ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

内沼晋太郎「これからの本屋読本」(NHK出版)-本が好きな人、本屋が好きな人、本屋になりたい人。本に関わるすべての人が読んでおきたい本。

『ブックコーディネーター』として、本と本屋に関わる様々なことを手がけている内沼さんが、自らの知識と経験を踏まえ、これからの本屋について記した一冊。本屋になりたいと考えている人やすでに本屋として活動している人はもちろんだが、私のような本が好きで本屋が好きというユーザー側の人間にとっても、本に関わる仕事のあれこれは興味深く読んだ。

本屋という場所に対する記憶や本屋が街にあることの意味を、内沼さんはまず記している。

本屋は何時間でもいられる場所であり、本屋を一周することは世界を一周することに似ている。本屋で思いもかけないような本と出会い、目的の本を見つけられたときの喜びを感じる。それは、本が好きで本屋が好きな人なら誰もが共感することだ。

「第1章 本屋のたのしみ」の中で、内沼さんは『本屋』と『書店』の違いについて、取材で会ったという鳥取定有堂書店」の奈良敏行氏の話を引用して記している。

「書店」というのは、本という商品を扱い陳列してある「空間」。広いほどいいし立地も単純明快な方がよく、サービスの質をどんどん向上させていくものです。「本屋」はどちらかというと「人」で、本を媒介にした「人」とのコミュニケーションを求める。

という奈良さんの話に「なるほど」と思う。確かに、いわゆるチェーン系の大型書店を訪れるときは、「人(書店員)とのコミュニケーション」よりも「本がたくさんある場所に行く」という方の意識が強い。逆に、店主がひとりで切り盛りしているような街の本屋や古本屋を訪れるときは、「人(店主)と本の話をしに行く」という方の意識が強い。

第1章、第2章では、まず本や本屋とはなにか、どういう存在なのか、どういう場所なのかが記される。そして、第3章以降に「本屋になること」や「本と関わる仕事をするということ」について記されていく。中でも、『別冊』として本書の中央に色分けして配置されている「本の仕入れ方大全」は、本屋になりたい人は必読の章だ。新刊書籍をどのように仕入れればいいのか。取次との契約の仕方や本の仕入れ方法にはどのような手段があるのか。どのような制約があるのか。古本屋の場合はどうなのか。そうした『本の仕入れ』に関する手続きのすべてがまとめられている。本屋になるための基本となる知識であり、本屋を続けていくための基本となる知識だ。

「当面、本の売買に関わるつもりのない人は読み飛ばしていい」と内沼さんは記しているが、そのつもりのない私が読んでも、別冊章が一番面白かったし、なにより勉強になった。

今、街から本屋さんが消えていっている。だが、その一方で個性的な個人経営の本屋さんが続々と生まれている。本書にも、いくつかそうした本屋が紹介されている。また、リアル店舗を持たずカフェなどの店頭に棚を借りて本を売る『間借り本屋』として活動する人もいれば、『一箱古本市』に出店して本を売る人もいる。ネット書店を開設する人も、メルカリなどのフリマアプリで本を売る人もいる。

本を売るだけが本に関わる仕事ではない。出版業に関わる人もあれば、本に関するイベントをプロデュースすることも、読書会や読み聞かせ会に参加することも、ブログやSNSで本の情報を発信したり本の感想を発信したりすることも、すべてが「本との関わり」によって生まれる仕事だ。

本との関わりとは無限の可能性を有することなのだと、本書を読んで感じた。今こうして、この本のレビューを書いていることも「本に関わる仕事」なのだとすれば、自分も本の世界に少しは貢献できているのでは?と考えてみたりする。

ジェローム・K・ジェローム/小山太一訳「ボートの三人男もちろん犬も」(光文社古典新訳文庫)-三人の独身男たちが繰り広げるおかしなおかしなボートの旅。横にはもちろん犬もいるよ!

毎日忙しい。朝から晩まで一生懸命がんばって、ランチも慌ただしく食べて、午後もひたすら仕事仕事、終電ギリギリに駆け込んで家に帰ると倒れるようにベッドで眠る。気づけばもう朝だ。今日もまた長くて忙しい一日がはじまる。

働き方改革という言葉が独り歩きしている今、現実はともかく表向きはこんな激務に苛まれている人はだいぶ少なくなっているだろう。それでも、毎日残業、休日出勤、それでも安い給料で頑張っている人はまだいる。

そんなワーカホリックな方には、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男もちろん犬も」をオススメしたい。

舞台は19世紀末のイギリス。およそ世界中に存在するありとあらゆる病気を抱えていると自称するJ、ジェームズ、ハリスの3人は、病を癒すためにはしっかりとした休養を取らねばならぬと、テムズ河でのボート旅を思い立つ。しかし、旅は準備段階からドタバタ騒ぎ。荷造りにとりかかればトラブル。アレがない、コレがないと大騒ぎ。やっと荷物を詰め終わっても歯ブラシが見当たらなくてやり直し。ようやく旅に出ても、やっぱりドタバタを繰り返す。全然理想の旅じゃない。

3人の旅はとにかく珍道中だ。ボートの旅ばかりじゃない。合間にはさみこまれる数々のエピソードは、どれも呆れるほどのおバカエピソードのオンパレード。読んでいるあいだは、ずっとニヤニヤゲラゲラしてしまって、なんかもう嫌なこととか忘れられるし、悩んでいることがバカバカしくなってくる。

本書は、英国ユーモア小説の代表的な作品。現代日本の感性で読むと面白さが伝わらないところもあるかもしれないが、それはほんのちょっとだけ。大部分はトリオのコントを見ているような感じで面白い。個人的には、チャップリンキートンマルクス兄弟の喜劇映画をみたときのような面白さを感じた。

「働きすぎの僕らには“休養”が必要だ!」と文庫帯に書いてあるように、今働きすぎでお疲れ気味の人は、この小説を読んでリフレッシュしていただきたい。私も、少し休みをとろうと思います。

 

アンドレアス・フェーア/酒寄進一訳「弁護士アイゼンベルク」(東京創元社)-冒頭の場面から惹きつけられ、二転三転する展開にハラハラさせられる。そして、最後に待ち受ける真相とは?読み始めたら止められなくなる法廷ミステリ。

プロローグからいきなり惹きつけられる。

殺人事件の被害者の解剖所見を頭の中で反芻する弁護士ラヘル・アイゼンベルク。彼女は、今まさに死の恐怖に慄いている。人里離れた家で手足を強力な粘着テープで縛られた状態で、自分を監禁した犯人が自分を殺しに戻ってくるのを待っている。

この物語の主人公であるラヘルがなぜ命の瀬戸際に立たされているのか。この始まりから、物語の世界に一気に引き込まれていく。

ラヘルは刑事事件を専門に扱う弁護士だ。夫のザーシャと共同で『アイゼンベルク&パートナーズ法律事務所』を営んでいて経営は順調だし、弁護士としての評判も高い。そのラヘルの前にひとりのホームレスの少女ニコレ・ベームがあらわれる。ニコレは、殺人の容疑で逮捕されたホームレスの友人を助けてほしいという。容疑者となっているホームレスは、ハイコ・ゲルラッハ、元物理学者の大学教授、そしてラヘルの元恋人だった。

ハイコ・ヘルラッハの殺人容疑に関する物語と並行して、本書ではもうひとつ別のストーリーが語られる。ハイコの事件より少し前の出来事。血の復讐から逃れるためにコソボからドイツへ亡命しようとレオノーラ・シュコドラは、娘ヴァレンティナを連れて吹雪の中をひた走っていた。だが、ふたりの警官を名乗る男たちに捕まり山奥の空き家に連行される。レオノーラとバレンティナの運命はどうなってしまうのか。

このふたつの物語は、息もつかせぬスピードでスリリングに展開していく。ラヘルの弁護を受けることになったハイコだが、精神的な不安定さから殺人の容疑を認める自白をし、それを再び否定する。ラヘルは、被害者の解剖所見や被害者の友人への聞き込み、被害者の父親から預かったノートパソコンの解析などから、ハイコが無罪である証拠を掴み、法廷で検察と対峙する。

ミュンヘンで起きた猟奇的な殺人事件とコソボからの亡命を図る母娘の物語は、ある一点でつながっていく。そして、そのつながりから見えてくる登場人物たちとの関係性が、本書の大きな骨組みとなっている。

ふたつの物語がつながったことで事件の真相が明らかとなるのか、といえば、実はそこから本書は真骨頂を発揮するのである。その展開の中で、真実は二転三転を繰り返し、これでもかとばかりに読者を裏切っていく。とにかく最後の最後まで目を離すことはできない。そして、最後まで読み切ったとき、すぐにでも新しいラヘル・アイゼンベルクの物語を読ませてくれと切望したくなるだろう。

本書の続編となるシリーズ第2作は、ドイツで今月(2018年6月)に刊行されるとのこと。また翻訳が待ち遠しい作品が増えてしまった。

海老原嗣生「『AIで仕事がなくなる』論のウソ」(イースト・プレス)-AIの台頭で自分の仕事はなくなってしまう?の本質

オックスフォード大学の研究者が2013年に発表した「雇用の未来(THE FUTURE OF EMPLOYMENT)」は衝撃的だった。そこには、AIの進展によって近い将来に私たちの仕事の9割が機械に置き換えられると記されていた。


同様のレポートを野村総合研究所が2015年に発表していて、そちらには「今後10年〜20年で日本の職業の49%は機械化される」と記されている。


オックスフォード大学の論文も野村総研のレポートもAIによって人間の仕事は失われていくという観点で共通だ。これらのレポートを受けて、どういう仕事がAIに置き換わるのか、自分の仕事は大丈夫か、という不安が私たちの周囲でも話題になった。

そんな状況に一石を投じるのが、海老原嗣生「『AIで仕事がなくなる』論のウソ」だ。著者は、テレビの討論番組などでもおなじみの雇用や人材育成の専門家である。

著者は、「はじめに」の中でオックスフォード大学、野村総研のの論文、レポートを引き合いにだし、こう疑問を投げかけている。

ただ、「15年」の3分の1を過ぎた現在、雇用は減るどころか、世界中がかつてない人手不足に悩まされている。結果、今度は「雇用崩壊なんてありえない」と逆にAIの進化を甘く見る人たちも増えてきたように感じる。

なぜ、論文やレポートが出てからそれなりの時間を経ても、そこに書かれていたような状況になっていないのか。著者は、「レポートが、雇用現場を全く調べずに書かれている」のが問題のひとつだと記す。

その上で、まずはAIの現実を振り返り、そもそも今AIはどういう状況・局面にあるのか、「AIで仕事がなくなる」という話は論じるに値するものなのか、といったことは紐解いていく。さらに、事務職、サービス流通、営業職の職種について、AIによる実務面での効果を、実際の現場実務者にインタビューすることで明らかにしていく。

本書を読んでいくと、確かにAI技術が生産性を高めるなどの効果をもたらすが、だからといって人間の仕事がすべてAIにとって変わられるわけでもないとわかる。さらに技術が高まっていけば、人間がわざわざ働かずともAIが働いてくれる世界がくるかもしれない。もっとも、そうなればなったで、労働生産はすべて機械が行い、人間は遊んで暮らす(極論だが)ことも可能な世界になるわけで、それはむしろ嬉しい世界かもしれない。

著者は、最後のまとめとして「AIで仕事がなくなる」ことに私たちが漠然と不安を感じる理由を「空気や風に弱い国民性」があるからだと記し、もう少し懐疑的で慎重になるべきだと書いている。

AIは確実に進歩している。しかし、オックスフォード大学の論文や野村総研のレポートが示したような短期間でのAIへのシフトは今のところ見られていない。AIはこれからますます進行する少子高齢化に対する有効な対策であると著者も記している。しかし、その歩みは遅く、即効性があるとはいえない。むしろ、女性活躍や高齢者雇用、あるいは外国人労働者の受け入れなどの方が直近の対策としては効果的だ。

AIばかりをもてはやす空気には、懐疑的でなければいけないのだと思う。

 

南方熊楠+杉山和也+志村真幸+岸本昌也+伊藤慎吾「熊楠と猫」(共和国)-博覧強記の天才にして強烈な変態南方熊楠の強すぎる猫愛が面白い!

南方熊楠は、1867年5月18日に生まれたとのことで、昨年(2017年)が生誕150年だったわけです。南方熊楠の名前は、多くの方々、自然科学に興味がある方なら特によく知られているだろうと思います。そういう方面には疎い私でさえ、南方熊楠という名前だけは知っているくらいです。

「で、南方熊楠って何をした人なの?」

と言う方もおられるでしょう。なので、本書「熊楠と猫」の「第一章 南方熊楠ってどんな人」から以下記述を抜粋しておきます。

南方熊楠(1867-1941)と言えば、民俗学や植物学(特に菌類や粘菌〔変形菌〕)の領域で、世界を股にかけて気焔を吐いた博覧強記な在野の学者として知られている。また反面。自在に反吐を吐いて気に食わない人を追い返すとか、年中裸で過ごしていたとか、破天荒で奇行の多い、一風変わった人物としても知られている。

南方熊楠という人は、とにかくありとあらゆる分野の研究で名を成していて、特に菌類や粘菌に関しては新種を発見するなど世界に認められた植物学者です。一方で、自由自在に反吐を吐くことができるという特技(?)を持っていたとか、一般常識では計り知れない人物でもあります。天才すぎて訳のわからない人物の代表格と言えるのではないでしょうか。

(他にも、友人宅にあった百科事典をその場で暗記して家に帰り書き写したとか、キューバでサーカス団に入っていたとか、どこまで本当かわからないエピソードもあると本書には書かれています)

そんな天才にして変態の南方熊楠は、猫が大好きでした。彼の日記や書簡にもかなりの頻度で猫が登場しています。そこに着目して南方熊楠という人物を研究しまとめたのが、本書「熊楠と猫」ということになります。

本書は、熊楠が書き残した膨大な日記や書簡、論文、その他の文書を読み解き、それらの中で猫がどのような存在として描かれているか、熊楠が猫に対してどのような愛情を示してきたのか、どのように接していたのかを通じて、熊楠にとっての猫の存在意義を明らかにしています。

熊楠は、猫の生態を研究材料としているわけではありません。熊楠と猫の関係は、飼い主とペットであったり、猫好きな人と猫たちという立ち位置です。とにかく、猫が好きで好きでたまらないというのが、熊楠の猫に対する感情なのです。

猫という動物の存在から南方熊楠の人物像に迫っていく本書は、ジャンルとしては人物研究の研究書ということになると思います。しかし、研究書だといって堅苦しい内容ではまったくありません。むしろ読みやすいです。そして、とにかく面白い。それは、南方熊楠という人物の個性的な面が猫の存在によってより一層際立っているからだと思います。

熊楠の特技は自在に反吐を吐くこと、とのことですが、猫とのエピソードにもその特技をいかしたものが紹介されています。それは、1905年(明治38年)12月27日の熊楠の日記の記載。

二葉〔料亭〕にて飲、牛肉食ふ。入湯。それより台所に之、野田貞吉方の猫を見、予へど吐き食はす。酒くさくて食はぬ分は予又食ふ。之を見て辰次郎氏、門へ走り出、へどはく

料亭で飲食してきたら、台所に猫がいたので反吐を吐いて食べさせたのだが、酒臭い分は猫も食べなかったので熊楠がもう一度食べたと書かれています。その様子をみていた辰次郎という少年が気分が悪くなってしまって吐いてしまったということも。それはそうですよね。目の前で反吐を吐いてそれを猫に食べさせているだけでも気持ち悪い光景なのに、猫が食べなかった反吐を熊楠がまた食べたわけですからね、想像しただけでも気持ち悪いです(笑)

とまあ、熊楠の変人・変態ぶりも十分に楽しめる1冊になっていると思います。南方熊楠ファンの方にも、猫好きの方にもオススメです。

 

巳年キリン「働く、働かない、働けば」(三一書房)-あなたはなぜ働いているの? 自分はなぜ働いているの? なぜ働かなくちゃいけないの?

『働く』ということは、『ごはんを食べる』とか『呼吸をする』と同じレベルで当たり前のことだと思ってきた。それが、いつの間にか働くことに疲れて、働いていることが苦痛になってくる。

「なんで働かなくちゃいけないんだろう?」

生活のためには、働いてお金を稼がないといけない。

「働かざるもの食うべからず」という言葉だってあるじゃないか。働かずに生きていこうなんて甘い考えだと、厳しく指摘する人もいるし、自分で自分を叱咤する人もいるだろう。

だけど、ほんのちょっと心に中に芽生えてしまったささやかな疑問は、なかなか納得させられるものではない。働かない人の中には、様々な理由や事情で働かないことを選択している人もいるし、働きたいけど働けない人もいる。

この本を読んでいると、働くことの意味や目的を考えてしまう。「なんで働かなくちゃいけないんだろう?」と疑問を抱えながらも、こうして働く機会を得ている自分がどれほどに恵まれているかも考えてしまう。

お金が目的で働くことも悪くはない。どのような形であれ、目的や目標があり、そこに向かって頑張って働くことはすばらしいことだ。お金よりも自分の成長や経験の蓄積が目的という人もいるだろう。と考えながら、自分は何を目的・目標にして働いているのかと思い返してみた。お金はあるにこしたことはないけれどそれが目的というわけではない。成長や経験も、(この歳になると)仕事から得ようというレベルは過ぎた感じがする。

つらつら考えてみると、働くこと以外の場所を持つことが大事なのかもしれないと思ってきた。自分には仕事しかない、働くことは唯一の生きがいとなってしまうと、その中で壁にぶつかったときに逃げられる場所がなくなってしまう。働くことだけを生きがいにせず、逃げられる場所を持っておくことが大切なんだなと思う。

自分にとっては、それが本の世界であり、ネットやリアルで交流させてもらっている読書仲間とのコミュニティだと思う。この場所をこれからも大事にしていきたい。

 

石井千湖「文豪たちの友情」(立東舎)-武者小路実篤と志賀直哉、太宰治と坂口安吾、谷崎潤一郎と佐藤春夫。ときに熱く、ときに冷酷でもある文豪たちの友情はすばらしい

自分の奥さんを友人に譲渡したり、返すあてのない借金を重ねたり、宿代のかたに友人を人質にしてみたり、などなどと明治、大正、昭和初期の文豪たちに関するエピソードは、平成の今となっては、にわかに信じがたい破天荒さがある。そんな強烈なエピソードを生む友人関係とは、いったいどのように形成されたのだろう。他にどんなとんでもないエピソードがあるんだろう。

書かれた作品からだけでは知ることができない文豪たちのエピソードを集めた本書「文豪たちの友情」は、『もっと知りたい!』、『他にもないの?』という欲求を満たしてくれる。

本書には、萩原朔太郎室生犀星正岡子規夏目漱石芥川龍之介菊池寛、など、よく知られた友人関係から意外な友人関係まで13組の友情が記されている。聞いたことのあるエピソードから「エー!」と驚くようなエピソードまで、実にもりだくさんである。

それぞれの友情エピソードを読んでみると、総じて文豪とは変人であるな~と思ったりする。変人であるし、社会に適合できないタイプの人間だからこそ、文豪が生み出す作品には凡人たる我々には想像もできないような彩りや世界が描き出されているようにも思う。

さらにいえば、文豪とは孤独な存在でもあるなと感じる。文豪ゆえに他者と交えられない孤独な立ち位置にいて、それゆえに心を許しあえる友人の存在が何よりも大きく強くなっているのだろうと感じるのだ。本書を読んでいると、文豪たちの友情はすべては深く親しい関係のままに長く続いていくわけではない。ちょっとした感情の行き違いや勘違いをきっかけに、ふたりの関係は脆く崩れ、長く疎遠になっていくこともある。それでも、長い月日を経て、ふたたび相まみえた友情は壊れる前とまるで変わらぬ、むしろそれ以上に強い結びつきで深みを増していたりする。そういうところも含めて、文豪とは面倒な輩である(笑)

本書に記されるのは『文豪同士』の友情だ。きっと、文豪は文豪同士でなければ関係を保つことができないのだろう。正直、私が本書に紹介されている文豪たちと友だちになれるかと問われれば、たぶん、いや絶対に無理だと思う。「類は友を呼ぶ」ではないけれど、同じ文学の世界に生きているからこそ理解しあえる関係があったのだろうと思うのである。