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「怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち 金城哲夫・佐々木守・上原正三・市川森一」切通理作/宝島社-ウルトラシリーズの礎を築いてきた4人の作家たちが、“怪獣”を通じて伝えたかったメッセージとは。

 

 

昭和から平成、令和と続くウルトラシリーズ(2023年現在はテレビ東京系列で『ウルトラマンブレーザー』が放送中)。その始まりは、1966年にTBSで放送された『ウルトラQ』、さらにその人気を決定づけたのは続けて放送された『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』であろう。

怪獣使いと少年」は、ウルトラシリーズの作品制作の中心となっていた4人の作家たち、金城哲夫佐々木守上原正三市川森一が手がけた作品(ウルトラシリーズの作品もあれば、それ以外の作品もある)を読み解くことで彼らが何を伝えようとしていたのか、作品にどのような思いが込められていたのかを、彼らの経歴や社会的背景なども踏まえて記していく。

第1章 金城哲夫  永遠の境界人
第2章 佐々木守 永遠の傍観者
第3章 上原正三 永遠の異邦人
第4章 市川森一 永遠の浮遊者

円谷英二の秘蔵っ子として二十代の若さで円谷プロの中核作家となり、『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の企画者としてシリーズの世界観を作り上げた金城哲夫は、沖縄人という自身のアイデンティティと日本人というアイデンティティとの間で苦悩し、その苦悩を作品にぶつけてきた。『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」や『ウルトラマン』の「まぼろしの雪山」、『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」といった作品からは、沖縄人というマイノリティである自身を怪獣に投影し、人間との関係性についての問いを投げかけている。“永遠の境界人”というフレーズは、金城哲夫という作家が生涯抱え続けた沖縄人であることの矜持と苦悩、日本人の中で生きることの孤独や彼が求めていた希望や夢と現実とのギャップが考えさせられる。

同じ沖縄出身の上原正三は、金城哲夫とはまた違う形で自身のアイデンティティをとらえていたように思える。本書のタイトルになっている「怪獣使いと少年」は、上原正三が『帰ってきたウルトラマン』のエピソードとして書いた作品だ。

怪獣使いと少年」は、河原のバラックで暮らす金山という老人と良という少年を巡る物語。金山老人の正体は、メイツ星から調査のために地球に来ていた宇宙人で、病を患ったことで能力を使えなくなり、川崎の工場で働いている。街の人々は異質な存在である彼らをおそれ、彼らを排除しようとする。怪獣攻撃隊MAT(『帰ってきたウルトラマン』における地球防衛組織)の郷秀樹(ウルトラマン)が街の人々を制止しようとするがその勢いは簡単に収まるレベルではなくなっていた。金山老人は殺され、それが原因で地底に封印されていた怪獣ムルチが地上に姿を現し街を破壊し始める。人々は逃げ惑いMATに助けを求める。郷秀樹(ウルトラマン)は複雑な思いを抱えたまま怪獣ムルチと戦う。

このドラマには、マジョリティである人間がマイノリティである金山老人や良少年を数の力で差別する描写がある。街の人々は彼らを宇宙人だと噂し差別する。そして、集団の暴力をもって彼らを迫害し、ついには老人を殺してしまう。差別と群集心理の恐怖は、関東大震災後の朝鮮人虐殺を連想させると著者は記している。

怪獣使いと少年」や、その後に上原が手がける『がんばれ!!ロボコン』といった作品には、マイノリティに対するマジョリティの差別意識、区別意識がうかがえる。金城哲夫が沖縄と日本の境界で苦悩したのに対して、同じ沖縄人の上原は日本に暮らす異郷の人=マイノリティであるという観点があって、それゆえに上原の作品には、マイノリティがマジョリティに対して抱える恐怖があるのかもしれない。私はおそらくマジョリティ側の人間なので、そのような観点はマジョリティの側からは見えにくいが、マイノリティ側の上原からはしっかりと見えていたのだろう。

佐々木守は、金城や上原とは違う冷静なタイプの人物であるという印象を本書を読んで受けた。佐々木守について書いた第2章では、大江健三郎が「世界」に寄稿した「破壊者ウルトラマン」という論考から見えるウルトラマンの図式を次のように集約している。

怪獣=公害、核の被害者 または あらゆるマイノリティ(沖縄人、アイヌなど)
ウルトラマン=科学の神 または アメリカ帝国主義
怪獣の破壊=戦災(東京大空襲、原爆、沖縄戦など)
大江健三郎が「破壊者ウルトラマン」で見出した図式化の集約。本書104ページより引用)

佐々木守が手がけた『ウルトラマン』のエピソード「故郷は地球」は、宇宙開発競争の中で水のない星に漂着した宇宙飛行士ジャミラが執念で生き延び、怪獣ジャミラとなって地球に戻ってくる。ジャミラが科学の犠牲者であることを隠したい人間は、彼を排除しようとする。そして、ウルトラマンジャミラを攻撃し、ジャミラは苦悶の雄叫びをあげながら絶命する。このエピソードは、上述した図式を明確にあらわしている。大江の図式で見れば、彼は紛れもなく被害者なのである。そして、ウルトラマンジャミラを敵として戦った科特隊は、正義という名のもとにマイノリティであるジャミラを殺したのだ。

佐々木守の作品には、『ウルトラマン』の世界の外から作品全体を眺めて相対化し空洞化する作風があると著者は記す。ウルトラマンウルトラセブンを傍観者の視点で描くことが傍観者・佐々木守の作品づくりに欠かせない姿勢だったのかもしれない。

市川森一は、ウルトラシリーズの脚本を多数手がけ、『ウルトラマンA』のメインライターをつとめたのを最後に大人向けドラマの脚本へ移行し、「傷だらけの天使」の大ヒットで人気作家となった。

著者は、市川森一がドラマの中で描く子どもに着目し、大人が勝手に美化したつくりごとではなく、できれば見たくない人間自身の生の姿だと記している。市川森一が書いた『ウルトラマンA』の最終回の無抵抗な宇宙人をいじめている子どもたちを注意した北斗星司(ウルトラマンA)が、子どもたちに「自分たちはウルトラ兄弟なんだ」と返され、自分たちがいじめている宇宙人を「死刑にするのか?」と問われて北斗がショックを受ける場面は、子どもたちがウルトラマンにヒーローとしての憧れを持つ一方で、純粋であるがゆえに残酷にもなりうることを示している。

ウルトラシリーズでは、ウルトラマンは終始一貫正義のヒーローである。ウルトラマンスペシウム光線で怪獣を倒すとき、視聴者である私たちは喝采をあげる。だが、それを書いた作家たちは、ただ単純に勧善懲悪の作品として作りたかったわけではないということを知った。怪獣の存在を通じて、人間が有する差別心や攻撃性、マイノリティが抱える苦悩や孤独をあらわしているのだと知った。放送当時子どもだった私には、そんなことはわかりようもなかった。本書を読んではじめて、作家たちがどのような思いで作品を書いていたのかを教えてもらった。ウルトラシリーズだけでなく、『仮面ライダー』やその他の特撮ドラマ、子ども向けドラマ、アニメーションには、多くの作家が携わっていて、おそらく彼らも本書で紹介されている4人のように、子どもたち大人たちに何かしらのメッセージを伝えようとしていたのだろう。それは平成から令和に時代が写った現代でも受け継がれていると思いたい。