タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

大前粟生「回転草」(書肆侃侃房)-読者の想像力vs.作家の創造力

文学ムック「たべるのがおそいvol.2」で、本書の表題作にもなっている「回転草」を読んだときの衝撃が忘れられない。そのとき書いた「たべるのがおそいvol.2」のレビューでは、全体の半分以上を『大前粟生という作家に出会った喜び』を語ることに費やしている。

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その後、「GRANTA JAPAN」に掲載されていた「彼女をバスタブにいれて燃やす」(本書にも収録)を読み、その魅力にさらに取り憑かれた。さらに、「たべるのがおそい」編集長である西崎憲氏が立ち上げたインディーズの電子書籍レーベル『惑星と口笛ブックス』から刊行された「のけものどもの」も入手し(ただし未読。大前さんスイマセン)、個人的に今一番注目している日本人若手作家ベスト3のひとりとなっている。ちなみに他のふたりは、「文字の消息」他で魅了された澤西祐典氏であり、「落としもの」で魅了された横田創氏である。

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その個人的注目作家の大前粟生氏の短編集が本書「回転草」である。収録作品は以下の通り。

回転草
破壊神
生き物アレルギー
文鳥
わたしたちがチャンピオンだったころ

ヴァンパイアとして私たちによく知られているミカだが
彼女をバスタブにいれて燃やす
海に流れる雪の音
よりよい生活

このうち、「破壊神」、「夜」、「よりよい生活」は書き下ろしである。

表題作「回転草」については、「たべるのがおそいvol.2」のレビューで書いたので、本レビューではその他の作品で個人的にお気に入りの作品を紹介したい。「彼女をバスタブにいれて燃やす」だ。

物語は、語り部である私が彼女の死体をバラバラに解体している場面ではじまる。「猟奇殺人ミステリなの?」と早合点してはいけない。作者は大前粟生なのだ。

読み進めていくとすぐにあることに気づく。彼女を描写するワードが、人間を描写するワードではないのだ。彼女(ミカ)は、少しずつ人間からある動物へと姿を変えている。身体に変わった毛がはえ、つなげると星座みたいにみえる模様ができはじめる。身体は次第に変形し、やがて顔だけがミカのまま動物と化す。ミカはやがて人間としての理性も失い、私はミカを殺す。そして、彼女をバスタブにいれて燃やす。

ラストで、私が新しい恋人サキからかけられる一言にゾクリとする。

本書に収録されている短編は、それぞれに独立した短編であり連作ではない。だが、読んでいるとそれぞれが微妙につながっていることに気づく。紹介した「彼女をバスタブにいれて燃やす」の彼女の名前はミカであり、同じ名前の人物が「ヴァンパイアとして私たちによく知られているミカだが」にも登場する。もちろん、両者は別人であり、つながりはない。表題作「回転草」の主人公は回転草であり、「破壊神」では登場人物たちが暮らす世界に膨大な数の回転草がいる。登場人物のひとりレイナが大好きなボーカル&ダンスユニット〈ファントムズ〉のメンバーも回転草だ。

「回転草」や「彼女をバスタブにいれて燃やす」を「たべおそ」や「GRANTA」で単発で読んだときには気づかなかったが、こうしていくつかの作品をまとめて読むと、大前粟生氏の小説世界が見えてくる。ときに不条理であり、ときに創造的で想像的な世界観。常に読者を欺く騙りの世界がそこにある。

ところで、本書には刊行記念として特典ペーパーはついてくる。エッセイのような短い創作物にも回転草が登場する。こういう、どこまでの読者に騙りつくそうとする著者の創造力が大好きだ。

 

文学ムック たべるのがおそい vol.2

文学ムック たべるのがおそい vol.2

 
のけものどもの: 大前粟生短篇集 (惑星と口笛ブックス)

のけものどもの: 大前粟生短篇集 (惑星と口笛ブックス)

 
GRANTA JAPAN with 早稲田文学 03

GRANTA JAPAN with 早稲田文学 03

 
文字の消息

文字の消息

 
落としもの

落としもの

 

 

キム・エラン他/矢島暁子訳「目の眩んだ者たちの国家」(新泉社)-2014年4月16日のセウォル号沈没事故があぶり出した韓国の深い闇

2014年4月16日韓国。300人以上の修学旅行生(高校生)と一般客100名以上、乗員乗客合わせて476人を乗せて仁川港から済州島に向けて航行中だった大型旅客船セウォル号が沈没した。およそ300人の犠牲者のほとんどは、高校生だった。

本書「目の眩んだ者たちの国家」は、セウォル号事故とその後の韓国政府・行政機関の最悪の事故対応が招いた韓国史上最悪の出来事に絶望し憤った作家、詩人、評論家、学者たちが、その思いのすべてをぶつけ書き記した鎮魂と批判と絶望の記録だ。

セウォル号事故は、単なる海難事故というレベルではなく、韓国の政治行政の問題を露呈した事件であった。本書のタイトルにもなっている作家パク・ミンギュの寄稿「目の眩んだ者たちの国家」には、こう書かれている。

さてもう一度、セウォル号は事故だ、という命題に戻ってみよう。あまりに事故、事故と言うので、そう言ってみただけだが……。そうだ、そろそろ重なった二枚のフィルムを剥がすときが来た。セウォル号は、初めから事故と事件という二つのフレームが重なった惨事なのだ。つまり、セウォル号は、

船が沈没した「事故」であり
国家が国民を救助しなかった「事件」なのだ。

 

パク・ミンギュは、「目の眩んだ者たちの国家」の中で、セウォル号の惨事を「事故」として矮小化したい人たちがことさらに「事故、事故」と繰り返し、いくつもの嘘を重ねていくことに憤る。彼らが既得権にしがみつき見苦しく嘘を吐く姿と、沈みゆくセウォル号の船内で「僕の救命胴衣を着なよ」と数少ない希望を分け合いながら死んでいった子どもたちとの違いに憤る。

詩人のキム・ヘンスクが寄稿した「質問」には、「皆で一緒に悲しもう。しかし皆で一緒に愚者になることはない」という9.11に対するスーザン・ソンタグのメッセージを引き、セウォル号ではそこに「申し訳ない」と「恥ずかしい」の言葉を加えるべきだと記す。

「申し訳なさ」と「恥ずかしさ」が、この惨事の中で私たちの節度をかろうじて保たせている感情なのだと思います。悲しみの共同体の中で、人間の魂がかろうじて息をしているのです。

本書を読んでいる2018年7月の最中、西日本では記録的な豪雨による大災害が起きた。死者は200人以上となり、多くの被災者が住む場所を失った。その未曾有の大災害が起きているときに、国民の命を預かり守る責任を負ったこの国の為政者たちがとった行動に、私たちは驚き、呆れ、絶望した。彼らが行っていたことは、キム・ヘンスクの言葉を借りれば、まさに犠牲となった人々に「申し訳なく」「恥ずかしい」行為である。そして、彼らを選んだ私たちも「申し訳なく」「恥ずかしく」思わなければいけないことだ。

本書に書かれているのは、2014年4月のセウォル号事件を受けて適切な対応を怠り、それをごまかすために嘘を塗り重ねた韓国政府への絶望と批判である。しかし、ここに書かれていることのほとんどは、この国にも当てはまることだと思う。少なくとも私は、本書を読んでいて、まるで今この国で起きていることへの批判であり絶望なのではないかと感じた。

ファン・ジョンウン/斎藤真理子訳「野蛮なアリスさん」(河出書房新社)-女装ホームレスとして街角に立つアリシア。その背後に横たわる韓国社会の暗部

私の名前はアリシア。女装ホームレスとして、四つ角に立っている。

この一文からはじまる物語は、アリシアとその家族を中心に韓国という国の闇の部分を描いている。

何も予備知識をもたずに本書を読んでいくと、おそらく読者は困惑するだろう。書かれている状況の意味がまったくわからないかもしれない。

アリシアには、父と母そして弟がいる。他に、父の前妻の息子と娘、つまりアリシアにとって腹違いの兄と姉がいる。アリシア一家は、コモリという地区に暮らしている。そこは再開発地区として、土地買収が進められており、家の大きさや住んでいる家族の人数に応じて立ち退き料が支払われる。そのため住民たちは、立ち退き料をできるだけ高くもらおうと安普請のバラックのような家を建て、住んでもいない家族を住んでいるように見せかける努力を惜しまない。アリシアの父も同じだ。見せかけだけの家を建て、もう独立している兄や姉も一緒に住んでいることにして、少しでも高い立ち退き料を得ようとしている。

アリシア一家をはじめコモリの住人たちは、みな貧しい。韓国は圧倒的な格差社会であり、富める者と貧しき者との間には絶望的な壁が存在している。貧しき者たちは、再開発に伴う土地の立ち退きなどの機会に乗じて、できるだけ多額の金を得ることでしか這い上がれるチャンスはない。いや、それさえも絶対ではないのだ。

アリシアは、貧しい生活の中で、他人を羨望し嫉妬して口汚く罵ることしかできない母や、少しでも多くの立ち退き料をせしめることに日々を費やすばかりの父を嫌悪し蔑む。その怒りは内なる自分へ、そして世間へと向いていく。本書には、罵倒語として『クサレオメコ』という言葉が頻出する。アリシアの母が他人を陰で口汚く罵る言葉として、アリシアが自らの怒りを発露する言葉として、無垢な弟がふざけ半分で口にする言葉として。『クサレオメコ』という言葉に込められた悪意と絶望感こそが、本書全体としてのテーマなのだと思う。

本書を読む前に、チョ・セヒ「こびとが打ち上げた小さなボール」を読んだ。「こびと」と「アリスさん」に描かれる物語の背景となるものは共通している。韓国の格差の実態であり、貧しき者たちの絶望感だ。「こびと」が出版されたのが1978年であり、「アリスさん」の出版が2013年である。両作品の間には、35年の時の流れがある。それだけの長い年月を経ても、同じ主題で物語が生まれる。そこに、韓国社会が抱える闇が厳然と存在し続けているのだということに驚かされる。

 

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石橋毅史「本屋な日々 青春篇」(トランスビュー)-本屋がこんなに頑張っているんだから、私たち読者も本屋をもっと応援しようじゃないか!

私が中学生、高校生の頃は、学校の通学路の途中に必ず本屋があった。こじんまりした規模で、雑誌、単行本、文庫本、マンガ、それと学生が利用するからか参考書や問題集が充実していたように思う。

子どもの頃から本が大好きだったから、学校の帰りには本屋に立ち寄るのがほぼ習慣になっていた。もちろん、少ない小遣いの学生だから、立ち寄るたびに本を買うなどというわけにはいかない。それでも、店頭に並んだ本を飽きずに眺め、マンガや雑誌を立ち読みし(当時のマンガ本はビニールでパッケージされてなかった)、友人たちと読んだ本の話で盛り上がったりした。本を買ってくれるわけでもなく、店内でギャアギャアとうるさく騒がしいバカたちを店主はきっと迷惑に思っていたかもしれない。だけど、ときに度が過ぎたときに怒られたりしたけれど、おおむね優しく見守ってもらえていたように思う。勝手な考えかもしれないけれど。

とにかく、本屋にいる時間は楽しかった。でも、そんな思い出のある楽しかった本屋は、今一軒も残っていない。今、私の地元には、私の家の最寄り駅前にあるスーパーにテナントで入っている売り場の半分以上が文房具売場の小さな本屋しかない。先日ひさしぶりに隣り駅に行ったら、そこにあった少し大きめの本屋さんも閉店して空き店舗になっていた。ある程度の大きさの本屋さんは、私の家の近くにはなくなってしまった。

本書「本屋な日々青春篇」には、様々な本屋、様々な書店員が登場する。著者は、全国にある本屋を訪ね、彼らと話をし、本屋のあり方や書店員のあり方について対話する。それはときに一方的な押しつけのようでもあり、書店員としての矜持を引き出す対話でもある。

本屋が加速度的に減少していく一方で、本屋を守り抜こうとしている書店員や新たに本屋を開こうという人もいる。甘い考えかもしれないが、そういう矜持をもった人たちがいる限り本屋という場所が消えてしまうことはないのだろうと思える。

ただ、彼らの奮闘だけでは本屋を存続させることは難しい。本屋は、客が商品である本を買ってくれることで経営が成り立つ。個性的で特徴的な本屋であっても、来てくれた客が商品を買ってくれなければ生活はできないのだ。

そういう意味で、最近注目しているサービスがある。『リトルスタッフ』というサービスだ。

www.littlestaff.jp

単純に言えば「好きな本屋を応援するサービス」である。このサービスをコンセプトについては、開発者ブログのこちらの記事に詳しい。

little-staff.hatenablog.com

まだ立ち上がったばかりで不安な面もあるサービスではあるが、本屋を全力で応援するという考えには賛同するところが多い。本屋=本を買う場所、と考えると本屋による本の紹介(選書)に対して課金することには抵抗を感じるという意見もあるだろう。そういう意見も受けながら、リトルスタッフの開発者も、また参加している本屋もより良いサービスとはなにかを試行錯誤し、知恵を出し合っている。そこには、私たち利用者の意見も必要になってくると思う。本屋、利用者、開発者がそれぞれに考えるべき課題なのだと思う。

本書を読んでいると、今の本屋が置かれている状況は確かに厳しいと感じる。読書が娯楽の王道にいた時代とは全然違う中で本屋を続けることは本当に難しいと思う。

それでも、こうして本屋を続けている人たちが全国にいる。彼らを全力で応援することが、私のような読者の役割なんじゃないかと改めて思った。そのために、本屋に足を運ぶこと、リトルスタッフのようなサービスで本屋を応援すること、そして何より本屋で本を買うことを続けていきたい。

 

チョ・セヒ/斎藤真理子訳「こびとが打ち上げた小さなボール」(河出書房新社)-韓国で長く読まれ続けているベストセラー。貧しき労働者の悲痛な叫びが重く胸に刺さる。

1978年に刊行され、現在に至るまで長くベストセラー、ロングセラーとして読みつがれてきた作品。総販売部数は2016年までで130万部を越えているという。

「こびとが打ち上げた小さなボール」は、韓国の暗部を描き出し、虐げられた労働者たちの闘いがひとつのテーマとして描かれている。そこには、“こびと”と呼ばれ蔑まれた父と、母、そして3人の子供たちが苦しめられてきた貧困と差別があり、生まれながらに貧しき者は生涯その貧しさから抜け出すことができないという格差社会の問題が根底にある。

物語は連作短編の形で記される。冒頭に描かれるのは、せむしといざりの物語だ。再開発地区に暮らし、立ち退きに伴う入居権の不当な買い叩きにあったせむしといざりが、不動産業者に復讐を図る暴力的な短編からすべての物語ははじまる。そこから、貧しく虐げられた者の慟哭の物語がはじまる。

こびとは、様々な職を転々としてギリギリの生活を続けながら妻と子供を養う。子供たちは、父のこびとを蔑みバカにしてきた奴らに深い怒りと恨みを抱き、どれだけ頑張っても貧困から抜け出すことができない社会と搾取する資本家への怒りを抱えている。こびとは自ら命を絶ち、3人の子供は工場労働者として搾取されるしか生きる術がない。

搾取される労働者たる彼らの唯一の希望が、労働組合活動だ。長男のヨンスは、労働者の権利について学び、組合での活動に傾倒していく。経営陣に対して労働者の権利を主張し、賃金交渉、不当解雇の撤回などを求めていく。しかし、彼らの活動、要求は容易には受け入れられることはなく弾圧されることになる。

本書が記された1970年台の韓国は、まさにこのような格差社会の中で労働者が虐げられる時代だった。労働者の権利など存在せず、彼らに手を差し伸べるものもない。彼らの権利を主張するものは、徹底的に弾圧された。本書は、厳しい検閲で発禁処分となることを免れるために複数の媒体で、連作小説として書かれたと訳者あとがきにある。それほどに、政府は労働者の権利を蔑ろにし、資本家を優遇したということなのだろう。

本書のラストもまったく幸福な終わり方ではない。何かしら救いを求めて読み続けてきた読者を突き放すように、物語は幕を下ろす。それこそが、本書が書かれた当時の韓国の社会事情を如実に表しているのではないか。そして、今に至るまで長く読み続けられている理由も、現在の韓国社会の構造が当時と大きく変わっていないということを表しているのではないか。そう感じる。

マヤ・ルンデ/池田真紀子訳「蜜蜂」−ウィリアム、ジョージ、タオ。異なる時代に生きる3人をつなぐ『蜜蜂』と『家族』

今年(2018年)は、関東地方で6月中に梅雨明けしたかと思うと、西日本や北海道では記録的な大雨になるなど異常気象が続いている。きっと今年も猛暑の夏が来るのだろうと、暑いのが苦手な私としてはすでにげんなりしているところだ。

地球温暖化の話は、ずいぶん前から繰り返し聞かされていることで、かといって何らか解決策が見いだせるわけでもなく、こうして毎年毎年、猛暑だゲリラ豪雨だ大雪だとわれわれは自然に翻弄されている。

マヤ・ルンデ「蜜蜂」は、蜜蜂という昆虫の存在する“意味”を通じて、人間が自然をコントロールすること、できると考えることの愚かさを描き出す。

物語は、2098年の中国・四川省で農作物の受粉作業に従事するタオ、1851年のイングランドハートフォードシャー・メアリーヴィルで蜜蜂の巣箱の開発に取り組むウィリアム、2007年のアメリカ・オハイオ州・オータムヒルで養蜂業を営むジョージの3人のストーリーによって構成されている。過去・現在・未来のそれぞれの時代をつなぐのは、蜜蜂の存在だ。

ウィリアムの時代は、これからの養蜂業の未来に向けて伸びていく時代であり、ジョージの時代は、蜜蜂の生態に何らかの異変が生じ絶滅への道を歩き始めた時代、そしてタオが生きる未来の世界は蜜蜂はすでに絶滅し、農作物の正常な生育のためには人間が自分の手で受粉をさせなければならなくなっている。蜜蜂という小さな昆虫が、いかにわれわれの生活に重要な役割をもった存在であるかを気づかせてくれる。

物語の半分より先、3分の2くらいまでは正直読んでいてあまりおもしろく感じない。私は、本書を発売前のゲラをネットで読めるNetGellaryにリクエストして入手したので途中で投げ出すことはなかったが、購入したり図書館で借りたりした本だったら、途中で投げ出したかもしれない。

ただ、後半になり、タオの息子ウェイウェンを巡るサスペンス的な展開やウィリアム、ジョージ、そしてタオの時代をつなぐものの存在が明らかになってくると、物語は一気に疾走感を増す。終盤の展開は面白かった。

本書には、蜜蜂の他にもうひとつ大きなテーマがある。それは家族だ。ウィリアムもジョージもタオも、家族、特に息子の存在がそれぞれの人生においてキーポイントになっている。家族というテーマの方がむしろ本書ではメインテーマと読めるかもしれない。蜜蜂と家族という2つのテーマが終盤になってひとつに集約され、ウィリアム、ジョージ、タオの人生が1本の糸でつなぎあわさったとき、この物語の本質が見えてくる。そして、3人それぞれの家族の物語もそれぞれにあるべき場所に落ち着いていく。

著者はヤングアダルト作品を手がけてきて、本書がはじめての大人向け作品とのことだが、はじめての作品でこれだけの重いテーマを描こうとチャレンジし、高く評価されるものを生み出した。万人受けするタイプの作品ではないかもしれないし、前半の展開で読みにくいと感じてしまうかもしれないので、「面白いから絶対読んで!」と推薦できるほどではないが、「読んで損はないよ」といえる作品だと思う。

パク・ミンギュ/吉原育子訳(亡き王女のためのパヴァーヌ」(クオン)-静かにせつなく奏でられる恋の物語。「カステラ」や「ピンポン」とは違うパク・ミンギュのラブストーリー。

雪に降られて、彼女は立っていた。

パク・ミンギュ「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、この一文からはじまるラブストーリーだ。

主人公の僕は、二十歳の誕生日に彼女と『サントリーニ』で会う。互いに愛し合う二人には、どこかぎこちなさがあり、どこかせつない。その感覚はどこから来るのか。それは、物語の中で少しずつわかってくる。

彼女から渡されたプレゼントのレコード。モーリス・ラヴェルの曲集にフランス語で記されていた『亡き王女のためのパヴァーヌ』の文字。店の壁に飾られていた名画の切り抜きの中にあったベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』と、『亡き王女のためのパヴァーヌ』とのつながり。それは、僕と彼女の出会いから今に至り、そして未来に向かう物語のすべてを暗示するように、この物語に登場した。

パク・ミンギュという作家を「カステラ」や「ピンポン」で知った読者には、この「亡き王女のためのパヴァーヌ」は異色の作品と見えるに違いない。本書に描かれるラブストーリーは、奇抜な設定や不思議な味わいが強く印象に残る他の作品たちと比べると、ストレートでありピュアだ。「カステラ」や「ピンポン」のような作品が好きな人には、らしくないと感じる作品かもしれない。

それでも、「亡き王女のためのパヴァーヌ」にはパク・ミンギュが一貫して持ち続けている世界観が、他の作品と同様に屋台骨として存在していると感じる。それは、弱者の視点だ。「ピンポン」の釘とモアイがそうだったように、「三美スーパースターズ」の僕とソンフンがそうだったように。弱き者に向けられる視点、弱き者から向けられる視点が、この物語の根底にもある。

本書の登場人物たち、僕も彼女もヨハンも、そして彼らが出会った百貨店駐車場の主任も、彼らはみな底辺に位置する人たちだ。立場や生き様はそれぞれに違うけれど、彼らのひとりひとりは少なからずコンプレックスを抱えている。他人との関わりに消極的である。だからこそ、彼らは自然とつながり、自然と恋に落ち、友情を育む。違うようでどこか似ている同士だから、上辺だけではなく強くつながりあう。

この視点であり関係性が、パク・ミンギュの描き出す物語には共通していると感じる。

物語の中で、僕の前から姿を消した彼女から送られてきた長い手紙が胸を打つ。そこには、弱者である彼女の偽らざる気持ちと僕への想いがこめられている。

物語のラストは、ある意外な結末を迎える。それは、とても悲しくて、とてもせつなくて、でも、とても優しい結末だ。彼らの未来は、きっと幸せであると信じたい。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

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カステラ

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ピンポン (エクス・リブリス)

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三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)

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