タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

ジェフ・ブラウン文、トミー・ウンゲラー絵/さくまゆみこ訳「ぺちゃんこスタンレー」(あすなろ書房)-ぺちゃんこになっちゃったスタンレーくんの冒険物語は理屈抜きに面白い。でも、それ以上にスゴイのは彼のご両親の寛容さだったりします。

 

〈はじめての海外文学vol.3〉の児童書部門に推薦されている中のひとつ。推薦者は、〈やまねこ翻訳クラブ〉会員でもあるないとうふみこさん。

ある朝、大きな掲示板の下敷きになってしまったスタンレーくん。すぐに掲示板を取り除けてみると、なんとそこにはぺちゃんこになったスタンレーくんが、ぐっすりと眠っています。「これが一大事!」と普通の家族ならあわてることでしょうが、ラムチョップ家は違います。とりあえずは朝ごはんを食べてからお医者さんに行くのです。

ぺちゃんこになったスタンレーくんですが、それで何か生活に支障が出ているかというと、そんなことはなくて普通に生活しています。で、周囲の人たちも彼がぺちゃんこであることをあまり気にしている様子もありません

さて、ぺちゃんこになったスタンレーくん、その特性を利用していろいろなことにチェレンジします。

例えば、スタンレーくんはカリフォルニアに住むお友だちのトマスに会いに行くことになります。でも、ニューヨークからカリフォルニアまでの航空運賃は高い。そこで一計を案じたのがお父さんです。彼は、大きな封筒にスタンレーくんを入れて郵便でカリフォルニアに送ろうと考えます。その方が安くつくからです。大きな封筒にスタンレーくんを入れ、郵便ポストに投函するラムチョップ家の家族。客観的にみると実にシュールな絵です。

この場面、「ぺちゃんこスタンレー」でも人気なのでしょう。実際に、スタンレーくんの紙人形を親戚や友だちに送って旅をさせるという遊びがアメリカでは行われたりもしているそうです。

とにかく、全編を通じて思うのは、ぺちゃんこになったスタンレーくんの日常的な冒険の数々が理屈抜きに面白くて、「自分もスタンレーくんみたいにぺちゃんこになって冒険したい!」と子供心が刺激される物語だなぁ、ということ。そして、それ以上に「スゴイ!」と思うのは、スタンレーくんのご両親の息子に対する接し方です。

郵便の話もそうですが、とにかく物語の全編を通じてお父さんもお母さんもスタンレーくんやアーサーくんを否定することがありません。ぺちゃんこになってしまった息子にあわてることもありません。自分の子どもに体験させるには危険だと思えるようなことも、けっして否定したり叱ったりせず、子どもの思ったようにやらせるのです。

美術館で連続する盗難事件を解決するため、スタンレーくんがある計画を実行したときもそうです。そんな危険なことでも、子どもが自分で考えたことを両親は思ったようにやらせます。その結果、スタンレーくんは見事に泥棒をつかまえるのです。

大人の理屈で子どもの発想を拒絶したりしない。そんな両親に育てられたラムチョップ家の子どもたちは、きっと豊かな発想で世界を動かすような大人に成長するに違いありません。

この本は、子どもには理屈抜きの面白さを与えてくれます。そして、大人には子どもに対する正しい接し方を教えてくれるのです。

 

バナ・アベド/金井真弓訳「バナの戦争~ツイートで世界を変えた7歳少女の物語」(飛鳥新社)-いつだって戦争の一番の犠牲者は子どもたち。でも、今なら子どもの声が世界を動かせる。バナがそれを証明した。

 

バナ・アベドは、2009年にシリアのアレッポに生まれた。弁護士の父と教師の母、大好きなおじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさんに囲まれて育った少女は、とても幸せに暮らしていた。シリアに内戦が勃発するまでは。

2010年にチュニジアから始まった〈アラブの春〉と呼ばれる民主化運動は、アラブ諸国に広く拡大した。それは、バナが暮らすシリアにも波及し、2011年3月にシリア政府軍と反政府軍との内戦がはじまる。戦いは一気に拡大し、政府軍は反政府軍が拠点としているアレッポを無差別に空爆する。さらに、ISISが参入してきたことで混乱を極めていく。

バナは、激化していく戦いの中で、常に死の恐怖にさらされながら暮らすことになる。まだ幼い少女が、明日死んでいるかもしれない、という不安を常に抱えながら毎日を過ごす。その理不尽さをどう表現したらよいのだろう。

度重なる空爆は、街を破壊し、人びとの命を奪う。バナも、家族と暮らす家を破壊され、仲の良かった友だちを失う。絶望の中で、彼女はiPadを手に入れる。そして、Twitterを通じて自分が置かれている状況、自分の気持ち、アレッポの現実、平和を願う強い思いを全世界に発信し始める。

バナのツイートは、世界を動かす。彼女が発信するシリアの現状、『#standwithallepo』(がんばろうアレッポハッシュタグをつけたツイートが世界中に拡散する。7歳の少女の小さな声が世界を動かすのである。

本書は、トルコに脱出したバナが記したシリアの記録である。バナの言葉と母の手記によって構成されている。

バナの最初のツイートは、2016年9月24日に発信された。

 

それは、彼女の、いやシリア内戦で明日をも知れぬ恐怖の中にいるすべてのシリア国民の叫びだ。

はじめてのツイートについて、本書でバナはこう書いている。

ママに聞いてみたの。シリアやアレッポの外にいる人たちは、わたしたちに起こっていることを知っているのかなって。どうして人を殺すのをやめなさいって、誰も政府に言わないの?(「ツイッターで平和を叫んだ」p.159)

だから、バナはTwitterで世界中に発信することにした。「私やシリアの人たちは平和を望んでいるのよ」と。

彼女のこの問いかけにキチンと答えられる大人はどのくらいいるのだろうか。私は、彼女のこの言葉に打ちのめされた。私たちは、なぜ戦争をするのか。どんな理屈を並べてみても、戦争が人を殺すための手段であることはごまかしようがないのだ。結局、どんな理由であっても、最後は人を殺すために戦争が行われているのだ。

トルコに避難し、空爆の恐怖に怯えることのない生活を取り戻したバナは、8歳の誕生日を迎える。彼女は、誕生日にひとつ願い事をすることにした。学校に行きたい、妹が欲しい、アレッポに帰りたい。いろいろと考えた末に、バナは一番の願い事を決めた。

シリアや、戦争が起こっている国がすべて平和になりますように。

彼女の願いが叶えるために、私たち大人が出来ることを少しずつやっていかなければならない。

バナ・アベドTwitterアカウント(2018/1/11時点でのフォロワー数:356,750)

twitter.com

 

佐藤亜紀「戦争の法」(伽鹿舎)-デビュー作『バルタザールの遍歴』に続く第2長編が待望の復刊。日本海に面したN県の独立宣言に端を発する戦いの記録は、型にはめられない戦争と地方を描く。

 

1975年、日本海に面したN県が日本国からの独立を宣言した。本書「戦争の法」は、そんな架空の独立騒動とその混乱を、戦争の渦中にいたひとり少年の回想録として描き出す。

語り部でもある“私”は、N県の市立図書館で司書として働いている。かつて、日本からの分離独立を図り紛争状態に陥った日本海に面した地方自治体は、いまだ忌まわしき過去を背負いながら時を経ている。私は、少年の頃に紛争を経験し、その戦いの渦中に身を投じていた。本書は、その当時の記憶を克明に記録した回想録の体で記されていく。

ただ、ここに描かれていることはすべてが独立騒動当時の事実を記しているわけではない。私は、この回想録を記している記録作家としての自分をこう評している。

せいぜい用心してほしい。私は諦めて、遠慮会釈なく紋切型の嵐を仕掛けることにしたのだ。その臆面のなさが、私にも読者にも、幾らかの解毒剤になってくれるように祈りつつ。私の言葉は一言半句たりとも信頼には値しない。そもそもそのように書いていくつもりだが、何かの弾みでつい真実らしく見えてしまっても、全く真実ではない。読者諸氏には全てを疑って掛かることを切にお願いする。或いはこれから語り起こす一大珍事そのものが、全くの虚構かもしれないのだ。

そもそも、地方自治体が日本から独立するという設定が明白な作り話であるのに、その物語の語り部(この場合“騙り部”という方が適切だろうか)がわざわざこのようなことを書くことで、物語は逆に真実味を増したと言えるのではないだろうか。本来の狙いとしては、虚構と騙りの足し算でよりフィクションの度合いが高まるということになるのかもしれない。だが、本書を読み終えて感じるのは、虚構(マイナス)と騙り(マイナス)の掛け算によって、奇妙なリアリティ(プラス)が生まれているということだ。

本書のために書かれた著者本人による解説『「戦争の法」という題が指し示すもの』には、

この小説は、日本文学における地方の描き方に対する異議として書かれた。

とある。小説世界においても、またリアルな世界における捉え方や伝え方においても、地方を描くパターンは『こうある「筈」だ』という呪縛によって型にはめられている。「筈」によってパターン化された地方は、理想という幻想によって形成された虚構なのだと、著者は本書で記したのだ。

だからこそ、本書で描かれるN県の姿は無国籍であり、無秩序である。そしてそれは、現実における地方のリアルな姿を含有しているのである。

これまでの「筈」の概念からみれば非現実的な地方の姿、日本からN県が独立するというフィクション、そして、信頼できない騙り部。様々な虚構の上で繰り広げられる登場人物たちの生き様は、逆にリアリティに溢れている。それが、私が本書を読んで感じた〈マイナス×マイナス=プラス〉の論理なのだ。

本書が最初に新潮社から刊行されたのは1992年である。25年以上前だ。刊行当時は、本書の存在を知っていても読むには至っていなかった。その後、絶版となり入手が困難な状態となった。その後2017年3月に自前の電子書籍レーベルtamanoir pressから電子書籍として復刊され、そのおよそ1年後となる2017年12月に、伽鹿舎から紙の本として復刊されて、こうして「戦争の法」という作品を手にした。

もし、1992年のまだ二十代前半の自分がこの本を読んでいたら、いったいどんな感想をもっただろうか。社会に対する知識も経験も乏しい若造にはきっと読み解くことができず、途中で読むのを投げ出していただろう。年齢を重ねて見えてくるものがある。自分にとっては、今が「戦争の法」を読むタイミングだったのだと思う。

 

戦争の法

戦争の法

 

 

西島大介「アオザイ通信完全版 #1~食と文化」(双子のライオン堂)-ベトナムを描くエッセイマンガ。なのに第1回のタイトルは『ベトナムには行ったことがない』って?

 

昨年11月に開催された『第二十五回文学フリマ東京』で先行販売された西島大介アオザイ通信完全版#1~食と文化」を少しずつ読み進めてきた。

liondo.thebase.in

ページ数にして50ページちょっとの薄さにも関わらず2ヶ月もかかったのは、他の本も読みつつ少しずつ読んできたのも理由なのだが、それ以上に簡単に読み進められないほどのみっちりとした情報量と内容の濃さが理由だったりする。

アオザイ通信」は、著者の代表作といえる「ディエンビエンフー」のIKKI COMICS版に収録されていたベトナムについて描かれたエッセイマンガである。「ディエンビエンフー」は、ベトナム戦争の時代を舞台にして、従軍カメラマンの少年とベトコンの少女の出会いを描いた作品で、「COMIC新現実」→「月刊IKKI」→単行本描き下ろしと発表媒体を変えながら12巻まで刊行された。結末に関して未完の状態であったが、2017年から双葉社月刊アクション」で「ディエンビエンフーTRUE END」として連載が再開されて、2018年中に全3巻で完結する予定らしい。

そもそも、本体の「ディエンビエンフー」が未読の状態なのも、なかなか読み進められなかった理由になるかもしれない。(とりあえず双葉社アクションコミックス版の第1巻だけ、Kindle版で購入した)

アオザイ通信完全版」は、「ディエンビエンフー」に収録されていたエッセイマンガをテーマ別に分類して全3巻で刊行するもの。本書はその第1巻ということになる。テーマは『食と文化』だ。1~2ページほどのエッセイマンガが、全部で36編収録されており、そこに加えて著者2万字インタビューの前編が収録されている。

最初に収録されているのが、第1回(#1)となるベトナムには行ったことがない」である。ベトナムのことを紹介していくエッセイマンガなのに、いきなり「行ったことがない」からはじまるのがスゴイ。もっとも、これは初出当時のことで、本書に掲載されている写真には、著者が現地を訪れている様子を写したものがあるので、「ディエンビエンフー」連載中には何回もベトナムを訪れているのだろうと思う。

ベトナムの食や文化というと、日本でも人気の麺料理フォーや、ニョクマムといった調味料、パクチーなどの香辛料を使った料理が思い浮かぶ。本書でもそういった定番は紹介されているが、その他にも暑い土地ならでは氷をたっぷり入れたコニャック・ソーダやビールなんかも魅力的だ。文化面では、ベトナムの言葉や文字、お正月事情、不思議な包丁など。

収録されているアオザイ通信も面白いのだが、「ディエンビエンフーTRUE END」の連載や西島大介という漫画家のデビューからのエピソードなどを版元である双子のライオン堂の竹田信弥さんが行ったインタビューがさらに面白い。前編にあたる本書掲載分では、「アオザイ通信」や「ディエンビエンフー」に関する話から、デビューに至る経緯やその後の作品について、文学フリマのイメージキャラクターのことなど脱線しまくっているが、それがまた面白い。第2巻に掲載される後編が楽しみになる。

西島大介をこれまで読んでこなかった読者(私も含む)が、最初に読む作品として、本書は向いているように思う。この作品をきっかけに、本体である「ディエンビエンフー」を読み、その他の作品「凹村戦争」や「アトモスフィア」などへと進むのが良さそうだ。いずれにせよ、もうすぐ刊行される予定の「アオザイ通信完全版#2~戦争と歴史」に期待している。

 

 

 

リチャード・プラット文、クリス・リデル絵/長友恵子訳「中世の城日誌~少年トビアス、小姓になる」(岩波書店)-キリスト紀元1285年冬。少年は騎士になるための第一歩を踏み出した。

 

昨年(2017年)、やまねこ翻訳クラブの20周年を記念して書評サイト『本が好き!』で開催されたオンライン読書会。そこでは、大きな“祭り”が2つ起こった。ひとつは、「なぜカツラは大きくなったのか?-髪型の歴史えほん」によって巻き起こされた“カツラ祭り”、そしてもうひとつが本書「中世の城日誌~少年トビアス、小姓になる」によって巻き起こされた“城まつり”である。

www.honzuki.jp

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“城まつり”を巻き起こした「中世の城日誌」をようやく読んでみた。

本書は、少年トビアス・バージェスが伯父であるストランドボロー男爵ジョン・バージェスのもとで小姓として仕えた1年間の記録である。それを、トビアスの日記という形で記している。伯父の居城であるストランドボロー城に到着してから、小姓としての仕事をこなしつつ、立派な騎士の従者となるための教育を受けるトビアス。まだ13歳の子どもであるトビアスにとっては、勉強は退屈だし理不尽な体罰には辟易してしまう。それでも、城で起きる様々な出来事はトビアス少年には新鮮で興奮することばかりだ。

少年の目と彼の言葉を通じて見えてくる中世の城事情は、学校の世界史では知ることのできないことばかりで、読んでいて驚きと感心の連続だった。

例えば城での仕事。トビアスは、小姓として伯父と伯母のそばに仕えて使い走りや食事のときの給仕をこなす中で礼儀作法などを身につけていく。城には、小姓以外にも様々な立場の従者が働いていて、それぞれに役割を果たしている。仕事上の上下関係が確立されていて、それぞれが下働きを差配しながら仕事をこなしている。なんとなく、現代の企業間の下請構造にも通じる気がする。

作法や礼儀を重んじる中世貴族の生活は、とても儀礼的でしっかりとしたルールによって動いている。例えば馬上槍試合についても、試合の華々しさが注目されるが、そこに至るまでの一連のルーティンは、確立された儀式として厳かに執り行われる。トビアスも感じたように退屈な儀式だ。

他にも、狩りの様子や秋の収穫の様子、賓客をもてなすときの贅沢な宴会の様子など、なるほど当時はそういうことが行われていたのかと興味深かった。

ビアス少年は、小姓として1年間をストランドボロー城で暮らし、大きく成長して故郷へ帰る。その後どのように成長したのか。立派な騎士になれたのか。少年のその後が少し気になる。

 

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キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー/大作道子訳「わたしがいどんだ戦い 1939年」(評論社)-障がいがあることを心のハンデキャップにしてはいけないのだと知ることで、少女は自分との戦いに勝ったのだと思う。

 

 

昨年(2017年)、劇場でクリストファー・ノーラン監督「ダンケルクを観た。ドイツ軍の攻勢により、ダンケルクまで追い詰められた英仏軍約40万人を救出する『ダイナモ作戦』と呼ばれる壮絶な救出作戦を描いた映画だ。

wwws.warnerbros.co.jp

なぜ、「ダンケルク」の話から始めたのかというと、本書「わたしがいどんだ戦い 1939年」の中にダンケルクの撤退作戦に関する場面が出てきたからだ。ドイツ軍の容赦ない攻撃をかいくぐり、兵士たちは傷を受け、瀕死の状態で運ばれてくる。阿鼻叫喚の地獄絵の中で、エイダは戦争の悲惨さと自分自身が何かの役に立つことを知る。物語全体の中では短いエピソードなのだけれど、ここからエイダの本当の戦いが、彼女の戦うことへの覚悟が生まれたように感じられる場面だった。

足が不自由で、母親に虐げられ、外に出ることも許されずに部屋の窓から外を見ることしかできない少女・エイダ。弟・ジェイミーとの繋がりだけを唯一の希望にして、彼女は生きてきた。ときに弟を束縛し、わがままを通そうとするのも、すべてジェイミーという自分と社会と結ぶ存在を失いなくないからだ。

ただ、読んでいる最中はずっと、エイダの悲しく歪んでしまった心と、その心から生まれる不遜でわがままな態度に、少なからず腹が立っていた。疎開してきたエイダとジェイミーを受け入れ、世話を焼いてくれるスーザンに対しても、エイダは絶望をたたえた目で見つめ返す。まるで、自分以外の人間、大人たちはみな敵であるかのような態度で接する。そんな素直さのない少女の姿は、同情を覚えるとともにそれ以上の偏見を持たされた。

本書を読み終えて、改めて考えれば、エイダの心の葛藤がよくわかる。彼女にとって大人とは、信じたいと願う存在なのだ。だけど、大人は常に彼女の願望を裏切ってきた。一番の元凶は母親だ。エイダの不自由な足を奇形と決めつけ、彼女を人目に晒さないように部屋の中に閉じ込めた。なぜ、母親がそれほどまでにエイダを嫌ったのか。その真相は物語の終盤で明らかにされる。それは、母親にとっても女性としての幸福を失わされた心の傷だったのであろう。だが、自分が不幸だからといって子どもに不幸を被せることはあってはならない。

そうした大人たちの偏見を受けて育ってきた少女が、違う大人たちの優しさを知り、少しずつ自分を解放していく。そのプロセスが後半の読みどころだと思う。

エイダの心の枷を解きほぐす大きな役割を果たしたのは、スーザンやポニーのバター、馬を通じて親交を深めたマギーやフレッドの存在が大きいが、それと同じくらいに重要な存在がスティーヴンではないだろうか。家族が全員ロンドンに戻っても、一緒に暮らす大佐のためにひとり残った少年の存在は、エイダにとっての憧れであったに違いない。そう考えるのは深読みがすぎるだろうか。

物語のラストに関しては、その終わらせ方に読者の意見が別れるかもしれない。ハッピーエンドであることは間違いないのだが。これについては、他の読者がどう感じたのか知りたいところだ。私は、ハッピーエンドなのだけれど、ちょっとした後味の悪さも感じられた。

「わたしがいどんだ戦い 1939年」には、いろいろな要素がつまっている。

戦争の無意味さと恐怖
障がいをもつ者への理解
自分をみつめ、強く生きることの大切さ
人とは違う自分を誇れる勇気
相手を信頼し愛することの大切さ

どれも当たり前のことなのに、できていないことばかりだ。本書に出てくるエイダも、ジェイミーも、スーザンも、そして彼女たちを取り巻くすべての人たちも、さらにいえば私たち読者も、本書に書き込まれたこういう当たり前をはっきりとわかっていない。それでも、物語が少しずつ進んでいく中で、登場人物たちが成長していくように、私たち読者も成長していく。そんな想いを抱かせてくれる作品なのだと感じた。

 【追記】
本書は、やまねこ翻訳クラブが選ぶ『第20回やまねこ賞』の読み物部門第1位を獲得しました。

www.yamaneko.org

また、本書を課題本として2018年1月27日に『やまねこ20周年記念読書会』が開催されるそうです。

yamaneko20.jimdo.com

参加受付は先着順とのことなので、ご興味ある方はぜひ!

 

エドワード・ケアリー/古屋美登里訳「肺都~アイアマンガー三部作(3)」(東京創元社)-『堆塵館』、『穢れの町』と続いてきたアイアマンガーの物語がついに完結!クロッドは、ルーシーは、ビナディットは。彼らの運命はどうなってしまうのか?とにかく凄い!すごい!スゴイ!

 

ついに、エドワード・ケアリーの『アイアマンガー三部作』が完結を迎えた。

完結編となる「肺都」を2017年12月の大晦日に読み終えた今、この本の圧倒的なスケール感とラストの素晴らしいエンディングの余韻に浸っている。

前作「穢れの町」のラストで、“穢れの町”こと〈フィルチング〉を離れロンドンに向かうことになったクロッド。愛するルーシーとは離れ離れとなり、互いに互いの安否はわからないまま舞台はロンドンへと移る。アイアマンガー一族は、ロンドンを〈肺都(ランドン)〉と呼んでいる。

堆塵館は崩壊し、穢れの町は大火事で焼け野原となった。ロンドンの町では、人間が次々と姿を消し、代わりに様々な品物が忽然と姿をあらわす謎の現象が蔓延していた。それは、まさに解き放たれたアイアマンガーの力が及ぼす奇怪な現象に他ならない。さらにいえば、そこにはゴミを操ることで巨大な権力と能力を積み上げてきたアイアマンガー一族の野望が、はっきりと形をなしつつあるのだ。

愛するルーシーを穢れの町の大火で失ったクロッドは、祖父であり一族の長であるウンビットと再会し、アイアマンガー一族の野望に巻き込まれることになる。堆塵館を出てからの様々な経験と成長によって、物を自在に操る能力を高めてきたクロッドは、アイアマンガー一族に対するロンドン市民たちの差別的感情に怒り、そのパワーをさらに強大なものとしていく。

一方、穢れの町の混乱からどうにか脱出したルーシーは、クロッドを探し求め、肺都の地下深くに潜伏する反体制的な少年グループと合流し、この混乱との戦いに挑んでいく。それは、愛するクロッドを救済するための戦いであり、アイアマンガーという強大な権力やロンドンという社会から虐げられてきた者たちの復讐である。ルーシーは、反社会組織の象徴であり、彼女自信がレジスタンスなのだ。

しかし、なんという壮大なスケールの物語なのだろうか。「堆塵館」というクローズした場所からはじまったひ弱な少年と勝ち気な少女の物語は、「穢れの町」での冒険と苦難を経て大きく成長した。大人になった少年と少女は、それぞれに力強さと賢さを身に着け、大きな一族の中での葛藤、警察や民衆たちとの対立に敢然と立ち向かい、重く苦しい決断を迫られる。

この大きなスケールの物語を最後まで破綻することなく描き切るエドワード・ケアリーという作家の力には感服するしかない。彼のイマジネーションとそれをストーリーとして形にする力があるからこそ、アイアマンガー三部作は私たち読者を強く惹きつけるのだと思う。

アイアマンガー三部作は、主人公であるクロッドとルーシーが注目される物語であるが、脇を固める登場人物たちも魅力的なメンバーが揃っている。登場人物が多いので読んでいて混乱しそうになるが、少なくともアイアマンガー一族についてはケアリー自身の手による家系図が掲載されているので、それを確認しながら、ウンビットやクロッド以外のモーアカスやリピット、ビナディットといった登場人物についてチェックすることもできる。

「穢れの町」で登場して人気キャラクターとなったビナディットは、「肺都」にも引き続き登場する。「肺都」では彼に淡く切ない物語も用意されていて、ビナディットファンには胸に刺さるのではないだろうか。

訳者あとがきで古屋美登里さんは、「なぜ四巻目がないのかと狼狽え、呆然とする」読者がいるのではないか、と記している。確かに、アイアマンガー三部作は「肺都」で完結した。ラストがどういう展開になっているかはネタバレになるので記さないが、クロッドとルーシーの将来を想像したくなる終わり方になっている。古屋さんの言うように、ケアリー自身の手によるクロッドとルーシーの大人になった姿を読んでみたい気持ちもある。でも、やはりここはふたりの将来を私たち自身で想像してみるのが良いのだろうと思う。きっと、ひとりひとりの読者がそれぞれに思い描くふたりの未来が生まれると思う。

私にとっては、「肺都」が2017年を締めくくる読み納めの作品となった。レビューもこれが2017年のラストレビューである。1年の最後に読んだ作品が「肺都」であったことをとても幸せに感じる。気持ちのよい読書体験であった。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

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