タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

栗林佐知編/志賀泉、柄澤昌幸、ほか著「吟醸掌篇vol.1」(けいこう舎)-『ほかでは読めない作家』たちによる短編アンソロジー&読書ガイド

 

吟醸掌篇 vol.1

吟醸掌篇 vol.1

  • 作者: 志賀泉,山脇千史,柄澤昌幸,小沢真理子,広瀬心二郎,栗林佐知,江川盾雄,空知たゆたさ,たまご猫,山?まどか,木村千穂,有田匡,北沢錨,坂本ラドンセンター,こざさりみ,耳湯
  • 出版社/メーカー: けいこう舎
  • 発売日: 2016/05/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ほかでは読めない作家たち、集まりました。

芥川龍之介をモチーフにしたらしき猫のイラストが描かれた横にそんな惹句が書かれた表紙の本書「吟醸掌篇vol.1」は、小説現代新人賞太宰治賞を受賞した作家栗林佐知さんが、新人賞を受賞してデビューしたのにいつの間にか消えてしまったと思われている作家たちも、ちゃんと書き続けているということをわかってもらいたいと立ち上げた短編アンソロジー集の第1号である。栗林さんは、個人で『編集工房けいこう舎』を立ち上げ、原稿集め、校閲、全体構成、挿絵・装幀・コラム原稿の発注、図書コードの取得、その他本書の出版に関わるすべての作業をおひとりでこなしている。(「吟醸掌篇」刊行に至った話やけいこう舎については、けいこう舎のホームページをご参照ください)

ginjosyohen.jimdo.com

吟醸掌篇vol.1」は、2016年4月に刊行された。掲載ラインナップは以下のとおり。

■小説
「いかりのにがさ」志賀泉/画・北沢錨
「陽だまりの幽霊」山脇千史/画・木村千穂
「やすぶしん」柄澤昌幸/画・坂本ラドンセンター
「たまもの」小沢真理子/画・こざさゆみ
「のら」広瀬心二郎/画・こざさゆみ
「海の見えない海辺の部屋」栗林佐知/画・耳湯

■コラム
わたしの愛する短篇作家-コルタサル 空知たゆたさ/画・有田匡
2015年に読んだ短篇ベスト3① たまご猫
2015年に読んだ短篇ベスト3② 江川盾雄

 

正直、たいへん申し訳ないが全員知らない作家だった。巻末の執筆者プロフィールをみると、太宰治賞受賞、オール読物推理小説新人賞最終候補など、大なり小なり文学新人賞で注目された作家のようだが、なかなか執筆や出版の機会には恵まれなかったようだ。

各短篇は、作風も硬軟さまざまでバラエティにとんでいる。中でも気になった作品を二編紹介したい。

志賀泉「いかりのにがさ」は、東日本大震災にともなう福島原発事故で故郷を奪われた家族の物語。避難生活による精神的なストレスとわかりあえない家族間での苛立ちがヒシヒシと伝わる作品だ。著者の志賀さん自身が福島県南相馬市の出身ということもあり、原発事故は故郷を壊し、そこに住む人々の生活を壊した事件である。「編集後記」の中で著者は、「チェルノブイリの祈り」を読んで強い衝撃を受けたと語り、〈個人の真実と全体の真実を両立させるのはもっともむずかしいことです〉というスベトラーナ・アレクシェービッチの言葉を引用し、その困難さはフクシマにもあてはまると記している。そして、個人の真実を描くことで『フクシマを世界文学に!』が自身の仮題であると語っている。

柄澤昌幸「やすぶしん」の主人公は、信州の片田舎にある築三百年の古民家に住み、工場の派遣工員として働く男。彼は、文学賞を受賞したこともある作家だが、作家としての収入では当然ながら食べていくことはできず年老いた母と実家で暮らし、派遣工員をしているのだ。ムラ社会であるがゆえの周囲の過干渉に辟易とし、文学賞を受賞して一度は分断レビューを果たしながら作家としては成功することもなく非正規の派遣工員として糊口をしのぐしかない主人公は、おそらく著者自身であろう。作家を目指し、新人賞を受賞して華々しくデビューできたとしても、作家として成功し食べていけるようになれるのはひと握りである。多くの作家は、「やすぶしん」の主人公のようにいつしか書くことから離れ、平凡だが堅実な人生の方へ向かっていく。夢だけでは生きていけない。実力だけでなく人気もなければ生きていけない世界の厳しさを突きつけられた。

発表の場があれば、その実力を開陳できる。しかし、限られた商業出版の枠の中には、彼らのために用意できる椅子の数は少ない。発表の場がなければ作家は読者から忘れられ、そのまま消えていくことになる。「吟醸掌篇」に掲載されている6人も、そういう不遇を過ごしてきた作家たちである。

「このままで本当に消えてしまう。でも、私たちはまだ書いている!」という叫びが、本書から立ち上がってくる。作家とは書くことによって自己を表現するのが仕事だ。そのプライドのようなものが、それぞれの作品にはこめられているようにも思える。発表の場を得られた作家たちは、自らの表現力を最大限に発揮し、すべてを作品にこめたのだろう。その迫力が、読者を圧倒する。

あまり知られていない作家の作品なので、読者としては「大丈夫かな。面白いのかな」という不安を感じる。私自身も読み始める前は、それほど期待していなかった。実際には、先述のようにそれぞれの短篇に圧倒され、こんな作家がいたんだという驚きがあった。きっと他にも、私の知らない作家がいるのだろうという期待も覚えた。知らない作家を知ることの喜び、まだ見ぬ作家に対する期待感。だから読書は面白い。

 

 

カトリーヌ・カストロ原作、カンタン・ズゥティオン作画/原正人訳「ナタンと呼んで 少女の身体で生まれた少年」(花伝社)-フランス発のバンド・デシネ。身体と心の性にギャップを感じるトランスジェンダーについて、その悩みや苦しみを知り、理解するために必要な作品。

 

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

 

 

「ナタンと呼んで」の主人公リラ・モリナは、自分の身体に違和感を感じている。自らの身体と心の性の不一致に関する違和感だ。

リラは、見た目の性と自認する性にギャップがあるトランスジェンダーだ。彼女の場合は、身体は女性だが心は男性となる。その身体と心のギャップが彼女を苦しめる。大きくなっていく胸、やがてはじまる生理。女性らしい服装や髪型に対する嫌悪感。女の子として扱われることへの憤り。身体がどんどん『女性らしさ』を得ていくほどに、リラの抱える違和感、嫌悪感は増していく。

なんだよ、これ?

ままならない自分の身体への違和感と思春期の苛立ちから、リラは反抗的な態度で周囲と接してしまう。自分に対する嫌悪から、リストカットを繰り返すようになっていく。そうした彼女の苛立ちや嫌悪が、カンタン・ズゥティオンの描く絵からヒシヒシと伝わってくる。

リラは、悩み苦しんだ末に両親に自分の気持ちを叩きつける。

オレは男なの!
男なんだよ!!
オレは女じゃない!!
娘じゃないんだ

そして、彼女は言う。

これからはナタンって呼んで

と。

娘の突然の告白に両親は困惑する。それでも、リラが性別適合手術とホルモン治療を受けて男性の身体を手に入れていくと、少しずつ娘リラを息子ナタンとして受け入れるようになっていく。

LGBTという言葉が広く認知されるようになっても、ナタンのような人たちにとって、まだこの社会は生きにくい。本書を読んで、そう感じた。家族も友人も、頭ではナタンを理解しようとしても、感情の困惑は拭いきれない。身近な人たちでも困惑してしまう状況で、広く理解を得ることは難しい。

巻末の訳者解説によれば、この物語は実在のトランスジェンダーをモデルにして描かれている。邦訳版には記されていないが、原著では作者のカトリーヌ・カストロによる「この物語の本当の登場人物たちは匿名であることを望んでいる」との謝辞があるという。

「匿名を望む」ということは、やはり、トランスジェンダーであることを実名でカミングアウトすることには抵抗があったということだろう。それは、LGBT問題に先進的と思われるフランスであっても、当事者がカミングアウトすることが容易ではないことを示している。

その後、モデルとなったルカという少年は自らテレビに出演し、本書が実在の自分を描いていることをカミングアウトした。ルカの顔写真が本書の帯に掲載されている。彼がどれほどの勇気をもって人前に立とうと決心したのか、その勇気を人々がどう受け止めたのか。それは、彼のカミングアウトをきっかけにして本書がそれまで以上に話題になったという事実が物語っていると思う。

私には、リラ=ナタンの苛立ちや不安、嫌悪に共感することはできない。それは、LGBTを否定するわけではなくて、彼らの心情に自分をシンクロさせるのが難しいということだ。私にできるのは、彼らを理解することだと思う。共感は難しくても、LGBTを知ること理解することはできるはずだ。

相手を知り、理解することは、LGBTに限らず、すべてについて共通することだと思う。本書を、自分にとって、LGBTを理解するための一歩にしていきたいと思う。

 

 

リアノン・ネイヴィン/越前敏弥訳「おやすみの歌が消えて」(集英社)-ある日学校を銃撃犯が襲った。6歳の少年の目線で記される事件の恐怖、その後の家族の苦悩、そして大人たちの崩壊と再生

 

おやすみの歌が消えて

おやすみの歌が消えて

 

 

まっくらなクローゼットの中で、ザックたちは息をひそめていた。バン、バン、バンと銃撃犯が放つ銃声が響いてくる。その日、ザックが通う学校に銃撃犯がきたのだ。そして、兄のアンディが犠牲になってしまった。

リアノン・ネイヴィン「おやすみの歌が消えて」は、小学校を襲った銃撃犯によって、兄を殺されたザックの視点と語りで構成される物語だ。ザックは6歳の少年。本書は、6歳の少年の言葉で綴られていく。

銃撃犯によって息子を殺されたザックの両親は、深い悲しみに沈む。母のメリッサは、悲しみと絶望に包まれ、やがてその悲しみは怒りへと変わる。銃撃犯が、小学校の警備員チャーリーの息子だったことを知ると、その怒りは沸点を超え、やがて狂気じみてくる。テレビのニュースショーに出演し、他の事件で家族を殺された被害者たちを集めるようになる。メリッサの心には息子を殺した銃撃犯とその両親であるチャーリー夫妻への憎悪と復讐心しかない。家族のことも、たったひとりになってしまった息子ザックのことも、何も目に入らない。

そうした、家族を襲った悲劇と、その悲劇によって崩壊していく家族の姿が、子どもの視点で描かれていくのである。

子どもの目線で描かれていることで、大人では気づかない、あるいは気にもとめないようなことがクローズアップされている。まだ6歳のザックにとって、アンディの死は悲しいことではある。だけど、母親がアンディの死によって壊れていくことにはなかなか理解が及ばない。彼にとってみれば、それまで優しかった母親が突然自分に目を向けてくれなくなり、遠くに行ってしまったような気分になる。その自分でもよくわからない状況や感情が、子どもの言葉から伝わってくる。

家庭が崩壊していく中で、ザックが気持ちを色にして秘密基地(クローゼット)の壁に貼り付けていく場面がある。

赤-はずかしさ
灰色-悲しみ
黒-きょうふ
緑-いかりと不きげん
とうめい-さみしさ
黄色-うれしさ

感情を色で表現することで、ザックは無意識に自分の冷静さを保とうとしているのだと思う。自分が感じている気持ちが何色かと考えることで、自分を客観視しているとも思える。子どもらしさであると同時に、彼の成長を示す場面のように感じた。

子どもは、自分の気持ちに正直だ。正直だからこそ、大人たちの感情や行動を冷静にみている部分がある。正直にまっすぐに事実を見ているからこそ、「なぜ?」「どうして?」という思いをストレートに大人にぶつけることができる。

訳者あとがきによれば、著者のリアノン・ネイヴィンが本書を6歳の少年の語りにしたのは、「わたし自身の銃規制に対する作者自身の考えがそのまま文章ににじみ出るのがいやで、できれば読者に自分なりの結論を導いてもらいたかった。だから子供の素直な目を通し、ゆがみや偏りのない語りにしようと思った」からだという。子どもの正直でまっすぐな視点と語りは、私たち大人からは失われてしまったことなのかもしれない。本書を読んでいると、私たちは子どもから教えられることがたくさんあるのだと気づかされる。

子どもたちは、大人をしっかりと見ている。私たち大人は、子どもたちに見られて恥ずかしくない生き方ができているだろうか。そのことを考えないといけない。

 

 

ショーン・タン/岸本佐知子訳「セミ」(河出書房新社)-タカラ~ム セミ よむ。胸 あつくなる。ニンゲンの しあわせ かんがえる。トゥク トゥク トゥク!

 

セミ

セミ

 

 

2019年5月11日から7月28日の期間、東京・上井草にある『ちひろ美術館』で「ショーン・タンの世界展」が開催されます。秋には、9月21日から10月14日に京都でも開催も決定しています。

www.artkarte.art

セミ」は、ショーン・タンの翻訳新刊です。表紙にちんまりと佇んでいるのが主人公のセミです。名前があるわけではありません。セミは『セミ』として描かれます。

セミ 高い ビルで はたらく。
しごと データ 入力。17ねんかん。
けっきん なし。ミス なし。
トゥク トゥク トゥク!

セミは会社で働いています。毎日パソコンに向かい、黙々とキーボードを叩き、データを入力しています。欠勤もなく、ミスもなく、真面目にコツコツと働いています。

セミは17年間ずっとデータ入力の仕事を続けていて、その間昇進することもありません。ニンゲンでないセミは、その仕事ぶりを評価されることもなく、感謝されることもありません。上司からは辛辣な言葉をぶつけられ、同僚たちにもいじめられています。毎日毎日残業をして、それでも家賃も払えないセミは会社の壁の隙間で暮らしています。

17年間働き続けたセミは、定年を迎えます。でも、誰もセミを労うことはありません。送別会も別れの握手もありません。

定年になったセミは、仕事と住む場所を失います。セミは、トボトボとビルの屋上へ昇っていきます。そして、次の人生へと旅立ちます。

本書のラストには、こんなフレーズが書かれています。

セミ みんな 森にかえる。
ときどき ニンゲンのこと かんがえる。
わらいが とまらない。

17年間、評価されることもなく、上司からも同僚からも嫌われ、いじめられ、毎日毎日同じ仕事を黙々とこなし、遅くまで残業し、住む場所も持てなかったセミが、最後に「ニンゲンのことを考えると笑いが止まらない」と言う。ハッとさせられました。

最後にセミは幸せを掴んだということなのでしょうか。
我慢して、耐えて、17年間を過ごした先には幸せが待っていたのでしょうか。
それは、ニンゲンには得られない幸せということなのでしょうか。

セミの姿をみて哀れみを感じるのか、自分と重ね合わせて痛みを感じるのか、本書の受け止め方は読者がおかれた場所によって違うのだろうと思います。ただ、幸せの意味を考えるという意味では共通していると思います。

ニンゲンの幸せとは、なんなのでしょうか?

 

note.mu

 

田房永子責任編集「エトセトラvol.1 特集コンビニからエロ本がなくなる日」(エトセトラブックス)-毎号新しい編集長によって作られるフェミマガジンの創刊号。テーマは「コンビニの店頭からエロ本がなくなる日」

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5月の『文学フリマ東京』で購入した中の一冊。「毎号、新しい編集長がいま伝えたいテーマを特集するフェミマガジン」(裏表紙より抜粋)の創刊号になる。編集長は、漫画家でライターの田房永子さん。テーマは『コンビニからエロ本がなくなる日』。

今年(2019年)1月にコンビニ大手の三社(セブン-イレブン、ローソン、ファミリーマート)は、8月末までに成人向け雑誌の店頭販売を中すると発表した。大人の男性だけでなく、女性や小さい子どもも利用するコンビニの店頭からエロ本がなくなることが決まったのである。

本書には、コンビニからエロ本が消えることに対するさまざまな意見が集められている。

前書きにあたる「はじめに」を読むと、田房さんがなぜ本書を作ろうと考えたのかが記されている。以前から、コンビニでエロ本が売られていることに疑問を感じていた田房さんは、今回のコンビニ各社の決定を歓迎した。一方で、『コンビニからエロ本がなくなる』というニュースが世間的には『ささいな事』として、あっという間に消費されてしまうことに不安も感じた。「これは『ささいな事』じゃない」と考えた田房さんが作った雑誌が「エトセトラvol.1」である。

本書には、さまざまなライター陣が多様な意見を寄せている。フェミニズムに関わるライター、実際にエロ本を扱うこともある書店員、エロ本業界で働く編集者やライター。その他に、SNS等を通じて集まった一般の方々の投稿も紙面を割いて掲載されている。

本書の方向性としては、編集長の田房さん自身がコンビニ店頭でのエロ本販売中止を歓迎する立ち位置であることからコンビニからエロ本が消えることを歓迎する内容に寄っているように思う。ただ、一方的に賛成意見だけが示されているというわけではない。

たとえば、本書には一般読者からの投稿が40本掲載されている。意見の多くがコンビニでのエロ本販売中止を歓迎する内容になっているが、反対意見も掲載されているし、単純な賛成反対の意見だけではなく、エロコンテンツ産業の問題などに関する意見などもある。幅広く意見が掲載されていることで、読者も考えるきっかけを得ることができるようになっているのだ。

エロ本業界で活動するライターやコンビニ販売用のエロ本をつくっている編集者からは、コンビニでのエロ本の売上(2000年代後半には1冊で10万部の売上があり、現在でも3万部程度は売り上げているという)がなくなることへの危機感も示されていて、エロというコンテンツが一定の市場を有していることもわかるのも面白い。

私自身の意見を書けば、コンビニのエロ本販売中止は歓迎している。私は男性であり、エロ本やエロビデオの恩恵を少なからず享受してきた。ただ、エロ本をコンビニで買ったことはない。むしろ、コンビニでエロ本が売られていることは疑問に感じていたし、必要性を感じられなかった。なので、今回の販売中止は単純に良かったと思うし、時代の流れなどを考えれば当たり前だと感じている。

インターネットから気軽にエロが入手できる時代にコンビニでエロを販売する必要性はない、とする意見に対してデジタル弱者である高齢男性からエロを奪うことになるのは問題とする対立意見がある。これも「なるほど」と思う。コンビニが社会インフラとして機能するのであれば、さまざまなニーズを満たす場所としてのコンビニにエロを求めることもあるだろう。ささやかなニーズであるかもしれないが、ニーズとしては確かに存在する。

だが、多少のニーズはあるにしても、それがコンビニでエロ本を販売して良いとする根拠とするには弱い。コンビニ利用者の多くは、コンビニでエロ本を買う必要性を感じていないし、コンビニでエロ本を販売する必要性も感じていない。私も含め多くのコンビニ利用者は、エロ本がコンビニで販売されなくても困らない。

コンビニでエロを手に入れられなくなっても、別の方法や別の場所で手に入れられるようになる。人間の(特に男の)エロに対する欲求は強いのだ。むしろ、コンビニで手軽に手に入る必要はなくていい。そのくらいのハードルはあった方がいい。

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳「罪悪」(東京創元社)-罪の意識とはどういうものなのか。

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人は、自分が犯した罪の重さをどう考えるのだろうか。

小さな罪であっても、深く罪悪感に苛まれて苦悩し続ける人がある。
大きく重い罪を犯しても平然としていられる人がある。

フェルディナント・フォン・シーラッハの短編シリーズ第2作となる「罪悪」には、15篇の短編が収録されている。

ふるさと祭り
遺伝子
イルミナティ
子どもたち
解剖学
間男
アタッシュケース
欲求

寂しさ
司法当局
清算
家族
秘密

前作の「犯罪」を久しぶりに読み返したこともあり、また2019年6月にはシリーズ第3作にして、短編3部作の締めくくりとなる「刑罰」が刊行されることもあって、「罪悪」も7年ぶりくらいに読み返してみた。

冒頭に収録された「ふるさと祭り」が衝撃的だった。賑わう祭りの会場で起きた楽団員たちによる少女輪姦事件。酒に酔って事件を起こした楽団員たちには罪の意識は希薄であり、レイプ被害を受けた少女もあまりの恐怖から楽団員の誰が加害者なのかをはっきりと認識できていない。少女が理不尽な暴行(それはあまりに凄惨である)を受けているのは明らかなのに、証拠や証言の曖昧さから罪を裁くことのできないジレンマがある。

最初に読んだときには、そんな理不尽なことがあってはいけないと憤りを感じたが、今まさに同じような理不尽なことが自分たちの国でも起きていることに愕然とした。

「犯罪」が、『人はなぜ罪を犯してしまうのか』を読者に問いかけた短編集だとしたら、「罪悪」は、『犯してしまった罪の重さを人はどう受け止めるのか』を読者に問いかけた短編集である。15篇の短編のひとつひとつに描かれた罪とその罪の重みを登場人物がどう受け止めているか。それを読んで読者である私たちはどう受け止めたらよいのか。ただ楽しむだけではなく、いろいろなことを考えさせられる短編集だった。

 

フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳「犯罪」(東京創元社)-人はなぜ罪を犯してしまうのか。それぞれの事情、それぞれの人生をみつめる11の物語

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先日(2019年4月19日)、『はじめての海外文学』の人気企画『はじめての読書会』の番外編として翻訳家酒寄進一さんをお迎えしたイベントが開催されました。その課題図書となったのが、フェルディナント・フォン・シーラッハ「犯罪」です。

イベントの開催に合わせて、7年ぶりくらいに本書を再読しました。

本書は、シーラッハのデビュー短編集です。弁護士でもある著者の経験した事件をベースにした11編が収録されています。

フェーナー氏
タナタ氏の茶盌
チェロ
ハリネズミ
幸運
サマータイム
正当防衛

愛情
エチオピアの男

どの作品も、これまでに読んできたミステリーとは異なる味わいがあると感じます。人間には弱い部分や狡猾な部分があって、それが犯罪を生み出す。やむにやまれぬ犯罪かもしれないし、計画的な犯罪かもしれない。どのような犯罪であっても、弁護士はその役割に忠実にしたがって行動する。そのことが、ときに無機質に、ときにわずかな感情を含んで描かれているのが本書だと思います。

11編それぞれに味わいがあります。どの作品が好きかを語り合いたくなります。先日の読書会でも、会場に集まった参加者それぞれが自分の好きな作品について話し、酒寄さんにもたくさん質問され、会場はおおいに盛り上がりました。

キャッチに書いた『人はなぜ罪を犯すのか』は、本書の根底にあるテーマだと思います。抑圧された中で耐えてきた思いがあるとき一気に開放される。それが、罪を犯すことへとつながる。「フェーナー氏」や「チェロ」、「棘」は、妻との約束、父親との関係、閉塞的な環境がもたらす強迫性といった抑圧が、時間をかけて蓄積していくことで、やがて罪へとつながっていきます。彼らにとって罪を犯すことは解放であり、犯してしまったことへの罪悪感以上に、抑圧から解放されたことへの安堵感が強くなる。その安堵感には、読者も共感してしまうところ、同情してしまうところがあるかもしれません。

エチオピアの男」のように、自らの育ってきた環境の中で、罪を犯すことでしかできなかったという話もあります。ようやく、自分の居場所を見つけても、そこに戻るためには、また罪を犯さなければいけない。それこそが、罪を犯さざるをえない人間の苦しみなのです。

罪を憎んで人を憎まず、という言葉があります。犯罪は、どのような理由があろうとやってはいけないことです。罪を犯した人間は、その罪の重さに見合った報いを受けなければなりません。でも、彼らが犯罪に至った事情も考えた上で、糺すべきところを糺していくことが必要なのではないと感じるのです。