タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

エイミー・ノヴェスキー文、イザベル・アルスノー絵/河野万里子訳「ルイーズ・ブルジョワ 糸とクモの彫刻家」(西村書店)- 六本木ヒルズにある大きなクモの彫刻を知っていますか?『ママン』と題されたクモの彫刻の作者ルイーズ・ブルジョワの生涯を描く絵本です。

地下鉄六本木駅を降りて、地下通路から長いエスカレーターをあがると六本木ヒルズを象徴する巨大な森タワーがそびえ立ちます。

その森タワーの正面玄関前にひときわ目をひくのは、巨大なクモのオブジェではないでしょうか。この印象的なクモのオブジェの作者が、本書「ルイーズ・ブルジョワ 糸とクモの彫刻家」に描かれるルイーズ・ブルジョワです。

1911年に生まれ、2010年に98歳で亡くなったルイーズの生涯は、おかあさんの影響を色濃く受けています。彼女のおかあさんは、タペストリーを織る仕事をしていました。羊毛の糸を紡いで美しい作品に仕上げていく。古くなった織物を修復して元のきれいな状態に戻してあげる。ときに、明るい陽の光の下で、ルイーズのおかあさんは織物を作っていました。

成長したルイーズは、少しずつあかあさんの仕事を手伝い、タペストリーを修復するときの下絵を描くようになります。

なにかを少しずつ描いていくのは
クモがすこしずつ巣を張っていくのに似ています。

ルイーズが、クモを作品のモチーフとするようになったのは、おかあさんと一緒に経験した織物の仕事とおかあさんに対する愛情があったからです。

ルイーズにとって、おかあさんは『親』であるとともにだいすきな『親友』でもありました。おかあさんとルイーズは深い愛で結ばれていたのだと思います。

ルイーズがパリに出て大学にかよっていたときに、おかあさんは亡くなってしまいます。そのことをきっかけに、彼女はそれまで勉強していた数学をやめて、美術を学び始めます。そして、大好きだったおかあさんをイメージして、巨大なクモの彫刻を作るようになります。彼女は、巨大なクモの彫刻に『ママン(おかあさん)』と名付けるのです。ルイーズにとって、クモはおかあさんを象徴するものだったのです。

もうずいぶんむかしですが、はじめて六本木ヒルズに行って、あの巨大なクモのオブジェをみたときは正直言って驚きました。もっと本音でいえば、「なんか気持ち悪いな」と思ったことも事実です。新しい文化の発祥地として作られた六本木ヒルズに『クモ』のオブジェは不似合いなように思いました。いまは、もう数え切れないくらい何回も目にしてきたので、オブジェの存在を意識することもなくなりましたが。

今回、『はじめての海外文学vol.4』の推薦作品として、訳者の河野万里子さんが本書をあげていたことから、本書を手にとってみました。そして、クモのオブジェ『ママン』の作者であるルイーズ・ブルジョワが、あの作品に込めた思いを知りました。

六本木ヒルズを訪れた多くの人は、はじめて『ママン』をみたときの私のように、「気持ち悪い」とか「ヒルズにクモは似合わないよね」と思ったかもしれません。これからはじめて訪れる人もそう感じる方が大半かもしれません。

だけど、ルイーズ・ブルジョワの思いを知ってから『ママン』をみたら、違う印象をもつでしょう。その造形も、細部に施されたデザインの意味も、そしてなぜ『クモ』なのかということも、すべてに意味があることなのです。

次に六本木ヒルズを訪れる機会があったら、もっとじっくりと『ママン』をみてきたいと思っています。

エヴァ・イボットソン/三瓶律子訳「リックとさまよえる幽霊たち」(偕成社)-住処をおわれた幽霊たちのために『幽霊のサンクチュアリ』を作ろう!面白くてためになる冒険物語。

 

 

ハンフリーは幽霊だ。〈おそろしのハンフリー〉と名乗っている。けど、全然おそろしくない。完全に名前負け
父ハーミッシュはスコットランドの幽霊。戦争で両足を切り落とされ、胸を剣で突かれて死んだ。スコットランドの民族衣装キルトの裾から足が見えないことから〈空飛ぶキルト〉と呼ばれている。母メイベルはハグというとても恐ろしい顔つきをしていて背中に大きな翼があって、そして悪臭を放つ幽霊だ。兄のアルフレッドは頭蓋骨だけの幽霊で、7、8人の人間がはらわたをひきずりだされたような恐ろしい声で絶叫するから〈絶叫の頭蓋骨〉。姉のウィニフレッドは、血まみれで、身体をあらうための小さな器をいつも追いかけているが永遠に追いつけず、そのもどかしさで嘆き悲しむことから〈なげきのウィニフレッド〉と呼ばれる。
ハンフリーの家族は平和に暮らしていた。しかし、その平和を人間たちが脅かす。家族がとりついているクラギーフォード城とその一帯を再開発する連中だ。暗くてジメジメした場所が好きな幽霊にとって、きらびやかで騒々しい場所は暮らすのに適さない。やむなく彼らは新しい住処をもとめて城をでる。そして、リックという人間の少年に出会う。
リックは、世界のあらゆる危機に心を痛めている少年だ。環境破壊によって住む場所を奪われていく動植物たち。いま、世界中からおおくの動植物が絶滅していこうとしている状況に、リックは心を痛めていた。
そんな心優しいリックのところに、文字通り突然現れたのがハンフリーとその家族たちだった。彼らの悲惨な状況を聞いたリックは、彼らのための『幽霊のサンクチュアリをつくろうと提案する。そして、友だちのバーバラと相談してロンドンに行って首相にお願いすることを思い立つ。
リックたちが『幽霊のサンクチュアリ』を目指して動き出したことは、すぐに他の幽霊たちの耳に入り、ロンドンへの道中もドンドン合流してくる。そして、彼らは首相との面会に成功し、たまたま同席していたブルヘイヴン卿のはからいでスコットランドのインスレイファーンに『幽霊のサンクチュアリ』となる場所を提供してもらえることになる。こうして幽霊たちは、平和で幸せに暮らせる『幽霊のサンクチュアリ』を手に入れることができたのだが...。

訳者あとがきによれば、本書はイギリスでもっとも読まれている児童文学作家エヴァ・イボットソンのデビュー作である。

人間をおどかすのが仕事のはずの幽霊たちが、人間の強引な開発によって住む場所を奪われ行き場をなくしていくという設定は面白い。幽霊たちを動物や植物に置き換えれば、いま現実として起きている環境破壊による動植物の絶滅問題を書いていると読める。

また、大人たちの醜さを描いているところもすごいと思った。善人面をしてリックたちに土地を提供したブルヘイヴン卿だが、その実態は極悪非道な人であり、インスレイファーンの土地を提供したのも幽霊たちへの同情や親切心ではない。彼の狙いは“異物”としての幽霊たちを一網打尽にして一気に退治してしまうことだったのだ。自分の強欲なポリシーにために冷酷に振る舞うブルヘイヴン卿の姿は、人間の醜さの結集のような存在ともいえる。そう考えると、ブルヘイヴンという名前も意味深く感じられる。

児童文学なのでとても読みやすいし、現実の社会問題を反映しているので勉強にもなる。子どもたちが読むことで、環境問題や動植物の絶滅問題について考えるきっかけになるだろう。

数々のピンチを乗り切って、リックと幽霊たちは本当の『幽霊のサンクチュアリ』を手に入れる。ラストには、ある意外な幽霊がサンクチュアリに現れ、ハンフリーたちは反発する。だが、リックは彼らをこう諭すのだ。

休息場所を必要としているすべての幽霊や、悪鬼や、亡霊や、さまよえる霊たちに、このサンクチュアリを開放してください。

生きているときに悪人であっても、死んで幽霊となったら全員平等でなければいけない。サンクチュアリとは、過去にとらわれずにすべての者たちへ開放されるべき場所なのだ。そんな場所が、生きているすべての生き物たちにも与えられればいいなと思う。

 

ナディア・ムラド、ジェナ・クラジェスキ/吉井智津訳「THE LAST GIRL イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語」(東洋館出版社)-暴力によって尊厳を奪われることのつらさ。イスラム国の残虐で非人道的な犯罪が正しく裁かれるために活動する女性の自伝。

2018年のノーベル平和賞は、「世界中の紛争下で置きている女性に対する性暴力」と闘うふたりの活動家に授与された。コンゴ民主共和国の医師ドニ・ムクウェゲ氏とイラクの少数派ヤズィディ教徒の活動家ナディア・ムラド氏である。

本書は、ナディア・ムラド氏が経験した過酷な事実を自ら綴ったノンフィクションだ。

ナディアは、イラク北部にあるコーチャという小さな村で育った。彼女たちは、ヤズィディ教徒というイスラム教の中でも少数派に属する。両親やたくさんの家族との暮らしは貧しいが平和でもあった。イスラム国によって蹂躙されるまでは。

イスラム国(本書では『ISIS』と記される)が、コーチャを襲ったのは2014年である。ISISの兵士たちは、男たちや老人たちを大量に殺戮し、ナディアのような若い女性は『サビーヤ』として連れ去られた。『サビーヤ』とは、性奴隷のこと。ナディアたちは、女性としてだけでなく人間としての権利を奪われ、ISISの兵士たちの慰みものとして扱われることとなったのだ。

彼女が経験したことは、本書に記されている以上に、筆舌に尽くしがたいことであったと思う。ここに記されていることだけでも、私には衝撃的で、言葉を失わせる内容だった。自分たちの勝手な理屈でイスラム教の教義を解釈し、少数派や異教の人たちへの非人道的な行いを正当化するイスラム国に激しい憤りを覚え、ナディアたちが受けたレイプ被害やヤズィディの人たちへの大量虐殺行為に怒りを覚えた。

本書は、三部構成となっている。第1部には、イスラム国によって蹂躙されるまでの、コーチャでの貧しく慎ましくも平和で幸せな生活が記される。その後に待ち受ける悲劇があるだけに、その幸せな家族の姿がつらい。

第2部には、イスラム国による虐殺行為、サビーヤとしてISISの男たちにレイプされる日々、そして監視のすきをついて逃亡を図るまでのことが記される。本書の中でももっとも読んでいてつらくなるところだ。ただ少数派でイスラム国の信じるイスラム教の教義に反するというだけの理由で、人間らしい扱いもされず、無慈悲に殺されていく人々。女性としての人権も尊厳もなく、性的な慰みものとして扱われ繰り返しレイプされる女性たち。

イスラム国の支配から脱出したナディアは、ISISによる支配に批判的なヒシャームの家族に救われる。ヒシャームとその息子たちは、ナディアをイスラム国から脱出させるために手を尽くし、彼女は拉致されてからおよそ3ヶ月後に自由を得る。

ナディアの闘いは、イスラム国から逃げ出すことで終わるわけではない。彼女は、自分と同じようにサビーヤとして拘束されているヤズィディ教徒の女性たちを救うために、自らの体験したことをすべて話すことで、この異常な状況を広く世界中に知らしめ、イスラム国の残虐さを知ってもらうために立ち上がる。そこからが、ナディアにとっての本当の闘いになったのだ。ヤズィディ教の戒律では、結婚前の女性がセックスをすることはタブーである。レイプによる強制的なセックスであったとしても、同じヤズィディ教徒からは偏見の目でみられるかもしれない。イスラム国から脱出した中には処女膜の再生手術を受けた女性もいたという。

ナディアは、自分が受けた悲惨な体験を話した。世界に向けて発信した。そこには、ただ「強さ」という言葉だけで語ってはいけないような決意がある。

ナディアが望むのは、自分をサビーヤとして弄んだISISの兵士たちへの復讐ではない。彼女が望むのは、イスラム国が行った犯罪に対する正当な裁きだ。イスラム国と真正面から対峙して、彼らが国際的な法の下で裁かれることなのだ。それが「私を最後にするために」ナディアが闘い続ける理由なのだ。

遠く日本に住む私たちは、イスラム国がこれほどの残虐で非人道的な犯罪を行ってきたことを知らない。女性が性奴隷として扱われていたことを知らない。今回、本書を読む機会をいただき、このようなことが起きていたことをはじめて知ることができた。ノーベル平和賞の受賞というきっかけはあったかもしれないが、こうして翻訳され、私たちに知る機会を与えてくれた翻訳者の吉井智津さんと本書を刊行した東洋館出版社に感謝したい。

とてもつらい読書ではあったが、この本を読めて、いろいろなことを知ることができたのは良かったと思っている。

ベッキー・アルバータリ/三辺律子訳「サイモンvs人類平等化計画」(岩波書店)-LGBTを扱っているからと構える必要はなし!メル友に恋い焦がれるサイモンの恋の行方を描いた激甘の青春ラブストーリーです。

「お前のメール、読んだよ」と、マーティンが声をかけてきた。そこから、サイモンの悩み多き日々が始まる。サイモンの秘密、それは自分がゲイであること。マーティンが目にしたサイモンのメールは、彼が偽名で同じゲイのメル友ブルー(こちらも偽名)とやりとりしていたものだった。マーティンは、サイモンの秘密を誰にも言わない代わりに、アビーとの仲をとりもつように要求してくる。

ベッキーアルバータリ「サイモンvs人類平等化計画」は、16歳の少年サイモン・スピアーが、友人のニック、リア、アビーの微妙な恋愛関係や両親、姉アリス、妹ノラとの楽しくも大げさな家族愛に揉まれて成長していく物語である。そこに、彼がゲイであること、それを家族や友人にいつどういう形でカミングアウトするかということ、秘密を握られたマーティンとの関係をどうするということ、などなど様々な悩みが重なっていく。

こう書くと、LGBT問題を扱った複雑な話かと思ってしまうが、実際にはどこにでもいる16歳の少年少女が繰り広げる青春ラブストーリーであり、それもかなり激甘な話なのである。

サイモンは、自分がゲイであると認識したときから、この秘密をいつどうやってカミングアウトしたらいいか悩んできた。そんなときに偶然タンブラーでみつけたのがブルーの告白だった。そして、サイモンは『ジャック』としてブルーとメル友になったのだ。

この物語には大きく2本の軸がある。サイモンがいつどうやってカミングアウトするかサイモンが恋い焦がれるメル友ブルーとは誰なのか

この2つの課題だけでも、サイモンにはハードルの高い悩みだ。そこに加えて、ニックとリアにアビーが絡んでできあがった微妙な三角関係に巻き込まれ、アビーに思いを寄せるマーティンから脅迫のような要求をされたりと厄介な状況が起きる。

ただ、そんな中でもサイモンは、当たり前の16歳の少年としての日々を過ごしている。高校生の日常なんてそんなものだ。学校に行って勉強して、クラブ活動に汗を流して、昼休みや放課後に友人たちと他愛のない遊びにふける。両親はちょっと口うるさくて、過保護で大げさなところがあるけど、それだって別にいやじゃない。そんな日常の中では、恋愛だってするし、自分の存在について悩んだりもする。

LGBTというテーマを描いているけれど、それも日常の中で自然にあることとして描かれているのだ。

サイモンは、本人の意図しない形でカミングアウトすることになる。でも、そのことで彼がイジメを受けたりすることはない。むしろ、周囲は彼に理解を示し、彼を守ってくれる。

そして、サイモンはブルーが誰かを知る。サイモンとブルーは、本当の恋人となる。

カミングアウトそしてブルーとの恋人関係が成立してからの描写は、いろいろなものから解放されたサイモンの気持ちが全力で表現されている。特にブルーとの恋愛については、デートの場面も、学校で隣りに並んで授業を受けている場面でも、どんな場面でもサイモンの幸福度MAX状態が描かれていて、読んでいて恥ずかしいほどにふたりのイチャイチャが半端ない(笑)。

海外文学だし、LGBTを扱っている作品は難しそうと思わずに、青春ラブコメライトノベル感覚で読んで楽しい作品です。

 

イアン・フレミング作、ジョン・バーニンガム絵/こだまともこ訳「チキチキバンバン〈3〉ギャングなんかこわくない」(あすなろ書房)-ギャング一味がせまりくる!ポットさん一家とチキチキバンバンの運命やいかに!?

「チキチキバンバン〈1〉チキチキバンバンはまほうの車」「チキチキバンバン〈2〉海辺の大ぼうけん」と続いたポットさん一家とチキチキバンバンの物語もいよいよクライマックス!前巻で悪名高いギャング『怪物ジョー』の一味から恨みを買い、狙われることになってしまったポットさん一家とチキチキバンバンの運命はいかに!?

 

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ということで第3巻です。前巻のラストで、ギャングたちの目をごまかし、カレーのホテルにたどりついたポットさん一家。その夜は美味しいディナーにふかふかのベッドでゆっくり休むことにしました。

しかし、ギャングたちはポットさんたちが泊まっているホテルをつきとめて、夜中にジェマイマとジェイミーを誘拐してしまいます。

でも、ここでまたまたチキチキバンバンのまほうです。気配を察知した彼女は、ひみつのレーダーをつかってギャングたちの隠れ家を突き止めます。

ギャングたちが子どもたちを誘拐したのは、世界一有名なチョコレート屋『ル・ボンボン』の金庫から大金を盗む手伝いをさせるためでした。ジェマイマとジェイミーは、どうにかその計画をじゃましてやろうと知恵をめぐらせます。

さて、朝になって子どもたちが誘拐されたことに気づいたポットさんは、チキチキバンバンがまほうのレーダーで突き止めていた隠れ家に向かい猛スピードで走り出します。

そのころギャングたちは、『ル・ボンボン』に向かっていました。いよいよ計画の実行です。ところがそれは、ジェマイマとジェイミーの機転によって未然に防がれます。あわてて逃げ出したところへかけつけたのがチキチキバンバン。ドーンと体当たりでギャングたちをやっつけ、彼らは捕まったのです。

『ル・ボンボン』の店主ムッシュー・ボンボンは、ポットさん一家に大感謝です。どのくらいの感謝かといえば、秘伝のお菓子の作り方まで教えてくれるほど。それってすごいことです。

こうして、ポットさん一家とチキチキバンバンの大ぼうけんは幕を下ろします。とっても痛快な物語でした。

本作の著者イアン・フレミングは、第1巻で紹介したように『007シリーズ』を書いた作家です。本作は、彼が自分の息子キャスパーのために書いたフレミングの作品の中で唯一の児童文学です。

児童文学と言いつつもその内容は、ジェームズ・ボンドを生み出したスパイ冒険小説の第一人者らしい、なんともマニアックなギミックで溢れています。なにより、本作の主人公ともいえるチキチキバンバンが次々とくりだすギミックは、まさにまほうです。変形して空を飛べるようになったり、ホバークラフトになって海の上をスイスイ進んだり、車としてもビューンと猛スピードで走れる。007シリーズには『ボンドカー』とよばれる改造車が次々と登場しますが、フレミング自身がそういうメカニカルなものが好きだったんでしょうね。

007シリーズのイメージしかなかったイアン・フレミングですが、たった一作とはいえ、チキチキバンバンという冒険ファンタジー小説を遺し、それが映画化され、今でもこうして読まれ続けている。とてもステキなことですね。

 

デイヴィッド・レヴィサン著/三辺律子訳「エヴリデイ」(小峰書店)-男の子?女の子?白人?黒人?背は高い?低い?太ってる?痩せてる?...それってなんの意味があるの?

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

  • 作者:デイヴィッド レヴィサン
  • 出版社:小峰書店
  • 発売日: 2018-09-10

目が覚めた。
すぐに自分がだれか、突き止めなきゃならない。まずは、からだだ。目を開けて、腕を見て、肌の色が薄いか濃いか、髪が長いか短いか、太っているかやせているか、男か女か、傷があるかすべすべか、たしかめる。からだに慣れるのはかんたんだ。毎朝、ちがうからだの中で目が覚めるのに慣れていれば。でも、からだだけじゃない。その人の生活、つまり「背景」も知らなきゃならない。むずかしいのは、こっちだ。
毎日、ちがう人物になる。でも、自分のままでもある--自分が自分のままってことはわかってる--けど、同時に他人でもある。
物心ついたときから、ずっとそうだった。

デイヴィッド・レヴィサン「エヴリデイ」は、ちょっと変わった設定の物語だ。それは、長めに引用した冒頭部分に書かれている。

本書の主人公は、毎日誰かの身体の中で目覚める。生まれたときからずっと。主人公自身には、意識としての存在はあっても身体という実体はない。いつも、誰かの身体を1日だけ借りて生きている。決まっているのは、宿主となるのは主人公と同じ年齢であること。いま、主人公は16歳なので、宿主となるのは同じ16歳の少年少女だ。

その日、主人公はジャスティンという少年の身体で目覚めた。そして、ひとりの少女リアノンと出会う。リアノンは、ジャスティンを一途に恋してる。でも、ジャスティンはリアノンを恋人としては見ていない。真剣に彼女と付き合っているわけではない。リアノンの想いを知っていて弄んでいるような男だ。

主人公は、リアノンに恋してしまう。それは、これまで主人公が避けてきたこと。誰かの人生を変えることはできないから。でも、主人公はタブーを犯してリアノンに接する。ただし、ジャスティンとして。

主人公は、違う身体で目覚めてもリアノンになんとかして接触しようとする。宿主の1日を借りてリアノンのところへ向かう。もちろん、リアノンには相手はいつも別の人だ。そして、主人公の行動が大きな騒動を招くことになる。

さて、ここまでずっと本書の主人公を『主人公』と書いてきた。というのも、主人公は男でもあり女でもあるからだ。

自分の秘密をリアノンに話して以降、主人公は自分を『A』と呼ぶ。このレビューでもここからはAとしよう。

Aにとって性別にはなんの意味もない。自分が男か女かは、入れ物の形の問題でしかなくて、コーラ(A)がペットボトル(男)に入っているか缶(女)に入っているかの違うでしかない。

だけど、それはリアノンにはなかなか理解できない。いま自分の目の前にいるAは、男の子の姿をしたAであり、明日には女の子の姿をしたAと会うかもしれない。どちらも同じAだと、頭では理解しようとしても気持ちでは理解ができない。

「Aは本当に男でも女でもないの?」とリアノンは訊ねる。

リアノンがこのことにこだわりつづけるのが、面白く思えた。
「自分は自分だからね。いつだってしっくりくるって言えばくるし、こないって言えばこない。そんなもんだよ」

読者である私も含め誰もがリアノンと同じ側にいる。視覚や聴覚から入ってくる情報が相手を見極めるものであって、その内面に何が存在しているのかは考えもつかない。だけど、Aが言うように『自分は自分』なのであり、逆に『相手には相手』の人生や人格がある。肌の色が黒いとか白いとか、背が高いとか低いとか、異性愛者とか同性愛者とか、男とか女とか、そういうことだけで相手をみて判断するものではないのだ。

本書でも、Aは多様な人間の身体を借りる。平凡な人間もいるし、同性愛者もいる。真面目な人もいれば、自分を着飾ることに執着する人もいる。明るい人もいれば、病んでいる人もいる。

環境の違い、教育の違い、考え方の違い、人はそれぞれに同じようでいて全然違う。この本は、そういう当たり前のことをあらためて教えてくれる。

イアン・フレミング作、ジョン・バーニンガム絵/こだまともこ訳「チキチキバンバン〈2〉海辺の大ぼうけん」(あすなろ書房)-ポットさん一家危うし!チキチキバンバンのまほうでピンチを切り抜けろ!

※説明の都合上『チキチキバンバン〈1〉チキチキバンバンはまほうの車』のネタバレしてます。未読の方はご注意ください。

 

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チキチキバンバンのまほうで、大渋滞の上をブーンと飛んで(そう、チキチキバンバンは空を飛べるのです!)海のまんなかの大きな砂州にやってきたポットさん一家。みんなで思いっきりあそんでねむってしまったポットさんたちにピンチがせまっていました。さて、ポットさん一家とチキチキバンバンの運命やいかに?

というところまでは前巻のお話。第2巻となる本書では、ポットさん一家がまたしてもチキチキバンバンのまほうでピンチを脱します。

大きな砂州で眠り込んでしまったポットさん一家とチキチキバンバン。その間に海の潮が満ちてきて、ポットさんたちはあわや海に沈んでしまうところでした。

そのことに最初に気づいたのはチキチキバンバンです。彼女(覚えてますか?チキチキバンバンは女性なのですよ)は、ポットさんたちに危険を知らせます。そして、またしてもまほうの力でみんなのピンチを救うのです。

ピンチを脱したポットさん一家、そのまま家に買えるのかと思いきや、なんとフランスへ向かいます。このままフランス旅行も楽しんでしまおうというのです。そして、フランスの海岸に上陸します。そしてそして、そこでなんとも大きな発見をしてしまうのです。でも、その発見をきっかけに、ポットさん一家とチキチキバンバンは、今度はこわいギャングたちに目をつけられてしまうのです。

チキチキバンバンの物語を読んでいると、さすがはジェームズ・ボンドを生み出したイアン・フレミングの作品だと思うところがたくさんあります。

まずはなにより、この物語の主役といってよい、まほうの車チキチキバンバンの存在です。チキチキバンバンが次々と繰り出すまほうのギミックは、ジェームズ・ボンドが乗りこなす“ボンドカー”を思い起こさせます。次々と登場するチキチキバンバンのまほう。次はどんなまほうを見せてくれるんだろう。読んでいて、ワクワクしてしまいますね。

さて、こわいギャングたちに目をつけられてしまったポットさん一家とチキチキバンバン。彼らはこのピンチを脱することができるのでしょうか?

それは、次の巻のお楽しみ。