タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「昔には帰れない」R・A・ラファティ/伊藤典夫、浅倉久志訳/早川書房-これぞ想像力と驚かされるヘンテコリンだけど惹き込まれる短編の数々

 

 

SF界のホラ吹きおじさんが語る抱腹絶倒、奇妙奇天烈な16篇

帯にはそんな惹句が書かれている。これは煽りでもなんでもなくて本当に抱腹絶倒で奇妙奇天烈なホラ話(この言葉が本当にぴったりだ)が収録されているのがR・A・ラファティ「昔には帰れない」である。そんな抱腹絶倒・奇妙奇天烈な16篇のラインナップは以下の通りとなっている。

素顔のユリーマ
月の裏側
楽園にて
パイン・キャッスル
ぴかぴかコインの湧きでる泉
崖を登る
小石はどこから
昔には帰れない
忘れた偽足
ゴールデン・トラバント
そして、わが名は
大河の千の岸辺
すべての陸地ふたたび溢れいづるとき
廃品置き場の裏面史
行間からはみだすものを読め
一八七三年のテレビドラマ

「素顔のユリーマ」から「昔には帰れない」を「Ⅰ」、「忘れた偽足」から「一八七三年のテレビドラマ」を「Ⅱ」として2部構成になっている。この分類について訳者のひとり伊藤典夫氏は「あとがき」でこう記している。

本書では収録作を大きく二つにわけた。第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。(中略)第二部はちょっとこじれているかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。

収録されている16篇はどれも面白かったのだが、個人的に気に入ったのは最初に収録されている「素顔のユリーマ」(伊藤典夫訳)と最後に収録されている「一八七三年のテレビドラマ」(浅倉久志訳)の2篇。

「素顔のユリーマ」は、こんな一文から始まる。

彼は一党の最後のひとりといってよかった。

“一党”とは? 『偉大な個人主義の最後のひとり』でもなければ『今世紀の真に創造的な天才の最後のひとり』でもない。彼=アルバートは、『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なのである。アルバートは、物覚えが悪く、4歳まで物もろくに言えなかったし、6歳までスプーンの使い方も覚えられず、8歳までドアのあけ方もわからないほどだった。彼は字が読めるようになっても書くことができなかった。そこで彼は“ズル”をするようになるのだが、ここからラファティの“ホラ吹きおじさん”ぶりが存分に発揮されるようになってくる。

文字が書けないアルバートは、自転車の速度計、超小型モーター、小さな偏心カム、おじいさんの補聴器からくすねた電池を使って自分の代わりに文字を書く機械を作った。その小さな機械を手に隠し持って機械に字を書かせるのである。

いや待て待て笑、右と左の区別さえ独特な方法を使わないとわからないような『最後のドジ、まぬけ、うすのろ、阿呆』なアルバートが、そんな巧妙な仕組みの自動筆記機械を作り上げるという設定がもうこれでもかというほどのホラ話ではないか。

それからもアルバートが自分ができない分野をサポートする機械を次々と作ってズルを続けていく。計算が苦手だから代わりに計算する機械を作り、考えることをサポートするロジック・マシーンを作り上げる。もうありとあらゆる苦手なことを機械を作ってズルをすることで乗り切っていくのだ。いや、そんなすごい機械を作る技術があるならドジでもうすのろでも阿呆でもないだろ、というツッコミは野暮というもの。そのヘンテコリンな設定こそがこの物語の面白さなのだ。

こうして次々とあらゆる機械をアルバートが生み出し続けたことで次第に彼は機械たちに苦しめられるようになっていく。そして、その状況に対応するために彼はハンチーという機械を作るのだが、こいつがさらに彼を追い詰めるものとなっていく。だが、アルバートはドジでまぬけでうすのろで阿呆だから自分ではどうすることもできない。最後にアルバートはハンチーの助言によって大きな決断をする。ラストの一文はこう締めくくられる。

二十一世紀は、この奇妙なかけ声とともに始まった。

ヘンテコリンなホラ話の結末は、ヘンテコリンだからこそなんともいえない恐ろしさを増幅させるのである。

わずか20ページほどの短編に長々と書いてしまった。でも、もうひとつ印象的だった作品「一八七三年のテレビドラマ」についても少し書いておきたい。

「一八七三年のテレビドラマ」の“1873年”とは、イギリスでテレビの開発が始まったとされる年で、当然ながら“テレビ”という装置はまだまだ存在していなし、当然ながら“テレビドラマ”も制作されていない。つまり、「一八七三年のテレビドラマ」は、架空のテレビドラマについて書いている短編なのである。

テレビ草創期のテレビドラマ(“スロー・ライト”ドラマ)は、オーレリアン・ベントリーが制作したという設定でこの作品は語られていく。ベントリーが制作した13本のテレビドラマのひとつひとつの内容を説明していきながら、その中でひとつの奇妙な物語が構成されていくのである。

13本のテレビドラマは、冒険あり、ミステリーあり、迫力のレースがあり、恋愛があり、死がありとバラエティに富んでいる。ベントリー作品の常連とも言える(テレビ草創期のドラマだから役者の数も少ないはずなので、必然的に起用される役者の顔ぶれは同じくなっていくのだが)役者たちがどのような役柄を演じ、どのようなストーリーが展開されたのか。そのドラマのあらすじを読んでいるだけでも楽しくなってくるのは、ラファティという作家の凄いところだと思う。

さて、「一八七三年のテレビドラマ」はただオーレリアン・ベントリーが制作した13本のドラマの筋立てを並べ立てているわけではない。話が進むに連れて、ベントリーが残したドラマの記録の中にドラマとは関係のない会話が残されていることがわかってくる。そして、その謎の会話が個々のテレビドラマをいつの間にか繋ぎだし、そこにオーレリアン・ベントリーと看板女優クラリンダ・カリオペー、さらに他の役者たちの関係性が絡み合ってカオスな状況を作り出していく。読者は、ベントリーが残した13本のテレビドラマの話よりも、そのドラマの裏側で進行していく物語の方に次第に興味を持っていかれることになる。そして、最後にはこれまた奇妙奇天烈な展開に驚かされるのである。

紹介した2篇以外の作品も面白い作品ばかりだと思う。ヘンテコリンなホラ話であることはもちろんだが、どこか郷愁を誘うような作品だったり、ブラックユーモアな作品だったりとバラエティ豊富なので、どれかひとつは面白いと感じられる作品が見つかるのではないだろうか。