タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

R・J・パラシオ/中井はるの訳「ワンダー~Wonder」(ほるぷ出版)-他人とは違う自分、自分とは違う他人。オーガストと彼を取り巻く人々の交流は、「違う」ことを受け入れ、認め合うこと。

R・J・パラシオ「ワンダー」は、10歳の少年オーガスト(オギー)・プルマンがビーチャー学園中等部に通い始めるところから始まる。

オギーは、それまで学校に通ったことがなかった。それは、彼が他の子どもたちとは違っていたからだ。オギーには、生まれつき顔に異常があった。オギーの顔を見た人は、見てはいけないものを見てしまったかのようにギョッとし、そして視線をそらす。遠くの方から無遠慮に見つめ、ヒソヒソとささやきあったりもする。オギーはもう、そういう人たちの態度には慣れてしまった。

オギーを受け入れることになったビーチャー学園では、まず彼のために3人の生徒を案内役にする。ジュリアン、ジャック、シャーロットだ。この3人の登場人物としての役割が明確でわかりやすく設定されている。

箱入り息子として大事に甘やかされて育ち、両親の存在から学園内でもリーダー格のジュリアンは、オギーをいじめる悪役である。多くの読者は、彼を嫌悪の対象として見るだろう。ただ、冷静に見ると、私がもしオギーと対峙したときに、彼を目の前から排除したいと考えてしまうかもしれない。むしろ、ジュリアンのような態度になる方が普通と言えるかもしれない。

ジュリアンほど悪役にはならない(なれない)にしても、多くの場合、オギーに対峙した人はシャーロットのように振る舞うのではないだろうか。彼女は、ジュリアンのようにオギーを異質とみなし排除するような行動はしない。かといって、ジャックやサマーのようにオギーを受け入れ友人としての関係を築くわけでもない。オギーやジュリアンとは一定の距離を保ちつつ、先生や大人たちからは「障がいを持つオギーに親切に接する良い子」というポジションをキープしている。ある意味では一番悪い子だ。

ジュリアンやシャーロットとは違い、オギーの存在を素直に受け入れ、なんの計算もなく純粋に彼と友人になれるジャックやサマーは、読者にある課題を突きつける存在だと思う。それは、「あなたがもしオギーに出会ったら、ジャックやサマーのようになれますか?」という課題だ。私はなれる自信がない。ジュリアンやシャーロットになるのは簡単だ、けど、ジャックやサマーになるのは難しい。そう考えてしまうのは、やはり私の心の中に障がい者に接することへの偏見と気後れがあるからだと思う。

障がい者はかわいそうな人。守ってあげなければならない人」という偏見
障がい者には親切にしなきゃいけない。でも気安く接してもいいんだろうか?」という気後れ

そうした偏見や気後れがあるから、チャリティー番組を見ては「障がいがあっても頑張っててえらいな」とか思うくせに、いざ目の前に障がい者がいても見てみないふりしてしまうのだ。私は一生ジャックやサマーにはなれないと思う。

オギーは、ビーチャー学園に通うことでいろいろなことを経験する。たくさんの好奇の視線にもさらされるし、いじめにも合う。それでも、オギーは少しずつ周囲の人たちの意識を変えていく。オギー自身も学校生活の中で成長をしていくが、それ以上に彼と接する人たちが大き成長していく。オギーの存在は、まさに“Wonder”となるのだ。

姉ヴィアの演劇発表会を観に行った時、舞台に感動した観客からスタンディング・オベーションを受けるヴィアたちを見たオギーは、自分もこんなふうに喝采を受けられたら素晴らしいだろうと感じる。「世界中の誰もが、一生に一度はスタンディング・オベーションを受けなきゃならないっていう法律があるべきだ」と思う。オギーが起こした“Wonder”は彼に喝采をもたらした。彼の成長と彼の素晴らしい家族や友人たちに読者として最高のスタンディング・オベーションを捧げたいと思う。

 本作は、映画化されて2018年6月に全国公開されるそうです。

wonder-movie.jp

花田菜々子「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(河出書房新社)-出会い系サイトを通じて出会った人たちはそれぞれ個性的な人ばかり。もし、私が著者と出会っていたらどんな本をすすめてもらえただろうか?

著者は、下北沢他のヴレッジヴァンガード二子玉川蔦屋家電、日暮里のパン屋の本屋などの店で店長をつとめてきた。現在は、日比谷シャンテに新しくオープンした『HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE』の店長をしている。本書は、著者初の著作になる。

www.hmv.co.jp

「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(以下、長いので「であすす」と記す)は、夫との関係が壊れてしまった主人公の〈私〉が深夜のファミレスでひとり時間を潰している場面からはじまる。〈私〉は、午前2時がくるのを待っている。近くのスーパー銭湯は、6時間以上滞在すると延長料金を取られるため、ギリギリの時間までこうしているのだ。

夫と別居し一人暮らしをはじめた〈私〉は、『X』という出会い系サイトを知る。「知らない人と30分だけ会って、話してみる」という内容のウェブサービスとして紹介されていた『X』に彼女は登録してみることにした。そこには、今まで彼女が知ることのなかった世界が存在していた。

出会い系サイトのようなものには違いないのだろうが、出会いを異性との恋愛目的に限定していないからなのか、後ろ暗さはなく、おしゃれな感じすらする。私がイメージする「出会い系」とは全然違う。学生さん、おじさん、若いOL風のきれいな女の人、サラリーマン、高そうな自転車で都会を走っていそうな人、いろんな人がこのサイトの中に実在しているのだ。

 

種々雑多で個性的な人たちが集まる「X」で、〈私〉はあることをやってみようと思い立つ。彼女は、自分のプロフィール欄にこう書き込んだ。

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を1冊選んでおすすめさせていただきます」

 

こうして、この物語は始まった。

出会い系サイト「X」上の登録データでも個性的な人たちは、実際に出会ってもやはり個性的だ。親切そうな感じで近づいてきて、いろいろと教えてくれた挙げ句に結局目的はセックスだったという出会い系にはよくいそうなタイプの人がいれば、一方的にまくしたててくるタイプの人もいる。せっかく本をすすめても、あまり興味をもってもらえないこともある。いきなり手品を披露する人。メンタリズムを勉強しているらしい人。男の人ばかりではなく女性とも会ってみたりして、そのたびにその人に合いそうな本をすすめていく。

出会った人の中には、その出会いをきっかけに友だちとして長く付き合う関係を築けた人もいる。彼、遠藤さんとはその後親しく会って話をし、相談にも乗ってもらうようになっていく。

『X』を通じた多くの人たちとの出会いの経験は、確実に〈私〉の意識を変えていく。知らない人と話すことのハードルが下がると人間は大胆になっていくものだ。〈私〉の方から積極的に話しかけ、会って話をする機会をつくる。こうして、〈私〉は「逆ナンの術」を身につけたのである。黒岩さんや佐久間さんとは、こうして出会い、話を弾ませる。

経験を積んでいくと〈私〉は、「誰とでも友達になれるのでは?」と考えるようになる。

(略)私だってやみくもにアイドルやお笑い芸人と仲良くなりたいわけではない。だけど「会いたい」と言えるだけのちゃんとした理由があれば、そんな特別なことではなく、だいたいの人と会えるものなのかもしれない。

 

〈私〉が会いたい人、それは京都で「ガケ書房」という書店を営んでいる山下さんだった。

結果として、〈私〉が『X』を通じてたくさんの人と出会い、本をすすめてきた本当の目的は、山下さんに会って話をするだけの経験を重ねるためだったのかもしれない。はじめは興味本位からスタートし、出会い系サイトの中でちょっと目新しいこととして出会った人たちに、その人に合いそうな本をすすめてきた。出会いの数を重ねていって、次第に大胆さを身につけた〈私〉は、その経験の勢いで「ガケ書房」の山下さんにアプローチし京都まで行ってしまう。もし、『X』での経験がなかったとしたら、〈私〉は今でも山下さんを「いつか会って話したい人」として遠くから見ているだけだったかもしれない。『コミュ力』というのとは違うかもしれないけど、人と会う経験はやはり貴重なのだと感じる。

「であすす」は、「WebMagine温度」というWebサイトで連載されていて、私は連載中から読んでいた。とにかく長くてインパクトのあるタイトルと出会い系サイトを舞台にしたエッセイ風の小説(逆かもしれない)というのは、なんとか興味を惹かれる内容だし実際読んでみると面白かった。

ondo-books.com

著者の花田菜々子さんのことも知っていた。Twitterで相互フォローもしている。ただ、実際にお会いしたことはない。本書の中で〈私〉が「ガケ書房」の山下さんを一方的に知っていたように、私にとっての花田さんも一方的に知っている書店員さんなのである。

私もいつか、花田さんと直接お会いできるときがくるだろうか。「会いたい」と思えば、そしてちょっとした行動力と大胆さがあれば、きっと会うことができるに違いない。そう思っている。

【補足】

本書に登場する「ガケ書房」は、2015年に移転して「ホホホ座」と改名しています。

 

ティム・ヘイワード/岩田佳代子訳「世界で一番美しい包丁の図鑑」(エクスナレッジ)-切って良し、刺して良し、刻んで良し。見よ、この美しき包丁の世界!

キッチンの照明を反射して妖しく煌めく刀身。その切っ先はあらゆるものを突き刺し、深く深く潜り込もうとするかのように鋭く尖っている。刃の根元から素材にあてがってスッと引けば、薄く削ぎ落とされた肉片がはらりと落ち、その断面には薄っすらと脂が光る。相手は我が身が切られていることにも気づきもしない。

「世界で一番美しい包丁の図鑑」は、最初から最後まで、包丁、包丁、包丁。世界にはこんなにたくさんの種類の包丁が存在しているのかと、ただただ感心してしまう図鑑なのである。

あなたの身の回りにあるもので唯一無二の存在といえば、キッチンで使うナイフや包丁ではないでしょうか。(中略)たとえば、よほど特別な人でない限り、肉を切るために持っている道具といえば、ナイフや包丁だけでしょう。けれどよく考えてみてください。あなたのキッチンに置いてあるのは、刃渡り20センチほどの危険極まりない鋭利な“兵器級の”金属、しかも装填ずみの拳銃と同等の殺傷能力秘めたものです。なのに、基本的にそれを使うのは、家族のために愛情をこめた料理をつくるときに限られているのです。

 

『はじめに』の書き出し部分を引用してみた。このあと、「恐ろしい面を秘めていながら、家庭になくてはならないのはナイフだ」と著者は続ける。確かにそうだ。ナイフや包丁がなかったら私たちの生活は相当に厳しいものになるだろう。

余談だが「もしナイフや包丁がなかったら」でこの動画を思い出した。チョップで野菜を切り、歯で髪を切る。刃物の街である岐阜県関市のPR動画だ。発表当時にけっこう話題になっていたので見たことがあるかもしれない。シュールで面白い動画である。

www.youtube.com

「世界で一番美しい包丁の図鑑」は、ナイフ/包丁の構造(各部位の名称)、包丁の持ち方、包丁の使い方(切り方)、包丁の素材、作り方、世界的に有名なメーカー(イギリスにあるブレニム工房)とナイフ職人、さまざまなナイフ/包丁の種類と用途など、ナイフ/包丁に関するあらゆる情報が次々と登場する。刃物好き(やや危ない感じになるが)ならたまらない情報がてんこ盛りである。最初から丹念に読み込んでいってもいいし、興味がある内容を拾い読みするのもいいだろう。

ナイフ/包丁の種類を解説するページでは、西洋の包丁、中国の包丁、日本の包丁(和包丁)が紹介されている。ひとつの包丁を見開きで解説していて、片側のページが包丁の写真、反対側のページが解説という構成だ。西洋や日本の包丁には、対象とする素材や用途に応じていくつか種類があるのに対して、中国の包丁には定番ともいえるあの大きな四角い包丁しかないのが面白い。

本書を読んでいくと、やはり日本の包丁が抜きん出た存在であることがわかる。西洋の包丁も用途に応じて種類があるのだが、日本の分類に比べると大雑把だ。日本の包丁は、魚をさばく場合でも出刃包丁があり柳刃包丁があるし、野菜を切るときの菜切り包丁、巻きずしを切り分けるときの包丁、うなぎをさばくときの包丁など、用途の区分けが細かい。

また、日本の包丁職人の技術もレベルが高い。本書では、大阪・堺の町工場を舞台に包丁職人の仕事がマンガで描かれている。マンガといっても、数ページ分の職人の仕事紹介程度でストーリーらしいものは特にないのだが。

とにもかくにも、ナイフ/包丁について詳しく知りたいのなら、本書はピッタリの一冊だ。

 

キャシー・アッペルト&アリスン・マギー/吉井知代子訳「ホイッパーウィル川の伝説」(あすなろ書房)-突然、大好きなシルヴィを失ってしまったジュールズは、「あのときどうして・・・」と自分を責める。そんな彼女の前に現れたのは一匹の子ギツネだった。

「ホイッパーウィル川の伝説」を読もうと思ったのは、『本が好き!』で開催中の『2018春のやまねこ祭!』への参加が目的なのだが、その前にひとつきっかけとなったことがある。

それは、〈やまねこ翻訳クラブ〉の会員でもある翻訳者・中村久里子さんのツイートだった。このツイートに記されたリンク先「こころフォト~忘れない~」に掲載されていたのが、東日本大震災津波で亡くなった岩手県宮古市の女性の遺された息子さんが中学生になって書いた読書感想文だった。その課題図書が、本書「ホイッパーウィル川の伝説」なのである。

 

www.nhk.or.jp

「ホイッパーウィル川の伝説」のレビューを、私はこの少年より上手く書くことは絶対できない。テクニカルな意味では書けるかもしれない。しかし、彼の書いた感想文には、彼でなければ書くことのできない重く、辛く、そして悲しい経験がある。まるで、この物語が彼のために存在したかのように、彼があの日母親を失ってからの日々を慰めるようにこの本は彼の手に渡されたのだ。

「ホイッパーウィル川の伝説」は、シルヴィとジュールズのふたりの姉妹の物語だ。ある雪の朝、まだ学校へ行くスクールバスが来る前、ふたりは家の前で雪だるまを作って遊んでいる。パジャマの上からパーカーを着てミトンの手袋をはめたふたりは、せっせと雪だるまを作る。

ふたりには、パパと交わした大事な約束〈パパ憲法がある。

家から呼ぶ声が聞こえないほど遠くへ行ってはいけない。
野生動物に手を出してはいけない。
スクールバスに乗りおくれてはいけない。
なにがあっても、絶対に、奈落の淵に近づいてはいけない。

なかでも、奈落の淵へ近づくことを禁じた約束はいちばん大事な約束だ。だけど、ふたりはパパに内緒で奈落の淵に行ってる。もう何十回、何百回も。それは、願い石を奈落の淵から投げるため。そうすれば、願い石に書いた願いが叶うと信じているから。だから、その雪の朝もシルヴィは奈落の淵に向かって走っていった。足の速いシルヴィなら、スクールバスが来るまでにすぐ戻ってこれるはずだった。だけど、シルヴィは戻らなかった。

たったひとつ、自分が誤ったことで不幸なことが起きる。それは、その人にとって、悔やんでも悔やみきれない、一生重くのしかかってくることだ。雪の朝、シルヴィが奈落の淵から戻ってこなかったこと。あのとき、もっと強く引き止めておくべきだった。なぜ、シルヴィを行かせてしまったのだろう。ジュールズの心に深く傷は刻まれてしまう。「特別なともだち」のサムも彼女を立ち直らせることはできない。

シルヴィが奈落の淵で姿を消した頃、森のなかで子ギツネが生まれた。セナという名前のメスの子ギツネは〈ケネン〉だ。ケネンとは、魂とつながった存在。この世に生を受けたセナは、自らのケネンとしての役目に導かれるように、ジュールズと出会う。

「ホイッパーウィル川の伝説」は、絆の物語だ。シルヴィとジュールズ、パパとジュールズ、ママとシルヴィとジュールス、サムとエルク、エルクとジーク、エルクとピューマ、そしてジュールズとセナ。人と人、家族、親友の絆、人間と野生動物たちとの絆、生者と死者の絆。つながりは時に脆く、しっかりつかまえていないと離れていってしまう。だけど、たとえ切れた絆でもきっとまたいつかつながるときがくる。ときにそれは形を変えて。

冒頭で紹介した少年の感想文にも、少年と母との絆がはっきりと見える。あの日、母は津波によって少年の手から奪われ、母子の絆は失われてしまった。少年の喪失感はいかばかりであったろうか。時が経ち、成長して「ホイッパーウィル川の伝説」を読んだ少年は、母親との絆が永遠に失われてしまったのではないことに気づいたのだろう。少年の感想文のラストには、そのことがしっかりと記されている。

少年につながりの存在を教えてくれた「ホイッパーウィル川の伝説」。この悲しいけれど温かい物語を書いた著者と、そして少年や私たちに届けてくれた翻訳者に心からの感謝を伝えたい。

ジョゼ・ジョルジュ・レトリア文、アンドレ・レトリア絵/宇野和美訳「もしぼくが本だったら」(アノニマ・スタジオ/KTC出版)-わたしが本だったらなにを願うだろう。わたしの本たちはなにを願っているだろう。

小田急線の豪徳寺駅を下りて数分、住宅街の中に『ヌイブックス』という一軒の小さな本屋さんがあります。こじんまりとした店ですが、店主さんのセンスが感じられる素敵な棚に並ぶ本や雑貨の数々はとてもおしゃれです。

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この本「もしぼくが本だったら」は、ヌイブックスの棚の下の方に何気なく並べられていました。見つけたときすぐに「これは絶対に買うべき本だ」と感じました。

もしぼくが本だったら

 

このフレーズからはじまる28の言葉たちは、本が好きな人ならばきっと共感できる言葉たちです。

もしぼくが本だったら
つれて帰ってくれるよう
出会った人にたのむだろう

 

もしぼくが本だったら
ぼくのことを〈友だち〉とよぶ人に
夜がふけるまで読まれたい

わたしがこの本とヌイブックスの棚で出会ったように、本もわたしたちとの出会いを待っています。出会った本を抱えて家に連れて帰るときのワクワクした気持ちは、何ものにも変えられません。そして、その本のページを開いたら、きっと時間の概念はどこか遠くへ消えてしまうでしょう。

もしぼくが本だったら
本棚のかざりにするのは
かんべんしてほしい

 

もしぼくが本だったら
流行や義務で
読まれるのはごめんだ

楽しくなる、嬉しくなる言葉ばかりじゃありません。ときに、胸に刺さる厳しい言葉もあります。ついつい調子に乗ってたくさん本を買ってしまうわたしには、「本棚の飾りにはしないで」と願う本たちの声に、いつも申し訳なく思っています。いつかきっと読んであげるよ、と誓うけれど、読めない本が増えるばかり。

「有名な文学賞を受賞したから」とか「ベストセラーとして評判だから」とか、ふだん本をあまり読まない人の中にはそういう理由で本を手に取る人もいるでしょう。出版不況といわれている中で、どんな理由でも本を手にして買ってもらえるのは嬉しいことかもしれません。でも、やはり本は読んで欲しがっているのです。買った本は読んであげて欲しいと思います。と、わたしのように読めない本をたくさん抱えている人が言っても説得力はありませんね。

本との出会いは一期一会です。この本「もしぼくが本だったら」と出会えたこともそうです。そして、その出会いの場となってくれたヌイブックスさんや、他のたくさんの本屋さんとの出会いも大切な出会いだと思うのです。本屋さんには、きっとたくさんの本との出会いがあるのです。だから、わたしは本屋さんに行き、そしてたくさんの本と出会うのです。

安達祐介「本のエンドロール」(講談社)-普段はあまり気にしたことはなかったけれど、私たちが本を読めるのは、その本を印刷・製本してくれる人たちの存在があってのことだと気づかされた。

この本を知ったのは、2月に『神楽坂モノガタリ』という書店で行われたイベントで、三省堂書店の新井見枝香さんが「ゲラで読んでメチャクチャ面白かった」と絶賛していたからだ。その後、出版社が発売前の作品のゲラを提供している『NetGallery』というサイトで本書も公開されていたので、リクエストして読み始めた。本当にメチャクチャ面白かった。

www.netgalley.jp


「夢をお聞かせいただきたいのですが」

質問に立った女子学生は、両手でマイクを握り締め、緊張した面持ちで訊ねた。
豊澄印刷株式会社営業第二部のトップセールス・仲井戸光二は座ったままマイクを手に取った。
「夢は、目の前の仕事を毎日、手違いなく終わらせることです」

本書は、学生向けの就職説明会の場面からはじまる。営業マンとして成績優秀な仲井戸の味も素っ気もない言葉に、同じ営業マンである浦本学ぶは憤る。そんな浦本の気持ちはおかまいなしに仲井戸は困惑する学生たちに向けてさらに続ける。

「私たちの仕事は印刷業です。注文された仕様を忠実に再現する仕事。夢は何かと訊かれて、強いて言うなら今お答えしたとおり、目の前の仕事を毎日手違いなく終わらせることです」

本が私たちの手元に届くとき、それは紙に印刷され、製本され、完成した商品として届けられる。作家がどれだけ気持ちをこめて物語を紡ぎ出そうが、装丁家がどれだけ時間をかけてデザインを考えようが、最後にそれを〈本〉という形にして私たち読者に与えてくれるのは、印刷会社であり、製本会社の仕事があってこそのことだ。印刷・製本の機能が正しく機能していなければ本は出来上がらない。仲井戸の言う「目の前の仕事を手違いなく終わらせる」とは、まさに印刷・製本の機能を正しく実現するということだ。

でも、それでは印刷会社には夢がないのか。浦本は、同じ質問に対して、仲井戸に反発するように答える。

「私の夢は…印刷がものづくりとして認められる日が来ることです」
話しながら、就活生たちに少しでも夢を感じてもらえる言葉を、頭の中で模索する。
「本を刷るのではなく、本を造るのが私たちの仕事です」
言葉につられて、気持ちが熱を帯びる。
「印刷会社は…豊澄印刷は、メーカーなんです」

物語が完成しただけでは本はできない。印刷会社、製本会社が本を造る。その考えは、浦本も仲井戸も共通している。浦本は、だから印刷会社は本を造るメーカーなのだと考え、仲井戸は、だから印刷会社はその機能を果たすことが使命だと考える。その違いが、ここから始まる物語の軸となっていく。

〈ものづくり〉の現場に立って重要な役割を担っていると考える浦本は、その気持ちが空回りしてときに窮地に陥る。生産管理部に迷惑をかけ、印刷工場の現場に無理な対応を押しつける。作家、装丁画家、編集者の無理難題や理不尽な要求、強引な手法に翻弄され、周囲をトラブルに巻き込みながら、彼は印刷会社の営業マンとして成長していく。

本書の魅力は、本が生まれるまでのプロセスを丁寧に描いているところだと思う。本のページデザインや印刷工程の管理、カラー印刷に必要な色の調合、機械のメンテナンス、誤植の対応、その他様々な工程やトラブルへの対応を経て、本を本としての形を得る。

だが、彼らの頑張りや苦労を私たちはほとんど知らない。彼らの存在は、本の巻末にある奥付に記された会社名の中に埋もれている。

そんな埋もれた人たちの存在に光をあてたのが、本書「本のエンドロール」なのだ。エンドロールとは、映画の最後に流れるスタッフロールを指す。映画では、監督やプロデューサー、出演者だけでなく、すべてのスタッフたちの名前がエンドロールに記されている。本も同じなのだ。作家や装丁家、発行人以外にも、一冊の本に関わるスタッフはたくさんいるのだ。

本書では、最後にこの本に携わったすべてのスタッフの役割と名前が記されている。印刷営業、本文進行管理、校正、刷版、本文印刷機長、印刷オペレーター、製本進行管理、仕上げ、表紙貼り、スリップ・ハガキ印刷、配送、配本など、ひとつの本を作るためにこれだけ多くの人がそれぞれの役割を果たしているのだということに驚き、同時に感謝する。

本はこうして生まれるのだ。こんなに多くの人の手を介して生み出されるのだ。そのことに改めて、いやきっと初めて気づくことができた。

横田創「落としもの」(書肆汽水域)-不思議で不気味で癖になる。そんな味わいの短篇集

書店の店頭で見て、なんだか気になる本というのがある。横田創「落としもの」は、まさにそういう本だった。

著者は、2000年に「(世界記録)」という作品で群像新人文学賞を受賞し、2002年には「裸のカフェ」で三島由紀夫賞の候補にもなっている。これまでに「(世界記録)」、「裸のカフェ」、「埋葬」を刊行しているが、現在はどれも新刊での入手は難しい。余談だが、Amazon横田創の著作を検索したところ単行本第一作となる「(世界記録)」には5万円の価格がついていた。

本書「落としもの」は、前作「埋葬」以来、およそ8年ぶりの単行本である。版元『書肆汽水域』は、東京丸の内の「KITTE」4階にある「マルノウチリーディングスタイル」という書店を手がけた北田博充氏が立ち上げた出版社だ。

jptower-kitte.jp

「落としもの」には、「ユリイカ」、「新潮」、「群像」、「すばる」に2007年から2009年にかけて発表された6篇の短篇が収録されている。

収録作品
 お葬式
 落としもの
 いまは夜である
 残念な乳首
 パンと友だち
 ちいさいビル

冒頭に収録されている「お葬式」を読んだときには、まだ普通の短篇集だと思っていた。祖母のお葬式で火葬場に行くことを拒む母。長い介護生活の疲れと母を失った悲しさが彼女をそうさせているのだろう。特に奇をてらったわけでもないように思えた。

ところが、読み進めていくと次第に作品のおかしさが見えてきた。それは、「お葬式」だけではない。収録されているすべての作品が、不思議で不気味な雰囲気を醸し出しているのだ。

表題作「落としもの」は、タイトルの通り、『落としもの』に異様な執着を見せる女性の話である。落ちている物が気になって仕方がない。取り残されて迷っている見ると落ち着かない。放置されている雑草も気になる。彼女はあるとき、飼い猫が家を抜け出していくあとをついていく。そして、究極の『落としもの』を見つけるのである。

それぞれの短篇は、読み始めこそ、ややもするとありきたりな印象を受けてしまうが、すぐにそれが間違いであると気づく。読み始めは、「あぁ、そういう話なのね」とわかったような気持ちだったのが、いつしか「なに、この展開、どうなるの?」と期待が膨らみ、さらに読み進めていくと「・・・」と言葉を失い、最後には「とんでもないものを読んでしまった」とため息をつく。

この感じの物語は、好き嫌いがはっきり分かれるだろうと思う。私は完全に好きなタイプの物語だ。横田創という作家の存在を今まで知らずにいたのがもったいないと思ったほどに、本書でその作品世界にハマってしまった。過去に発表、刊行された作品がすべて本書の同じタイプの作品かは、実際に読んでみないとわからないが、過去作品への期待値はあがっているので、探して読んでみようと思っている。