タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「わたしはイザベル」エイミー・ウィッティング〔著〕/井上里〔訳〕(岩波書店)-毒親に否定され続けたイザベルを救ったのは読書だった。言葉を得ることでイザベルは成長する。

 

 

毒親とは、過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりする「毒になる親」のことを言う。

これは、2019年4月にNHKの「クローズアップ現代」で放映された『毒親って!? 親子関係どうすれば・・・』での毒親の定義である。

www.nhk.or.jp

虐待や育児放棄によって子どもを殺してしまうほど極端ではなくても、子どもの人格を否定したり、厳しくあたったりすることで、子どもを自分の思い通りにしたり、子どもとの関係を放棄したりする親がいる。エイミー・ウィッティング「わたしはイザベル」の主人公イザベル・キャラハンの母親は毒親だ。

物語の冒頭、イザベルは母親から「今度のお誕生日は、プレゼントはありませんよ」と言われる。でも、イザベルはそれまで一度も誕生日プレゼントなんてもらったことはない。他の人からもらうことも許されない。

イザベルの唯一の楽しみは本を読むことだ。娯楽室にあった「シャーロック・ホームズの冒険」を読み始めた彼女は、物語の世界に浸りこむ。そして、頭の中で物語をつくる。物語をつくることが、毎日を生きる手段なのだ。

なぜ、母親はこんなにも娘に厳しくあたるのか。そこには、彼女のコンプレックス、嫉妬があった。イザベルの父親にはふたりの姉妹がいる。ノーリーンはドレス工場の女性支配人であり、イヴォンヌは資産家と結婚していて、ふたりとも成功者だ。それに対して、イザベルの父親は成功者とは言い難い。そのことに、母親は苛立っていて、その苛立ちを子どもたちにぶつけているのである。母親の苛立ちをぶつけられ、それに激しく反応する娘たちの姿を見て、心の憂さを晴らしているのだ。

イザベルは、母親の死によってその支配からようやく解放される。自ら仕事を探し、下宿先を探して一人暮らしをはじめる。ひとりで生きることは簡単なことではない。それでも、彼女は少しずつ自分の居場所をみつけていく。同じ下宿先の住人たちとの交流、仕事先の上司や同僚との交流、文学を通じて知り合った同世代の若者たちとの交流。さまざまな人たちとの交流によって、イザベルは母親から否定され続けてきたひとりの人間としての存在価値を取り戻していく。

自らの生きる意味を見出していく中で、彼女は一冊の本を出会う。「聖人たちの言葉」というその本を手にしたことで、彼女は本当の意味で自分の過去と向き合えるようになる。そして、かつて自分が母親から否定され続けながら暮らした町を訪れる。そこで彼女を待ち受けていた過去の自分との邂逅によって、イザベルは自ら書くことを決意する。

母親の強すぎる支配や過干渉は、愛情の裏返しだという人があるかもしれない。そういう一面があったとしても、子どもにとってみれば、怖いお母さん、お父さんよりは、優しいお母さん、お父さんがいいにきまっている。子どものころに植え付けられた恐怖は、大人になっても消えることはなく、心に傷を残す。親の顔色をうかがって生きるような日々を過ごさなければならない子どもは、親以外の大人たちの顔色もうかがうようになり、常に自分を偽って生きるようになる。

イザベルは、読書によって現実の世界から空想の世界に逃げ込むことができた。本を愛してきたことで、言葉によって人とのコミュニケーションを取ることを覚え、言葉の力によって自分自身の存在価値に気づくことができた。

両親に愛されて育つことが、子どもにとっては一番のことだ。でも、少しでもつらいことがあったときに、本を読むこと、さまざまな言葉に触れることが、子どもの癒やしになるのなら、読書という行為、本という存在には大きな意味があるのだ。

 

「ある奴隷少女に起こった出来事」ハリエット・アン・ジェイコブズ〔著〕/堀越ゆき〔訳〕/新潮社〔文庫〕-奴隷として生まれ、奴隷として生きることを運命づけられた少女は、自らの自由を求めて闘った

 

 

わたしは奴隷として生まれた。

その短い言葉から、ひとりの黒人奴隷少女の闘いの記録は始まっている。

ある奴隷少女に起こった出来事」は、いまからおよそ150年前の1861年に刊行された作品である。その内容は、あまりに衝撃的で、これがノンフィクションであるとはにわかには信じられないほどだ。

しかし、冒頭の『著者による序文』にあるように、この本に書かれていることのすべては、1800年代中盤のアメリカで実際に起きたことなのである。

読者よ、わたしが語るこの物語は小説(フィクション)ではないことを、はっきりと言明いたします。

奴隷の娘として生まれたリンダ・ブレントは、奴隷として常に誰かの所有物であった。「母親の身分に付帯する条件を引き継ぐ」という制度により、奴隷を母に持つ子どもたちは、生まれながらにして奴隷として生きることしか許されなかったからだ。

腕の立つ大工として所有者から自由に働き収入を得る許可を受けていた父は、わが子を所有者から買い取って自由にすることを願っていたが、所有者が買い取りに応じることはなかった。リンダが自由になるには、逃げる以外に方法はないのが現実だった。

所有者の死による相続や譲渡、競売などにより、奴隷の所有者は変わっていく。リンダも、何人かの所有者を経て、ドクター・フリントの娘エミリーの所有物となった。当時エミリーは3歳。彼女が成人するまで、リンダの事実上の所有者はドクター・フリントということになる。

このドクター・フリントが、リンダを苦しめる邪悪な人物であった。彼は、リンダに対して精神的にも、肉体的にも、卑劣な行為を繰り返す。リンダは、ドクター・フリントから逃れ、自由を得るための闘いをはじめる。それは、別の白人の子どもを身篭ることだった。

邪悪な白人の支配から逃れるために、別の白人の子どもを身篭り、さらに7年もの間狭い屋根裏部屋に隠れ住む生活を続ける。その間、ずっと不安と恐怖と闘い続けたリンダの精神力に驚くとともに、人間が人間としての尊厳を根こそぎ奪われなければならなかった暗黒の時代の罪深さを感じざるをえない。

今の時代には絶対に考えられないような話

それが、本書を読んだ率直な感想だ。しかし、著者が生きた時代には、これが現実だったのだ。もし、その当時に自分が所有する側の人間として生きていたら、ドクター・フリントや他の白人たちのような残酷な人間になっていたかもしれないし、奴隷の立場として生きていたら、絶望の中で苦しむことしかできなかったかもしれない。

しかし、リンダは絶望しなかった。諦めることなく闘った。7年間の潜伏生活を経て、リンダは北部に逃亡する。彼女に対して理解のある人物と出会うことで、生きることへの希望を手に入れる。

リンダは、自らの闘いを貫いた。しかし、彼女のように闘う勇気をもった奴隷は少ない。訳者あとがきによれば、リンダ・ブレントこと著者ハリエット・アン・ジェイコブズは、本書執筆後に娘とともに南部に戻って《ジェイコブズ・スクール》という解放奴隷のための学校を開くなど、活動家として生きたとのこと。彼女の闘いと、その闘いの記録として書かれた本書、そしてその後の彼女や子どもたちの活動が黒人奴隷解放の道を開くことにもつながっているのだと思う。

 

「新装版プラテーロとわたし」J.R.ヒメナス・著/伊藤武義、伊藤百合子・訳/長新太・絵(理論社)-嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、ささやかな日々のことも、いつもプラテーロがそばにいた。

 

 

プラテーロは、小さくて、ふんわりとした綿毛のロバ。あまりふんわりしているので、そのからだは、まるで綿ばかりでできていて、骨なんかないみたいだ。けれど、その瞳のきらめきは、かたい黒水晶のカブト虫のよう。

J.R.ヒメナス「プラテーロとわたし」は、詩人ヒメナスが26歳のころに記した散文詩。プラテーロという名前のロバに優しく語りかける形で、日々のささやかな出来事や、嬉しかったこと、楽しかったこと、寂しかったこと、悲しかったことを描いている。

巻末の解説によれば、ヒメナスは精神的な病により療養生活をおくっていたことがあるという。自信を失い、死への誘惑にかられ、敗北感に苛まれてたヒメナスを救ったのは、生まれ故郷モゲールの自然に溢れた風景であった。精神的な病から立ち直ったヒメナスが記したのが「プラテーロとわたし」だった。

138篇の散文詩には、モゲールに暮らす人々のことや、詩人の心のうちが、さまざまな形で表されている。たくさんの出来事やたくさんの想いをプラテーロは、ときに優しく、ときに意地悪く、かたわらで見守ってくれている。

夕暮れにあそぶ子どもたちの姿
松の木の下に寝そべって本を読む詩人と草をはむプラテーロ
季節が移ろい、葉をすっかり落とした並木の道

そこには、私たちが何気なく日々目にしているような当たり前の風景がある。詩人は、普段は意識しないような、ささやか景色の変化を感じ取り、その気持ちを優しくプラテーロに語って聞かせる。

プラテーロと詩人には、誰よりも深い絆が存在している。ふたりには、人間とロバという存在を超越した特別な友情が存在している。

散文詩に描かれるのは、嬉しいことや楽しいことばかりではない。嬉しいこと、楽しいことと同じくらい、むしろそれ以上に『死』が描かれている。若い娘の死、動物の死、亡き者たちへの祈り。『死』を描くことが、詩人にとっては、自らの苦悩との対峙であったのかもしれない。『死』を描くことが『生』を実感できることだったのかもしれない。そして、自らに押し寄せる『死』に対する恐怖や苦悩を和らげてくれるのが、プラテーロという『生』の存在だったのだろう。

読者は、138篇の散文詩の中に、きっと何かひとつ自分自身に重ねられる物語が見つけられると思う。自分の胸に刺さる、共感できる物語が見つけられると思う。そんな物語を見つけるために、繰り返し読みたい一冊だと思う。

 

 

「刑罰」フェルディナント・フォン・シーラッハ著/酒寄進一訳(東京創元社)-小説を書くことがシーラッハ氏が自らに課した『刑罰』なのかもしれない。

 

 

「犯罪」「罪悪」に続くフェルディナント・フォン・シーラッハの短編集シリーズの第3作にして完結編となる作品である。モニター募集に当選して、刊行前のゲラの段階で読む機会をいただいたのだが、本格的なレビューを書くのが刊行後になってしまった。なお、モニターとしてゲラを読んだ感想は、東京創元社のWebサイトに掲載されている。稚拙な感想コメントですが、ご興味ありましたらアクセスしてください、

本書には12篇の短篇が収録されている。

参審員
逆さ
青く晴れた日
リュディア
隣人
小男
ダイバー
臭い魚
湖畔邸
奉仕活動(スボートニク)
テニス
友人

12の短篇には、それぞれにドラマがあり、登場人物たちの様々な葛藤や境遇、感情のうねりや冷酷さが描かれる。いかなる理由であっても、罪を犯したものはその罪の重さに見合った罰を受ける。「刑罰」は、罰を与えるもの、与えられるもの、自らに課すものの人間ドラマを描き出す。

最初に収録されている「参審員」は、15ページほどの短篇だ。参審員に任命されたカタリーナが主人公なのだが、物語の半分は彼女の生い立ちに費やされる。どのような両親から生まれ、どの街で育ち、どんな学生時代を過ごし、どのような経験をしてきたか。彼女の人生が語られる。参審員としてカタリーナは、妻に対する傷害罪に問われた男の裁判を担当することになる。証人として出廷した妻の証言を聞き、カタリーナは彼女を自分と重ね合わせ、思わず我を忘れてしまう。短い物語の中で、カタリーナの人生と、被害者あり加害者の妻でもある証人の人生がシンクロする構成はうまいと思う。

それぞれの物語に登場するひとりひとりの主人公たちに、読者はときに同情し、ときに共感し、ときに嫌悪し憎悪するだろう。そして、本書全体を通じて、突き刺さってくるような人間の存在感を感じることだろう。

2月に『東京創元社新刊ラインナップ発表会2019』に参加した際に、ゲストスピーカーとして登壇された訳者の酒寄進一さんが、本書の刊行について話された中で、シーラッハ氏が小説を書くきっかけとなった友人の話があった。その友人とのエピソードをベースとして書かれたのが本書のラストに収録された「友人」である。

子どもの頃に一番仲のよかった親友は、あるとき突然連絡がとれなくなり消息不明になった。長い時を経て再会したとき、親友はむかしの面影をなくし、苦しみの中にいた。私は、親友から多くの話を聞いた。彼が辛く苦しい日々を送ってきたことを知った。私と親友は、再び別れの時を迎える。そして、私は書くことをはじめた。「親友」にはそう記されている。

フェルディナント・フォン・シーラッハにとっては、『小説を書く』ということが自らに課した『刑罰』なのだろうか。シーラッハ氏が弁護士として関わってきた犯罪者、犯罪被害者、同業の関係者、家族、友人、その他の人々の物語を小説という形で、自分の胸のうちから表に出していくことが作家にとっての『刑罰』だったということなのだろうと感じた。

 

 

 

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」北村紗衣・著(書肆侃侃房)-フェミニスト視点で古今東西の小説、映画、舞台を論じる。視点を絞ることで見えてくる作品の新しい世界に興味津々。

 

 

発売前からTwitterで話題になっていて、「なんだか面白そう」と思っていた北村紗衣「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んだ。思っていた通り、いや思っていた以上に面白かった。

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」は、Webメディア『wezzy』の連載を加筆修正したものだ。

wezz-y.com

サブタイトルに「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」とあるように、本書は著者が古今東西の小説、映画、舞台をフェミニストとしての視点で論じている。取り上げているのは、「嵐が丘」「ファイトクラブ」「アナと雪の女王」「わたしを離さないで」など、誰もがよく知っている『名作』とされる作品たちだ。

小説や映画、ドラマや舞台を読んだり観たりして、その感想を文章に残す。今まさに私が書いているレビューは、私がこの本を読んで「楽しかった」「面白かった」と感じたことを感じたとおりに書き残している。これは、面白い、楽しいという感情によって喚起されるものであり、批評的な側面は基本的にはない。

本書は、「面白い」「楽しい」という感情的な見方をスタートとしつつ、『フェミニスト』という視点で作品を読み解いている。フェミニスト批評は著者の専門分野であり、視点を絞って作品に向き合うことで、漫然と読んだり観たりするのとは違う新しい側面を見せてくれる。

フェミニスト視点で見ることで、これほど作品から浮き上がってくる世界観が違って見えるのかと新鮮な驚きがあった。

たとえば「ファイト・クラブ」に関する批評。デヴィット・フィンチャー監督、ブラッド・ピットエドワード・ノートン出演の映画は、男たちが社会への不満のはけ口として『ファイト・クラブ』を組織し、殴り合う場面が印象深い男らしさ全開の映画というイメージがある。著者はこの映画を『とてもロマンティックな映画』と評する。

私は『ファイト・クラブ』は男性中心主義的を賛美する映画ではなく、むしろ伝統的な男らしさを美化する風潮を辛辣に風刺した作品なのではないかと考えています。突飛な解釈に見えるかもしれませんが、私の考えでは、『ファイト・クラブ』は実はとてもロマンティックな映画です。
(ロマンティックな映画としての『ファイト・クラブ』 p.95より)

著者の北村紗衣さんは、『17~18世紀イギリスにおける、シェイクスピアの女性ファン』を研究する研究者だ。シェクスピアを研究しているのではなく、シェイクスピアの女性ファンを研究しているというのが面白い。「シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書」というメチャクチャ面白そうな本も出している。先日『UmeeT』という東大発のオンラインメディアで著者へのインタビュー記事が掲載された。このインタビューが、これまたメチャクチャ面白いので読んでみてほしい。

todai-umeet.com

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 
シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

 

 

「観光」ラッタウット・ラープチャルーンサップ〔著〕/古屋美登里〔訳〕(早川書房)-タイという国が内部に有する影をみせてくれる短編集

 

観光 (ハヤカワepi文庫)

観光 (ハヤカワepi文庫)

 

 

『微笑みの国』と呼ばれ、日本からの観光客も数多く訪れる国・タイ。しかし、そのイメージはあくまでも表向きの姿なのかもしれない。ラッタウット・ラープチャルーンサップの「観光」は、私たちにタイという国の影の部分を見せてくれる短編集だ。

「観光」には、7篇の短篇が収録されている。

ガイジン
カフェ・ラブリーで
徴兵の日
観光
プリシラ
こんなところで死にたくない
闘鶏師

どの作品も、描かれるのはタイに暮らす人々の姿だ。

飼っている豚にクリント・イーストウッドと名付けている混血の少年は、親友から「どうしておまえがガイジン娘に弱いのか、見当もつかない」と呆れられながら、外国からこの国を訪れるガイジン娘に恋することを繰り返す。でも、それはガイジン娘たちからすれば、遊びに出かけた海外の国でのちょっとした思い出づくりでしかない。(「ガイジン」)

徴兵のくじ引きが行われる日、ぼくは親友のウィチュと一緒に抽選会場へ向かう。どうかくじに当たらないように、と祈るウィチュのとなりで、ぼくは彼に対するうしろめたさに葛藤する。ぼくは、徴兵から逃れるために賄賂をつかった。でも、そのことをウィチュにもウィチュの母にも言い出せない。やがて、くじ引きははじまり、ぼくは徴兵を逃れる。そして、親友との関係も失っていく。(「徴兵の日」)

「八週間か十週間後には完全に失明します」と医者に告げられた母を連れて、ぼくは旅にでる。南のリゾート地に向かう母と息子。「ガイジンになるの。観光客になるのよ」と母は言う。ふたり旅の中で、母と息子は、これまで暮らしてきた日々のことを思い、これから生きていく日々のことを話す。(「観光」)

その他、カンボジアからの難民の少女プリシラとの短くて切ない日々をつづった「プリシラ」や、タイ人と結婚した息子と暮らすためにタイにやってきたものの、この国にも、息子の家族にも、思うように馴染めない少し頑固で偏屈なアメリカ人の老人を描いた「こんなところで死にたくない」など、ラープチャルーンサップが描き出すのは、観光客(まさに『ガイジン』)としてはおそらく目にすることのないタイの人々の姿だ。

収録されている7篇は、どの作品もレベルが高いと感じた。読んでいて、胸にグッとくる作品ばかりで、遠い外国の物語なのに共感できるところが多かった。あるトークイベントで訳者の古屋美登里さんが話していたが、作家の河野多恵子さんが本書を読んで、「どの作品でも芥川賞が獲れる」と絶賛したという。そのくらいレベルの高い短編集なのだ。

私たちから見える部分は、光のあたっている部分であり、その光の裏には影になった暗いところがある。それは、タイに限らず、日本にもアメリカもヨーロッパにもある。「観光」は、そういう影の部分を私たちに見せてくれる短編集だ。文学は、明るい部分ばかりを描くのではなく、こうした暗部を描くところに価値があると思う。

今回、『はじめての海外文学』フェアを通じて本書を手にとった。そして、タイという国の表からは見えない部分を感じることができた。読書によって世界の文化を知るという意味で、有意義な体験であったと思っている。

 

 

 

「フィフティ・ピープル」チョン・セラン・著/斎藤真理子・訳(亜紀書房)-ひとりにひとつの物語。50人に50の物語。人と人が交わり、重なり、人生の物語が生み出される。

 

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 

人はみな、ひとりひとりにそれぞれの物語がある。ひとつひとつの物語の中で、人と人とが重なり合い、大きな物語が生まれていく。

チョン・セラン「フィフティ・ピープル」は、50人の人々の物語が、ときにひとつの物語として、ときに何人もの人が関わり合う物語として構成される短編集だ。

50人の登場人物たちは、それぞれに個人の物語を有している。末期がんで死期が近い母親に結婚を急かされる娘。建設業界で働く自分の仕事に誇りを持ちながらも、同じ業界に進もうと考えている息子に反対する父親。手術の腕の確かな天才外科医の少女と、彼女を傍らで見守り続ける麻酔科医。なんとなく始めたポールダンスにすっかりハマった看護師。眼の前で娘を殺される母親。

50人の登場人物たちが抱える悩みや不安、喜びや感動、何気なく過ぎていく平穏な日々は、どこかしら読者である私たちにあてはまるところがある。50人の中に、誰かしら自分と似た人生を生きている人物がいる。共通点を有する登場人物をみつけるのも読書の楽しみになる。

50人の登場人物たちの物語は、ときおり互いに交錯する。誰かの物語に別の誰かが顔を出し、誰かの物語で別の誰かが重要な役割を果たしたりする。それはつまり、人は自分ひとりで生きているのではなく、何らかの形で必ず人と関わり合っていることを示している。本書は、そういう人間同士の交わりを描き出しているのである。

偶然に同じ時代、同じ場所、同じ時間を生きることになった人々が、互いを互いに特別に意識するわけでもなく、偶然によって交わりあい、互いの人生に影響を与えていく。その面白さ、不思議さを改めて実感できる。

読み始めてすぐに感じたのは、この物語はWeb小説に向いているな、ということだった。そして、Webのハイパーリンク機能を活用した実験的な小説が、過去にあったことを思い出した。井上夢人の「99人の最終電車」である。

www.shinchosha.co.jp

99人の最終電車とは

「99人の最終電車」がどのような小説かは、上記のURLから実際のWebサイトを読んでみてほしい。

「99人の最終電車」と「フィフティ・ピープル」が、仕組みや構成として完全に一致できるわけではないが、誰かの物語の中から別の誰の物語にリンクして、物語同士をつなげられるという意味では、同様の構造が成り立つように思える。

いずれの小説も、人と人が偶然と、ある意味では必然として同じ空間を生きて関わり合う物語である。人と人との関わりが面白い物語を生み出すというのは、世界に共通する物語の構造ということなのかもしれない。