タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「うわさの壁」李清俊(イ・チョンジュン)/吉川凪訳/クオン-表情の見えない相手との間にある壁

 

 

闇の中で浴びせられる懐中電灯の光。光に目がくらみ、その光の向こう側に立つ者の表情は真っ黒い影にしか見えない。表情の見えない相手から投げつけられる言葉は、表情を伺えないことで恐怖にも不安にも苛まれるものとなる。この構図は、かつては新聞や雑誌といった媒体を通じて投げつけられる無遠慮な批判批評であり、現代においてはネットの匿名性を利用した批判批評に通じる。

李清俊(イ・チョンジュン)「うわさの壁」は、雑誌編集長の“私”が突然見ず知らずの男から助けを求められるというミステリアスな状況からスタートする。私は男を家に連れ帰えり、一晩の宿を与える。男と女の違いはあるが、この謎の男によって私が深みにハマっていく展開は、ファムファタール小説的なものを期待させる。

男は、「なぜ夜道で追いかけられていたのか。誰に追いかけられていたのか」という私の問いかけに、「僕、気違いなんです」と答える。“私”はもちろん読者も困惑する流れだ。男は、言動だけでなく行動でも私達を困惑させる。私は、て蛍光灯を消して床につく。だが、目を覚ますと消したはずの蛍光灯が煌々とついている。私が蛍光灯を消して寝ると男がつけてしまうのだ。蛍光灯を消してはつけられを繰り返したあげく、翌朝男は姿を消してしまう。

なんとも先の気になる展開である。謎の男はいったい何者なのか。本当に気違いなのか。私が、この男の風貌にどこか見覚えがあるような気がするという布石もあり、ミステリー小説的な展開になっていくことも考えられる。

私は、病院を訪れ、前夜にひとりの患者が脱走していたことを聞かされる。そして、その患者の名前が“パク・チュン”だと知る。パク・チュンは、1、2年前までは精力的に作品を発表していた若い作家だった。最近はまったく活動している様子がなかった。

なぜパク・チュンは、突然文壇から姿を消したのか。なぜ、自らを狂人と名乗って精神病院に現れたのか。偶然のトラブルから彼に関わることになった私。彼を治療する精神科の医師。文壇においてパク・チュンがどのような存在として扱われてきたのか。そして、彼が光に執着し、懐中電灯の光によって引き起こされるパニックの源泉となる過去のトラウマとはなにか。物語は、ミステリアスな表情をたたえながらも、ひとりの作家の心の闇へと切り込んでいく。

パク・チュンは、その背中にいったい何を背負っているのか。私は、彼の小説を読み、彼が受けた取材インタビューの記事を読む。彼が私の前で見せた行動や病院での治療の中で見せて行動から、彼が抱える心の闇を知ろうとする。パク・チュンは小説を書くことで、彼の葛藤する心の内を、何らかの真実を訴えようとした。しかし、〈無用なトラブルを避ける〉という曖昧な理由で彼の小説の掲載を否定してきた編集者たちによって、彼は語るべき場所を失ったのだ。

「うわさの壁」でキーワードとなるのは〈懐中電灯〉だ。物的な意味ではない。暗闇の中で懐中電灯の光を浴びせられたとき、浴びせられた側からは、その光の向こう側にいる人の表情は影となって見えない。見えない影によって、光を浴びせられた側は一方的に言葉を浴びせられる。そこに存在していることはわかっているのに、その表情がわからない相手から浴びせられる言葉は、恐怖を感じさせるに十分である。

この、懐中電灯の光を挟んだ向こう側とこちら側の対比は、この作品が書かれた時代でいえば、新聞や雑誌といったメディアの向こう側で言葉のみで作家や作品を批評批判する編集者であり、読者たちと作品を苦労して生み出した作家との関係となるだろう。令和の現代においてみれば、ネットやSNSの世界で無自覚に批評する匿名のユーザーと彼らによって叩かれる者との関係に他ならない。そう感じたから、まずこのレビューの冒頭でそのことを書いてみた。

作家に限らず、顔も名前も公にして活動するすべての表現者は、匿名の批評者によって、あらゆる面を評価される。そして、以前は表現者の耳目には届かなかったかもしれないそうした評価の声が、今はネットを通じて簡単に届いてしまう。ユーザーの声がストレートに届くというメリットもある一方で、聞かなければよかったと思うような、悪意ある声すらも聞こえてきてしまう。もし、李清俊が現代社会に生きていて作品を書くことができたならば、パク・チュンを追い詰めるのは、自らの過去のトラウマと匿名の第三者から浴びせられる無自覚な声になっていたかもしれない。