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【書評】長嶋有「三の隣は五号室」(中央公論新社)-第一藤岡荘五号室、変な間取りのその部屋に住んだ歴代の住人たちそれぞれの交錯しない物語

インターネットでアパートやマンション、一戸建て住宅の間取り図の見るのが好きだ。別に、引っ越しを計画しているとかいうわけではない(既に持ち家だし)、単純に間取り図を見るのが好きなのだ。

三の隣は五号室

三の隣は五号室

 

長嶋有「三の隣は五号室」は、電子月刊文芸誌(呼び方がイマイチ不明なのだが)「アンデル」の2015年1月号(創刊号)から2015年10月号まで連載されたものだ。

 

第一藤岡荘五号室の間取りはちょっと変だ、と代々の住人たちはほぼ全員がそう感じた。例外は、初代住人となった藤岡一平と2代目の住人となった二瓶敏雄・文子夫妻だけだ。藤岡一平は「こういうものか」と思い、二瓶夫妻は「機能的で合理的だ」と思った。だが、その他の住人たちは、みな「変な間取り」と思っていた。

どんな具合に変なのか。プロローグ部にある4代目の住人・四元志郎の描写から引用してみる。

「六畳、四畳半、キッチン三畳」と契約書にはあるが、それと別に「玄関の間」とでもいうべきスペースもある。玄関の右手にはトイレ、左手は風呂と洗濯機置き場、玄関からみると、ドアノブと障子が横に並んでみえる。
右のドアノブを開ければ台所(左の障子は四畳半に続く)、台所に入ると、左手にも正面にも障子。左を開ければ四畳半で、正面は奥の六畳間。
最後の六畳間に入ってふりむけば、一面が四枚の障子戸で、その右側を開ければ四畳半。左を開ければ台所に戻る。

イメージできただろうか。わかりにくい場合、本書には第一藤岡荘五号室の間取り図も掲載されているのでご安心を。

この第一藤岡荘五号室には、1966年に初代の藤岡一平が入居してから2016年現在入居している諸木十三に至るまで、13世帯が入居している。二代目の二瓶夫妻、と六代目の六原睦郎・豊子夫妻を除いて全員が単身者(学生の一人暮らし、独身男女、単身赴任者)である(11代目の霜月未苗は、桃子という女性と同居していた)。以下、歴代住人と居住年数を記しておこう。

 1.藤岡一平 1966年~70年
 2.二瓶敏雄・文子・環太 1970年~82年
 3.三輪蜜人 1982年~83年
 4.四元志郎 1983年~84年
 5.五十嵐五郎 1984年~85年
 6.六原睦郎・豊子 1985年~88年
 7.七瀬奈々 1988年~91年
 8.八屋リエ 1991年~95年
 9.九重久美子 1995年~99年
 10.十畑保 1999年~2003年
 11.霜月未苗 2004年~08年
 12.アリー・ダヴァーズダ 2009年~12年
 13.諸木十三 2012年~16年

気づいたと思うが、歴代住人の名前が何番目に居住したかを示している。11代目の霜月未苗は「霜月=11月」であり、12代目のイラン人アリー・ダヴァーズダは「ダヴァーズダ」がペルシャ語で“12”を表している。

五号室の住人は、住人同士に接点はない。“五号室”という部屋に順番に住んだだけで、互いが互いを知っているわけでもないし、知ることもない。ただ、二瓶夫妻が水道の蛇口を交換した際に貼り付けた「水不足!」のシールが後になっても残っていたり、六原睦郎が交換した風呂の栓が微妙に排水口と合っていなくて、以降の住人が原因不明の漏水に困惑したりという小ネタは散りばめられている。

また、歴代住人の住んだ時代を反映する出来事がそれぞれに登場する。各住人が部屋に置いたテレビの形式(ブラウン管、ブラックトリニトロンワンセグなど)であったり、そのテレビに映しだされたドラマに出てくるキムタクの髪型の変遷であったり。私は、この第一藤岡荘とほぼ同年代なので、それぞれの話がいちいちツボだったりした。

第一藤岡荘五号室の住人たちには、何か大きな物語が起きるわけではない。それぞれが、等身大の人間であり、男子大学生の住人なら悪友と徹夜の麻雀を楽しんだり、若い女性の住人は恋愛に悩んでみたり、単身赴任のサラリーマンは家族と離れて自由を謳歌しつつもどこか寂しげだったり、若い夫婦は子どもを授かり、老いた夫婦は妻を看取る。唯一の例外は3代目の三輪蜜人で、やばい稼業に関わっていた彼は第一藤岡荘を退去後に殺される運命を背負っている。

そういう意味で、この小説は“第一藤岡荘五号室”という場所を主人公として、五号室が代々の住人を見守り続けるという作品として読めるのだと思う。部屋は、(途中でリフォームされるけれど)長年変わらずそこに存在する。その部屋に、入れ替わり新しい住人がやってきては、数年ほど住み続ける。その間に、彼らを取り巻く時代は移り変わっていき、住人たちの生活や人生も移り変わっていく。ただ変わらないのは、第一藤岡荘五号室だけなのだ。

長嶋有が描き出す小説には、こういう「変わらないものの中で移り変わる人間の営み」という世界観が存在するように思う。すべての長嶋作品を読んでいるわけではないので、軽々には断言できないが、そういう印象を感じている。