タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

第四回日本翻訳大賞授賞式に行ってきました!(イベントレポート)

今回で第四回となる日本翻訳大賞の授賞式が、2018年4月28日に御茶ノ水にあるデジタルハリウッド大学で開催されました。第一回から毎回楽しみにしている授賞式に今年も当然参加してきましたよ!

第四回の授賞式は、第三回に続いてデジタルハリウッド大学駿河台ホールでの開催でした。こちら、司会をつとめた米光一成さんが教授をつとめているゲーム、アニメ、映画などの映像系メディアクリエイターを育成する大学です。

開場時間の14時に受付を済ませ、座席を確保したところで物販コーナーへ。今回の大賞受賞作である「殺人者の記憶法」(クオン)と「人形」(未知谷)が山積みになっていました。クオンのコーナーには「殺人者の記憶法」の韓国語原著が売られ、未知谷のコーナーには訳者である関口時正さんの著作が売られていました。未知谷では、「人形」を今回限りの五千円で販売されていて、司会の米光さんがしきりに「私は六千円で買いました」と繰り返していました。私も六千円で買っていたので、心の中で「米光さん、私もです!」と繰り返していたのは言うまでもありません。

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14時半を少し過ぎた頃に、まったりとした感じでオープニングを迎えます。オープニングアクトは、日本翻訳大賞授賞式ではすっかりおなじみ、西崎憲さん率いるグループ「スイスカメラ」の演奏でスタートです。

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今回のプログラムを、参加者に配布された小冊子から抜粋します。

1.オープニング
2.開会宣言
3.日本翻訳大賞について
4.選考経過
5.選考委員座談会
6.贈呈式
7.トーク「翻訳について」
8.受賞作朗読
9.ゲスト朗読
10.閉会宣言

プログラムは、毎年恒例のパターン。スイスカメラの演奏から司会の米光さんが開会を宣言、続いて米光さんと西崎さんで日本翻訳大賞の成り立ちなどの話がありました。

選考経過については、選考委員の金原瑞人さんと松永美穂さんから説明がありました。一次投票から二次選考に残った18作品について、そこから最終候補に残った5冊について、ひとつひとつの作品の簡単な紹介を交えつつ説明していきます。

今回の候補作は、韓国文学が3作品(殺人者の記憶法、アオイガーデン、七年の夜)の他、「中国が愛を知った頃~張愛玲短篇選」、「星空」といったアジアの作品が多いのが特徴です。その他、グラフィックノベル(マッドジャーマンズ~ドイツ移民物語)もあり、言語も英語、韓国語、中国語、ドイツ語、イタリア語と多種多様であったりと、日本の翻訳文化のレベルの高さが感じられるラインナップになっていると思いました。

選考委員(金原瑞人さん、岸本佐知子さん、柴田元幸さん、西崎憲さん、松永美穂さん)の選考の結果、第四回日本翻訳大賞は、関口時正訳・ボレスワフ・プルス著「人形」(未知谷)と吉川凪訳・キム・ヨンハ著「殺人者の記憶法」(クオン)に決定しました。最終候補5作品の中で、一番厚い本(人形)と一番薄い本(殺人者の記憶法)が選ばれたのは、偶然と思いますが面白い結果です。

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選考委員5人が壇上にあがって座談会に続いて、いよいよ贈呈式です。今回、「人形」の関口時正さんがスケジュールの関係で欠席となったため代理は未知谷の飯島社長です。選考委員の岸本佐知子さんから、飯島社長、吉川凪さんに賞状と副賞が手渡されました。

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贈賞に続いては、柴田元幸さんをファシリテーターとして受賞者を交えた「翻訳について」の座談会。今回、訳者の代理で出版社の方が出席しているとあり、柴田さんからは未知谷の飯島社長に「人形」の製本に関する質問がありました。

実物を見ると実感できますが、「人形」はとにかく分厚いです。通常の製本方法(紙、ページあたりの行数など)だと1500ページにもなり、広辞苑を製本するような製本機を使っても製本できなかったとのこと。そこで、紙の種類を変更して2センチほど厚みを減らし、それでも無理だったので、ページあたりの行数を21行にすることでどうにか製本可能となったのだそうです。ページあたり21行にしたため、とじしろのギリギリまで印刷することになったので、ページのかがり方を工夫して180度全開できるようにしているのだそうです。

一方、吉川さんには「殺人者の記憶法」の翻訳にあたっての苦労話など。贈呈後のスピーチでは、「翻訳にはほとんど苦労しなかった」と話していた吉川さんですが、それはそもそも作品がわかりやすい文章で書かれていたのと、特別に凝った表現や韓国文化に依存するような表現が少なかったことが理由だそうです。

会場からは、ポーランドや韓国での文学事情やまだ日本に紹介されていない隠れた名作がないかといった質問がありました。韓国では、日本の作品も多く訳されていて、やはり村上春樹の人気が高いそう。現代韓国作家のほとんどが、村上春樹の作品に影響を受けているのではないかということでした。

受賞者座談会に続いては、受賞者による作品の朗読です。個人的には、日本翻訳大賞の授賞式で一番楽しめて、一番感動するプログラムがこの訳者による朗読なのです。

未知谷の飯島社長による「人形」の朗読、吉川さんによる「殺人者の記憶法」の朗読が、スイスカメラの生演奏をバックに行われます。おふたりとも、お客さんを前にして朗読することは普段ほとんど経験していないと思うのですが、まるで朗読慣れしているように、生演奏に乗って感情豊かに朗読されていて、今回もすばらしいプログラムでした。

そしてなんと、ここで今回はスペシャルゲストとして、芥川賞作家の町田康さん登壇です。こちらも生演奏をバックに、日本文学全集で現代語訳を手がけた「宇治拾遺物語」の作品を朗読しました。町田さんの朗読は、題材が「宇治拾遺物語」という滑稽譚であることと、なにより町田節ともいえるパフォーマンスが最高で、会場は笑いが溢れる盛り上がりでした。

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こうして、あっという間に2時間のプログラムは終了しました。今回も本当に楽しい授賞式でした。終了後は、会場に来ていた「やまねこ翻訳クラブ」の皆さんや「はじめての海外文学」団長のでんすけのかいぬしさんとお会いしてご挨拶。「殺人者の記憶法」に吉川さんのサインをいただいて大満足のイベント会場を後にしたのでした。

最後になりましたが、受賞した関口時正さんと吉川凪さんに改めてお祝いを申し上げます。受賞おめでとうございました。また、すばらしい翻訳書を私たちに届けていただいたことに深く感謝いたします。ありがとうございました、また、日本翻訳大賞の企画・実行にご尽力いただいている選考委員をはじめスタッフの皆さんにも御礼申し上げます。ありがとうございました。

運営費の問題などもあるとのことですが、このすばらしい企画はこれからも長く続けていただきたいと思います。そのためには、私たち翻訳作品を愛する読者もたくさんの応援をしていく必要があると思います。どのような形になるかはわかりませんが、私たちで力になれることがあればサポートしていこうと思います。

さあ、来年の第五回日本翻訳大賞に向けて、今年もたくさん翻訳作品を読みましょう!

 

ジュリア・サーコーン=ローチ/横山和江訳「サンドイッチをたべたの、だあれ?」(エディション・エフ)−公園のベンチから消えたサンドイッチ。犯人はいったい誰なのか。目撃者の証言は完ぺきに思えたのだが...

 

事件はいつだって突然に起きる。

その日は朝から平和だった。もっとも、この街じゃ事件と言ったってちょっとしたご近所トラブルの類で、せいぜいが万引きくらいのものだ。いや、もちろん万引きだって立派に犯罪ではあるけれど、強盗だの殺人だのという物騒な事件が起きたことはない。

だから、昼休みを終えて「さて、午後も長くなりそうだ」とデスクに腰を落ち着けたところで電話が鳴ったときも、それほど気負ったところはなかった。案の定、電話の相手はオフィスの前にある公園の管理事務所からだった。

「やられたよ」と公園事務所に長年勤務しているその職員は言った。「食い逃げだ」

なんでも、公園のベンチに置いてあったサンドイッチがちょっと目を離したすきに誰かにたべられてしまったらしい。

「食い逃げの現場を見た、っていうヤツがいるんだけどね」と彼は言った。

「なら、すぐに犯人は捕まるだろ?」と答えると、彼は「ウーン」と唸り、「それが、どうもね」と何やら煮え切らない。とりあえず来てくれと言うので、ヤレヤレと思いながら相棒と一緒にオフィスを出て公園に向かった。徒歩わずか1分。なんの運動にもならない。

現場について彼の煮え切らない態度がわかった。なるほど、そういうことか。目撃者は、公園の職員に向かって『ギャンギャン』と吠え立てるように訴えていた。おそらく、自分が見たことを伝えようとしているんだろうが、何を言っているのかさっぱりわからない。これは確かに相棒に働いてもらうしかないだろう。「頼むよ」という思いをこめて相棒を見ると、「全部おまかせ」とばかりにのっそりと目撃者のところまで歩いていった。

「クマだってよ」と、しばらく目撃者と話していた相棒が戻ってきて言った。「サンドイッチはクマが食べちゃったんだって」

「クマ?」思わず公園の職員と顔を見合わせてしまった。

「そう、クマ」相棒は座り込んで、まだ興奮気味の目撃者を軽く振り返った。「山から降りてきたクマが公園に迷い込んできたんだ、って。でも、たぶん嘘だと思うけどね」

相棒は、目撃者の証言を信用していなかった。「それは、どうして?」と訊ねると、相棒はその根拠をいくつかあげた。もしクマがサンドイッチを食べたとして、そんな目立つことがあったのに『クマを見た』という話がまったく聞こえてこないこと。こんな街なかにクマが現れて騒ぎにならない方がおかしい。

「それにね」と相棒はペロリと口元を舐めた。「目撃者はある決定的な証言をしてるんだよ。犯人につながるね」

相棒の説明を聞いて「なるほど」と納得した。相棒の勘は鋭い。事件の真相は、相棒の見立て通りだろう。連絡してきた公園の職員も納得した様子だ。

「ま、相手が相手ですからね。ここは仕方ないと諦めますよ」と、彼は笑った。これから、公園北入口前の“サムの店”で遅めのランチセットを食べると言う。彼がサムの店の方に歩いていく後ろ姿を見送ってから、相棒とオフィスに戻った。

「やれやれ、今回もたいした事件じゃなかったな」

そう愚痴ると、相棒は「そうね」とひと吠えし、お気に入りのソファで丸くなった。すぐに寝息が聞こえてきた。今頃、サンドイッチを食べた犯人も満腹で眠っているかもしれない。この街の事件はいつだって突然に起きる。でも、たいした事件じゃない。だけど、得てして真実なんてそんなものだ。〈謎のサンドイッチ消失事件〉はこうして幕を下ろした。

 

ティリー・ウォルデン/有澤真庭訳「スピン」(河出書房新社)-フィギュアスケートにかけた青春。仲間、ライバル、いじめ、そして恋。フィギュアスケーターだった著者の自伝的グラフィックノベル。

今年(2018年)、平昌で冬季オリンピックパラリンピックが開催された。日本人選手の活躍はもちろん、世界中からトップアスリートが出場する大会だけにひとつひとつの競技に見どころがあった。

冬のオリンピックの花形競技といえば? と問われればいくつか挙げられるだろうが、やはりフィギュアスケートは外せないのではないだろうか。平昌オリンピックでは、足の怪我で出場も危ぶまれた羽生結弦選手が見事な演技で66年ぶりの2大会連続金メダルを獲得し、日本だけでなく世界中に感動を与えた。女子では、ドーピング問題で国としての出場はなかったが、ロシアからの選手としてザギトワ、メドベージェワの両選手がともに最高の演技で金メダルを争った。

あらゆるスポーツの中で、フィギュアスケートはもっとも華やかで注目される競技だと思う。それだけにフィギュアスケーターに憧れ、オリンピックを目指して練習を重ねる選手の数は多い。わずか2、3人の代表枠を巡って、彼ら彼女らはしのぎを削る。

「スピン」は、フィギュアスケートの世界が舞台となっているグラフィックノベルだ。著者のティリー・ウォルデンは、元フィギュアスケート選手であり、本書が彼女自身の自伝的な作品となっている。

主人公のティリーはもちろん著者自身だ。彼女は、フィギュアとシンクロナイズドのスケーターである。シンクロナイズドは耳慣れない競技だが、これは『シンクロナイズド・スケーティング』という団体競技で、チームで演技する“氷上のシンクロナイズドスイミング”のようなものらしい。ティリーは、フィギュアのシングルとシンクロの両方の選手なのだ。

物語は、ティリーのスケーターとしての練習と競技の日々を描きつつ、彼女の学校での生活、少し複雑な家庭環境、そして彼女自身の性的マイノリティが描きこまれている。

「スピン」が描き出すのは、フィギュアスケートに青春をささげた少女のライバルたちとの熾烈な闘いの日々ではない。フィギュアスケーターとしての自分の素質や才能の現実と向き合いながら、ひとりの少女としてあたりまえに過ごす毎日の生活やいじめの問題からLGBTの問題まで、著者自身が歩んできた人生のすべてが描かれているのだ。

十代の多感な時期を過ごす中で、彼女はいろいろな経験をし、いろいろなことに悩む。それは、若者すべてにあてはまることだ。友だち関係、恋人関係、家族関係、いじめの問題、自らの性癖の問題、それらはすべて、かつて若者であった私も含めて多くの若者たちが通ってきた道なのだ。

若いときは。目の前にある道がどこに続いているのかも、目的の場所につながっているかもわからない不安が常に頭の中で渦巻いていた。「自分の未来なんてどうにでもなる。今が楽しければそれでいいんだ」と嘯いてみることで、自分自身の不安を鎮めようと抗っていた。今から思い返せば、そんなのは些細なことだったと笑い飛ばせる。すっかりオジサンになってしまったが、久しぶりにあの頃の自分を思い出した。

アンジー・トーマス/服部理佳訳「ザ・ヘイト・ユー・ギヴ~あなたがくれた憎しみ」(岩崎書店)-なぜカリルは撃ち殺されなきゃいけなかったのか。事実が歪められていく中で、スターは勇気をもって真実をみつめることを決意する。

ビッグDの春休みのパーティで、スターは幼馴染のカリルと久しぶりに会った。会場に銃声が響きパーティが混乱する中からふたりは抜け出し、カリルの車に乗り込む。カーステレオから大音量で流れるのは、トゥパックの古くさいラップ。どうしてそんな古くさい曲ばかりきいているのかと言うスターに、カリルは「トゥパックは本物だ」と答える。

「そうだね、二十年もまえの人だけど」
「いや、いまだって十分通用する。そう、たとえばだな」カリルはわたしに指をつきつけた。自分の哲学を語るときの癖だ。「パックは、Thug Lifeってのは、"The Hate U Give Little Infants Fucks Everybody"〈子どもに植えつけた憎しみが社会に牙をむく〉の略だと言ってるんだ」

アンジー・トーマス「ザ・ヘイト・ユー・ギヴ」は、2017年のボストングローブ・ホーンブック賞を受賞したヤングアダルト(YA)小説である。著者は、本書がデビュー作品となる。(リンク先:やまねこ翻訳クラブ ボストングローブ・ホーンブック賞受賞作品リスト)

本書が描くのは、いまだアメリカ社会に根深く残る人種差別問題だ。

黒人であり、けっして治安が良いとは言えないガーデン・ハイツに暮らす16歳のスターが主人公。彼女は、幼馴染のカリルが目の前で白人の警官に撃ち殺される現場に居合わせる。何も悪いことなんてしていないのに、何も抵抗していないのに、白人警官1-15はカリルを撃ち殺し、スターにも銃口を向けた。カリルの命の火が消えていく中で、スターは何もすることができなかった。

カリルは、黒人であり、ドラッグの売人でもあった。白人警官が無抵抗な黒人を射殺したはずの事件は、いつの間にか「ドラッグの売人でもある札付きのワルだから撃たれても仕方ない」と、被害者であるカリルが糾弾され、1-15の行動は正当であったという論調になっていく。黒人たちの怒りは高まり、ガーデン・ハイツでは『カリルに正義を!』のスローガンを旗印に抗議行動がエスカレートし暴動が起こる。

物語は5つのパートで構成されている。事件が発生に、苦悩の末にスターが大陪審での証言を決意するまで(パート1「ことのはじまり」)。大陪審での証言当日まで(パート2「5週間後」)。大陪審での証言後にスターに起きたこと、少しだけ平穏な日々のこと(パート3「8週間後」、パート4「10週間後」)。そして、大陪審の決定。その後の混乱(パート5「13週間後」)。

およそ500ページ近い本書の中で、パート1が半分以上のページをつかって書かれていることに着目したい。

本書は、黒人差別の問題を描いているが、主題となっているのは“勇気”の問題だと思う。それは、スターの問題だ。

カリルが射殺されるのを目撃したスターは、『死人に口なし』でカリルが「撃ち殺されても仕方ないヤツ」と貶められていくのを見ても、自分が目撃者として証言することが怖くてできなかった。彼女は、10歳のときに友だちのナターシャが抗争に巻き込まれ、目の前で撃ち殺されるのを見たトラウマがある。カリルの名誉を回復し、真実を語る責任が自分にはある。頭ではわかっていても恐怖には抗えない。

それでも、スターは少しずつ勇気を奮い起こしていく。警察で証言し、検察で証言をし、メディアで証言し、大陪審での証言に至る。そこに至るまでの彼女の苦悩と葛藤の時間が、パート1には記されているのだ。

どんなことでも、勇気をもって行動を起こすのは難しい。特に、大人は年を重ねてたくさんのリスクを経験してしまっているから、ついついリスクを言い訳にして一歩を踏み出せなくなっている。スターも、過去の怖い経験がトラウマになってしまい、勇気の一歩が踏み出せない。それでも、彼女は、家族の励まし、友だちや恋人の態度への不満や共感、そしてなにより真実が失われゆくことへの憎しみを力にして勇気を奮い起こす。

いまだなくならないアメリカの黒人差別問題の現実をスターという黒人少女の成長を通じて知ることができる作品だと思う。

池田浩士「【増補新版】抵抗者たち-反ナチス運動の記録」(共和国)-ナチスドイツの恐怖による独裁政治に抗った抵抗者たちの記録

いつの時代にあっても、権力者は自分が手にした強大な力を自分の自由に使えるものと勘違いするようだ。また、権力者の側にいるというだけで自分にも力があると思いこんでいる矮小な輩というのもいる。

権力者による勘違いが害のないレベル(そんなレベルがあるのかわからないが)に留まっている分には、笑い話で済むかもしれない。だが、ヒトラーのように徹底的に誤った方向に舵を切り、ファシズムという最悪のレベルに至ってしまった場合、それは悲劇しか生み出さない。

本書は、ファシズムに抗い闘った抵抗者たちの記録だ。ファシズムという強大な権力に立ち向かった彼らは、悪を悪として糾弾し、正義のために闘ったのだ。そこには、強い意志の力が感じられる。

ナチスの恐怖政治の前に人々は無力だ。恐怖によって人心を掌握し、抵抗する者には厳しい弾圧と加え、たくさんの人々が粛清された。権力に反対する言論は徹底的に封鎖し、反体制的な書物は焚書とされた。メディアは権力に都合の良いことだけを垂れ流し、人々の洗脳に力を貸した。逆らえば自分の命が危ない。となれば、無力な民は権力の足下に額ずくしかなかった。

だが、すべての民がファシズムに屈したわけではない。抵抗者は、数々の弾圧、粛清に屈することなく、正義を貫き通した。彼らはファシズムに敢然と立ち向かい続けた。戦いに敗れ、粛清された者もあった。それでも、彼らが示した抵抗する意志の力は、少しずつ人々の中に浸透していき、やがてナチスドイツの凋落とともに勢いを見せる。

本書は、ファシズムに立ち向かった人々の記録だ。この本が、日本の研究者によって書かれたことに驚く。

1980年に初版が刊行されてから40年近い年月を経た本書が、2018年の今、私たちのもとへ届けられたことは大きな意味があると感じる。

本書を読みながら常に感じていたのは、今の時代の日本に生きる私たちを取り巻く政治的な環境がところどころでファシズム的な一面を有しているということだった。もちろん、ナチスドイツが行ってきたファシズム現代社会とはまったく違う。それでも、権力におもねっているのではないかと疑わせるような偏向的なメディアの報道姿勢や権力という虎の威を借りて罵詈雑言を投げつける人々の存在、性別や人種、マイノリティに対するヘイススピーチ等々、民主的で平和的であるとは言い難い状況があるのは間違いないと思うのだ。

私たちは、いつでも言いたいことを言う権利があるし、政権を批判することも擁護することも自由だ。権力者を心から信頼し支持する者があれば嫌悪する者もある。そうした個人の思想信条も含めてすべては自由なのだ。この自由な社会に私たちが生きていられるのは、かつて権力の圧力に抗って闘った抵抗者たちが勝ち取ったものなのだ。

権力を持つというのは、なんでも自分の思う通りに動かしていいという意味ではない。あらゆることを思うままにできる権力を与えられたからこそ、自らを律して行動しなければならない。そして、私たちは盲目的に権力者を信じるのではなく、権力者を疑い監視する目を持たなくてはいけない。ファシズムに抗った抵抗者たちの記録を読んで、そう思った。

たかおまゆみ「わたしは目で話します~文字盤で伝える難病ALSのこと、そして言葉の力」(偕成社)-難病ALSを発症した著者が文字盤を使って目の動きだけで言葉を伝え書かれた本。言葉の力、コミュニケーションの大切さに気づかされた。

ALSという病気がある。筋萎縮性側索硬化症(英語表記:Amyotrophic lateral sclerosisの頭文字で略称ALS)という病気がどのような病気なのか、本書を読むまでまったく知らなかった。身体の自由が次第に失われていく難病であることは知っていたし、治療法が見つかっていないことも知っていた。しかし、病気の原因もわかっていないこと(わかっていないから治療法も見つかっていない)や筋肉の病気ではなく筋肉を動かす神経細胞(運動ニューロン)が減少し働かなくなる病気だということは知らなかった。

著者のたかおまゆみさんは、2009年にALSを発症した。ドイツ語の翻訳家として10年が過ぎ訳書も増えてきたし、さらなるドイツ語のブラッシュアップのために大学院で学ぶ始めたところだった。ドイツ語翻訳家としての未来を考えていた。

たかおさんは、子どもの頃の経験から障害をもつ子どもたちの教育者を目指して大学を卒業し日本聾唖学校で教師となった。聴覚障害をもつ子どもと接した経験から言葉によるコミュニケーションの強さとともに、言葉によらないコミュニケーションの存在にも気づかされる。勝手な憶測だが、聾唖学校での経験が、後にALSを発症して言葉を失ったときに、絶望するばかりではなく、文字盤というコミュニケーションツールを使って他者と会話するときのモチベーションとなったのではないだろうか。

その後、たかおさんはスイスでの生活を経てドイツ語の翻訳家として仕事をするようになる。「ハイジ」の著者ヨハンナ・シュピリに魅せられ、その作品を翻訳することにもなる。こうして、ドイツ語翻訳家としての道を歩き始め、軌道に乗り、さあこれからというときに病を発症するのである。

難病患者が書いた本、となると、病気になった悲しさや闘病の苦しさ、そんな中にあるかすかな希望のような闘病記を想像するかもしれない。私も読み始めるまではそう思っていた。

だが、実際には予想していたような本ではなかった。確かに、身体の異変を感じ様々な検査の結果ALSとわかるまでの不安やわかってからの絶望感を記したところもある。だが、それ以上に本書には楽しさがあるのだ。たかおさんが病気を楽しんでいるというと語弊があるかもしれない。でも、実際に本書を読んでみると、たかおさんが今自分が置かれている状況をむしろ前向きに楽しんでいるような雰囲気が感じられるのだ。

たかおさんが前向きである理由は、文字盤の存在である。文字盤は、透明な板に五十音の文字と記号を配置したもので、目しか動かすことのできないたかおさんが言葉を伝えるための必須アイテムである。本書は、声を失った患者にとって文字盤がいかに大きな存在であるかを、経験者であり、深く実感しているたかおさんが熱く語るために書かれたといって過言のない本なのだ。

文字盤の獲得がいかに希望を与えてくれたか。「はじめに」の中でこう書いてある。

文字盤を見て、「はじめのころは、たいへんでしたでしょうね」と、わたしにきく人がいる。たいへんだったもなにも、わたしには狂喜乱舞した思い出だけしか残っていない。

 

話すこともできなくなり、この先どうなっていくのかと不安しかなかったたかおさんにとって、文字盤を使って自分の思いを言葉にできることは、まったく苦労ではなかった。むしろ、言葉を取り戻せたことの嬉しさしかなかったのだ。

本書を読むと、言葉の持つ力の偉大さをひしひしと感じる。声に出して話すことはもちろんだが、書き言葉であったり、あるいは身振り手振りで伝えることも言葉のひとつと考えることもできるだろう。病気で身体の自由が失われていくたかおさんに生きる力と楽しみを与えたのも言葉だ。

言葉には力がある。だからこそ、大切に使わなければいけない。私自身、言葉を大事にしているかと我が身を振り返り、もっと大事にしようと思った。たくさんの気づきを与えてくれる本に出会えた。

R・J・パラシオ/中井はるの訳「もうひとつのワンダー」(ほるぷ出版)-顔に障がいのある少年と出会った彼らがとった態度。なぜ、あんなことをしたのか。3人の少年少女について描くスピンオフストーリー

生まれつき顔に障がいのある少年オギーが学校に通うことでおきるいろいろな経験を通じて、オギー自身や彼の周囲の人々が成長し変化していく姿を描き出し、世界的ベストセラーなった「ワンダー」。本書は、「ワンダー」にも登場した主要なキャラクター、ジュリアン、クリストファー、シャーロットについて描いたスピンオフ作品である。

s-taka130922.hatenablog.com

 

「ワンダー」を刊行してから、著者には「続編の予定はないのか?」という質問が寄せられたと、『まえがき』の冒頭で著者が言及している。著者は、質問を受けるごとに申し訳ないと思いつつもこう答えていた。

「いえ、続編は出さない方がいいと思っています。このあとオギーたちがどうなっていくのかは、読者の方がたご自身に想像していただきたいのです」

 

確かに読者としては、「ワンダー」のラストの場面で大いに感動し、オギーやジャック、サマーたちがこのあとどう成長し、そしてどんな大人になるのだろうと気になった。中でも、オギーの敵役であり「ワンダー」のラストではビーチャー学園を去ることになったジュリアンは、その後どうなったのか気になっていた。

「ワンダー」の中では完全に悪役として描かれたジュリアンは、読者からもっとも嫌われた存在である。「冷静を保ち、ジュリアンになるな」というスローガンもネット上に公開されたという。(以下はネット公開されているポスターの例。他にもいろいろなパターンがある)

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著者が続編としてではなくスピンオフとして本書を書こうと考えたのは、ジュリアンが一番の理由だったという。読者からの嫌われ者となってしまったジュリアンについて、彼の側からキチンと書いておく必要があると考えたのだろう。こうして、ジュリアンの物語とクリストファー、シャーロットの物語を加えた本書ができあがったのである。

ジュリアンの物語は、彼がオギーと出会い彼をいじめることになるに至った理由がジュリアンの側から描かれている。ただ単純にオギーを“異質な存在”として嫌悪したのではなく、ジュリアンが抱える複雑なトラウマや彼を甘やかす両親(特に母親)の存在が、彼の性格を歪めてきたという実情がそこにある。

ビーチャー学園を辞め、新年度から別の学校に通うことになるジュリアンは、夏休みをパリに住む祖母の家で過ごすことになる。そこで彼は、祖母が子どもの頃に体験した壮絶な話を聞くことになる。彼の祖母はユダヤ人であり、ナチスドイツのユダヤ人迫害によって多くの仲間が強制収容所にいれられ虐殺された。祖母は、ナチスユダヤ人狩りが激しさを増していく中、同級生の家に匿ってもらって生き延びる。祖母を救った同級生は、身体に障がいがあり、みんなから『トゥルトー(カニ)』と呼ばれていじめられていた少年だった。

なぜジュリアンはオギーをいじめてしまったのか。そこには、オギーに対する恐怖心がある。ジュリアンは、祖母が体験した話を聞き、自分がオギーをいじめたことの罪の重さ深さを初めて実感する。ジュリアンと祖母の話、そしてラストに明かされる真実は、読んでいて激しく胸を揺さぶった。涙がこみ上げた。

クリストファーの物語、シャーロットの物語でも、ふたりそれぞれのオギーとの関係や考え方、そして彼ら自身が抱える人間関係の悩みが描かれている。ジュリアンもそうだが、彼らは特別な人間ではない。彼らはどこにでもいる普通の少年であり少女だ。友だちとバカ騒ぎして、恋バナで盛り上がったりするのが大好きな子どもたちだ。勉強が苦手な子もいれば、ガリ勉の子どもだっている。運動が苦手なインドア派の子どもがいれば、身体を動かすことが大好きな子どももいる。ひとりひとり顔も体型も性格も違うけど、普通の子どもたちなのだ。

「ワンダー」が、オギーという他の子どもとは違う特別な存在が現れたことで起きる奇跡(ワンダー)描いたように、「もうひとつのワンダー」はジュリアン、クリストファー、シャーロットという普通の子どもが体験する出来事が奇跡(ワンダー)を起こすのだということを私たちに教えてくれる。

特別だから奇跡を起こせるんじゃない。普通の子どもたちでも奇跡を起こせるんだ。「もうひとつのワンダー」とはそういうお話なのである。