日本が壊れかかっている。
と言ってしまうのは大げさだろうか。
一見すると平和で、何も問題のないように見える私たちの国は、その見た目とは裏腹の危機感に満ちているように思える。人々は自由に生き、自由な考えを自由に口に出すことができる。だけど、何かひどく閉塞感にとらわれているような気がしてならない。
- 作者: ジョージ・オーウェル,高橋和久
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/18
- メディア: 文庫
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ジョージ・オーウェル「一九八四年」は、ディストピア小説の代表的作品である。ビッグ・ブラザーによる独裁国家。行動と思想は常に当局によって監視される社会。どこにも自由は存在しない。どこにも救いは存在しない。なのに、恐怖と洗脳によってコントロールされた人々は、不平不満を口にすることはなく、むしろ今の暮らしに満足している。
「一九八四年」には、救いは存在しない。主人公ウィストンは、決して独裁者に立ち向かうヒーローではない。ただただ弱い人間である。読み進めていくと暗澹たる気持ちに陥っていく。救われない。誰も、何も、救われない。
「一九八四年」の世界観は、第二次大戦終結後の東西冷戦の時代、特にスターリン時代のソ連をモデルにしている。それから70年近い歳月が流れ、ソ連をはじめとする東側諸国は崩壊して久しい。今は、本書に描かれるような独裁管理社会を体現している国は、きわめてレアな存在となっている。
だが、果たしてそれは事実だろうか?
例えば、日本が本書に描かれるようなディストピア性を内在するということはないのだろうか。一見平和で自由に満ちた国が、その奥底では、管理、監視、洗脳、そして独裁にも等しい国家観を密かに具現している可能性はないのだろうか。
今の日本は、上辺ばかりの平和と自由で成り立っているのではないのか?
「一九八四年」が描く恐怖は、目に見える恐怖として読者を心胆寒からしめる。だが、目に見えるだけにどう対処すれば恐怖を逃れられるのかも見えてくる。
だが、上辺の平和と自由によって包み隠されて、衆目に晒されることのない内在した目に見えない恐怖は、見えないからこその恐怖であり、見えないからこそ為す術がない。気がつけば、私たちは恐怖の存在を忘れ、恐怖に麻痺し、恐怖すら平和と自由に履き違えてしまう。
今の日本の状況が、ユートピアなのかディストピアなのか。もしかすると、そう遠くない将来にその実態が明らかになるのかもしれない。