先日(2019年4月19日)、『はじめての海外文学』の人気企画『はじめての読書会』の番外編として翻訳家酒寄進一さんをお迎えしたイベントが開催されました。その課題図書となったのが、フェルディナント・フォン・シーラッハ「犯罪」です。
イベントの開催に合わせて、7年ぶりくらいに本書を再読しました。
本書は、シーラッハのデビュー短編集です。弁護士でもある著者の経験した事件をベースにした11編が収録されています。
どの作品も、これまでに読んできたミステリーとは異なる味わいがあると感じます。人間には弱い部分や狡猾な部分があって、それが犯罪を生み出す。やむにやまれぬ犯罪かもしれないし、計画的な犯罪かもしれない。どのような犯罪であっても、弁護士はその役割に忠実にしたがって行動する。そのことが、ときに無機質に、ときにわずかな感情を含んで描かれているのが本書だと思います。
11編それぞれに味わいがあります。どの作品が好きかを語り合いたくなります。先日の読書会でも、会場に集まった参加者それぞれが自分の好きな作品について話し、酒寄さんにもたくさん質問され、会場はおおいに盛り上がりました。
キャッチに書いた『人はなぜ罪を犯すのか』は、本書の根底にあるテーマだと思います。抑圧された中で耐えてきた思いがあるとき一気に開放される。それが、罪を犯すことへとつながる。「フェーナー氏」や「チェロ」、「棘」は、妻との約束、父親との関係、閉塞的な環境がもたらす強迫性といった抑圧が、時間をかけて蓄積していくことで、やがて罪へとつながっていきます。彼らにとって罪を犯すことは解放であり、犯してしまったことへの罪悪感以上に、抑圧から解放されたことへの安堵感が強くなる。その安堵感には、読者も共感してしまうところ、同情してしまうところがあるかもしれません。
「エチオピアの男」のように、自らの育ってきた環境の中で、罪を犯すことでしかできなかったという話もあります。ようやく、自分の居場所を見つけても、そこに戻るためには、また罪を犯さなければいけない。それこそが、罪を犯さざるをえない人間の苦しみなのです。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉があります。犯罪は、どのような理由があろうとやってはいけないことです。罪を犯した人間は、その罪の重さに見合った報いを受けなければなりません。でも、彼らが犯罪に至った事情も考えた上で、糺すべきところを糺していくことが必要なのではないと感じるのです。