タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

相川英輔「雲を離れた月」(書肆侃侃房)-ジワジワとにじり寄ってくるような恐怖感

背筋をスーッと走る冷たいもの。相川英輔「雲を離れた月」を読みながら、そして読み終わってから感じた恐怖感。不安感。なにやら得体の知れない不安な気持ち。

「たべるのがおそいVol.3」に掲載された掌編「エスケイプ」を含む4つの短編が収録された短編集。澤西祐典「文字の消息」、大前粟生「回転草」と同時に刊行された本書は、澤西、大前の両作品と同様に奇妙な物語を描いている。

s-taka130922.hatenablog.com

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相川作品が、他の作品と違うのは、そこに描かれる世界がより日常に近いということだと思う。

「雲を離れた月」は、ちょっとした好奇心でやってみた御狐様で「二十歳までに三人死ぬ」のお告げを受けてしまった4人の物語である。御狐様のお告げで人が死ぬというオカルトホラー小説として始まるが、中盤になって主人公の源が酒見と再会するところから、人間の狂気の物語へと姿形を変えていく。

「ある夜の重力」には、それぞれに不安と孤独を抱えた3人の男女が登場する。重力の研究に没頭し他人との距離をとってきた光安は、心の病で常に覆面をつけたままの榊と役者を目指す春と出会う。事情を抱えた3人の関係を描く物語は、ありきたりな青春ストーリーである。王道と言ってもいいかもしれない。でありながら、どこかに非日常があるような気がする。それが、光安が研究する重力であり、重力の存在が物語の巧妙な味付けになっている。

「7月2日、夜の島で」は、誕生日を譲渡するという明らかな非現実でありながら、どこか現実にありそうな設定が面白い。ギャンブル依存におちいり大学の学費までパチンコにつぎ込んでしまう渕上は、元カノの佐織から50万円を受け取る条件として自分の誕生日7月2日を譲渡する。誕生日というアイデンティティを失うとはどういうことか。そこに著者の想像力が存在している。

エスケイプ」は、ホームステイ先の劣悪な環境に耐えきれず逃亡を図った日本人留学生が、追いつめられたトウモロコシ畑の中で出会う不思議な体験を描く。その体験は、現実なのか妄想なのか。

一連の作品は、どれも日常の中か、日常の延長線上にある。その日常を過ごす中でいつの間にか忍び寄ってくるような恐怖や不安がそれぞれの作品から感じられる。物語から、ジワリジワリと恐怖や不安が読者ににじり寄ってくるような感じがする。でも、この後からジワジワくる感覚は嫌いじゃない。

文字の消息

文字の消息

 
文字の消息

文字の消息

 
回転草

回転草

 
回転草

回転草

 
ハイキング (惑星と口笛ブックス)

ハイキング (惑星と口笛ブックス)

 

 

ミシェル・ウッド絵/トヨミ・アイガス文/金原瑞人訳/ピーター・バラカン監修「リズムがみえる」(サウザンブックス)-強い印象を与える絵とそこから生まれた詩によって描かれるアフリカ系アメリカ人音楽の歴史

「リズムがみえる」は、500年以上にわたるアフリカ系アメリカ人の音楽の歴史を描き出す。ミシェル・ウッドが描く力強くて印象深い画風の絵と、その絵にインスピレーションを得て綴られたトヨミ・アイガスの詩が織りなす世界は、本書のタイトルのとおり『リズムがみえる』ようだ。

アフリカの大地で鳴り響くリズムは、黒人たちが奴隷として新大陸へ連れられてきたことでアメリカの音楽になっていく。綿花のプランテーションで歌われた音楽は、やがてブルーズとなり、ジャズとなり、スウィングとなり、ゴスペルとなり、リズム&ブルーズとなり、ファンクとなり、ヒップホップとなる。その流れの中で、様々な音楽が派生し、多くのアーティストが生まれ、アフリカ系アメリカ人の音楽は世界中に広まっていく。

私は、音楽に精通しているわけではないし、音楽の歴史にも詳しくはない。それでも、本書が描き出す様々なリズムは、きっとどこかで聞いたことがあるリズムのはずだ。今、私のまわりに溢れている音楽のほとんどがアフリカ系アメリカ人音楽にルーツを有しているのだと感じてしまう。

巻末のあとがきで、訳者の金原瑞人さんが記している。

もし黒人音楽がなかったら、いまの世界の音楽はなんと貧相なものになっていただろう。

本書に描かれるリズムの歴史が完全な空白だったとしたら、今の音楽はどんなリズムで彩られていたのだろう。金原さんが記すように貧相なリズムが蔓延った世界になっただろうか。それとも、別の形で新しいリズムが生まれていただろうか。

事実としての歴史に「もし」はない。今、こうして様々なリズムが世界を満たし、私たちの心を満たし、幸福にしてくれている。それでいい。それでいい。

魂(ソウル)のゆくえ

魂(ソウル)のゆくえ

 

 

デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン文/ジュリー・フレット絵/横山和江訳「わたしたちだけのときは」(岩波書店)-おばあちゃんはどうしてきれいないろのふくをきてるの?そこにはおばあちゃんの悲しくてつらい過去ありました。

「おばあちゃんはどうしてきれいないろのふくをきてるの?」

本書「わたしたちだけのときには」で、孫娘のわたしはおばあちゃんに「どうして?」と繰り返したずねます。おばあちゃんは、わたしの問いかけにひとつひとつ答えます。

おばあちゃんは、こどものころに家から遠くはなれた学校へいかされて、きめられた服しか着ることができませんでした。友だちもみんな同じ寂しい色の服でした。

あの人たちは、わたしたちに、きれいないろのふくをきせたくなかったんだろうね。

おばあちゃんはいいます。

でも、秋になって、はっぱが黄色や赤にかわると、地面にねころがったよ。わたしたちだけのときはね。

さびしいいろの服にたくさんの赤や黄色のはっぱをつけて、いろとりどりの服を装ったおばあちゃんたち。どうして、おばあちゃんたちは、そんな悲しくてつらいことを経験しなければならなかったのでしょう?

そこには、おばあちゃんが暮らした場所、おばあちゃんの家族、そして本書で「あの人たち」とよばれる人たちの存在がありました。その大きくて強い「あの人たち」が、おばあちゃんたちを苦しめ、自由を奪い、さらに人間性も奪おうとしたのです。

おばあちゃんたちは、長く苦しい日々を生きました。だから、やっと手に入れた自由をカラフルな服を着たり、髪を伸ばしたり、自分たちの言葉で話したり、家族と仲良く暮らしたりすることに、思う存分使えるのです。

私たちの身近には、この物語のおばあちゃんのような経験をした人はおそらくいないだろうと思います。だから、正直、その背景を知らないままで本書を読むと、あまりピンとこないかもしれません。ですが、最初に読むときは、ぜひ予備知識なしで読んでほしいと思います。そして、巻末の解説を読み、おばあちゃんたちの歴史を知ったら、あらためて読み返してみてください。きっと、最初に読んだときと二度目に読んだときでは印象が変わると思います。

サッサ・ブーレグレーン/枇谷玲子訳「北欧に学ぶ小さなフェミニストの本」(岩崎書店)-「なぜ世界のリーダーはおじさんばかりなの?」。一枚の写真を見て感じたエッバの疑問をきっかけに、彼女と一緒にフェミニストについて学んでみる。

フェミニズム
女の子と男の子の間に不平等があることに気づき、それに対し何かしようとすること

本書「北欧に学ぶ小さなフェミニストの本」の120ページにある『フェミニズムの基本用語集』の一番最初に記されているのが【フェミニズム】という言葉の定義である。

サッサ・ブーレグレーン「北欧に学ぶ小さなフェミニストの本」は、男女平等社会の実現についての先進国であるスウェーデンで出版された子ども向けの本である。主人公となるのは10歳の少女エッバ。彼女は、あるとき新聞に掲載されていた一枚の写真に気づく。それはG8サミットに参加した先進8ヶ国のリーダーたちの集合写真で、そこには8人の各国リーダーたちが並んで写っており、その全員が男性だった。

どうして女の人がひとりもいないの?

 

エッバは疑問を感じた。この世界には、男がいて女がいる。若者もいれば老人もいる。白人もいるし有色人種もいる。なのに、世界のリーダーとされる8人には、ひとりのアジア人を除けば白人しかいない。しかも全員おじさんだ。

女の人はリーダーになれないの?

そこから、エッバの男女平等に対する調査がはじまる。友人たちと『フェミ・クラブ』を作り、男女平等について話し合う。

女性の権利について、昔から女性たちは声をあげ闘ってきたことを知る。メアリー・ウルストンクラフトが「女性の権利の擁護」を書いた200年前から、ずっと女性たちは声をあげつづけてきた。そして少しずつ権利を勝ち取ってきた。選挙権の獲得。様々な活動への女性の参加の実現。それでも、まだ世界には男女の不平等が存在している。女性が活躍することに対する差別や偏見がある。

世界の男女格差を数値化した『ジェンダーギャップ指数』というデータがある。そのデータによると、本書の舞台であるスウェーデンジェンダーギャップ指数が0.816で世界第5位と上位にランクされている。では、日本はどうだろうか。日本のジェンダーギャップ指数は0.657で、ランキングは世界第114位。かなり下位だ。このデータだけで見ると日本は男女不平等社会と言ってもよいくらいである。

現実に私たちの周囲をみれば、日本は女性の権利があまり尊重されていないことに気づく。自分が働いている会社で、女性の経営者はいるか、管理職の女性比率はどのくらいあるかを確認してみる。十分に女性の地位が確立されている会社もあるだろうが、多くの会社で経営者、管理職の多くあるいは全部を男性が占めているところが多い。

国会議員はどうか。スウェーデン議会における女性議員の割合は43.6%であり世界第5位日本の衆参両院をあわせた全国会議員における女性議員の割合は13.7%で世界第140位である。スウェーデンでは議員の2人に1人が女性なのに対して、日本では議員の10人に1人が女性である。

www.globalnote.jp

最近、女性活躍や多様性という言葉をよく耳にする。現実にはまだまだ男女平等にはほど遠い状況の中で、どのように平等な社会を実現していけばよいのだろうか。

本書の中でエッバがおばあちゃんに「わたしは何をしたらいいの?」と尋ねる場面がある。おばあちゃんはこう答える。

それは自分で考えたらいい。わたしは、わたしにできることをした。今はあんたがバトンを受け取ったんだ。今は時代がちがうんだ。昔とは別のやり方でやらなくちゃ。それに新しいアイディアも、今若いあんたたちが考え出せるはずだよ!

この本を読んで、自分のフェミニズム意識が薄かったことに気づかされた。あらためて、自分の周りを見回してみて、自分が男性という立場に甘んじてきたことに気づいた。そして、自分の周りには才能にあふれ実力のある女性がたくさんいることに気づいた。

こうした気づきを得られたことが、この本を読んで私が得た最大の収穫だったのだと思う。

西島大介「アオザイ通信完全版#3~旅の終わりと始まり」(双子のライオン堂)-全3巻ついに完結!「ディエンビエンフー」のサブテキストとしてベトナム戦争を知り、西島大介の世界を知ろう!

liondo.thebase.in

ベトナム戦争を舞台とし、西島大介の代表作となった「ディエンビエンフー」。その“本当の終わり”として刊行されてきた「ディエンビエンフーTRUE END」全3巻が完結した。それに合わせて、「ディエンビエンフー」の補足的に描き続けられてきた「アオザイ通信」も、本書「アオザイ通信完全版#3~旅の終わりと始まり」をもって全3巻が完結となる。

アオザイ通信完全版#1~食と文化」では、サブタイトルの通りベトナムの食と文化について描かれたものをまとめ、さらに「ディエンビエンフー」の執筆に関するエピソードなどについて語った一万字インタビューの前編が掲載された。

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 アオザイ通信#2~歴史と戦争」は、#1が比較的優しい内容だったのに対して、ベトナム戦争という悲劇的で残酷な戦争という実態をベトナムが抱えてきた歴史を背景に解説する内容のエッセイマンガと一万字インタビュー後編で構成されていて、日本からは遠いベトナムで起きた事実を知ることができた。

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 今回、完結となる「アオザイ通信完全版#3」が描くのは、ベトナム戦争がなぜ起きたのか、ベトナム戦争とはどのような戦争だったのか、なぜ戦わなければならなかったのかということ。「ディエンビエンフー」が“TRUE END”として完結するまでの紆余曲折。完結に対する西島氏の思い。「ディエンビエンフー」執筆のための取材その他でベトナムを訪れたときのエピソードなどで構成される。

ベトナム戦争の背景を知るという意味では、「4ページでわかるベトナム戦争と題し、Part1~Part3で解説するマンガがわかりやすい。漠然と『ベトナム戦争は、当時の東西冷戦を背景にしたアメリカとソ連の代理戦争』というイメージで捉えていたが、これを読むともっと複雑なものであったとわかる。また、アメリカがベトナム戦争の泥沼から抜け出せなくなっていく状況もわかる。

西島大介人生通信(特別編)」として行われたロングインタビューには、「ディエンビエンフーTRUE END」の完結にあたり、これまで西島氏が「ディエンビエンフー」を描くために歩んできた道のりを振り返りつつ語っている。あらためて、いろいろと大変な状況で描き続けられてきた作品なのだということがわかったし、なにより西島氏自身が「ディエンビエンフー」という作品に入れ込んでいたということがよくわかった。

#2の次巻予告に『第3号のテーマは「旅!?」』とあって、#2のレビューには『!?』が気になると書いた。刊行された#3を読んで、「なるほど、これは『いろいろな意味で』旅だ」と感じた。ベトナム戦争を知るための旅。「ディエンビエンフー」を描き切るための旅。それらはすべて西島大介というマンガ家の人生の旅なのかもしれない。

西島大介がマンガ家人生を賭けて(おおげさ?)描き切った「ディエンビエンフー」と「ディエンビエンフーTRUE END」だが、実はまだ読んでいない。#2のレビューで「ディエンビエンフー」全6巻のKindle版は購入したと書いたが、「TRUE END」は入手もしていない。このレビューを書きながらAmazonを検索してみたら、なんと今(2018/9/21時点)なら、全3巻合わせて756円で買えるではないか!

ということでさっそくポチりました。読んだらレビューします。いつ読むかは未定ですが(笑)

 

村山早紀「はるかな空の東」(ポプラ社)-〈千年の歌姫〉の宿命を背負い、呪われた予言と対峙する少女の物語。私も少年だった頃に読んでおきたかった。

ライトノベル系のファンタジー小説を読むのは、もうずいぶんと久しぶりのことだった。

村山早紀「はるかな空の東」は、1997年に刊行された作品に最終章を新たに書き下ろして文庫化された作品である。1993年にデビューした著者の作品の中では初期の頃の作品になる。

邪神セリファエルに祝福され、その呪いすらもその身に受けた魔術師によって双子の王女が生き別れになるところから物語の幕はあがる。王女のひとりは、魔術師によって光の塔へ閉じ込められ、ひとりは宮廷魔術師であるハヤミとその仲間たちによって命を救われ王国から逃亡する。

それから5年、異世界で暮らすナルは夜毎夢に現れる風景に悩まされていた。彼女の夢に現れるのは、いつも同じ少女の姿。その少女はどこか自分に似ているように思えた。

ナルと彼女の夢に現れる少女トオヤのふたりこそ、あの日生き別れになった双子の王女だった。ナルは運命に導かれるようにトオヤの生きる世界へとやってくる。そして、トオヤが幽閉されている光の塔を目指して旅をする。

大人になって少年少女向けに書かれたライトノベル作品を読むと、子どもの頃に読んだのとは違う発見があると、今回「はるかな空の東」を読んで気づいた。

「はるかな空の東」は、何もわからないひとりの少女ナルが、運命に導かれて双子の姉トオヤを救い出すために旅をする物語だ。旅の道中でナルはたくさんの人たちと出会い、ときにその人たちに救われ、またときにその人たちを救う。そこには、人間とは弱い生き物であり、多くの人たちと出会い別れることで弱さを強さに変えられるのだと描かれている。

トオヤを幽閉し世界を滅ぼそうとしている魔術師の強大な力は、弱き人の個の力では立ち向かうことはできない。しかし、ナルはハヤミやミオ、歌姫サーヤ・クリスタライヤたちのサポートを受け、旅を続ける中で自らも成長し能力を開花させることで、強大な敵との闘いという困難に立ち向かう。

初刊から20年を経て文庫化されるにあたって書き下ろされた最終章は、壮絶な魔術師との闘いから20年後のナルたちを描いている。20年後、彼女たちがどのような大人に成長しているのか。私は今回はじめて本書を読んだので、最終章で描かれるナルたちの物語に特別な感傷はなかったが、20年前に本書を読んだナルやトオヤと同世代の子どもだった読者が、ナルたちと同じように成長した大人になって、この最終章を読んだときにどのような感情を抱くのだろうか、少し気になった。

大人になることの意味を考え直しただろうか。
今の自分を見つめ直しただろうか。
あの頃、この本を読んだときの記憶を呼び起こしただろうか。

子どもの頃に読んだ本を大人になって読み返してみると、あの時とは違う感情がわいてくる。子どもの視点とは違う大人の視点で同じ物語を読むことで、あの時とは違うことに気づく。

あの頃読んだ本を大人になって読み返すことの大切さを考えた読書だった。私も20年前に読んでいたら、きっと違う感情になっただろうと思う。もっとも、20年前、もう私は立派な大人だったが(笑)

ケイト・ザンブレノ/西山敦子訳「ヒロインズ」(C.I.P BOOKS)-男は“男”として生きられるのに、女が“女”として生きにくいのはなぜだろう。

この本を読んだ感想をどう書いたらよいか、ずっと迷っていた。

ケイト・ザンブレノ「ヒロインズ」は、著者が書いていたブログを書籍としてまとめたものだ。ケイト・ザンブレノが感じている様々な日々の生きづらさがそこには記されている。

2009年に“Undoing the Novel”コンテストで出版社に見出され、小説家としてデビューしたケイト・ザンブレノは、夫の仕事の関係でロンドン、シカゴ、ニューヨークと生活の場所を変えながら執筆活動を続けてきた。作家・ライターとしての仕事はそれほど多くないため、夫の赴任先で仕事を探すことになる。だが、ここでひとつの問題が彼女の職探しのハードルとなる。

2009年にオハイオ州アクロンという町で暮らすことになった。彼女は、町の大学に職を求めるが英文科の科長から「あなたは文学を教える資格を満たしていない」と言われる。女性文学を教えるのは男性教授であり、彼女が博士号を持っていないからだ。結局、彼女は「女性学入門」という講座を教える仕事につくが、出席している学生はみな一様に退屈そうで授業には興味を示さない。学内の『多様性』のための必修科目だからという理由だけで学生たちは教室に集まっているのだ。

このように、ケイト・ザンブレノは夫の赴任先で職探しをするたびに、女性であることの生きづらさを感じ続けることになる。そして、彼女自身をモダニズム文学作家たち(スコット・フィッツジェラルド、T.S.エリオットたち)と彼らに従順を求められ存在を歪められてきた妻たち(ゼルダやヴィヴィアン)やヴァージニア・ウルフジーン・リースといった作家たちの生きづらさを自らと重ね、彼女たちの苦悩をブログに記していく。

本書で著者が記しているゼルダやヴィヴィアンたちの苦悩は、当時の時代背景であったり、女性に対する偏見によるところが大きい。スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは、彼女自身も優秀な書き手であり、スコットを凌ぐ才能をもって書かれた作品もある。

女性が自らの体験であったり、自らの考えを文学として書き記すと世間からは狂人扱いされる。実際にゼルダも精神病院に入院させられ、精神の安定を図る治療のためとして書くことを禁じられる。自らの言葉で発信することは女性に求められた役割ではないからだ。男性の視点では、女性には『妻であり母であること』がもっとも大切な役割であり、夫や家族に従順であることが求められるのだ。

著者は、本書の中で自らの苦悩と抑圧された彼女たちを引き合いにして、女性が置かれている立場、求められている役割の理不尽さを追求しているのだと、私は読んでいて感じていた。

私は男性なので、本書で著者が記している女性の生きづらさや苦悩に完全に共感できるわけではない。読んでいて、著者がずいぶんと病んでいると感じるところもあった。

自ら発信し表現する女性を一方的に狂人扱いするような時代が正しかったとは思わない。ゼルダやヴィヴィアンが迫害(あえてこの言葉で書いておく)されていたという事実は、少なからず衝撃であった。しかし、時代が経過した現代においても、そこまで極端な女性蔑視はないと思うが(少なくともそう信じたい)、女性が女性として活動するにはまだまだ不十分な社会環境があることも事実だと思う。

今の時代、女性は自由に書くことができているだろうか。そのひとつの答えをケイト・ザンブレノは本書の締めくくりとしてこう書いている。

私たちの物語が伝わる方法はただひとつ、私たちが自分で書くことだ。とにかくあなた自身が、あなたを書かなければいけない。

表現し続けることで得られるものは、きっと大きい。