タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

エヴァ・イボットソン/三辺律子訳「おいでフレック、ぼくのところに」(偕成社)-ずっと犬が欲しかったハルのところにやってきたフレック。ずっと一緒のはずだったのに...

 

 

子どもの頃から犬を飼っています。今の犬が4匹目です。17歳のおばあちゃん犬ですが、衰え知らずで元気いっぱい。もりもり食べてグーグー寝る幸せな日々を過ごしています。

エヴァ・イボットソン「おいでフレック、ぼくのところに」は、犬と一緒に暮らすことをずっと夢見てきた少年ハルと彼のところにやってきたミックス犬(作中では、とある事情で『トッテンハム・テリア』ということになっています)フレックの物語です。エヴァ・イボットソンの遺作になります。

ハルは、ずっとずっと犬を飼いたいと思っていました。だけど、おかあさんのアルビナが「家が汚れる」と絶対に許しません。ところが、10歳の誕生日におとうさんのドナルドが「犬を選びにいこう」と言いました。ハルは大喜びです。でもそれは、ハルが思っていたのとは違っていました。

ドナルドは、週末だけ犬をレンタルしてくれる〈おてがるペット社〉から犬を借りるつもりだったのです。これまでもハルは、誕生日にプレゼントをもらってもすぐに飽きていたし、犬だってすぐに飽きると思っていました。ドナルドもアルビナもハルの本当の気持ちをわかっていなかったのです。

〈おてがるペット社〉でハルが選んだのは、フレックという名前の犬でした。犬種はトッテンハム・テリア。と言っても、それは嘘で本当は雑種犬です。ハルは、フレックが自分の犬だとすぐにわかりました。ハルとフレックはこうして運命的に出会います。ふたりは、一緒に遊び、一緒に眠りました。これからずっと一緒にいられる、はずでした。

でも、フレックはレンタル犬です。ハルが歯医者に行っている間に、アルビナはフレックを返しました。フレックがいなくなったことを知ったハルは、怒り、悲しみ、そして心を閉ざしてしまうのです。それは、ハルと離れたフレックも同じでした。〈おてがるペット社〉のケージ仲間の犬たちが励まそうとしてもダメでした。

物語の発端となるハルとフレックの出会いと、ふたりを引き裂く大人たちの心ない仕打ちに胸が苦しくなります。犬が好きで、犬との暮らしを愛している読者は、ドナルドやアルビナ、〈おてがるペット社〉を経営するカーカー夫妻のような人間には腹が立ってしかたないと思います。でも、よく考えてみれば、彼らは私たち大人の姿をそのまま投影した人物ではないでしょうか。

たとえば、子どもから「犬が飼いたい!」とせがまれたとき、「どうせすぐに世話しなくなるでしょ!」と反対するおとうさん、おかあさんはたくさんいますよね。

ペットショップやブリーダーの中には、金儲けのために動物たちに無理をさせている業者がいますよね。

ドナルドやアルビナやカーカー夫妻とは、私たち自身の姿でもあるんだと思います。

フレックと引き離されたハルは、ある決心をします。フレックを取り戻すのです。ハルは、〈おてがるペット社〉に忍び込み、フレックを連れ去ろうと考えます。なにもわかってくれない両親の家を出て、フレックを連れておじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らすのです。ふたりならきっとハルとフレックを優しく迎えてくれるから。

そこから、ハルとフレックの冒険の旅が始まります。そこに、ピッパという少女と〈おてがるペット社〉から一緒に逃げ出した4匹の犬たち(セントバーナード犬のオットー、ペキニーズ犬のリー・チー、プードル犬のフランシーヌ、コリー犬のハニー)が加わり、ふたりの子どもと5匹の犬は、ハルの祖父母が住む海辺の家を目指すのです。

イボットソン作品の特長は、軸となる物語がしっかりと展開し、さらに派生する枝葉の物語の面白さにあります。本書でも、ハルとフレックの信頼関係がしっかりと描きこまれ、フレックと出会ったことでたくましく成長していくハルの姿と、ハルの成長に戸惑いながらも最後には息子のために変わろうとする両親の姿があります。この軸となるストーリーがあるところに、ピッパと姉ケイリーの話があり、4匹の犬たちそれぞれの物語がある。それぞれのストーリーのすべてに意味があり、最後にはすべてが収まるべきところに収まっていく。その展開の巧みさ、物語の回収の仕方が本当にうまいと思うのです。

本書は、他の作品に比べると現実的な物語です。ですが、現実的であることで、よりイボットソンらしい作品になっていると思います。訳者あとがきには、イボットソンの息子ピアーズ氏の言葉「生涯を通じてハッピーエンドを探していた」が紹介されています。イボットソンの作品は、読んでいて安心できます。それは、ピアーズ氏の言うように、イボットソンが常にハッピーエンドを描いているからだと思います。

読み応えもあり、読み心地がいい、そして後味がいい、そんな小説を読みたいならエヴァ・イボットソンをオススメします。

クリス・ダレーシー/三辺律子訳「龍のすむ家」(竹書房)-条件は、子どもとネコと龍が好きな方。デービットが暮らすことになった下宿には、女主人と子どもとネコ、そして陶器の龍が住んでいた。

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龍のすむ家 (竹書房文庫)

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龍のすむ家 (竹書房文庫) [ クリス・ダレーシー ]

 

下宿人募集中
家賃40ポンド
一軒家のすてきな部屋 食事、選択付き
清潔で、きれい好きな、静かな学生にぴったり!
お問い合わせ先:エリザベス・ペニーケトル夫人
        スクラブレイ町 ウェイワード・クレッセント42番地
ただし 子どもとネコと龍が好きな方に限ります

クリス・ダレーシー「龍のすむ家」は、全7巻にわたるシリーズの第1作、物語のスタート地点にある作品である。なお、イギリスでは2013年にシリーズ最終巻となる第7作「The Fire Ascending」が出版されていて、翻訳は第5作「Dark Fire」までが「闇の炎」として刊行されている。

 

冒頭に引用したのは、本書冒頭にある下宿人募集のお知らせである。一見するといたって普通の下宿人募集広告だが、最後の一文が風変わりなことにお気づきだろう。『子どもとネコと龍が好きな方』? きっとその下宿の大家家族には子どもがいるのだろう。ネコを飼っているのだろう。でも、龍って?

デービット・レインは、募集広告をみて、ウェイワード・クレッセントにあるペニーケトル夫人の家に下宿することになった、大学の地理学の授業がもうすぐ始まるのに住む部屋が見つかっていなかったのだ。

ウェイワード・クレッセントには、ペニーケトル夫人と娘のルーシー、そしてボニントンというネコがいた。それと、小さな陶器の龍がいて、『龍のほら穴』という部屋があった。

「龍のすむ家」というタイトルと冒頭の思わせぶりな下宿人募集広告から、ストーリーの全編にわたって龍が闊歩する異世界ファンタジーストーリーが展開するのではないか、と思って読み始めたが、少なくとシリーズ第1作となる本書では、私がイメージするような龍は登場しなかった。登場する龍は、羽を広げて大空を支配し、巨大な鉤爪で獲物を狙い、口から火を吐く、異世界の王者たる威風堂々な存在ではない。あるのは、何体かの陶器でできた龍なのだ。

「龍のすむ家」のメインストーリーは、リスの保護活動だ。と一言で済ませてしまうと全然魅力のない物語にみえてしまうが、そんなことはない。シリーズの1作めということで登場人物の紹介や世界観の説明部分が書き込まれていて、ちょっとまだるっこしい面もあるが、それは仕方ないことだと思う。

話の中心になるのは、ルーシーがコンカーと呼ぶリス。片目が傷ついたリスで、もともとはペニーケトル家の近くのクレッセント広場にあったオークの木に暮らしていた。そのオークの木が切り倒されてしまい、他のリスたちとともにコンカーもいなくなってしまったのだ。

大人からすれば、住処をなくしたリスたちはどこか別の場所に移動しただろうし、コンカーも一緒だと考える。でも、ルーシーは片目のコンカーはまだ近くに残っていると思っている。信じていると言ってもいい。ルーシーは、どうにかコンカーを捕まえて仲間のリスのところに連れていきたいと思っているのだ。

こうして、ペニーケトル家に下宿することになったデービットは、やんちゃなルーシーに振り回されて、コンカー救出作戦に乗り出す。さらに、ルーシーを元気づけるために誕生日にはリスの物語を書いてあげるのだ。

この物語作家としてのデービットが、もうひとつストーリーの軸になる。そこに関係してくるのが、ガズークスと名付けられたデービットの龍の力である。

ガズークスは、ペニーケトル夫人がデービットのために作った陶器の龍だ。愛称はズーキー。ノートと鉛筆を持っている。デービットにとって、それは大家さんから贈られたプレゼントのはずだった。ガズークスが、彼の脳裏でノートに鉛筆を走らせてメッセージを与えてくれるまでは。

それはデービットの空想なのか。無意識に浮かんだひらめきなのか。陶器でできたガズークスが本当に彼に語りかけているのか。本当のところはよくわからないまま、それでもデービットの作家としての才能はガズークスとの二人三脚で開花していく。そして、デービットは、ルーシーのための物語『スニガーとドングリかいじゅう リスの物語』を書き上げるのだ。どんな物語かは、本書を読んでみてほしい。

長いシリーズの最初の一歩となる作品だけに、次にデービットたちがどんな冒険を繰り広げるのか、シリーズがどんなふうに盛り上がっていくのか気になる。手元には第5巻「闇の炎」まで積んでみた。少しずつ読んでいきたい。

 

[まとめ買い] 龍のすむ家

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ピョン・ヘヨン/きむふな訳「アオイガーデン」(クオン)-人智の及ばない恐怖と日常のそばにある恐怖。大きな恐怖を乗り切っても安心できない。

 

 

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巻頭に収録されている短編「貯水池」から読み始めた。

女子学生の服が貯水池の裏の森で見つかるところから話は始まる。最近、長い失踪のあと死体で発見されるケースが頻発しているのだ。失踪したまま見つからない人もいる。女子学生も、死体はまだ発見されていない。

不可解な連続失踪事件をめぐるミステリー小説と思った。しかし、すぐにそれは違うと気づく。森に建つ家。そこにいる得体の知れない何者か。一番目と二番目と三番目がいる。じっと息を潜め、森をうろつく警察官たちを見ている。

物語はこうして一気に恐怖をまとっていく。腐った肉の臭いがページから立ち昇ってくるかのようなグロテスクな描写が続く。嫌悪が胸に込み上がってくるが、読むことをやめることができない。

表題作「アオイガーデン」は、疫病が蔓延し、住民たちが逃げ出してゴーストタウンと化したアオイガーデンが舞台の近未来ディストピア。頼る者もなくアオイガーデンに取り残された家族の物語。

全8篇が収録されていて、前半の4篇が「アオイガーデン」という短編集から、後半の4篇が「飼育場の方へ」という短編集からそれぞれ選ばれていて、日本オリジナルの短編集となっている。

二冊の作品たちは互いに人見知りしているのかもしれない。

と、巻末の『著者のことば』にあるように前半4篇と後半4篇は味わいが違っている。

「アオイガーデン」から収録された4篇(「貯水池」「アオイガーデン」「マンホール」「死体たち」)は、悪臭のたちこめるグロテスクなホラー小説である。その小説世界は、残虐であり、胸を抉るような恐怖が支配する。

「飼育場の方へ」から収録された4篇(「ピクニック」「飼育場の方へ」「パレード」「紛失物」)は、日常の中にある恐怖や不安が描かれる。あまり気の乗らないドライブによってもたらされる恐怖。強制執行の通知書が家族に投げかける不安と恐怖。観客の笑わせるはずのパレードの団員に笑顔はなく、会社では上司の圧力と自らの保身によって社員が追いつめられていく。

非現実的な世界がもたらす得体のしれない恐怖と、自分にも同じことが起きるかもしれないという不安をもたらす恐怖。異なる方面から襲いかかる恐怖は、読者をとらえて追いつめる。

本書の恐怖は、読者に逃げ場を与えない恐怖だ。大きな恐怖を乗り切ったとしても安心できない。だが、それこそが本書を、ある意味で楽しむポイントなのだと感じる。そこに、幅広くセレクトされているからこその魅力があると思う。

 

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アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ)

 

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アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ 16) [ ピョン・ヘヨン ]

 

 

パヴェル・ブリッチ/阿部賢一訳「夜な夜な天使は舞い降りる」(東宣出版)-夜な夜なくりひろげられる守護天使たちのオフ会に、あなたも参加してみませんか?

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昨年(2018年)11月に開催された『第3回はじめての海外文学スペシャル』イベントに、パヴェル・ブリッチ「夜な夜な天使は舞い降りる」の翻訳者である阿部賢一先生が登壇された。ご自身の推薦で、本書が『はじめての海外文学vol.4』に選書されているからだ。そのイベントに登壇された阿部先生が、プレゼンで本書を紹介するときに使った言葉が、本レビューのキャッチに書いた『天使のオフ会』である。

物語の舞台はチェコプラハ。とある教会に夜な夜な集まってくるのは守護天使たちである。守護天使たちは、夜な夜なその教会に集まっては、自分が見守っている人間について話をする。あるときは自慢気に、あるときは呆れた様子で、あるときは憤りをこめて、守護天使たちは「聞いておくれよ」と集まった他の天使たちに向かって話をする。なんやかんやと言いつつも、どこか嬉しそうに話をする。

老天使アブラハームが話すのは、ヴラジミーレクの物語。愛する娘と結婚した彼は、貧しい生活をおくっていた。夫婦には愛する息子ヴァシュクがあったが、その誕生日にプレゼントを買うためのお金がなかった。思いあまったヴラジミーレクは、銀行強盗を企てる。だけど、強盗をするのに彼は優しすぎた。彼は、文字通り傷つき、裁判で有罪になる。そのとき、老天使アブラハームは気づいた。ヴラジミーレクには見えていることを。彼の心が清純であるがゆえだということを。

天使エロヒームは疲れていた。エロヒームが見守るアレックスは、年がら年中ハンググライダーで空を飛び回っているからだ。『自由に大空を飛び回っている』なんてカッコイイもんじゃない。アレックスは、いつだって命がけで空を飛んでいるのだ。いや、飛んでいるんじゃない。落ちているんだ。天使エロヒームは、アレックスのおかげで、疲れ果てるほどに働く守護天使になっていた。

1976年のサッカーヨーロッパ選手権準決勝チェコ対オランダ。チェコディフェンダーであるアントン・オンドルシュが決めた先制ゴールは、『天使のヘディング』と呼ばれる。まるで奇跡のようなゴールだった。なぜなら、そのヘディングはオンドルシュの守護天使ペトルのものだったのだから。文字通り『天使のヘディング』だったのだから。延長の末に準決勝を勝ち上がったチェコは、決勝で西ドイツの対戦しPK戦の末に勝利する。その決勝PK戦で生まれたのがアントニーン・パネンカの『パネンカ・キック』。教会に集いし天使たちは言う。「パネンカ・キックの守護天使も呼ぼうじゃないか」と。

なんと楽しいお話なのだろう。天使たちはきっと、大声で笑いながら、神妙な面持ちでうなずき合いながら、こみ上げる涙をグッとこらえながら、ある天使の話を聞き、次は自分の番だと口を開く。長い年月を生きてきた守護天使たちには、これまでに仕えて見守ってきた人間がたくさんいる。仕えた人間の数だけ思い出のエピソードがある。天使たちの話は尽きることがなさそうだ。だから、天使たちは毎夜のように、プラハバロック様式の教会に集まり、今夜は誰が話してくれるんだいと、誰から口を開くのを待ち構えているのだ。

守護天使たちの姿を私たち人間が見ることは、基本的にはできない。天使の姿が見えて、話ができるのは限られたごくわずかな人間だ。

著書パヴェル・ブリッチは、きっと、そんな限られたわずかな人間のひとりなのかもしれない。著者が、天使たちが集まる教会にそっと忍び込んで、天使たち話を聞いて書き記したのが、この「夜な夜な天使は舞い降りる」なのかもしれない。そんなふうに想像しながら読んだら、この物語がもっともっと面白く感じられるんじゃないだろうか。

 

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夜な夜な天使は舞い降りる (はじめて出逢う世界のおはなし チェコ編)

 

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夜な夜な天使は舞い降りる (はじめて出逢う世界のおはなし) [ パヴェル・ブリッチ ]

 

リーヴ・ストロームクロヴィスト/相川千尋訳「禁断の果実-女性の身体と性のタブー」(花伝社)-女性の身体について堂々と語れない環境をつくっているのは、私も含めたアホな男たちなんだよね。

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「女性器に興味はありますか?」と問われたならば、「興味はあります」と答えるだろう。だけど、「女性器について何を知っていますか?」と問われたならば、「詳しいことは何も知らないです」としか答えようがない。

なぜ、私たちは女性器について何も知らないのだろう?
なぜ、私たちは女性器や女性の性について話さないのだろう?

リーヴ・ストロームクロヴィスト「禁断の果実」は、サブタイトルに「女性の身体と性のタブー」とあるように、女性の生理や女性器、性的な快感(いわゆるオーガズム)など、おおっぴらに語ることがタブーとされている女性の身体のことを描いたスウェーデン発のギャグコミックである。この本は、私たちの『なぜ』について描かれたもの。なぜ、女性器や女性の生理、オーガズムを語ることが社会的にタブーとなっているのかを描いた本だ。

目次はこんな構成である。

女性器に興味を持ちすぎた男たち
女性器のタブー
女性のオーガズム
イブたちの声-女性の身体と恥の感情
生理のタブー

なぜ、女性器や女性の性について語ることがタブーなのか。冒頭で、本書全体の案内役となるキャラクターが登場して読者に語りかける。

私たちの文化では、いわゆる「女性器」は目に見えないもの、恥ずかしいもの、話してはいけないものにされていて、無視され、隅に追いやられ、気まずいものとみなされている。しかも、正しい名前で呼ばれていない!
これって問題だって、あなたも思うでしょ!
(p.5 2~4コマから抜粋)

そして、こう続ける。

で、これは家父長制が社会の基本原理になっているせいだと思うんじゃない?
(p.5 4コマから抜粋)

そこから、さらに深く話を進めて、問題の根源が『女性器に興味を持ちすぎた男たち』にあると続けていく。

女性がオナニーすることをやめさせようと様々な研究をしたり、信じがたいような外科手術を行ったりした男もいれば、中世の魔女狩りを扇動した男たちもいる。アフリカから連れてきた黒人奴隷の女性を見世物にした男がいれば、スウェーデン女王のインターセックス疑惑を解明すべき400年前に埋葬された女王の墓を掘り起こした男たちもいる。(具体的に誰なのか、その愚行の詳細は本書でご確認ください)

『女性器に興味を持ちすぎた男たち』の話は、客観的に読めば「こいつらバカだなぁ」と笑えるのだけれど、よくよく考えれば、こんなアホなことを真剣に考えていたのかと恐ろしくなる。そして、自分も男である以上、どこかでこのアホな連中と同調している部分があるのではないかと不安になる。

第2章以降は、女性器を語ることのタブーの歴史的背景が描かれ、女性のオーガズムや女性が自らに抱える恥ずかしさの数々が描かれる。

1972年に打ち上げられたパイオニア10号に搭載された有名な金属板がある。そこには、裸の男女の姿が描かれているのだが、本書ではその女性に女性器(外陰部)が描かれていないことをあげて、女性器を語ることをタブーとする社会を映し出す。

また、オーガズムは女性が妊娠するのに欠かせないことだと信じられていた、という話や(当然ながら間違った認識として後年否定される)、生理に対する不完全な情報が女性の不安や恥ずかしさを引き起こしていることなど、女性の身体に関する間違った、あるいは中途半端な情報がいかに女性たちの不安をあおっているかが描かれていて、女性がなんとも生きづらいことになっているのだと知る。

女性に生きづらいと感じさせる社会を作っているのは、主に男たちであり、私もその一員であるということだ。女性の生きづらさ。女性であることで感じる悩み。男の私にはわからないことばかりだ。でも、わからないから知らぬ顔をしていいわけではない。男だとか女だとか、そういうことに関係なく、楽しい社会にするにはどうしたらよいのだろう。

ギャグ・コミックを読んで、なんだか難しいことを考えてしまった(笑)

 

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禁断の果実 女性の身体と性のタブー

 

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禁断の果実 女性の身体と性のタブー [ リーヴ・ストロームクヴィスト ]

 

チェ・ウニョン/牧野美加・橋本麻矢・小林由紀訳、吉川凪監修「ショウコの微笑」(クオン)ー人と人とのつながり。そこから生まれる物語の奥深さ。

 

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

 

何気なく読み始めて、すぐに「これはスゴイ」と思った。

チェ・ウニョン「ショウコの微笑」は、表題作を含む7篇の短編を収録する短編集である。収録作品は以下の通り。

ショウコの微笑
シンチャオ、シンチャオ
オンニ、私の小さな、スネオンニ
ハンジとヨンジュ
彼方から響く歌声
カエラ
秘密

表題作の「ショウコの微笑」は、文化交流で日本から来た高校生のショウコと彼女のホームステイ先となった私(ソユ)とその家族の物語。祖父、母、私の3人のギクシャクとした家族の中に日本人のショウコが加わることで起きる化学反応。そして立ち上る違和感。

韓国人である私と日本人であるショウコという異なる者同士が交わることで、そこに物語が生まれる。私にとってのショウコは憧れであり、嫉妬であり、わかりあえそうでわかりあえない存在。ショウコは、ソユの家族の間で緩衝材のような存在にもなる。祖父はショウコと日本語で会話し、それはソユがそれまで見たことのない祖父の姿を見せる。

短編集全体に共通するテーマは、人と人とのつながりだと考える。それも、ただ単純なつながりではなく、わかりあえないもどかしさや互いに感じる違和感のようなもの。つながることを望んでいるのに、どこかで拒否してしまうような複雑な感情。そこには、異なる文化、異なる世代という環境のギャップによって生じる不安が横たわっているようにも感じる。

ひとつひとつの物語には、韓国社会の有する問題も背景として存在している。

「シンチャオ、シンチャオ」では、韓国がベトナム戦争で米軍に協力したという事実、韓国軍によって多くのベトナム人が犠牲となったという事実が、ドイツで出会った韓国人家族とベトナム人家族の間に溝をつくる。戦争が終わって、時間が経っていても根底のところではわかりあえない関係は、韓国とベトナムだけではなく、世界中で起きていることでもある。

「彼方から響く歌声」では、フェミニズムが描かれる。韓国は、日本と同じく男性中心の社会で、ジェンダーギャップのランキングでも世界で低い順位にほとんど並んで位置している。「彼方から響く歌声」には、サークル活動で連綿と受け継がれてきた男性優位の序列と、女性が女性を虐げる姿が描かれてて、この問題の根深さを物語っている。

ひとつひとつの作品について細かく語っていくと長くなりそうだ。上にあげた「ショウコの微笑」「シンチャオ、シンチャオ」「彼方から響く歌声」の他の作品も、ひとつひとつがじっくりと読ませる作品ばかりであり、読んだことを誰かと共有したくなる作品である。

どの作品もそれぞれに素晴らしい。読めばきっと、何かの気づきを得られると思う。

 

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ショウコの微笑 (新しい韓国の文学シリーズ 19) [ チェ・ウニョン〔崔恩栄〕 ]

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ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

ジュリー・オオツカ/小竹由美子訳「あのころ、天皇は神だった」(フィルムアート)-日米開戦、日系人強制収容、そして終戦と解放。戦争によって分断された人と人とのつながりと奪われた人間としての尊厳。

 

あのころ、天皇は神だった

あのころ、天皇は神だった

 

 

ある日、突然にあらわれた告知。掲示板、木の幹、バス停のベンチ、その他あらゆるところに、その掲示は貼られていた。それは、アメリカに住む日系人たちの運命を決める告知だった。

ジュリー・オオツカ「あのころ、天皇は神だった」は、2002年にアーティストハウスから刊行された「天皇が神だった頃」の新訳である。

本書は、

強制退去命令十九号
列車
あのころ、天皇は神だった
よその家の裏庭で
告白

の5篇で構成されている。ひとつひとつが独立した短編として読めるが、全体を通して読むと、太平洋戦争によって翻弄されたある日系人家族の苦難の物語となっている。

1942年春に、アメリカに住む日系人に対して強制退去の命令が発せられ、彼らは家も仕事もすべて捨てて強制収容所へ送られる。「強制退去命令十九号」では、ある日系人家族の女が、告知を受けて家財道具などを処分する場面が描かれる。その中には、壁にかけられた複製画もあれば、飼い犬も含まれる。女は、ただ黙々と処分をすすめていく。彼女が冷静であるがゆえに、彼女の心に潜む苦悩がにじみ出ているように感じてしまう。

家をおわれた家族が行きつく先は荒涼たる砂漠に建てられた強制収容所だ。多くの日系人家族たちと狭い場所に入れられ、農作業を強制される。様々な噂が収容所に溢れ、明日をもしれぬ身に、一体何が起きるのかと不安に苛まれる日々を、彼らは生きていく。

「あのころ、天皇は神だった」の中に印象的な場面がある。物語の中心となる日系人家族の母親が、強制収容所の過酷な生活環境の中でも自分の身なりに気をつかっている場面だ。(単行本p.77-78)

おかげで老けてしまう、と母親は言った。太陽のせいで老けこんでしまうと言うのだ。毎晩寝るまえに、母親は顔にクリームを塗った。量を決めて使っていた。バターのように。砂糖のように。ポンズのクリームだった。

母親は、スパイ容疑で連行されて収監されている夫に変わってしまった自分を見せたくなかった。だから、少しでも老けこんでしまわないようにケアをするのだ。だけど、収容所生活が長引いていくほどに、母親は希望を見失っていく。食事にも手をつけなくなる。彼女には絶望しかない。

戦争がおわって収容所から解放されても、日系人の苦悩は続く。彼らはアメリカに戦争を仕掛けた日本から来た移民とその子孫だ。戦争が終わったからといって、アメリカの国民感情は彼らをすぐに戦争前のように受け入れることはできない。運良く自分たちの家に戻れた家族は、そこで自分たちが置かれた現実を目の当たりにする。それでも、母親は懸命に自分たちの生活を取り戻そうとする。

写真でしか知らない相手のところへ海を越えて嫁入りする女性たちを描いた「屋根裏の仏さま」で、ジュリー・オオツカは『わたしたち』という人称で物語を描いた。それは、『写真花嫁』といわれる女性たちの誰か一人を描くのではなく、すべての女性たちの物語がそこにあることを意図していた。本書でも、登場する日系人家族は、『女』であり『女の子』であり『男の子』として描かれる。特定の誰かではなく、すべての日系人家族がそこには存在している。あのころ、アメリカで苦難の日々を過ごしたすべての日系人家族の姿が、この物語には描かれている。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

戦争とは、悲劇しか生み出さない。そのことを改めて考える。静かに語られる物語は、静謐であるがゆえに胸の奥底までゆっくりと沁み入ってくる。いつまでも読みつがれて欲しい。

 

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あのころ、天皇は神だった

 

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あのころ、天皇は神だった [ ジュリー・オオツカ ]