タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ある犬の飼い主の一日」サンダー・コラールト/長山さき訳/新潮クレスト・ブックス-コロナ禍のオランダで人々に愛された作品。冴えない中年男のある一日を描く中で、過去や未来とのつながりや長い人生における一日の意味を考えさせる

 

 

ヘンク・ファン・ドーハン、56歳の冴えない中年男。離婚歴あり、現在独身。集中治療室(ICU)の看護師として働いている。本が好きで、老犬スフルク(ならず者)と暮らしている。

これが、本書「ある犬の飼い主の一日」の主人公のプロフィールだ。本が好きで犬が好きな50代の冴えない中年男。本書は、タイトル通り、そんな中年男のある土曜日の一日を描く。

朝、ヘンクは老犬スフルクを連れて運河沿いの道を散歩する。すっかり年を取って弱々しくなったスフルクは、散歩の途中で動かなくなってしまう。そこに女性が声をかけてくれ、スフルクに水を飲ませてくれた。ただそれだけだったが、ヘンクは彼女が魅力的に見えて、ときめいてしまう。元妻の浮気現場を目撃するというトラウマをもつ彼にとって、彼女に欲情したことは自分でも驚くことだった。ヘンクがそのことを姪のローザに話すと、ローザは叔父の背中を押す。

「ある犬の飼い主の一日」は、オランダで2019年に刊行された作品で、翌2020年のコロナ禍にあってオランダの多くの人たちに慰めと励ましを与えた。オランダの重要な文学賞であるリブリス文学賞を受賞している。

50代の冴えない中年男のある一日を描いた本書は、それだけを聞くと少し退屈な作品のように思えるが、実際に読んでみると実に奥深い内容になっていると気づく。ある一日を描いているのは確かなのだが、主人公ヘンクの家庭事情や仕事関連といった背景情報が相まって、ときに過去を振り返ったり、ときに未来を描いたりすることで、人生のある一日の出来事が、過去からの積み重ねであることや未来につながっていることを教えてくれる。

また、物語に登場する人物(もちろん老犬スフルクも含めて)たちも、この作品にとっては欠かすことのできない存在となっている。ヘンクが一目惚れする同世代の女性ミア。ヘンクと親友のような関係を築き、ミアへのアプローチに逡巡する彼の背中を押してくれる姪のローザ。かつてのICUナース長であり、ヘンクの看護師としての大先輩、また愛人関係にもあったが、現在は認知症となり施設に入居しているマーイケ。ヘンクの元妻で現在はアメリカに暮らすリディア。そして、ヘンクとリディアがまだ幸せな夫婦のときに我が家に迎え入れ、今まさに老いて命が尽きようとしている愛犬スフルク。彼ら・彼女らが、ヘンクの人生の中でどのような存在であったのか。ヘンクというひとりの中年男の人生は、彼ひとりによって築かれてきたのではなく、様々な人々との出会いや関係によって築かれてきたのだということを本書は教えてくれる。

読者は、ヘンクを自分に置き換えて読むといい。私は、ヘンクとほぼ同世代ということもあり(犬を飼っていたり本が好きという共通項もある)、彼の存在がとても身近に感じられた。オランダと日本のお国柄の違いもあって、必ずも相容れない部分はあるけれど、ひとりの人間という視点で考えれば、ヘンクと読者の間には、世代差など関係なく、共感できる部分があると思う。本書が2020年のコロナ禍という非常事態の中でオランダの読者に愛された理由もきっとそういうところにあるのではないか。

たった一日の出来事にも過去から未来へと続く人生の中の通過点としての意味があり、ときにその通過点は人生のターニングポイントにもなる。生きるということ、愛するということ、老いるということ、死ぬということ。人間の生涯の中で起きる様々な出来事は、長い人生の中のある一日の積み重ねである。何事もなく平穏に過ぎる一日もあれば、ギュッと凝縮された濃厚な一日を過ごすこともある。生きるということはそういう一日一日を何度も何度も繰り返すということだ。

「ある犬の飼い主の一日」を読むことで、長い人生の一日に込められた重みや意味を考えるようになった。