ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

アンジー・トーマス/服部理佳訳「ザ・ヘイト・ユー・ギヴ~あなたがくれた憎しみ」(岩崎書店)-なぜカリルは撃ち殺されなきゃいけなかったのか。事実が歪められていく中で、スターは勇気をもって真実をみつめることを決意する。

ビッグDの春休みのパーティで、スターは幼馴染のカリルと久しぶりに会った。会場に銃声が響きパーティが混乱する中からふたりは抜け出し、カリルの車に乗り込む。カーステレオから大音量で流れるのは、トゥパックの古くさいラップ。どうしてそんな古くさい曲ばかりきいているのかと言うスターに、カリルは「トゥパックは本物だ」と答える。

「そうだね、二十年もまえの人だけど」
「いや、いまだって十分通用する。そう、たとえばだな」カリルはわたしに指をつきつけた。自分の哲学を語るときの癖だ。「パックは、Thug Lifeってのは、"The Hate U Give Little Infants Fucks Everybody"〈子どもに植えつけた憎しみが社会に牙をむく〉の略だと言ってるんだ」

アンジー・トーマス「ザ・ヘイト・ユー・ギヴ」は、2017年のボストングローブ・ホーンブック賞を受賞したヤングアダルト(YA)小説である。著者は、本書がデビュー作品となる。(リンク先:やまねこ翻訳クラブ ボストングローブ・ホーンブック賞受賞作品リスト)

本書が描くのは、いまだアメリカ社会に根深く残る人種差別問題だ。

黒人であり、けっして治安が良いとは言えないガーデン・ハイツに暮らす16歳のスターが主人公。彼女は、幼馴染のカリルが目の前で白人の警官に撃ち殺される現場に居合わせる。何も悪いことなんてしていないのに、何も抵抗していないのに、白人警官1-15はカリルを撃ち殺し、スターにも銃口を向けた。カリルの命の火が消えていく中で、スターは何もすることができなかった。

カリルは、黒人であり、ドラッグの売人でもあった。白人警官が無抵抗な黒人を射殺したはずの事件は、いつの間にか「ドラッグの売人でもある札付きのワルだから撃たれても仕方ない」と、被害者であるカリルが糾弾され、1-15の行動は正当であったという論調になっていく。黒人たちの怒りは高まり、ガーデン・ハイツでは『カリルに正義を!』のスローガンを旗印に抗議行動がエスカレートし暴動が起こる。

物語は5つのパートで構成されている。事件が発生に、苦悩の末にスターが大陪審での証言を決意するまで(パート1「ことのはじまり」)。大陪審での証言当日まで(パート2「5週間後」)。大陪審での証言後にスターに起きたこと、少しだけ平穏な日々のこと(パート3「8週間後」、パート4「10週間後」)。そして、大陪審の決定。その後の混乱(パート5「13週間後」)。

およそ500ページ近い本書の中で、パート1が半分以上のページをつかって書かれていることに着目したい。

本書は、黒人差別の問題を描いているが、主題となっているのは“勇気”の問題だと思う。それは、スターの問題だ。

カリルが射殺されるのを目撃したスターは、『死人に口なし』でカリルが「撃ち殺されても仕方ないヤツ」と貶められていくのを見ても、自分が目撃者として証言することが怖くてできなかった。彼女は、10歳のときに友だちのナターシャが抗争に巻き込まれ、目の前で撃ち殺されるのを見たトラウマがある。カリルの名誉を回復し、真実を語る責任が自分にはある。頭ではわかっていても恐怖には抗えない。

それでも、スターは少しずつ勇気を奮い起こしていく。警察で証言し、検察で証言をし、メディアで証言し、大陪審での証言に至る。そこに至るまでの彼女の苦悩と葛藤の時間が、パート1には記されているのだ。

どんなことでも、勇気をもって行動を起こすのは難しい。特に、大人は年を重ねてたくさんのリスクを経験してしまっているから、ついついリスクを言い訳にして一歩を踏み出せなくなっている。スターも、過去の怖い経験がトラウマになってしまい、勇気の一歩が踏み出せない。それでも、彼女は、家族の励まし、友だちや恋人の態度への不満や共感、そしてなにより真実が失われゆくことへの憎しみを力にして勇気を奮い起こす。

いまだなくならないアメリカの黒人差別問題の現実をスターという黒人少女の成長を通じて知ることができる作品だと思う。

池田浩士「【増補新版】抵抗者たち-反ナチス運動の記録」(共和国)-ナチスドイツの恐怖による独裁政治に抗った抵抗者たちの記録

いつの時代にあっても、権力者は自分が手にした強大な力を自分の自由に使えるものと勘違いするようだ。また、権力者の側にいるというだけで自分にも力があると思いこんでいる矮小な輩というのもいる。

権力者による勘違いが害のないレベル(そんなレベルがあるのかわからないが)に留まっている分には、笑い話で済むかもしれない。だが、ヒトラーのように徹底的に誤った方向に舵を切り、ファシズムという最悪のレベルに至ってしまった場合、それは悲劇しか生み出さない。

本書は、ファシズムに抗い闘った抵抗者たちの記録だ。ファシズムという強大な権力に立ち向かった彼らは、悪を悪として糾弾し、正義のために闘ったのだ。そこには、強い意志の力が感じられる。

ナチスの恐怖政治の前に人々は無力だ。恐怖によって人心を掌握し、抵抗する者には厳しい弾圧と加え、たくさんの人々が粛清された。権力に反対する言論は徹底的に封鎖し、反体制的な書物は焚書とされた。メディアは権力に都合の良いことだけを垂れ流し、人々の洗脳に力を貸した。逆らえば自分の命が危ない。となれば、無力な民は権力の足下に額ずくしかなかった。

だが、すべての民がファシズムに屈したわけではない。抵抗者は、数々の弾圧、粛清に屈することなく、正義を貫き通した。彼らはファシズムに敢然と立ち向かい続けた。戦いに敗れ、粛清された者もあった。それでも、彼らが示した抵抗する意志の力は、少しずつ人々の中に浸透していき、やがてナチスドイツの凋落とともに勢いを見せる。

本書は、ファシズムに立ち向かった人々の記録だ。この本が、日本の研究者によって書かれたことに驚く。

1980年に初版が刊行されてから40年近い年月を経た本書が、2018年の今、私たちのもとへ届けられたことは大きな意味があると感じる。

本書を読みながら常に感じていたのは、今の時代の日本に生きる私たちを取り巻く政治的な環境がところどころでファシズム的な一面を有しているということだった。もちろん、ナチスドイツが行ってきたファシズム現代社会とはまったく違う。それでも、権力におもねっているのではないかと疑わせるような偏向的なメディアの報道姿勢や権力という虎の威を借りて罵詈雑言を投げつける人々の存在、性別や人種、マイノリティに対するヘイススピーチ等々、民主的で平和的であるとは言い難い状況があるのは間違いないと思うのだ。

私たちは、いつでも言いたいことを言う権利があるし、政権を批判することも擁護することも自由だ。権力者を心から信頼し支持する者があれば嫌悪する者もある。そうした個人の思想信条も含めてすべては自由なのだ。この自由な社会に私たちが生きていられるのは、かつて権力の圧力に抗って闘った抵抗者たちが勝ち取ったものなのだ。

権力を持つというのは、なんでも自分の思う通りに動かしていいという意味ではない。あらゆることを思うままにできる権力を与えられたからこそ、自らを律して行動しなければならない。そして、私たちは盲目的に権力者を信じるのではなく、権力者を疑い監視する目を持たなくてはいけない。ファシズムに抗った抵抗者たちの記録を読んで、そう思った。

たかおまゆみ「わたしは目で話します~文字盤で伝える難病ALSのこと、そして言葉の力」(偕成社)-難病ALSを発症した著者が文字盤を使って目の動きだけで言葉を伝え書かれた本。言葉の力、コミュニケーションの大切さに気づかされた。

ALSという病気がある。筋萎縮性側索硬化症(英語表記:Amyotrophic lateral sclerosisの頭文字で略称ALS)という病気がどのような病気なのか、本書を読むまでまったく知らなかった。身体の自由が次第に失われていく難病であることは知っていたし、治療法が見つかっていないことも知っていた。しかし、病気の原因もわかっていないこと(わかっていないから治療法も見つかっていない)や筋肉の病気ではなく筋肉を動かす神経細胞(運動ニューロン)が減少し働かなくなる病気だということは知らなかった。

著者のたかおまゆみさんは、2009年にALSを発症した。ドイツ語の翻訳家として10年が過ぎ訳書も増えてきたし、さらなるドイツ語のブラッシュアップのために大学院で学ぶ始めたところだった。ドイツ語翻訳家としての未来を考えていた。

たかおさんは、子どもの頃の経験から障害をもつ子どもたちの教育者を目指して大学を卒業し日本聾唖学校で教師となった。聴覚障害をもつ子どもと接した経験から言葉によるコミュニケーションの強さとともに、言葉によらないコミュニケーションの存在にも気づかされる。勝手な憶測だが、聾唖学校での経験が、後にALSを発症して言葉を失ったときに、絶望するばかりではなく、文字盤というコミュニケーションツールを使って他者と会話するときのモチベーションとなったのではないだろうか。

その後、たかおさんはスイスでの生活を経てドイツ語の翻訳家として仕事をするようになる。「ハイジ」の著者ヨハンナ・シュピリに魅せられ、その作品を翻訳することにもなる。こうして、ドイツ語翻訳家としての道を歩き始め、軌道に乗り、さあこれからというときに病を発症するのである。

難病患者が書いた本、となると、病気になった悲しさや闘病の苦しさ、そんな中にあるかすかな希望のような闘病記を想像するかもしれない。私も読み始めるまではそう思っていた。

だが、実際には予想していたような本ではなかった。確かに、身体の異変を感じ様々な検査の結果ALSとわかるまでの不安やわかってからの絶望感を記したところもある。だが、それ以上に本書には楽しさがあるのだ。たかおさんが病気を楽しんでいるというと語弊があるかもしれない。でも、実際に本書を読んでみると、たかおさんが今自分が置かれている状況をむしろ前向きに楽しんでいるような雰囲気が感じられるのだ。

たかおさんが前向きである理由は、文字盤の存在である。文字盤は、透明な板に五十音の文字と記号を配置したもので、目しか動かすことのできないたかおさんが言葉を伝えるための必須アイテムである。本書は、声を失った患者にとって文字盤がいかに大きな存在であるかを、経験者であり、深く実感しているたかおさんが熱く語るために書かれたといって過言のない本なのだ。

文字盤の獲得がいかに希望を与えてくれたか。「はじめに」の中でこう書いてある。

文字盤を見て、「はじめのころは、たいへんでしたでしょうね」と、わたしにきく人がいる。たいへんだったもなにも、わたしには狂喜乱舞した思い出だけしか残っていない。

 

話すこともできなくなり、この先どうなっていくのかと不安しかなかったたかおさんにとって、文字盤を使って自分の思いを言葉にできることは、まったく苦労ではなかった。むしろ、言葉を取り戻せたことの嬉しさしかなかったのだ。

本書を読むと、言葉の持つ力の偉大さをひしひしと感じる。声に出して話すことはもちろんだが、書き言葉であったり、あるいは身振り手振りで伝えることも言葉のひとつと考えることもできるだろう。病気で身体の自由が失われていくたかおさんに生きる力と楽しみを与えたのも言葉だ。

言葉には力がある。だからこそ、大切に使わなければいけない。私自身、言葉を大事にしているかと我が身を振り返り、もっと大事にしようと思った。たくさんの気づきを与えてくれる本に出会えた。

R・J・パラシオ/中井はるの訳「もうひとつのワンダー」(ほるぷ出版)-顔に障がいのある少年と出会った彼らがとった態度。なぜ、あんなことをしたのか。3人の少年少女について描くスピンオフストーリー

生まれつき顔に障がいのある少年オギーが学校に通うことでおきるいろいろな経験を通じて、オギー自身や彼の周囲の人々が成長し変化していく姿を描き出し、世界的ベストセラーなった「ワンダー」。本書は、「ワンダー」にも登場した主要なキャラクター、ジュリアン、クリストファー、シャーロットについて描いたスピンオフ作品である。

s-taka130922.hatenablog.com

 

「ワンダー」を刊行してから、著者には「続編の予定はないのか?」という質問が寄せられたと、『まえがき』の冒頭で著者が言及している。著者は、質問を受けるごとに申し訳ないと思いつつもこう答えていた。

「いえ、続編は出さない方がいいと思っています。このあとオギーたちがどうなっていくのかは、読者の方がたご自身に想像していただきたいのです」

 

確かに読者としては、「ワンダー」のラストの場面で大いに感動し、オギーやジャック、サマーたちがこのあとどう成長し、そしてどんな大人になるのだろうと気になった。中でも、オギーの敵役であり「ワンダー」のラストではビーチャー学園を去ることになったジュリアンは、その後どうなったのか気になっていた。

「ワンダー」の中では完全に悪役として描かれたジュリアンは、読者からもっとも嫌われた存在である。「冷静を保ち、ジュリアンになるな」というスローガンもネット上に公開されたという。(以下はネット公開されているポスターの例。他にもいろいろなパターンがある)

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著者が続編としてではなくスピンオフとして本書を書こうと考えたのは、ジュリアンが一番の理由だったという。読者からの嫌われ者となってしまったジュリアンについて、彼の側からキチンと書いておく必要があると考えたのだろう。こうして、ジュリアンの物語とクリストファー、シャーロットの物語を加えた本書ができあがったのである。

ジュリアンの物語は、彼がオギーと出会い彼をいじめることになるに至った理由がジュリアンの側から描かれている。ただ単純にオギーを“異質な存在”として嫌悪したのではなく、ジュリアンが抱える複雑なトラウマや彼を甘やかす両親(特に母親)の存在が、彼の性格を歪めてきたという実情がそこにある。

ビーチャー学園を辞め、新年度から別の学校に通うことになるジュリアンは、夏休みをパリに住む祖母の家で過ごすことになる。そこで彼は、祖母が子どもの頃に体験した壮絶な話を聞くことになる。彼の祖母はユダヤ人であり、ナチスドイツのユダヤ人迫害によって多くの仲間が強制収容所にいれられ虐殺された。祖母は、ナチスユダヤ人狩りが激しさを増していく中、同級生の家に匿ってもらって生き延びる。祖母を救った同級生は、身体に障がいがあり、みんなから『トゥルトー(カニ)』と呼ばれていじめられていた少年だった。

なぜジュリアンはオギーをいじめてしまったのか。そこには、オギーに対する恐怖心がある。ジュリアンは、祖母が体験した話を聞き、自分がオギーをいじめたことの罪の重さ深さを初めて実感する。ジュリアンと祖母の話、そしてラストに明かされる真実は、読んでいて激しく胸を揺さぶった。涙がこみ上げた。

クリストファーの物語、シャーロットの物語でも、ふたりそれぞれのオギーとの関係や考え方、そして彼ら自身が抱える人間関係の悩みが描かれている。ジュリアンもそうだが、彼らは特別な人間ではない。彼らはどこにでもいる普通の少年であり少女だ。友だちとバカ騒ぎして、恋バナで盛り上がったりするのが大好きな子どもたちだ。勉強が苦手な子もいれば、ガリ勉の子どもだっている。運動が苦手なインドア派の子どもがいれば、身体を動かすことが大好きな子どももいる。ひとりひとり顔も体型も性格も違うけど、普通の子どもたちなのだ。

「ワンダー」が、オギーという他の子どもとは違う特別な存在が現れたことで起きる奇跡(ワンダー)描いたように、「もうひとつのワンダー」はジュリアン、クリストファー、シャーロットという普通の子どもが体験する出来事が奇跡(ワンダー)を起こすのだということを私たちに教えてくれる。

特別だから奇跡を起こせるんじゃない。普通の子どもたちでも奇跡を起こせるんだ。「もうひとつのワンダー」とはそういうお話なのである。

R・J・パラシオ/中井はるの訳「ワンダー~Wonder」(ほるぷ出版)-他人とは違う自分、自分とは違う他人。オーガストと彼を取り巻く人々の交流は、「違う」ことを受け入れ、認め合うこと。

R・J・パラシオ「ワンダー」は、10歳の少年オーガスト(オギー)・プルマンがビーチャー学園中等部に通い始めるところから始まる。

オギーは、それまで学校に通ったことがなかった。それは、彼が他の子どもたちとは違っていたからだ。オギーには、生まれつき顔に異常があった。オギーの顔を見た人は、見てはいけないものを見てしまったかのようにギョッとし、そして視線をそらす。遠くの方から無遠慮に見つめ、ヒソヒソとささやきあったりもする。オギーはもう、そういう人たちの態度には慣れてしまった。

オギーを受け入れることになったビーチャー学園では、まず彼のために3人の生徒を案内役にする。ジュリアン、ジャック、シャーロットだ。この3人の登場人物としての役割が明確でわかりやすく設定されている。

箱入り息子として大事に甘やかされて育ち、両親の存在から学園内でもリーダー格のジュリアンは、オギーをいじめる悪役である。多くの読者は、彼を嫌悪の対象として見るだろう。ただ、冷静に見ると、私がもしオギーと対峙したときに、彼を目の前から排除したいと考えてしまうかもしれない。むしろ、ジュリアンのような態度になる方が普通と言えるかもしれない。

ジュリアンほど悪役にはならない(なれない)にしても、多くの場合、オギーに対峙した人はシャーロットのように振る舞うのではないだろうか。彼女は、ジュリアンのようにオギーを異質とみなし排除するような行動はしない。かといって、ジャックやサマーのようにオギーを受け入れ友人としての関係を築くわけでもない。オギーやジュリアンとは一定の距離を保ちつつ、先生や大人たちからは「障がいを持つオギーに親切に接する良い子」というポジションをキープしている。ある意味では一番悪い子だ。

ジュリアンやシャーロットとは違い、オギーの存在を素直に受け入れ、なんの計算もなく純粋に彼と友人になれるジャックやサマーは、読者にある課題を突きつける存在だと思う。それは、「あなたがもしオギーに出会ったら、ジャックやサマーのようになれますか?」という課題だ。私はなれる自信がない。ジュリアンやシャーロットになるのは簡単だ、けど、ジャックやサマーになるのは難しい。そう考えてしまうのは、やはり私の心の中に障がい者に接することへの偏見と気後れがあるからだと思う。

障がい者はかわいそうな人。守ってあげなければならない人」という偏見
障がい者には親切にしなきゃいけない。でも気安く接してもいいんだろうか?」という気後れ

そうした偏見や気後れがあるから、チャリティー番組を見ては「障がいがあっても頑張っててえらいな」とか思うくせに、いざ目の前に障がい者がいても見てみないふりしてしまうのだ。私は一生ジャックやサマーにはなれないと思う。

オギーは、ビーチャー学園に通うことでいろいろなことを経験する。たくさんの好奇の視線にもさらされるし、いじめにも合う。それでも、オギーは少しずつ周囲の人たちの意識を変えていく。オギー自身も学校生活の中で成長をしていくが、それ以上に彼と接する人たちが大き成長していく。オギーの存在は、まさに“Wonder”となるのだ。

姉ヴィアの演劇発表会を観に行った時、舞台に感動した観客からスタンディング・オベーションを受けるヴィアたちを見たオギーは、自分もこんなふうに喝采を受けられたら素晴らしいだろうと感じる。「世界中の誰もが、一生に一度はスタンディング・オベーションを受けなきゃならないっていう法律があるべきだ」と思う。オギーが起こした“Wonder”は彼に喝采をもたらした。彼の成長と彼の素晴らしい家族や友人たちに読者として最高のスタンディング・オベーションを捧げたいと思う。

 本作は、映画化されて2018年6月に全国公開されるそうです。

wonder-movie.jp

花田菜々子「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(河出書房新社)-出会い系サイトを通じて出会った人たちはそれぞれ個性的な人ばかり。もし、私が著者と出会っていたらどんな本をすすめてもらえただろうか?

著者は、下北沢他のヴレッジヴァンガード二子玉川蔦屋家電、日暮里のパン屋の本屋などの店で店長をつとめてきた。現在は、日比谷シャンテに新しくオープンした『HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE』の店長をしている。本書は、著者初の著作になる。

www.hmv.co.jp

「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」(以下、長いので「であすす」と記す)は、夫との関係が壊れてしまった主人公の〈私〉が深夜のファミレスでひとり時間を潰している場面からはじまる。〈私〉は、午前2時がくるのを待っている。近くのスーパー銭湯は、6時間以上滞在すると延長料金を取られるため、ギリギリの時間までこうしているのだ。

夫と別居し一人暮らしをはじめた〈私〉は、『X』という出会い系サイトを知る。「知らない人と30分だけ会って、話してみる」という内容のウェブサービスとして紹介されていた『X』に彼女は登録してみることにした。そこには、今まで彼女が知ることのなかった世界が存在していた。

出会い系サイトのようなものには違いないのだろうが、出会いを異性との恋愛目的に限定していないからなのか、後ろ暗さはなく、おしゃれな感じすらする。私がイメージする「出会い系」とは全然違う。学生さん、おじさん、若いOL風のきれいな女の人、サラリーマン、高そうな自転車で都会を走っていそうな人、いろんな人がこのサイトの中に実在しているのだ。

 

種々雑多で個性的な人たちが集まる「X」で、〈私〉はあることをやってみようと思い立つ。彼女は、自分のプロフィール欄にこう書き込んだ。

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を1冊選んでおすすめさせていただきます」

 

こうして、この物語は始まった。

出会い系サイト「X」上の登録データでも個性的な人たちは、実際に出会ってもやはり個性的だ。親切そうな感じで近づいてきて、いろいろと教えてくれた挙げ句に結局目的はセックスだったという出会い系にはよくいそうなタイプの人がいれば、一方的にまくしたててくるタイプの人もいる。せっかく本をすすめても、あまり興味をもってもらえないこともある。いきなり手品を披露する人。メンタリズムを勉強しているらしい人。男の人ばかりではなく女性とも会ってみたりして、そのたびにその人に合いそうな本をすすめていく。

出会った人の中には、その出会いをきっかけに友だちとして長く付き合う関係を築けた人もいる。彼、遠藤さんとはその後親しく会って話をし、相談にも乗ってもらうようになっていく。

『X』を通じた多くの人たちとの出会いの経験は、確実に〈私〉の意識を変えていく。知らない人と話すことのハードルが下がると人間は大胆になっていくものだ。〈私〉の方から積極的に話しかけ、会って話をする機会をつくる。こうして、〈私〉は「逆ナンの術」を身につけたのである。黒岩さんや佐久間さんとは、こうして出会い、話を弾ませる。

経験を積んでいくと〈私〉は、「誰とでも友達になれるのでは?」と考えるようになる。

(略)私だってやみくもにアイドルやお笑い芸人と仲良くなりたいわけではない。だけど「会いたい」と言えるだけのちゃんとした理由があれば、そんな特別なことではなく、だいたいの人と会えるものなのかもしれない。

 

〈私〉が会いたい人、それは京都で「ガケ書房」という書店を営んでいる山下さんだった。

結果として、〈私〉が『X』を通じてたくさんの人と出会い、本をすすめてきた本当の目的は、山下さんに会って話をするだけの経験を重ねるためだったのかもしれない。はじめは興味本位からスタートし、出会い系サイトの中でちょっと目新しいこととして出会った人たちに、その人に合いそうな本をすすめてきた。出会いの数を重ねていって、次第に大胆さを身につけた〈私〉は、その経験の勢いで「ガケ書房」の山下さんにアプローチし京都まで行ってしまう。もし、『X』での経験がなかったとしたら、〈私〉は今でも山下さんを「いつか会って話したい人」として遠くから見ているだけだったかもしれない。『コミュ力』というのとは違うかもしれないけど、人と会う経験はやはり貴重なのだと感じる。

「であすす」は、「WebMagine温度」というWebサイトで連載されていて、私は連載中から読んでいた。とにかく長くてインパクトのあるタイトルと出会い系サイトを舞台にしたエッセイ風の小説(逆かもしれない)というのは、なんとか興味を惹かれる内容だし実際読んでみると面白かった。

ondo-books.com

著者の花田菜々子さんのことも知っていた。Twitterで相互フォローもしている。ただ、実際にお会いしたことはない。本書の中で〈私〉が「ガケ書房」の山下さんを一方的に知っていたように、私にとっての花田さんも一方的に知っている書店員さんなのである。

私もいつか、花田さんと直接お会いできるときがくるだろうか。「会いたい」と思えば、そしてちょっとした行動力と大胆さがあれば、きっと会うことができるに違いない。そう思っている。

【補足】

本書に登場する「ガケ書房」は、2015年に移転して「ホホホ座」と改名しています。

 

ティム・ヘイワード/岩田佳代子訳「世界で一番美しい包丁の図鑑」(エクスナレッジ)-切って良し、刺して良し、刻んで良し。見よ、この美しき包丁の世界!

キッチンの照明を反射して妖しく煌めく刀身。その切っ先はあらゆるものを突き刺し、深く深く潜り込もうとするかのように鋭く尖っている。刃の根元から素材にあてがってスッと引けば、薄く削ぎ落とされた肉片がはらりと落ち、その断面には薄っすらと脂が光る。相手は我が身が切られていることにも気づきもしない。

「世界で一番美しい包丁の図鑑」は、最初から最後まで、包丁、包丁、包丁。世界にはこんなにたくさんの種類の包丁が存在しているのかと、ただただ感心してしまう図鑑なのである。

あなたの身の回りにあるもので唯一無二の存在といえば、キッチンで使うナイフや包丁ではないでしょうか。(中略)たとえば、よほど特別な人でない限り、肉を切るために持っている道具といえば、ナイフや包丁だけでしょう。けれどよく考えてみてください。あなたのキッチンに置いてあるのは、刃渡り20センチほどの危険極まりない鋭利な“兵器級の”金属、しかも装填ずみの拳銃と同等の殺傷能力秘めたものです。なのに、基本的にそれを使うのは、家族のために愛情をこめた料理をつくるときに限られているのです。

 

『はじめに』の書き出し部分を引用してみた。このあと、「恐ろしい面を秘めていながら、家庭になくてはならないのはナイフだ」と著者は続ける。確かにそうだ。ナイフや包丁がなかったら私たちの生活は相当に厳しいものになるだろう。

余談だが「もしナイフや包丁がなかったら」でこの動画を思い出した。チョップで野菜を切り、歯で髪を切る。刃物の街である岐阜県関市のPR動画だ。発表当時にけっこう話題になっていたので見たことがあるかもしれない。シュールで面白い動画である。

www.youtube.com

「世界で一番美しい包丁の図鑑」は、ナイフ/包丁の構造(各部位の名称)、包丁の持ち方、包丁の使い方(切り方)、包丁の素材、作り方、世界的に有名なメーカー(イギリスにあるブレニム工房)とナイフ職人、さまざまなナイフ/包丁の種類と用途など、ナイフ/包丁に関するあらゆる情報が次々と登場する。刃物好き(やや危ない感じになるが)ならたまらない情報がてんこ盛りである。最初から丹念に読み込んでいってもいいし、興味がある内容を拾い読みするのもいいだろう。

ナイフ/包丁の種類を解説するページでは、西洋の包丁、中国の包丁、日本の包丁(和包丁)が紹介されている。ひとつの包丁を見開きで解説していて、片側のページが包丁の写真、反対側のページが解説という構成だ。西洋や日本の包丁には、対象とする素材や用途に応じていくつか種類があるのに対して、中国の包丁には定番ともいえるあの大きな四角い包丁しかないのが面白い。

本書を読んでいくと、やはり日本の包丁が抜きん出た存在であることがわかる。西洋の包丁も用途に応じて種類があるのだが、日本の分類に比べると大雑把だ。日本の包丁は、魚をさばく場合でも出刃包丁があり柳刃包丁があるし、野菜を切るときの菜切り包丁、巻きずしを切り分けるときの包丁、うなぎをさばくときの包丁など、用途の区分けが細かい。

また、日本の包丁職人の技術もレベルが高い。本書では、大阪・堺の町工場を舞台に包丁職人の仕事がマンガで描かれている。マンガといっても、数ページ分の職人の仕事紹介程度でストーリーらしいものは特にないのだが。

とにもかくにも、ナイフ/包丁について詳しく知りたいのなら、本書はピッタリの一冊だ。