タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

R・J・パラシオ/中井はるの訳「ワンダー~Wonder」(ほるぷ出版)-他人とは違う自分、自分とは違う他人。オーガストと彼を取り巻く人々の交流は、「違う」ことを受け入れ、認め合うこと。

R・J・パラシオ「ワンダー」は、10歳の少年オーガスト(オギー)・プルマンがビーチャー学園中等部に通い始めるところから始まる。

オギーは、それまで学校に通ったことがなかった。それは、彼が他の子どもたちとは違っていたからだ。オギーには、生まれつき顔に異常があった。オギーの顔を見た人は、見てはいけないものを見てしまったかのようにギョッとし、そして視線をそらす。遠くの方から無遠慮に見つめ、ヒソヒソとささやきあったりもする。オギーはもう、そういう人たちの態度には慣れてしまった。

オギーを受け入れることになったビーチャー学園では、まず彼のために3人の生徒を案内役にする。ジュリアン、ジャック、シャーロットだ。この3人の登場人物としての役割が明確でわかりやすく設定されている。

箱入り息子として大事に甘やかされて育ち、両親の存在から学園内でもリーダー格のジュリアンは、オギーをいじめる悪役である。多くの読者は、彼を嫌悪の対象として見るだろう。ただ、冷静に見ると、私がもしオギーと対峙したときに、彼を目の前から排除したいと考えてしまうかもしれない。むしろ、ジュリアンのような態度になる方が普通と言えるかもしれない。

ジュリアンほど悪役にはならない(なれない)にしても、多くの場合、オギーに対峙した人はシャーロットのように振る舞うのではないだろうか。彼女は、ジュリアンのようにオギーを異質とみなし排除するような行動はしない。かといって、ジャックやサマーのようにオギーを受け入れ友人としての関係を築くわけでもない。オギーやジュリアンとは一定の距離を保ちつつ、先生や大人たちからは「障がいを持つオギーに親切に接する良い子」というポジションをキープしている。ある意味では一番悪い子だ。

ジュリアンやシャーロットとは違い、オギーの存在を素直に受け入れ、なんの計算もなく純粋に彼と友人になれるジャックやサマーは、読者にある課題を突きつける存在だと思う。それは、「あなたがもしオギーに出会ったら、ジャックやサマーのようになれますか?」という課題だ。私はなれる自信がない。ジュリアンやシャーロットになるのは簡単だ、けど、ジャックやサマーになるのは難しい。そう考えてしまうのは、やはり私の心の中に障がい者に接することへの偏見と気後れがあるからだと思う。

障がい者はかわいそうな人。守ってあげなければならない人」という偏見
障がい者には親切にしなきゃいけない。でも気安く接してもいいんだろうか?」という気後れ

そうした偏見や気後れがあるから、チャリティー番組を見ては「障がいがあっても頑張っててえらいな」とか思うくせに、いざ目の前に障がい者がいても見てみないふりしてしまうのだ。私は一生ジャックやサマーにはなれないと思う。

オギーは、ビーチャー学園に通うことでいろいろなことを経験する。たくさんの好奇の視線にもさらされるし、いじめにも合う。それでも、オギーは少しずつ周囲の人たちの意識を変えていく。オギー自身も学校生活の中で成長をしていくが、それ以上に彼と接する人たちが大き成長していく。オギーの存在は、まさに“Wonder”となるのだ。

姉ヴィアの演劇発表会を観に行った時、舞台に感動した観客からスタンディング・オベーションを受けるヴィアたちを見たオギーは、自分もこんなふうに喝采を受けられたら素晴らしいだろうと感じる。「世界中の誰もが、一生に一度はスタンディング・オベーションを受けなきゃならないっていう法律があるべきだ」と思う。オギーが起こした“Wonder”は彼に喝采をもたらした。彼の成長と彼の素晴らしい家族や友人たちに読者として最高のスタンディング・オベーションを捧げたいと思う。

 本作は、映画化されて2018年6月に全国公開されるそうです。

wonder-movie.jp