タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

ファン・ジョンウン/斎藤真理子訳「野蛮なアリスさん」(河出書房新社)-女装ホームレスとして街角に立つアリシア。その背後に横たわる韓国社会の暗部

私の名前はアリシア。女装ホームレスとして、四つ角に立っている。

この一文からはじまる物語は、アリシアとその家族を中心に韓国という国の闇の部分を描いている。

何も予備知識をもたずに本書を読んでいくと、おそらく読者は困惑するだろう。書かれている状況の意味がまったくわからないかもしれない。

アリシアには、父と母そして弟がいる。他に、父の前妻の息子と娘、つまりアリシアにとって腹違いの兄と姉がいる。アリシア一家は、コモリという地区に暮らしている。そこは再開発地区として、土地買収が進められており、家の大きさや住んでいる家族の人数に応じて立ち退き料が支払われる。そのため住民たちは、立ち退き料をできるだけ高くもらおうと安普請のバラックのような家を建て、住んでもいない家族を住んでいるように見せかける努力を惜しまない。アリシアの父も同じだ。見せかけだけの家を建て、もう独立している兄や姉も一緒に住んでいることにして、少しでも高い立ち退き料を得ようとしている。

アリシア一家をはじめコモリの住人たちは、みな貧しい。韓国は圧倒的な格差社会であり、富める者と貧しき者との間には絶望的な壁が存在している。貧しき者たちは、再開発に伴う土地の立ち退きなどの機会に乗じて、できるだけ多額の金を得ることでしか這い上がれるチャンスはない。いや、それさえも絶対ではないのだ。

アリシアは、貧しい生活の中で、他人を羨望し嫉妬して口汚く罵ることしかできない母や、少しでも多くの立ち退き料をせしめることに日々を費やすばかりの父を嫌悪し蔑む。その怒りは内なる自分へ、そして世間へと向いていく。本書には、罵倒語として『クサレオメコ』という言葉が頻出する。アリシアの母が他人を陰で口汚く罵る言葉として、アリシアが自らの怒りを発露する言葉として、無垢な弟がふざけ半分で口にする言葉として。『クサレオメコ』という言葉に込められた悪意と絶望感こそが、本書全体としてのテーマなのだと思う。

本書を読む前に、チョ・セヒ「こびとが打ち上げた小さなボール」を読んだ。「こびと」と「アリスさん」に描かれる物語の背景となるものは共通している。韓国の格差の実態であり、貧しき者たちの絶望感だ。「こびと」が出版されたのが1978年であり、「アリスさん」の出版が2013年である。両作品の間には、35年の時の流れがある。それだけの長い年月を経ても、同じ主題で物語が生まれる。そこに、韓国社会が抱える闇が厳然と存在し続けているのだということに驚かされる。

 

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