目が覚めた。
すぐに自分がだれか、突き止めなきゃならない。まずは、からだだ。目を開けて、腕を見て、肌の色が薄いか濃いか、髪が長いか短いか、太っているかやせているか、男か女か、傷があるかすべすべか、たしかめる。からだに慣れるのはかんたんだ。毎朝、ちがうからだの中で目が覚めるのに慣れていれば。でも、からだだけじゃない。その人の生活、つまり「背景」も知らなきゃならない。むずかしいのは、こっちだ。
毎日、ちがう人物になる。でも、自分のままでもある--自分が自分のままってことはわかってる--けど、同時に他人でもある。
物心ついたときから、ずっとそうだった。
デイヴィッド・レヴィサン「エヴリデイ」は、ちょっと変わった設定の物語だ。それは、長めに引用した冒頭部分に書かれている。
本書の主人公は、毎日誰かの身体の中で目覚める。生まれたときからずっと。主人公自身には、意識としての存在はあっても身体という実体はない。いつも、誰かの身体を1日だけ借りて生きている。決まっているのは、宿主となるのは主人公と同じ年齢であること。いま、主人公は16歳なので、宿主となるのは同じ16歳の少年少女だ。
その日、主人公はジャスティンという少年の身体で目覚めた。そして、ひとりの少女リアノンと出会う。リアノンは、ジャスティンを一途に恋してる。でも、ジャスティンはリアノンを恋人としては見ていない。真剣に彼女と付き合っているわけではない。リアノンの想いを知っていて弄んでいるような男だ。
主人公は、リアノンに恋してしまう。それは、これまで主人公が避けてきたこと。誰かの人生を変えることはできないから。でも、主人公はタブーを犯してリアノンに接する。ただし、ジャスティンとして。
主人公は、違う身体で目覚めてもリアノンになんとかして接触しようとする。宿主の1日を借りてリアノンのところへ向かう。もちろん、リアノンには相手はいつも別の人だ。そして、主人公の行動が大きな騒動を招くことになる。
さて、ここまでずっと本書の主人公を『主人公』と書いてきた。というのも、主人公は男でもあり女でもあるからだ。
自分の秘密をリアノンに話して以降、主人公は自分を『A』と呼ぶ。このレビューでもここからはAとしよう。
Aにとって性別にはなんの意味もない。自分が男か女かは、入れ物の形の問題でしかなくて、コーラ(A)がペットボトル(男)に入っているか缶(女)に入っているかの違うでしかない。
だけど、それはリアノンにはなかなか理解できない。いま自分の目の前にいるAは、男の子の姿をしたAであり、明日には女の子の姿をしたAと会うかもしれない。どちらも同じAだと、頭では理解しようとしても気持ちでは理解ができない。
「Aは本当に男でも女でもないの?」とリアノンは訊ねる。
リアノンがこのことにこだわりつづけるのが、面白く思えた。
「自分は自分だからね。いつだってしっくりくるって言えばくるし、こないって言えばこない。そんなもんだよ」
読者である私も含め誰もがリアノンと同じ側にいる。視覚や聴覚から入ってくる情報が相手を見極めるものであって、その内面に何が存在しているのかは考えもつかない。だけど、Aが言うように『自分は自分』なのであり、逆に『相手には相手』の人生や人格がある。肌の色が黒いとか白いとか、背が高いとか低いとか、異性愛者とか同性愛者とか、男とか女とか、そういうことだけで相手をみて判断するものではないのだ。
本書でも、Aは多様な人間の身体を借りる。平凡な人間もいるし、同性愛者もいる。真面目な人もいれば、自分を着飾ることに執着する人もいる。明るい人もいれば、病んでいる人もいる。
環境の違い、教育の違い、考え方の違い、人はそれぞれに同じようでいて全然違う。この本は、そういう当たり前のことをあらためて教えてくれる。