兄のアンディが犠牲になってしまった。

リアノン・ネイヴィン「おやすみの歌が消えて」は、小学校を襲った銃撃犯によって、兄を殺されたザックの視点と語りで構成される物語だ。ザックは6歳の少年。本書は、6歳の少年の言葉で綴られていく。

銃撃犯によって息子を殺されたザックの両親は、深い悲しみに沈む。母のメリッサは、悲しみと絶望に包まれ、やがてその悲しみは怒りへと変わる。銃撃犯が、小学校の警備員チャーリーの息子だったことを知ると、その怒りは沸点を超え、やがて狂気じみてくる。テレビのニュースショーに出演し、他の事件で家族を殺された被害者たちを集めるようになる。メリッサの心には息子を殺した銃撃犯とその両親であるチャーリー夫妻への憎悪と復讐心しかない。家族のことも、たったひとりになってしまった息子ザックのことも、何も目に入らない。

そうした、家族を襲った悲劇と、その悲劇によって崩壊していく家族の姿が、子どもの視点で描かれていくのである。

子どもの目線で描かれていることで、大人では気づかない、あるいは気にもとめないようなことがクローズアップされている。まだ6歳のザックにとって、アンディの死は悲しいことではある。だけど、母親がアンディの死によって壊れていくことにはなかなか理解が及ばない。彼にとってみれば、それまで優しかった母親が突然自分に目を向けてくれなくなり、遠くに行ってしまったような気分になる。その自分でもよくわからない状況や感情が、子どもの言葉から伝わってくる。

家庭が崩壊していく中で、ザックが気持ちを色にして秘密基地(クローゼット)の壁に貼り付けていく場面がある。

赤-はずかしさ
灰色-悲しみ
黒-きょうふ
緑-いかりと不きげん
とうめい-さみしさ
黄色-うれしさ

感情を色で表現することで、ザックは無意識に自分の冷静さを保とうとしているのだと思う。自分が感じている気持ちが何色かと考えることで、自分を客観視しているとも思える。子どもらしさであると同時に、彼の成長を示す場面のように感じた。

子どもは、自分の気持ちに正直だ。正直だからこそ、大人たちの感情や行動を冷静にみている部分がある。正直にまっすぐに事実を見ているからこそ、「なぜ?」「どうして?」という思いをストレートに大人にぶつけることができる。

訳者あとがきによれば、著者のリアノン・ネイヴィンが本書を6歳の少年の語りにしたのは、「わたし自身の銃規制に対する作者自身の考えがそのまま文章ににじみ出るのがいやで、できれば読者に自分なりの結論を導いてもらいたかった。だから子供の素直な目を通し、ゆがみや偏りのない語りにしようと思った」からだという。子どもの正直でまっすぐな視点と語りは、私たち大人からは失われてしまったことなのかもしれない。本書を読んでいると、私たちは子どもから教えられることがたくさんあるのだと気づかされる。

子どもたちは、大人をしっかりと見ている。私たち大人は、子どもたちに見られて恥ずかしくない生き方ができているだろうか。そのことを考えないといけない。

 

 

ショーン・タン/岸本佐知子訳「セミ」(河出書房新社)-タカラ~ム セミ よむ。胸 あつくなる。ニンゲンの しあわせ かんがえる。トゥク トゥク トゥク!

 

セミ

セミ

 

 

2019年5月11日から7月28日の期間、東京・上井草にある『ちひろ美術館』で「ショーン・タンの世界展」が開催されます。秋には、9月21日から10月14日に京都でも開催も決定しています。

www.artkarte.art

セミ」は、ショーン・タンの翻訳新刊です。表紙にちんまりと佇んでいるのが主人公のセミです。名前があるわけではありません。セミは『セミ』として描かれます。

セミ 高い ビルで はたらく。
しごと データ 入力。17ねんかん。
けっきん なし。ミス なし。
トゥク トゥク トゥク!

セミは会社で働いています。毎日パソコンに向かい、黙々とキーボードを叩き、データを入力しています。欠勤もなく、ミスもなく、真面目にコツコツと働いています。

セミは17年間ずっとデータ入力の仕事を続けていて、その間昇進することもありません。ニンゲンでないセミは、その仕事ぶりを評価されることもなく、感謝されることもありません。上司からは辛辣な言葉をぶつけられ、同僚たちにもいじめられています。毎日毎日残業をして、それでも家賃も払えないセミは会社の壁の隙間で暮らしています。

17年間働き続けたセミは、定年を迎えます。でも、誰もセミを労うことはありません。送別会も別れの握手もありません。

定年になったセミは、仕事と住む場所を失います。セミは、トボトボとビルの屋上へ昇っていきます。そして、次の人生へと旅立ちます。

本書のラストには、こんなフレーズが書かれています。

セミ みんな 森にかえる。
ときどき ニンゲンのこと かんがえる。
わらいが とまらない。

17年間、評価されることもなく、上司からも同僚からも嫌われ、いじめられ、毎日毎日同じ仕事を黙々とこなし、遅くまで残業し、住む場所も持てなかったセミが、最後に「ニンゲンのことを考えると笑いが止まらない」と言う。ハッとさせられました。

最後にセミは幸せを掴んだということなのでしょうか。
我慢して、耐えて、17年間を過ごした先には幸せが待っていたのでしょうか。
それは、ニンゲンには得られない幸せということなのでしょうか。

セミの姿をみて哀れみを感じるのか、自分と重ね合わせて痛みを感じるのか、本書の受け止め方は読者がおかれた場所によって違うのだろうと思います。ただ、幸せの意味を考えるという意味では共通していると思います。

ニンゲンの幸せとは、なんなのでしょうか?

 

note.mu

 

田房永子責任編集「エトセトラvol.1 特集コンビニからエロ本がなくなる日」(エトセトラブックス)-毎号新しい編集長によって作られるフェミマガジンの創刊号。テーマは「コンビニの店頭からエロ本がなくなる日」

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5月の『文学フリマ東京』で購入した中の一冊。「毎号、新しい編集長がいま伝えたいテーマを特集するフェミマガジン」(裏表紙より抜粋)の創刊号になる。編集長は、漫画家でライターの田房永子さん。テーマは『コンビニからエロ本がなくなる日』。

今年(2019年)1月にコンビニ大手の三社(セブン-イレブン、ローソン、ファミリーマート)は、8月末までに成人向け雑誌の店頭販売を中すると発表した。大人の男性だけでなく、女性や小さい子どもも利用するコンビニの店頭からエロ本がなくなることが決まったのである。

本書には、コンビニからエロ本が消えることに対するさまざまな意見が集められている。

前書きにあたる「はじめに」を読むと、田房さんがなぜ本書を作ろうと考えたのかが記されている。以前から、コンビニでエロ本が売られていることに疑問を感じていた田房さんは、今回のコンビニ各社の決定を歓迎した。一方で、『コンビニからエロ本がなくなる』というニュースが世間的には『ささいな事』として、あっという間に消費されてしまうことに不安も感じた。「これは『ささいな事』じゃない」と考えた田房さんが作った雑誌が「エトセトラvol.1」である。

本書には、さまざまなライター陣が多様な意見を寄せている。フェミニズムに関わるライター、実際にエロ本を扱うこともある書店員、エロ本業界で働く編集者やライター。その他に、SNS等を通じて集まった一般の方々の投稿も紙面を割いて掲載されている。

本書の方向性としては、編集長の田房さん自身がコンビニ店頭でのエロ本販売中止を歓迎する立ち位置であることからコンビニからエロ本が消えることを歓迎する内容に寄っているように思う。ただ、一方的に賛成意見だけが示されているというわけではない。

たとえば、本書には一般読者からの投稿が40本掲載されている。意見の多くがコンビニでのエロ本販売中止を歓迎する内容になっているが、反対意見も掲載されているし、単純な賛成反対の意見だけではなく、エロコンテンツ産業の問題などに関する意見などもある。幅広く意見が掲載されていることで、読者も考えるきっかけを得ることができるようになっているのだ。

エロ本業界で活動するライターやコンビニ販売用のエロ本をつくっている編集者からは、コンビニでのエロ本の売上(2000年代後半には1冊で10万部の売上があり、現在でも3万部程度は売り上げているという)がなくなることへの危機感も示されていて、エロというコンテンツが一定の市場を有していることもわかるのも面白い。

私自身の意見を書けば、コンビニのエロ本販売中止は歓迎している。私は男性であり、エロ本やエロビデオの恩恵を少なからず享受してきた。ただ、エロ本をコンビニで買ったことはない。むしろ、コンビニでエロ本が売られていることは疑問に感じていたし、必要性を感じられなかった。なので、今回の販売中止は単純に良かったと思うし、時代の流れなどを考えれば当たり前だと感じている。

インターネットから気軽にエロが入手できる時代にコンビニでエロを販売する必要性はない、とする意見に対してデジタル弱者である高齢男性からエロを奪うことになるのは問題とする対立意見がある。これも「なるほど」と思う。コンビニが社会インフラとして機能するのであれば、さまざまなニーズを満たす場所としてのコンビニにエロを求めることもあるだろう。ささやかなニーズであるかもしれないが、ニーズとしては確かに存在する。

だが、多少のニーズはあるにしても、それがコンビニでエロ本を販売して良いとする根拠とするには弱い。コンビニ利用者の多くは、コンビニでエロ本を買う必要性を感じていないし、コンビニでエロ本を販売する必要性も感じていない。私も含め多くのコンビニ利用者は、エロ本がコンビニで販売されなくても困らない。

コンビニでエロを手に入れられなくなっても、別の方法や別の場所で手に入れられるようになる。人間の(特に男の)エロに対する欲求は強いのだ。むしろ、コンビニで手軽に手に入る必要はなくていい。そのくらいのハードルはあった方がいい。

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳「罪悪」(東京創元社)-罪の意識とはどういうものなのか。

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人は、自分が犯した罪の重さをどう考えるのだろうか。

小さな罪であっても、深く罪悪感に苛まれて苦悩し続ける人がある。
大きく重い罪を犯しても平然としていられる人がある。

フェルディナント・フォン・シーラッハの短編シリーズ第2作となる「罪悪」には、15篇の短編が収録されている。

ふるさと祭り
遺伝子
イルミナティ
子どもたち
解剖学
間男
アタッシュケース
欲求

寂しさ
司法当局
清算
家族
秘密

前作の「犯罪」を久しぶりに読み返したこともあり、また2019年6月にはシリーズ第3作にして、短編3部作の締めくくりとなる「刑罰」が刊行されることもあって、「罪悪」も7年ぶりくらいに読み返してみた。

冒頭に収録された「ふるさと祭り」が衝撃的だった。賑わう祭りの会場で起きた楽団員たちによる少女輪姦事件。酒に酔って事件を起こした楽団員たちには罪の意識は希薄であり、レイプ被害を受けた少女もあまりの恐怖から楽団員の誰が加害者なのかをはっきりと認識できていない。少女が理不尽な暴行(それはあまりに凄惨である)を受けているのは明らかなのに、証拠や証言の曖昧さから罪を裁くことのできないジレンマがある。

最初に読んだときには、そんな理不尽なことがあってはいけないと憤りを感じたが、今まさに同じような理不尽なことが自分たちの国でも起きていることに愕然とした。

「犯罪」が、『人はなぜ罪を犯してしまうのか』を読者に問いかけた短編集だとしたら、「罪悪」は、『犯してしまった罪の重さを人はどう受け止めるのか』を読者に問いかけた短編集である。15篇の短編のひとつひとつに描かれた罪とその罪の重みを登場人物がどう受け止めているか。それを読んで読者である私たちはどう受け止めたらよいのか。ただ楽しむだけではなく、いろいろなことを考えさせられる短編集だった。

 

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳「犯罪」(東京創元社)-人はなぜ罪を犯してしまうのか。それぞれの事情、それぞれの人生をみつめる11の物語

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先日(2019年4月19日)、『はじめての海外文学』の人気企画『はじめての読書会』の番外編として翻訳家酒寄進一さんをお迎えしたイベントが開催されました。その課題図書となったのが、フェルディナント・フォン・シーラッハ「犯罪」です。

イベントの開催に合わせて、7年ぶりくらいに本書を再読しました。

本書は、シーラッハのデビュー短編集です。弁護士でもある著者の経験した事件をベースにした11編が収録されています。

フェーナー氏
タナタ氏の茶盌
チェロ
ハリネズミ
幸運
サマータイム
正当防衛

愛情
エチオピアの男

どの作品も、これまでに読んできたミステリーとは異なる味わいがあると感じます。人間には弱い部分や狡猾な部分があって、それが犯罪を生み出す。やむにやまれぬ犯罪かもしれないし、計画的な犯罪かもしれない。どのような犯罪であっても、弁護士はその役割に忠実にしたがって行動する。そのことが、ときに無機質に、ときにわずかな感情を含んで描かれているのが本書だと思います。

11編それぞれに味わいがあります。どの作品が好きかを語り合いたくなります。先日の読書会でも、会場に集まった参加者それぞれが自分の好きな作品について話し、酒寄さんにもたくさん質問され、会場はおおいに盛り上がりました。

キャッチに書いた『人はなぜ罪を犯すのか』は、本書の根底にあるテーマだと思います。抑圧された中で耐えてきた思いがあるとき一気に開放される。それが、罪を犯すことへとつながる。「フェーナー氏」や「チェロ」、「棘」は、妻との約束、父親との関係、閉塞的な環境がもたらす強迫性といった抑圧が、時間をかけて蓄積していくことで、やがて罪へとつながっていきます。彼らにとって罪を犯すことは解放であり、犯してしまったことへの罪悪感以上に、抑圧から解放されたことへの安堵感が強くなる。その安堵感には、読者も共感してしまうところ、同情してしまうところがあるかもしれません。

エチオピアの男」のように、自らの育ってきた環境の中で、罪を犯すことでしかできなかったという話もあります。ようやく、自分の居場所を見つけても、そこに戻るためには、また罪を犯さなければいけない。それこそが、罪を犯さざるをえない人間の苦しみなのです。

罪を憎んで人を憎まず、という言葉があります。犯罪は、どのような理由があろうとやってはいけないことです。罪を犯した人間は、その罪の重さに見合った報いを受けなければなりません。でも、彼らが犯罪に至った事情も考えた上で、糺すべきところを糺していくことが必要なのではないと感じるのです。

ニコラ・ド・イルシング/末松氷海子訳、三原紫野絵「なんでもただ会社」(日本標準)-なんでもタダ!なんと甘美な言葉!でも、甘い言葉には必ず裏があるよ、気をつけて!

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無料!タダ!

なんと心惹かれるワードなんでしょう。ランチタイムに入った定食屋さんでごはんと味噌汁のおかわりが無料!とか、ラーメン屋さんで大盛無料!とか、今ならエアコンの取付工事費が無料!とか、世の中には無料・タダが溢れています。そして、人は『無料!タダ!』という言葉に弱いものです。

ニコラ・ド・イルシングの「なんでもただ会社」に出てくる『なんでもただ会社』は、会員になるだけで注文した品物がなんでもタダでもらえるという夢のような会社です。会員登録は名前を教えるだけ。それだけで欲しいものはなんでももらちゃうんです。

ただ、規則がひとつだけあります。それは、注文する品物の最後に『ン』がついているものは注文できないということです。もし『ン』のつくものを注文してしまったら、それまでにもらった品物はすべて返却しなければなりません。もし、ひとつでも返せないものがあったら、宇宙の果てにあるティクサールという星に連れて行かれて、死ぬまで工場で働かされてしまいます。なんとハイリスク!

いたずら好きの少年ティエリーは、両親が留守のある日、電話でいたずらをしていて偶然『なんでもただ会社』につながってしまいます。半信半疑だったティエリーですが、注文したプラスティックのトラックが本当にただでもらえて驚きます。

さあ、本当にただで欲しいものがもらえるとわかったティエリーは次々と品物を注文していきます。ひこうき、トランシーバー、ボール、パズル、きかんしゃ、グローブ、などなど。気をつけなければいけないのは、名前の最後が『ン』にならないこと。でも、『なんでもただ会社』の人はなんとかしてティエリーに『ン』のつくものを注文させようとします。クレヨン、ピンポン、バイオリン。ティエリーは相手の誘導にのせられないように注意しますが、ある時ついに『ン』のつくものを注文してしまいます。

無料やタダという言葉は、ついつい人を油断させてしまいます。とくに食べたいわけでもないのにタダだからと料理を大盛りで頼んでしまい、結局食べきれなくて残してしまったりして。それで学習するかといえば、次も同じ失敗を繰り返しちゃったり。

タダほど高いものはない
安物買いの銭失い

そんなことわざ、格言があります。タダだから安いからと調子に乗って、買ったり食べたりした結果、残るのは後悔ばかりという経験を戒める言葉ですよね。

調子に乗って『なんでもただ会社』からタダで欲しいものをもらっていたティエリーも最後には怖い思いをすることになります。ちょっとしたいたずらのつもりだったのにひどい目にあったティエリーは、きっと自分が調子に乗ったことを反省したでしょう。いたずら好きの性格は変わらないかもしれませんが、注意するようにはなったはずです。

人間は誘惑に弱いもの、でも誘惑に乗って怖い思いをしたり失敗したりしてひどい目にあったら、そのことをちゃんと反省して同じ失敗を繰り返さないように注意することができるのも人間です。

「なんでもただ会社」を読むのは、まだまだ小さい子どもたちだろうと思います。「なんでもタダでもらえるなんていいな、うらやましいな」という気持ちの方が大きいだろうなと思います。だから、この本を読むときはぜひ大人も一緒に読んでほしいです。そして、「甘い誘惑の裏には怖いこともあるんだよ。気をつけないといけないよ」ということを教えてあげてください。大人は誘惑に負けて失敗してきた記憶がたくさんあります。その教訓を子どもたちに伝えることも大人の役割だと思うのです。

 

ライマン・フランク・ボーム/宮坂宏美訳「完訳オズの魔法使い」(復刊ドットコム)-よく知っている物語ですが、本ははじめて読みました

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オズの魔法使い」は、映像作品では観たことがあっても本を読んだことがありませんでした。今回、『はじめての海外文学vol.4』で訳者でもある宮坂宏美さんが推薦したので読んでみました。

カンザス州で、お百姓のヘンリーおじさん、奥さんのエムおばさんと一緒に暮らしているドロシーが主人公です。

ある日、ドロシーは、大きなたつまきによって小犬のトトと一緒に見知らぬ場所に家ごと吹き飛ばされてしまいます。そこは、とても美しい景色の場所でした。

この美しい場所の名前は『オズ』といいます。ドロシーは、カンザスへ戻るためにオズの国の中心にあるエメラルドの都へ向かいます。そこに住むという大魔法使いのオズさまに会って、カンザスに帰るための手助けをしてもらうのです。

エメラルドの都に向かうドロシーは、その途中で旅の仲間と出会います。

トウモロコシ畑では、かかしと出会いました。かかしは、エメラルドの都でオズさまに会ったら脳みそをもらうと言います。

森のなかでは、錆びついて動けなくなっていたブリキのきこりを助けます。ブリキのきこりは、オズさまに心臓をもらいたいと言います。

さらに森をすすむドロシーたちは、ライオンと出会います。ライオンは、その見た目や大きな吠え声に似合わぬおくびょうものでした。ライオンは、オズさまに会ったら勇気をもらいたいと言います。

こうしてドロシーは、かかしとブリキの木こりとライオン、そして小犬のトトと一緒にエメラルドの都を目指します。そして、オズさまと会うことになるのですが...

復刊ドットコムから刊行された「完訳オズの魔法使い」は、全15巻におよぶ「オズシリーズ」の第1巻になります。私は、「オズの魔法使い」がシリーズになっていることを知りませんでした。他のシリーズ作品はどんな物語なのでしょう。気になります。

完訳版のオズシリーズは、本書の宮坂宏美さんをはじめ、ないとうふみこさん、田中亜希子さんが翻訳を担当されています。全15巻を2年間で翻訳刊行したそうで、相当に大変な仕事だったのだろうと思います。

エメラルドの都でオズさまと出会ったドロシーたちは、そこである事実を知ります。彼女たちの冒険は、オズさまと出会っただけでは終わらず、さらにオズの国を旅することになります。はたして、彼女たちはそれぞれの希望を叶えることができるのでしょうか。

映画化されたり、ミュージカルになったりと長く愛され続けている不朽の名作です。ほとんどの人は、そういう作品を通じて「オズの魔法使い」を知っていても、私のように小説として読んだことはないかもしれません。この機会に、物語としての「オズの魔法使い」を読んでみるのもいいかもしれません。