タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

リーヴ・ストロームクロヴィスト/相川千尋訳「禁断の果実-女性の身体と性のタブー」(花伝社)-女性の身体について堂々と語れない環境をつくっているのは、私も含めたアホな男たちなんだよね。

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「女性器に興味はありますか?」と問われたならば、「興味はあります」と答えるだろう。だけど、「女性器について何を知っていますか?」と問われたならば、「詳しいことは何も知らないです」としか答えようがない。

なぜ、私たちは女性器について何も知らないのだろう?
なぜ、私たちは女性器や女性の性について話さないのだろう?

リーヴ・ストロームクロヴィスト「禁断の果実」は、サブタイトルに「女性の身体と性のタブー」とあるように、女性の生理や女性器、性的な快感(いわゆるオーガズム)など、おおっぴらに語ることがタブーとされている女性の身体のことを描いたスウェーデン発のギャグコミックである。この本は、私たちの『なぜ』について描かれたもの。なぜ、女性器や女性の生理、オーガズムを語ることが社会的にタブーとなっているのかを描いた本だ。

目次はこんな構成である。

女性器に興味を持ちすぎた男たち
女性器のタブー
女性のオーガズム
イブたちの声-女性の身体と恥の感情
生理のタブー

なぜ、女性器や女性の性について語ることがタブーなのか。冒頭で、本書全体の案内役となるキャラクターが登場して読者に語りかける。

私たちの文化では、いわゆる「女性器」は目に見えないもの、恥ずかしいもの、話してはいけないものにされていて、無視され、隅に追いやられ、気まずいものとみなされている。しかも、正しい名前で呼ばれていない!
これって問題だって、あなたも思うでしょ!
(p.5 2~4コマから抜粋)

そして、こう続ける。

で、これは家父長制が社会の基本原理になっているせいだと思うんじゃない?
(p.5 4コマから抜粋)

そこから、さらに深く話を進めて、問題の根源が『女性器に興味を持ちすぎた男たち』にあると続けていく。

女性がオナニーすることをやめさせようと様々な研究をしたり、信じがたいような外科手術を行ったりした男もいれば、中世の魔女狩りを扇動した男たちもいる。アフリカから連れてきた黒人奴隷の女性を見世物にした男がいれば、スウェーデン女王のインターセックス疑惑を解明すべき400年前に埋葬された女王の墓を掘り起こした男たちもいる。(具体的に誰なのか、その愚行の詳細は本書でご確認ください)

『女性器に興味を持ちすぎた男たち』の話は、客観的に読めば「こいつらバカだなぁ」と笑えるのだけれど、よくよく考えれば、こんなアホなことを真剣に考えていたのかと恐ろしくなる。そして、自分も男である以上、どこかでこのアホな連中と同調している部分があるのではないかと不安になる。

第2章以降は、女性器を語ることのタブーの歴史的背景が描かれ、女性のオーガズムや女性が自らに抱える恥ずかしさの数々が描かれる。

1972年に打ち上げられたパイオニア10号に搭載された有名な金属板がある。そこには、裸の男女の姿が描かれているのだが、本書ではその女性に女性器(外陰部)が描かれていないことをあげて、女性器を語ることをタブーとする社会を映し出す。

また、オーガズムは女性が妊娠するのに欠かせないことだと信じられていた、という話や(当然ながら間違った認識として後年否定される)、生理に対する不完全な情報が女性の不安や恥ずかしさを引き起こしていることなど、女性の身体に関する間違った、あるいは中途半端な情報がいかに女性たちの不安をあおっているかが描かれていて、女性がなんとも生きづらいことになっているのだと知る。

女性に生きづらいと感じさせる社会を作っているのは、主に男たちであり、私もその一員であるということだ。女性の生きづらさ。女性であることで感じる悩み。男の私にはわからないことばかりだ。でも、わからないから知らぬ顔をしていいわけではない。男だとか女だとか、そういうことに関係なく、楽しい社会にするにはどうしたらよいのだろう。

ギャグ・コミックを読んで、なんだか難しいことを考えてしまった(笑)

 

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禁断の果実 女性の身体と性のタブー

 

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禁断の果実 女性の身体と性のタブー [ リーヴ・ストロームクヴィスト ]

 

チェ・ウニョン/牧野美加・橋本麻矢・小林由紀訳、吉川凪監修「ショウコの微笑」(クオン)ー人と人とのつながり。そこから生まれる物語の奥深さ。

 

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

 

何気なく読み始めて、すぐに「これはスゴイ」と思った。

チェ・ウニョン「ショウコの微笑」は、表題作を含む7篇の短編を収録する短編集である。収録作品は以下の通り。

ショウコの微笑
シンチャオ、シンチャオ
オンニ、私の小さな、スネオンニ
ハンジとヨンジュ
彼方から響く歌声
カエラ
秘密

表題作の「ショウコの微笑」は、文化交流で日本から来た高校生のショウコと彼女のホームステイ先となった私(ソユ)とその家族の物語。祖父、母、私の3人のギクシャクとした家族の中に日本人のショウコが加わることで起きる化学反応。そして立ち上る違和感。

韓国人である私と日本人であるショウコという異なる者同士が交わることで、そこに物語が生まれる。私にとってのショウコは憧れであり、嫉妬であり、わかりあえそうでわかりあえない存在。ショウコは、ソユの家族の間で緩衝材のような存在にもなる。祖父はショウコと日本語で会話し、それはソユがそれまで見たことのない祖父の姿を見せる。

短編集全体に共通するテーマは、人と人とのつながりだと考える。それも、ただ単純なつながりではなく、わかりあえないもどかしさや互いに感じる違和感のようなもの。つながることを望んでいるのに、どこかで拒否してしまうような複雑な感情。そこには、異なる文化、異なる世代という環境のギャップによって生じる不安が横たわっているようにも感じる。

ひとつひとつの物語には、韓国社会の有する問題も背景として存在している。

「シンチャオ、シンチャオ」では、韓国がベトナム戦争で米軍に協力したという事実、韓国軍によって多くのベトナム人が犠牲となったという事実が、ドイツで出会った韓国人家族とベトナム人家族の間に溝をつくる。戦争が終わって、時間が経っていても根底のところではわかりあえない関係は、韓国とベトナムだけではなく、世界中で起きていることでもある。

「彼方から響く歌声」では、フェミニズムが描かれる。韓国は、日本と同じく男性中心の社会で、ジェンダーギャップのランキングでも世界で低い順位にほとんど並んで位置している。「彼方から響く歌声」には、サークル活動で連綿と受け継がれてきた男性優位の序列と、女性が女性を虐げる姿が描かれてて、この問題の根深さを物語っている。

ひとつひとつの作品について細かく語っていくと長くなりそうだ。上にあげた「ショウコの微笑」「シンチャオ、シンチャオ」「彼方から響く歌声」の他の作品も、ひとつひとつがじっくりと読ませる作品ばかりであり、読んだことを誰かと共有したくなる作品である。

どの作品もそれぞれに素晴らしい。読めばきっと、何かの気づきを得られると思う。

 

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ショウコの微笑 (新しい韓国の文学シリーズ 19) [ チェ・ウニョン〔崔恩栄〕 ]

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ショウコの微笑 (新しい韓国の文学)

 

ジュリー・オオツカ/小竹由美子訳「あのころ、天皇は神だった」(フィルムアート)-日米開戦、日系人強制収容、そして終戦と解放。戦争によって分断された人と人とのつながりと奪われた人間としての尊厳。

 

あのころ、天皇は神だった

あのころ、天皇は神だった

 

 

ある日、突然にあらわれた告知。掲示板、木の幹、バス停のベンチ、その他あらゆるところに、その掲示は貼られていた。それは、アメリカに住む日系人たちの運命を決める告知だった。

ジュリー・オオツカ「あのころ、天皇は神だった」は、2002年にアーティストハウスから刊行された「天皇が神だった頃」の新訳である。

本書は、

強制退去命令十九号
列車
あのころ、天皇は神だった
よその家の裏庭で
告白

の5篇で構成されている。ひとつひとつが独立した短編として読めるが、全体を通して読むと、太平洋戦争によって翻弄されたある日系人家族の苦難の物語となっている。

1942年春に、アメリカに住む日系人に対して強制退去の命令が発せられ、彼らは家も仕事もすべて捨てて強制収容所へ送られる。「強制退去命令十九号」では、ある日系人家族の女が、告知を受けて家財道具などを処分する場面が描かれる。その中には、壁にかけられた複製画もあれば、飼い犬も含まれる。女は、ただ黙々と処分をすすめていく。彼女が冷静であるがゆえに、彼女の心に潜む苦悩がにじみ出ているように感じてしまう。

家をおわれた家族が行きつく先は荒涼たる砂漠に建てられた強制収容所だ。多くの日系人家族たちと狭い場所に入れられ、農作業を強制される。様々な噂が収容所に溢れ、明日をもしれぬ身に、一体何が起きるのかと不安に苛まれる日々を、彼らは生きていく。

「あのころ、天皇は神だった」の中に印象的な場面がある。物語の中心となる日系人家族の母親が、強制収容所の過酷な生活環境の中でも自分の身なりに気をつかっている場面だ。(単行本p.77-78)

おかげで老けてしまう、と母親は言った。太陽のせいで老けこんでしまうと言うのだ。毎晩寝るまえに、母親は顔にクリームを塗った。量を決めて使っていた。バターのように。砂糖のように。ポンズのクリームだった。

母親は、スパイ容疑で連行されて収監されている夫に変わってしまった自分を見せたくなかった。だから、少しでも老けこんでしまわないようにケアをするのだ。だけど、収容所生活が長引いていくほどに、母親は希望を見失っていく。食事にも手をつけなくなる。彼女には絶望しかない。

戦争がおわって収容所から解放されても、日系人の苦悩は続く。彼らはアメリカに戦争を仕掛けた日本から来た移民とその子孫だ。戦争が終わったからといって、アメリカの国民感情は彼らをすぐに戦争前のように受け入れることはできない。運良く自分たちの家に戻れた家族は、そこで自分たちが置かれた現実を目の当たりにする。それでも、母親は懸命に自分たちの生活を取り戻そうとする。

写真でしか知らない相手のところへ海を越えて嫁入りする女性たちを描いた「屋根裏の仏さま」で、ジュリー・オオツカは『わたしたち』という人称で物語を描いた。それは、『写真花嫁』といわれる女性たちの誰か一人を描くのではなく、すべての女性たちの物語がそこにあることを意図していた。本書でも、登場する日系人家族は、『女』であり『女の子』であり『男の子』として描かれる。特定の誰かではなく、すべての日系人家族がそこには存在している。あのころ、アメリカで苦難の日々を過ごしたすべての日系人家族の姿が、この物語には描かれている。

 

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戦争とは、悲劇しか生み出さない。そのことを改めて考える。静かに語られる物語は、静謐であるがゆえに胸の奥底までゆっくりと沁み入ってくる。いつまでも読みつがれて欲しい。

 

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あのころ、天皇は神だった

 

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あのころ、天皇は神だった [ ジュリー・オオツカ ]

ジョーン・G・ロビンソン作・絵/小宮由訳「メリーメリーおとまりにでかける」(岩波書店)-まだ小さい女の子メリーメリーは、いつだって好奇心いっぱい。

 

メリーメリー おとまりにでかける

メリーメリー おとまりにでかける

 

 

メリーメリーはまだ小さい女の子。五人きょうだいの末っ子で、一番上はお姉ちゃんのミリアム、二番めはお兄ちゃんのマーチン、三番めのお兄ちゃんはマービンで、四番めのおねえちゃんがメグです。

メリーメリーの本当の名前はメリーなのですが、お姉ちゃんやお兄ちゃんが赤ちゃん扱いして、いつの間にか「メリーメリー」と呼ばれるようになりました。お姉ちゃんもお兄ちゃんもメリーメリーよりずっと大きいからなんでも知ってます。だからいつも、まだ小さくていろんなことがよくわからないメリーメリーにいいます。

「そんなふうにしちゃだめ、メリーメリー!こうするの!」
「そっちにいっちゃだめ、メリーメリー!こっちにおいで!」

でも、メリーメリーは自分でやりたいからこういいます。

「いや。あたしのやりかたでする!」
「いや。あたしは、あっちにいく!」

好奇心いっぱいのメリーメリーは、いつだってお姉ちゃんやお兄ちゃんと遊びたいし、同じようにお出かけしたり、なにかを作ったりしてみたいと思っています。でも、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、まだ小さいメリーメリーには「だめ!」というんです。だけど、メリーメリーの好奇心は簡単にはおさまったりしません。

塀の上からおとなりの庭をのぞきこんで、越してきたばかりのサマーズさんにお呼ばれしちゃったり(「メリーメリーおきゃくさんになる」)、荷馬車の下をのぞきこんでるバセットさんにたのまれてネコをさがし、ちゃっかりチョコレート・サンデーをごちそうしてもらったり(「メリーメリーおこづかいをかせぐ」)、お父さんとお母さんの結婚記念日のお祝いに作っていた小麦粉のお団子が、素敵なキャンドルホルダーに役立ったり(「メリーメリーのおりょうり」)、家の前の大きなゴミ箱からみつけた古いけどすてきなハンドバッグを大事につかったり(「メリーメリーのハンドバッグ」)。

そして最後には、ティーポットのカバーを頭に乗せて、お母さんのハイヒールを履き、大事な古いハンドバッグをもって、バセットさんのおうちにおとまりにもいっちゃうのです(「メリーメリーおとまりにでかける」)

メリーメリーの行動は、子どもらしい愛くるしさがあります。お姉ちゃんもお兄ちゃんも、メリーメリーを叱ったり、邪魔ものみたいにあつかったりすることもあるけど、メリーメリーがきらいなわけではありません。むしろ、一番末っ子のメリーメリーは、家族のみんなに愛されていて、家族のみんなに守られています。

そんな家族に囲まれているから、メリーメリーはいつも自由にいろんなことができるのです。

メリーメリーはわがままな子なんでしょうか?
メリーメリーはみんなに迷惑な子なんでしょうか?

たしかに、メリーメリーがやってることはわがままだし迷惑なことです。でも、子どもってわがままで迷惑をかける存在だから、可愛くて愛しいんじゃないですか? ましてや自分の子どもだったり、自分の弟や妹だったりしたら、「もう、しょうがないな~」ってちょっとイラッとしちゃっても、すぐに許せちゃうんじゃないですか?

なんか最近、電車で子どもの泣き声がうるさいとか、保育園や幼稚園の子どもの声を騒音だといって抗議したりする人がいるという話をニュースでみたりします。でもね、赤ちゃんが泣くのは当たり前だし、子どもが元気に遊べるのは、その場所が安心できる場所だからなんじゃないかと思うんですよ。

赤ちゃんの泣き声も、子どもの笑い声も聞こえないような世界なんて、怖くてイヤだなぁ。この本を読んで、レビューを書きながら、そんなことを考えたのでした。

 

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メリーメリーおとまりにでかける [ ジョーン・G・ロビンソン ]

バーバラ・ストック/川野夏実訳「ゴッホ-最後の3年」(花伝社)-数々の傑作が描かれた晩年のゴッホを描くグラフィック・ノベル。自らに追いつめられ、狂気を帯びていく天才の姿。

 

ゴッホ  最後の3年

ゴッホ 最後の3年

 

 

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホでパッと思いつく作品はなんだろう。

『ひまわり』
『アルルの跳ね橋』
『自画像』
『星月夜』

ゴッホは、50年に満たない人生の中で数多くの作品を描いてきたが、その多くは晩年の3年間(1888年から1890年)に描かれたという。バーバラ・ストックの「ゴッホ-最後の3年」は、まさにその晩年の時代を描くグラフィック・ノベルだ。

1888年2月に、ゴッホはパリを離れてアルルに向かう。弟のテオから週に50フラン(現在の価値で5万円くらい)の仕送りをもらい、創作に没頭するためだった。しかし、弟から援助を受けていることが、ゴッホにとってジワジワと精神的な負担になっていく。なんとか絵を売って弟に金を返さなければというプレッシャーが次第にゴッホを追いつめていく。

アルルでのゴッホは、創作意欲に満ちあふれている。アルルの風景や人々との出会いに触発され、一心に創作に励む。だが、彼の作品は芸術家仲間や画商からは冷ややかにみられている。平凡な「なんてことない絵」としてみられている。

本書の23ページに描かれる場面が、ゴッホの絵に対する他者の評価を表している。アルルで知り合った画家のドッジとウジェーヌに桃の木を描いた作品(『花咲く桃の木』1888年)を自信作として見せる場面だ。

ゴッホ「これがおそらく一番の自信作だ。柔らかでありながら賑やかだ。そう思わないか」
ドッジ、ウジェーヌ「・・・」
ドッジ「・・そろそろ乾杯の時間といこう」

自信満々で絵をみせたのに、ドッジとウジェーヌの反応はいまいち。ふたりの沈黙にゴッホも憮然とした表情をしている。

それでも、ゴッホは創作に打ち込む。作品のアイディアは無数にわきあがってくる。しかし、彼の絵はまったく売れない。金がなくなるたびに弟テオに仕送りを請う手紙を送る。テオに対する借金はドンドンと増えていく。そのことがゴッホをさらに追いつめる。

テオが、兄ヴィンセントを援助することを嫌がっていたわけではない。むしろ兄の才能を信じ、兄が創作に打ち込めるようにサポートし続けていたのがテオだ。つまり、ゴッホは自ら、自分自身を追いつめていたのだ。

ゴッホは自分の創作を続けながら、アルルに芸術家の家をつくろうと考えるようになる。芸術家の家に集い、それぞれが自分の創作に没頭する場所とするのだ。ゴッホは、そのリーダーにはゴーギャンがふさわしいと考えて手紙を送った。

ゴッホは常に理想を追い求めている。彼にとっての理想だ。しかし、それは周囲の人間にはまったく理解されない。ゴッホは、積み重なっていく借金、先の見えない生活、理解されない理想に苦しめられる。苦しみはいつしか彼を狂気へと追いやる。そして、ゴッホは自らの耳を切り落とそうとするのである。

ゴッホの絵は、彼の死後に高く評価されるようになり、今ではとんでもない金額で取引されるようになっている。だが、生前のゴッホは本書に描かれているように描いても描いても評価されず、狂気の中に自分を追い込まざるを得なかった不遇の人だ。

そもそも芸術に疎い私にとって、ゴッホといえば顔に包帯を巻いた自画像(耳を切り落としたあとに描かれたもの)の人であり、『ひまわり』を53億円で安田火災(当時。現在の損保ジャパン日本興亜)が購入したことで記憶に残っている人物でしかなかった。

本書を読んで、ゴッホの晩年の3年間を知り、彼がいかに息苦しい人生を生きていたか、どうして耳を切り落とすことになるまでに狂気の奈落へと落ちてしまったのかを知ることができた。それは、私が想像していた以上に、残酷で悲劇的なものだった。

ラストシーンで、ゴッホは広大な麦畑の中でその風景を描いている。1890年『カラスのいる麦畑』の風景。最後のページには、兄ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの墓標と並んで、弟テオドール・ヴァン・ゴッホの墓標が描かれている。ふたりの生没年をみたときに、「あぁ、きっとテオは天国でも兄の面倒をみなきゃと思ったのかもしれないな」と想像した。ふたりの生涯は、幸福とはいえなかったかもしれないけれど、少なくともふたりの絆は強く深かったに違いない。そのことは救いだと思いたい。

 

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ゴッホ 最後の3年 [ バーバラ ストック ]

マイケル・ボンド/おおつかのりこ訳、いたやさとし絵「モルモット・オルガの物語」(PHP研究所)-食いしん坊のモルモット『オルガ・ダ・ポルガ』の毎日は、なんだか楽しそう

 

モルモット・オルガの物語 (みちくさパレット)

モルモット・オルガの物語 (みちくさパレット)

 

 

モルモットとハムスターの区別がつかないくらいに、齧歯類に関する知識はありませんが、この物語を読む上でそのような堅苦しい知識は必要ではないので、そこは気にしないことにします。

さて、マイケル・ボンド「モルモット・オルガの物語」の主人公は、モルモットのオルガです。正式には『オルガ・ダ・ボルガ』といいますが、なんでそんな名前なのかはわかりません。でも、本人はその名前を気に入っていて、名前にまつわる物語をペットショップの仲間たちに語ります。ただ、物語の内容はそのたびに違うし、どんどん膨らんでいくので、みんなはなにが本当なのかわからくなっています。

そんなある日、オルガはカレンという女の子の家に買われることになります。オルガは、カレンのお父さんを『オガクズさん』と呼び、オガクズさん一家のペットになるのです。オルガには専用の小屋が与えられ、そこで自由を手に入れます。広い家、たくさんのごはん、そして大きく広がった世界。オルガは、この場所をとても気に入りました。

そして、たくさんの出会いがあります。ネコのノエルにハリネズミのファンジオ。オルガはみんなと友だちになって、お得意の物語を話してあげます。相手が退屈しようが、ツッコミを入れようが、そんなことは関係ありません。物語はオルガの世界なのです。

「モルモット・オルガの物語」は、単純に楽しいお話です。オルガは妄想癖があって、やたらと食いしん坊で、ちょっとウザい感じもありますが愛されキャラです。人間の世界では、何かと周りの目を気にする人が多くて、場の空気を読まない自然体で行動するような人を『天然キャラ』とレッテル貼りしています。もし、オルガが人間だったら、きっと天然ちゃんと言われるでしょう。

でも、オルガの毎日はたくさんの幸せで溢れています。ときに危ないことになったり、怪我しちゃったりもするけれど、お腹いっぱいごはんを食べて、たくさん眠って、たくさん話をすれば、それでもう十分なんです。

なんだかとっても楽しそうなオルガの毎日。ちょっと憧れてしまいました。

エヴァ・イボットソン/三辺律子訳「幽霊派遣会社」(偕成社)-孤児のオリヴァーは、ある日突然スノッド=ブリトル家の後継者になる。でもそれは、彼にとって幸せなことではなかった。幽霊たちが来るまでは。

 

幽霊派遣会社

幽霊派遣会社

 

 

「リックとさまよえる幽霊たち」「クラーケンの島」と読んできて、すっかりその面白さにハマってしまったエヴァ・イボットソン。続いて手にとったのは「幽霊派遣会社」で、これも面白かった。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

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タイトルの「幽霊派遣会社」は、魔女になるための勉強をする学校で知り合ったミス・プリングルとミセス・マナリングが立ち上げた会社で、住む場所(取り憑く場所?)を探している幽霊たちと、幽霊を受け入れてくれる(取り憑かせてくれる?)人間たちとをつなぐことをビジネスとしている。

幽霊派遣会社の目下の悩みは、ウィルキンソン一家とシュリーカー夫妻という2組の幽霊だ。ウィルキンソン一家は、5人家族の幽霊で、とても優しい穏やかな幽霊たちだ。一方のシュリーカー夫妻は、見た目も性格もすべて邪悪な幽霊で、とくに子どもを目の敵にしている。なにかしら過去にあったらしいのだが、それについては語ろうとしない。

あるとき、幽霊派遣に関する2つの依頼が会社にもたらされた。ひとつは修道院からの依頼で、古くなった修道院の建物に幽霊を受け入れたいというもの。悲しみを分かち合えるような幽霊が希望ということで、ミセス・マナリングは、ウィルキンソン一家を紹介することにした。数日後、ボイドと名乗る男が幽霊派遣会社にやってきた。彼は、リングレー館という屋敷を観光客相手の幽霊屋敷としたいので思い切り邪悪で恐ろしい幽霊を派遣してほしいと依頼する。ミス・プリングルは、喜んでシュリーカー夫妻を紹介する。こうして、ふたりの悩みだった幽霊たちはそれぞれに望まれた場所で暮らせるようになる、はずだった。

話を少し戻そう。邪悪な幽霊の派遣を依頼したボイドという男、実はフルトンという男で、スノッド=ブリトルという由緒ある大富豪の系譜に連なる者だった。彼は、妹のフリーダとともに莫大な財産を継げると思っていたが、そこに問題が起こる。スノッド=ブリトル家の直系にあたる者がみつかったのだ。オリヴァーという少年は孤児院で暮らしていた。オリヴァーの存在は兄妹にとって誤算だった。どうにかしてオリヴァーを亡き者にできないか。考えた結論が幽霊の派遣だった。オリヴァーがぜんそくの持病をもっていることを利用し、恐怖を与えて呼吸困難にして殺してしまうのだ。

人間というのは様々な事情から、邪悪にもなれれば賢者にもなりえる。莫大な財産の相続という欲によってスノッド=ブリトル兄妹は、まだ少年のオリヴァーを消し去ろうと邪悪な企みをめぐらす。白羽の矢が立てられたシュリーカー夫妻も、なんらかの事情で子どもに対する憎悪を抱えた邪悪な幽霊となっている。

一方で、ウィルキンソン一家は面倒見もよくて心の優しい幽霊だ。家に爆弾が直撃していきなり全員幽霊になってしまったけれど、そのことを受け止め、偶然出会ったアディという少女の幽霊を家族として受け入れる。スノッド=ブリトル家の後継ぎとなった孤児のオリヴァーも、同じ孤児院の仲間たちを愛し、彼を殺そうと画策するフルトンやフリーダに対しても感謝の気持ちを忘れない。

ある手違いから、ウィルキンソン一家はオリヴァーと出会う。オリヴァーはすぐに幽霊たちと打ち解け、幽霊たちを自分に与えてくれたフルトンとフリーダに感謝する(もちろん、それはオリヴァーの誤解なのだが)。ウィルキンソン一家との生活が、オリヴァーに希望を与え、生きる勇気を与える。

オリヴァー、スノッド=ブリトル兄妹、ウィルキンソン一家、シュリーカー夫妻は、それぞれにそれぞれの結末を迎える。それは、落ち着くべきところに落ち着いた結末だ。心優しき者は幸せと希望を与えられ、邪悪な者は不幸の底へと転落していく。悪しき者であっても心を入れ替え正しい道へ進めば、その先には幸せが待っているかもしれない。自分の過去や現在を振り返り、今からでも遅くないよね、と言い聞かせてみたりする。

 

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