タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

友田とん「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1 まだ歩きださない」(代わりに読む人)-「『百年の孤独』をか代わりに読む」の友田とん、今度はパリのガイドブックで東京を歩く!?

 

パリのガイドブックで東京の町を闊歩する: まだ歩きださない (1)

パリのガイドブックで東京の町を闊歩する: まだ歩きださない (1)

 

 

「『百年の孤独』を代わりに読む」という、なんとも興味をそそられるタイトル自費出版本で私の心を惹きつけた友田とんさんが新刊を出した。しかも、今回はご自身で出版レーベル(その名も『代わりに読む人』!)まで立ち上げたとのこと。新刊のタイトルは「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1 まだ歩きださない」である。

パリのガイドブックで東京の町を歩く?
でも、まだ歩きださない?

タイトルだけで、これほど読者の興味をそそる本があるだろうか? 「『百年の孤独』を代わりに読む」もそうだったが、ネットや店頭で見たときに「おぉ!」と思わず唸ってしまう本がある。友田さんの本は、まさにそういう本だ。

しかし、タイトルで興味をそそる本は、一方で危険な本でもある。というのは、タイトルが秀逸すぎて、中身でガッカリすることが少なくないからだ。過去に何度もそういう経験をしてきた。

友田さんの場合、前作が期待に違わず内容も抜群に面白かったので、今回も大丈夫と安心して読んだ。ちゃんと期待にこたえてくれていた。

本書がどういうジャンルのどういうタイプの本なのかを説明するのは、なかなかに難しい。そもそも、「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」とはなんなのか。東京の町を紹介する『街歩きガイドブック』になるのか。であれば、『パリのガイドブックで』とはどういう意味なのか。

読み始めるまでに、どういう疑問が頭の中をグルグルと渦巻くに違いない。あまりに訳がわからなすぎて、歩きださないどころか読みださないなんて人もいるかもしれない。

「『百年の孤独』を代わり読む」で友田さんは、「百年の孤独」を読み始めるときにふたつのことをなんとなく決めた。

・冗談として読むこと
・とにかく脱線すること

その、なんとなく決めたポリシーが本書にも受け継がれている。「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」という、友田さんの脳裏に唐突に湧き上がった啓示に、彼はなんらかのときめきを感じた。Spark Joyしちゃったわけである。

パリのガイドブックで東京を歩くにあたってのルールをまずふたつ決めた。

ルール1:東京のガイドブックには頼らない
ルール2:パリのガイドブックは読む

さらに、その後に3つめのルールが追加される。

ルール3:フレンチトーストは好き

いやいや、なんだそのルールはよくわからんぞ。と思われたかもしれない。詳しく説明したいところだが、本書は50ページにも満たない短い作品なのだ。細かくレビューしていたら、ほとんど書き写しみたいになってしまう。気になる方はぜひ書店で買って読んでください。

サブタイトルにあるように、友田さんの東京の町を闊歩する物語はまだまだスタートラインに立ったばかりだ。フレンチトーストとカレーを求め歩いたように、これから友田さんはいろいろな何を求めて東京の町を闊歩し続けていくのだろう。

「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する2」は、今年の秋の刊行予定とのこと。時代が平成から令和にかわる歴史的な転換点において、友田さんの旅がどのような展開をみせていくのか気になる。第2巻がでるまでの間、私もフレンチトーストとカレーを目当てに町に出てみようかと思っている。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

ロバート・ニュートン・ベック/金原瑞人訳「豚の死なない日」(白水社)-父と息子をつなぐ強くて深い絆の物語

 

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父、ヘイヴン・ペックに……
父は寡黙で穏やかで
豚を殺すのが仕事だった。


ロバート・ニュートン・ベック「豚の死なない日」は、息子と父の物語だ。

主人公のロバートは、著者ロバート・ニュートン・ベック自身である。「豚の死なない日」は、ロバート・ニュートン・ベックの自伝的作品なのだ。

12歳のロバートは、学校に通いながら父ヘイヴンの農場を手伝っている。家族はシェーカー教徒であり、その暮らしはつましい。父は読み書きができないが、働き者であり、農作業のことで知らないこと、できないことはない。ロバートは、父の背中をみて成長し、父を尊敬していることがわかる。

本書は、1972年に刊行された著者のデビュー作である。著者がデビュー作に父との物語を選んだことに、父への尊敬の念と深い絆が感じられる。

物語を通じて、ロバートは少年から青年へと成長する。まだまだ幼くて未熟だと思っていた少年が、様々な出来事を経験することで立派にひとりだちしていく。ありがちなストーリーと言ってしまえばそれまでだ。だけど、そういう当たり前のストーリーだからこそ、胸に刻まれるものがあると感じる。

男の子にとって父親というのは、最初に身近に接する大人の男であり、憧れの存在である。私自身、自分が父親と呼ばれる年齢になった今でも、父親は憧れの存在であり、人生でもっとも信頼し尊敬する人物だ。そして、一生かかっても追いつくことができない存在でもある。

「豚の死なない日」での、ヘイヴン・ベックとロバート・ニュートン・ベックの関係は、私がみても理想的な親子関係だと思う。息子は、常に父を意識し、父のために頑張ろうと努力する。父は、息子の成長を頼もしく感じ、優しく厳しく自分の経験を教え伝えようとする。

物語の終盤、ロバートが大切に育ててきた豚のピンキーが不妊症であることがわかり、彼女を殺処分することになる。残酷なようだが、農家にとって繁殖能力のない家畜は役に立たない。それは仕方のないことだ。ロバートは、ヘイヴンがピンキーを殺す作業を手伝う。かわいがってきたピンキーが、目の前で殺されていく。ロバートは、父を憎む。憎みながら、それ以上に父を尊敬する。

「これが大人になるということだ。これが、やらなければならないことをやるということだ」

父は息子にそう言い聞かせる。それは、息子はこれからひとりで生きていかなければならないことを言い聞かせているようだ。父の支えがなくても、自分で考えて、自分の力で生きていけと伝えているようだ。

少年はこうして大人になる。

ハン・ガン/斎藤真理子訳「すべての、白いものたちの」(河出書房新社)-白きもの、それは、儚くて、柔らかくて、優しくて、少し怖い

 

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小説というよりは、ひとつひとつが美しい詩歌のような、胸にじんわりと染み入ってくるような作品だと感じた。

そう、これは『作品』だ。「小説」であり「物語」でありながら「小説」でも「物語」でもない。『作品』なのである。

芸術的といってよいだろう。美しく刻まれた言葉には、儚い息づかいが感じられ、柔らかい空気の流れを感じる。夢のように幻想的な感覚があれば、スッと首筋を撫であげるようなゾクリとする感覚もある。ひとうひとつの言葉に、ひとつひとつ違った感触がある。

『白』は、なぜこんなにも儚くて柔らかいのか。
『白』は、なぜこんなにも優しくて怖いのか。

『白』は命の象徴であり、「生」と「死」をあらわしている。

生まれくる無垢なる命には、生きるための「白」がみえる。何者にも染められていない無垢なる「白」は、未来の希望を描くための真っ白なキャンバスのようだ。この世に生を得た者は、その身を汚れのない白いおくるみにくるまれ、健やかに呼吸を繰り返す。

死にゆく者の行く末に見えるのも「白」だ。生まれてすぐに死んでいったという姉の存在も、40歳にも満たない若さでアルコールの海に溺れて死んだ叔父の存在も、死んだ者たちの人生は白く塗りつぶされる。なぜなら、彼らの思い出は残された者によって書き換えられるものだから。はっきりと書かれてはいないけれど、死とは新たに生まれ直すこととすれば、「死」は「白」へと通じる。

この『作品』には、さまざまな白きものが存在する。ドア、産着、霧、タルトック、息、白木蓮、白髪。

無機質な「白」にハン・ガンは言葉を与える。言葉を与えられた「白」は、命を与えられ、意味を与えられる。そして、「白」は物語となる。私たちは、作家が「白」から生み出した物語を読み、その意味をそれぞれのイメージとして形にする。

観念的で抽象的な言葉でしか、この気持ちを表現できない。単純に「感動した」とは記したくない。だけど、私にはハン・ガンのように言葉に命を与えるとはできない。それでも、どうにか言葉をつむいでみれば、抽象的で曖昧な、奇妙な文章が生まれる。

もう無理はやめておこう。この作品を語るのに、これ以上おかしな言葉を費やす必要はない。儚くて、柔らかくて、優しくて、少し怖い。ハン・ガンのつむぐ美しい言葉が生み出した命をゆっくりと味わってください。

 

すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの

 
すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの

 

 

チョ・ナムジュ/斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」(筑摩書房)-どれだけ理解したつもりでも、どこかに男性目線のバイアスが生まれる。キム・ジヨンを診察しカルテを記した精神科医と私は『同じ穴の狢』なのだ

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韓国で100万部を突破する大ベストセラーとなり、日本でも2018年12月に刊行後10万部を超えるベストセラーとなった話題の本である。

キム・ジヨン氏、三十三歳。三年前に結婚し、昨年、女の子を出産した。

こんな、ちょっと無機質とも思える書き出しで物語は始まる。この書き出しには理由があって、本書はキム・ジヨンを診察する精神科医のカルテという形態をとっているからだ。キム・ジヨンは、あるときから友人や母親の人格が憑依したような言動を繰り返すようになり、精神科のカウンセリングに通っている。カウンセリングの中で語られたキム・ジヨンの生い立ちが記録され、物語となっていく。その中で、彼女が精神的に壊れていく要因がみえてくる。

彼女が壊れていった理由は、彼女が女性であるということだ。韓国社会が抱える女性に対する理不尽や不平等が彼女をジワジワと苦しめ、過剰にストレスを与え、たまり続けたストレスはやがて表面張力を失って心のコップから溢れ落ちる。

  • 家庭でも学校でも優遇されるのは男の子で、女の子は常に我慢を強いられる
  • 仕事でどれだけ頑張って評価されても、出世するのは自分より評価の劣る男性社員ばかり
  • 結婚すれば跡取りとなる男子を産むことが求められ、女の子が産まれれば落胆される

こうして書いてみると、理不尽以外に言葉がみつからない。そして、私たち男性が当たり前のように過ごしている日常で女性と無意識に接してきたこと、彼女たちのつらさに思いが至らなかったことを恥じた。

だが一方で、彼女たちが過敏になりすぎているのでは?と感じるところもあった。たとえば、兄弟姉妹の中では長男がチヤホヤされるのは、彼が将来跡継ぎとして担う責任を考えれば致し方ない部分もあるのではないだろうか。でも、そう考えてしまうことが、無意識に家父長制というしがらみに囚われてしまっているということかもしれない。

あらゆる場面で、女性が男性より低く見られたり扱われたりすることは多い。日本でも韓国でもその他諸外国でも、そういう理不尽で不平等な環境を改善するために、女性たちは声をあげ続けてきた。その声が届いて女性の地位が改善したところもあれば、日本や韓国のように彼女たちの声を全力で叩き潰そうとしたり無視したりするところもある。

本書が韓国で大ヒットしたり、日本でも翻訳小説としては異例の10万部を超えるベストセラーとなっているのも、女性たちの支持があったからだ。男性たちの中にも、現状に問題を感じ、この本に共感した人も多いはずだ。訳者あとがきには、本社が大ヒットした理由について著者自身が「進歩的な考えを持つ男性たちが、この問題は男性が知らなくてはいけないと考えて読んだ」ことをひとつの要因としてあげていることを記している。

私は自分が『進歩的』な男性だとは思っていない。むしろ昭和生まれで前時代的な考えにとらわれた古臭いタイプの人間だと思っている。だから、本書を読むときも反発心が起こるのではないかと思いながら読んだ。だが、読めば読むほど自分を恥じる気持ちが強くなった。

  • 自分は無意識に女性を蔑んでみてしまっているのではないか
  • 何気ない言葉が女性を傷つけ、悲しませているのではないか
  • 女性が社会的な地位を確立していくことに理不尽に嫉妬しているのではないか

そういう考えが次々と湧き上がってきた。そう考えられることが『進歩的』というのなら私は進歩的な男性なのかもしれないが、当たり前の感受性を持っていれば、進歩的であろうがなかろうが、男性の傲慢さを思い知らされ恥じ入る気持ちになるはずだとも思う。

この本のレビューを男性が書くことは正直難しいと感じた。どんな言葉を使っても、結局男性は男性としての視点でしか物事を考えられない。男性の視点でこの本を評価すれば、共感であろうが反感であろうが、どちらにしても本当の意味での共感や反感にはならないと思う。

こうして書き連ねた私のレビューも、男性視点というバイアスが存在した上で書かれたものだ。「この本の本質がわかっていない」「理解したフリをしているだけ」なのかもしれない。キム・ジヨンの苦しみを理解したかのようにカルテを記して悦に入っている精神科医と私は『同じ穴の狢』なのである。

鹿子裕文「へろへろ~雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々」(ナナロク社、筑摩書房(文庫))-読んでいる間は、ただただ笑っていた。でもそれで終わりじゃなかった。読み終わったときには胸に深く刻まれるものが残されていた。

 

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

 

 

 

ナナロク社版の「へろへろ」を購入したのは、2月の「本を贈る展」だった。その後、すぐに読み始めることはなく、しばらく時間をおいているうちに、本書が筑摩書房で文庫化された。ちくま文庫版には、「文庫版あとがき」「下村恵美子が「よりあい」を去った日」と、橙書店の田尻久子さんの解説「物語はおわらない」が追加収録されている。なので、ちくま文庫版も買った。(@ときわ書房志津ステーションビル店)

で、文庫も発売された3月の半ば近くになって本書を手にとった。

読みはじめていきなり鷲掴みにされた。書き出しが自分の想像のはるか上空、成層圏を突き抜けて宇宙の彼方までぶっとんでいたからだ。

本書は、高齢者介護施設を舞台にしたノンフィクションである。たぶんそうだと思う。福岡に実在する『宅老所よりあい』がいかにして生まれ、どのような苦労の中で運営されているのかの記録だ、と思う。思うのだが、読んでいるとそんな堅苦しいイメージはガラガラと音を立てて崩れていく。そして、顔にはニヤニヤとした笑いが浮かび、それが次第に大きくなり、爆笑へと成長していくのだ。

最初から最後まで笑いっぱなしだった。鹿子さんの文章が面白いのは当たり前なのだが、やはり登場人物たちのキャラクターが際立っている。これが創作小説だったら、登場人物たちは“キャラが立っている”と評するところだろう。しかし、本書はノンフィクションである。登場人物はすべて実在の人物なのである。『宅老所よりあい』を立ち上げた下村恵美子さんも村瀬孝生さんも、下村さんが宅老所をつくるきっかけとなった大場ノブヲさんという強烈なばあさまも、出てくる人はみんなみんなこの世に実在している(いた)のだ。

読者を圧倒する強烈な登場人物たちは、やることなすことすべて型破りだ。

高齢者介護について、私たちには固定したイメージがある。介護の仕事は、人の命を預かる責任ある仕事だ。仕事の内容も厳しくキツイ。それなのに給料は安い。そういうイメージだ。

ところが、この本にはネガティブな部分がほとんど出てこない。運営資金には相当に苦労しているし、認知症の老人たちを相手にした介護の仕事が大変なことも書かれている。書かれているが、彼らは常に明るくて前向きなのだ。下村さんの好きな歌のフレーズを借りれば、まさに「ケ・セラ・セラ~ なるようになるわ~」なのである。

毅然としてぼけ、下の世話も覚束なくなっても「死ぬ覚悟はできている!」と言い張る大場ノブヲさんに会ったときも。
最初のデイサービス施設をつくるときに800万円の費用が必要だとわかったときも。
特養施設の補助金申請に悪戦苦闘しているときも。

どんな苦しい場面でも『宅老所よりあい』に関わるメンバーは、ケ・セラ・セラ~と乗り越えていく。手作りのジャムをバザーで売ったり、チャリティコンサートを開いたり、寄付を募って歩いたりして資金を稼ぐし、デイサービスに集まる老人たちとは人間として接する。

なんとパワフルな人たちなのか。ゲラゲラと笑って読みながら、私は心から下村さんたちを尊敬していった。彼らの取り組みに喝采をおくりたくなった。

一方で危惧することもあった。さきほど書いたように介護の仕事は安月給でキツイ仕事だ。多くの施設でヘルパーさんたちは、身体的にも精神的にもつらい仕事をこなしている。施設の運営資金も慢性的に不足しているだろう。介護の仕事が人間の命にかかわる重要で責任の重い仕事なのに、それに報いるような環境ができていないのは間違いなく国の責任だ。国が責任をもって彼らに手厚い環境を整備しなければならないはずだ。

しかし、本書を読むと「運営資金のことも、介護の仕事のことも、現場のやる気と創意工夫でなんとかなる」という考えが浮かんできてしまう。私が危惧するのはそこだ。『宅老所よりあい』の事例が全国の高齢者介護施設に当てはめられるわけではないのに、『よりあい』でできたことがなぜ他の施設ではできないのか。やる気がないのではないか。と思われてしまうのではないかと懸念してしまうのだ。

『よりあい』の人たちの話は、勇気と希望を与えてくれる。介護の現場のつらさを吹き飛ばしてくれる楽しさがある。「一人の困ったお年寄りから始まる」という行動理念を基本姿勢とする『よりあい』の取り組みは、全国の施設が参考にするべきだろうし、施設で働く人が仕事を楽しめてこそ、そこに集う老人たちも幸せに過ごせるのだと思う。

でも、これだけは書いておきたい。『宅老所よりあい』は、きわめて稀なケースなのだ。全国の施設がすべて、ケ・セラ・セラ~でなるようになるわけではないのだ。そこは勘違いしてはいけないと思う。頑張ることは大切だ。それ以上に、私も含め行政や市民が彼らを知ること。そして、支えることがもっと大切なのだと思う。

 

 

J・G・バラード/南山宏「ハロー、アメリカ」(東京創元社)-アメリカ崩壊から1世紀。荒廃し砂漠と化した大地が見せつける人間の狂気。

 

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イギリスから大西洋を横断してアメリカ大陸を目指した蒸気船アポロ号がマンハッタン島に到着する場面からJ・G・バラードのSF長編「ハロー、アメリカ」は始まる。

書き出しからは、この物語の時代設定がアメリカ大陸がコロンブスによって新大陸として発見され、ヨーロッパからの移民が海を渡りだした17世紀頃のように思われるかもしれない。だが、読み進めていくとすぐに違うことに気づく。物語は、22世紀が舞台なのだ。そして、アメリカは20世紀に最高の栄華を極めた後、衰退し崩壊していた。1999年にアメリカの油井から原油が掘り尽くされ、アメリカはエネルギー危機を迎える。代替エネルギーの確保もままならず、国家は衰退していく。人々はアメリカを捨て、ヨーロッパや他の国に移住する。エネルギー問題を端緒として、さまざまに世界が歪みだすという構図は、非リアルではあるが、どこかでリアルを感じるところもある。

本書に描かれるのは、アメリカが崩壊した1世紀ほど後の時代である。主人公は蒸気船アポロ号の密航者ウェイン。彼は、自分がアメリカを建て直し第45代大統領としてたつことを夢見る。彼はアポロ号の船長たちと西を目指して移動する。彼らの行く手には、1世紀前に大陸に残された人々の末裔がいくつかの部族をつくって暮らしている。広大な砂漠が地上を覆いつくした世界は、アメリカが打ち捨てられた不毛の土地となっていることを表している。

西へ西へと向かうウェインたちは、やがて砂漠の中にきらびやかな街を発見する。そこは、かつてのアメリカの栄華の象徴でもあった場所ラスヴェガスだ。そこでウェインたちは、第45代アメリカ大統領を名乗るマンソンという人物と出会う。

1981年に刊行された本書は、バラードが描き出すアメリカの未来像である。本書でアメリカが崩壊する原因となったのがエネルギー問題だ。1970年代に中東戦争の影響などから日本でもオイルショックが起きて、エネルギー問題が顕在化した。石油や石炭、天然ガスなどの化石燃料は数十年以内に枯渇するとの予測がたてられ、原子力の利用などが模索された。ただ、私が子どもの頃から「もうすぐ無くなる」と言われ続けている石油や天然ガスは、2019年に至る今でも枯れることなく供給されていて、枯渇する気配もない。

バラードは、現実に化石燃料が枯渇したアメリカを衰退させ、崩壊させた。そして、およそ100年が過ぎて、また当たらなフロンティアをアメリカ大陸に送り出し、彼らが崩壊し荒廃したアメリカの大地で見せつける狂った世界を描き出した。マンソンが見せる狂気は、人間の弱さであり、閉塞した世界によってあぶり出される恐怖でもある。一方で、狂気と対峙し希望を見出そうとするラストの場面もまた、人間が有する強さであり、勇気である。

バラードの作品を読むのは本書がはじめてである。SFをあまり読み慣れていないので、どこまで本書を読めているのかはわからない。それでも、十分に楽しむことができた。『はじめての海外文学vol.4』で岡和田晃さんが推薦している作品である。そういう意味では、海外SF初心者にもわかりやすい作品なのだと思う。

 

ペネロピ・フィッツジェラルド/山本やよい訳「ブックショップ」(ハーパーコリンズ・ジャパン)-海辺の街に小さな本屋を開くのが彼女の夢。ほんのささやかな夢だった。

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本書は、映画「マイブックショップ」の原作である。著者のペネロピ・フィッツジェラルドは、1916年に生まれ、2000年に83歳で亡くなっている。作家としてのデビューは60歳に近くなってからだが、1979年に「テムズ河の人々」でブッカー賞をしていて、「ブックショップ」は1978年にブッカー賞候補になっている。

舞台は、イギリス郊外の海辺の町ハードバラ。1959年、その町にある『オールドハウス』と呼ばれる古い家で書店を開業しようと考えているフローレンス・グリーンが主人公である。

ハードバラに書店を開くことは、けっして順風満帆なことではない。

1959年、ハードバラにはフィッシュ&チップスの店も、コインランドリーも、映画館もなく、隔週の土曜日の夜に町役場で映画が上映されるだけだったので、町の人々はそうしたものを望んでいたが、書店のオープンを望む者はいなかったし、フローレンスがそれを考えていようとは、誰一人想像していなかった。

本書がはじまってすぐに、読者はフローレンスの前途が相当に厳しいものになるであろうことに気づかされる。オールドハウスを購入し書店を開業するための資金の貸付を銀行はなかなか認めてくれないし、オールドハウスを巡っては町の権力者であるガマート夫人が絡んでくる。夫人は、オールドハウスを芸術センターにするから別の場所で開業するようフローレンスに告げる。フローレンスはそれを断り、オールドハウスでの開業にこだわる。

フローレンスとガマート夫人の対立を軸に、ふたりの周囲にはさまざまなタイプの人物が登場してくる。

オールドハウスを巡ってフローレンスと対立するガマート夫人。
BBCで働いているらしい怪しげなマイロ・ノースという男。
何年も自宅に引きこもったままひっそりと暮らしているブランディッシュ氏という老紳士。
フローレンスの店を手伝うクリスティーン・ギッピングという少女。

それぞれが個性的であり、ある者はフローレンスと対立し、ある者はフローレンスをサポートする。

こうして彼女はオールドハウス書店を開業する。開業してからも、オールドハウスに固執するガマート夫人はどうにかフローレンスを追い出そうと画策する。フローレンスは、そのたびに問題を乗り越え、自らの店を守ろうとするが、ガマート夫人のように町に影響力をもつ人間と闘うのは厳しい。フローレンスのささやかな夢は、少しずつ、だが確実に壊されていく。

この本を読む人の多くは、本が好きだし、本屋が好きなのだと思う。そんな読者にとって、この物語はどのように読まれるのだろうか。全編にわたって寒々しく光のささないハードバラの風景は、町からも人からも温もりを感じさせない。フローレンスは、たったひとりで闘っているようにみえる。ブランディッシュ氏をのぞいて、誰もオールドハウス書店を守ろうとはしないが、一方でガマート夫人をのぞいて積極的に妨害する人もいない。町の人たちは、事のなりゆきを見ているだけの傍観者でしかないのだ。

本書のラストは、ある意味で落ち着くところに落ち着いたラストと言えるかもしれない。幸せな終わり方とは言えない。フローレンスの未来がどうなっていくのかもわからない。後味が悪いと感じる読者もいるかもしれない。ひっそり静かに幕を下ろしたように感じる読者もいるかもしれない。

冒頭に書いたように、本書は映画「マイブックショップ」(監督・脚本:イザベル・コイシュ、主演:エミリー・モーティマー)の原作である。映画は、原作を基本としつつアレンジされていて、作中人物の役割だったり、原作には登場しないブラッドベリ作品が重要なアイテムになっていたりする。また、ラストも原作にはないアレンジが施されている。

原作と映画でどんな違いがあるのか。どんな印象を受けるのか。私は、少しモヤモヤしたところがあるものの、原作にはない希望を映画では感じることができた。他の人がどんな印象を受けるのか、とても興味深い。

***以下、映画のネタバレが含まれます。***

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