1975年、日本海に面したN県が日本国からの独立を宣言した。本書「戦争の法」は、そんな架空の独立騒動とその混乱を、戦争の渦中にいたひとり少年の回想録として描き出す。
語り部でもある“私”は、N県の市立図書館で司書として働いている。かつて、日本からの分離独立を図り紛争状態に陥った日本海に面した地方自治体は、いまだ忌まわしき過去を背負いながら時を経ている。私は、少年の頃に紛争を経験し、その戦いの渦中に身を投じていた。本書は、その当時の記憶を克明に記録した回想録の体で記されていく。
ただ、ここに描かれていることはすべてが独立騒動当時の事実を記しているわけではない。私は、この回想録を記している記録作家としての自分をこう評している。
せいぜい用心してほしい。私は諦めて、遠慮会釈なく紋切型の嵐を仕掛けることにしたのだ。その臆面のなさが、私にも読者にも、幾らかの解毒剤になってくれるように祈りつつ。私の言葉は一言半句たりとも信頼には値しない。そもそもそのように書いていくつもりだが、何かの弾みでつい真実らしく見えてしまっても、全く真実ではない。読者諸氏には全てを疑って掛かることを切にお願いする。或いはこれから語り起こす一大珍事そのものが、全くの虚構かもしれないのだ。
そもそも、地方自治体が日本から独立するという設定が明白な作り話であるのに、その物語の語り部(この場合“騙り部”という方が適切だろうか)がわざわざこのようなことを書くことで、物語は逆に真実味を増したと言えるのではないだろうか。本来の狙いとしては、虚構と騙りの足し算でよりフィクションの度合いが高まるということになるのかもしれない。だが、本書を読み終えて感じるのは、虚構(マイナス)と騙り(マイナス)の掛け算によって、奇妙なリアリティ(プラス)が生まれているということだ。
本書のために書かれた著者本人による解説『「戦争の法」という題が指し示すもの』には、
この小説は、日本文学における地方の描き方に対する異議として書かれた。
とある。小説世界においても、またリアルな世界における捉え方や伝え方においても、地方を描くパターンは『こうある「筈」だ』という呪縛によって型にはめられている。「筈」によってパターン化された地方は、理想という幻想によって形成された虚構なのだと、著者は本書で記したのだ。
だからこそ、本書で描かれるN県の姿は無国籍であり、無秩序である。そしてそれは、現実における地方のリアルな姿を含有しているのである。
これまでの「筈」の概念からみれば非現実的な地方の姿、日本からN県が独立するというフィクション、そして、信頼できない騙り部。様々な虚構の上で繰り広げられる登場人物たちの生き様は、逆にリアリティに溢れている。それが、私が本書を読んで感じた〈マイナス×マイナス=プラス〉の論理なのだ。
本書が最初に新潮社から刊行されたのは1992年である。25年以上前だ。刊行当時は、本書の存在を知っていても読むには至っていなかった。その後、絶版となり入手が困難な状態となった。その後2017年3月に自前の電子書籍レーベルtamanoir pressから電子書籍として復刊され、そのおよそ1年後となる2017年12月に、伽鹿舎から紙の本として復刊されて、こうして「戦争の法」という作品を手にした。
もし、1992年のまだ二十代前半の自分がこの本を読んでいたら、いったいどんな感想をもっただろうか。社会に対する知識も経験も乏しい若造にはきっと読み解くことができず、途中で読むのを投げ出していただろう。年齢を重ねて見えてくるものがある。自分にとっては、今が「戦争の法」を読むタイミングだったのだと思う。