タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

カトリーヌ・カストロ原作、カンタン・ズゥティオン作画/原正人訳「ナタンと呼んで 少女の身体で生まれた少年」(花伝社)-フランス発のバンド・デシネ。身体と心の性にギャップを感じるトランスジェンダーについて、その悩みや苦しみを知り、理解するために必要な作品。

 

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

ナタンと呼んで―少女の身体で生まれた少年

 

 

「ナタンと呼んで」の主人公リラ・モリナは、自分の身体に違和感を感じている。自らの身体と心の性の不一致に関する違和感だ。

リラは、見た目の性と自認する性にギャップがあるトランスジェンダーだ。彼女の場合は、身体は女性だが心は男性となる。その身体と心のギャップが彼女を苦しめる。大きくなっていく胸、やがてはじまる生理。女性らしい服装や髪型に対する嫌悪感。女の子として扱われることへの憤り。身体がどんどん『女性らしさ』を得ていくほどに、リラの抱える違和感、嫌悪感は増していく。

なんだよ、これ?

ままならない自分の身体への違和感と思春期の苛立ちから、リラは反抗的な態度で周囲と接してしまう。自分に対する嫌悪から、リストカットを繰り返すようになっていく。そうした彼女の苛立ちや嫌悪が、カンタン・ズゥティオンの描く絵からヒシヒシと伝わってくる。

リラは、悩み苦しんだ末に両親に自分の気持ちを叩きつける。

オレは男なの!
男なんだよ!!
オレは女じゃない!!
娘じゃないんだ

そして、彼女は言う。

これからはナタンって呼んで

と。

娘の突然の告白に両親は困惑する。それでも、リラが性別適合手術とホルモン治療を受けて男性の身体を手に入れていくと、少しずつ娘リラを息子ナタンとして受け入れるようになっていく。

LGBTという言葉が広く認知されるようになっても、ナタンのような人たちにとって、まだこの社会は生きにくい。本書を読んで、そう感じた。家族も友人も、頭ではナタンを理解しようとしても、感情の困惑は拭いきれない。身近な人たちでも困惑してしまう状況で、広く理解を得ることは難しい。

巻末の訳者解説によれば、この物語は実在のトランスジェンダーをモデルにして描かれている。邦訳版には記されていないが、原著では作者のカトリーヌ・カストロによる「この物語の本当の登場人物たちは匿名であることを望んでいる」との謝辞があるという。

「匿名を望む」ということは、やはり、トランスジェンダーであることを実名でカミングアウトすることには抵抗があったということだろう。それは、LGBT問題に先進的と思われるフランスであっても、当事者がカミングアウトすることが容易ではないことを示している。

その後、モデルとなったルカという少年は自らテレビに出演し、本書が実在の自分を描いていることをカミングアウトした。ルカの顔写真が本書の帯に掲載されている。彼がどれほどの勇気をもって人前に立とうと決心したのか、その勇気を人々がどう受け止めたのか。それは、彼のカミングアウトをきっかけにして本書がそれまで以上に話題になったという事実が物語っていると思う。

私には、リラ=ナタンの苛立ちや不安、嫌悪に共感することはできない。それは、LGBTを否定するわけではなくて、彼らの心情に自分をシンクロさせるのが難しいということだ。私にできるのは、彼らを理解することだと思う。共感は難しくても、LGBTを知ること理解することはできるはずだ。

相手を知り、理解することは、LGBTに限らず、すべてについて共通することだと思う。本書を、自分にとって、LGBTを理解するための一歩にしていきたいと思う。