タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「キャラメル色のわたし」シャロン・M・ドレイパー/横山和江訳/鈴木出版-繰り返し読むことでいろいろなことを気づかせてくれる作品

 

 

2020年が“激動の年”であったと、後年に歴史的に語られるとすれば、その激動のひとつは“Black Lives Matter”(BLM)となるだろう。これまでも、黒人差別に対する抗議活動は活発に行われてきたが、2020年は、5月に起きた『ジョージ・フロイド事件』をきっかけに大きなうねりとなった。

「キャラメル色のわたし」は、一見BLMとは関わりがないようにも思える。しかし、帯にも引用されている訳者あとがきにあるように、本書の根底には黒人差別の問題が紛れもなく存在している。

本書の主人公はイザベラという少女。物語は彼女が語り手(わたし)となる。イザベラは、ピアノを弾くことが大好きな女の子だ。黒人のパパと白人のママの間に生まれた。だから『キャラメル色のわたし』なのだ。

イザベラの境遇を複雑にしているのは、彼女の肌の色ばかりではない。彼女の両親が離婚して、彼女に対する共同親権を有していることが、彼女の生活環境をより複雑でつらいものにしている。

イザベラは、離婚した両親の間で、一週間ごとに双方の家庭で過ごすことになっている。パパの家で一週間暮らしたら、次の週はママの家で一週間を過ごす。その繰り返し。だから、イザベラは日曜日がきらいだ。なぜなら、日曜日はモールを待ち合わせ場所として、パパからママ、ママからパパにイザベラが引き渡される日だから。

この共同親権で週ごとに子どもが離婚した両親の家を行ったり来たりして生活するという制度は、日本には存在しない制度だと思う。もしかすると別れた両親の間での個人的な取り決めとして、そういう生活スタイルをとっているケースもあるかもしれないが、別れたふたりの間で振り回される子どもの負担を考えれば、安易に選べるスタイルではないだろう。なぜなら、この生活環境では、大人の都合ばかりが優先されて、子どもにはなんの権利も与えられないから。パパもママも大好きで、家族で仲良くしたいという気持ちを誰も考えてくれないから。

物語の大半は、イザベラが精神的負担を感じながらも、両親それぞれの家で明るく振る舞おうとする姿が描かれる。彼女の心の内にどのような苦悩や葛藤があるかは察するに余りあるが、ピアノを弾くことが彼女を気持ちを落ち着かせ、救ってくれている。

冒頭で、本書がBLMのうねりについて言及し、その一方で本書が一見するとBLMとは結びつかない印象を受けるかもしれないことに言及した。確かに、要所要所のエピソードでイザベラや家族、友だちが差別的な扱いを受ける場面はあるが、その部分がことさらに強調されているような印象を私は感じなかった。それは、イザベラが置かれた特殊な境遇であったり、その環境の中で明るく振る舞うイザベラの姿が自然に描かれているからだと思う。そもそも、私自身がそういう視点から本書を読んでいなかったということもあるかもしれない。

だが、イザベラがダレンの車で会場に向かう途中に起きる“ある事件”が、それまでほとんど感じさせなかった黒人差別の問題を一気に浮き彫りにする。それは、BLM運動のうねりを生み出すきっかけとなった5月の『ジョージ・フロイド事件』や過去に起きた同種の事件を私たちに思い起こさせ、アメリカに脈々と続いている黒人差別問題の根深さを印象づける。

読み終わってからしばらく(というかかなり)時間を経て、私はいまこのレビューを書いている。あらためて、読んでいたときに印をしておいた箇所を確認しながら全体を流して再読してみて、本書が複雑で深刻な問題を扱っていることに気づかされた。最初に読んだときにはそこまでとは感じられなかったことも、繰り返して読むことで少しずつわかってくることがある。「キャラメル色のわたし」は、繰り返して読むことで少しずついろいろなことを気づかせてくれる作品だと思う。