タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

デイヴィッド・レヴィサン著/三辺律子訳「エヴリデイ」(小峰書店)-男の子?女の子?白人?黒人?背は高い?低い?太ってる?痩せてる?...それってなんの意味があるの?

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

  • 作者:デイヴィッド レヴィサン
  • 出版社:小峰書店
  • 発売日: 2018-09-10

目が覚めた。
すぐに自分がだれか、突き止めなきゃならない。まずは、からだだ。目を開けて、腕を見て、肌の色が薄いか濃いか、髪が長いか短いか、太っているかやせているか、男か女か、傷があるかすべすべか、たしかめる。からだに慣れるのはかんたんだ。毎朝、ちがうからだの中で目が覚めるのに慣れていれば。でも、からだだけじゃない。その人の生活、つまり「背景」も知らなきゃならない。むずかしいのは、こっちだ。
毎日、ちがう人物になる。でも、自分のままでもある--自分が自分のままってことはわかってる--けど、同時に他人でもある。
物心ついたときから、ずっとそうだった。

デイヴィッド・レヴィサン「エヴリデイ」は、ちょっと変わった設定の物語だ。それは、長めに引用した冒頭部分に書かれている。

本書の主人公は、毎日誰かの身体の中で目覚める。生まれたときからずっと。主人公自身には、意識としての存在はあっても身体という実体はない。いつも、誰かの身体を1日だけ借りて生きている。決まっているのは、宿主となるのは主人公と同じ年齢であること。いま、主人公は16歳なので、宿主となるのは同じ16歳の少年少女だ。

その日、主人公はジャスティンという少年の身体で目覚めた。そして、ひとりの少女リアノンと出会う。リアノンは、ジャスティンを一途に恋してる。でも、ジャスティンはリアノンを恋人としては見ていない。真剣に彼女と付き合っているわけではない。リアノンの想いを知っていて弄んでいるような男だ。

主人公は、リアノンに恋してしまう。それは、これまで主人公が避けてきたこと。誰かの人生を変えることはできないから。でも、主人公はタブーを犯してリアノンに接する。ただし、ジャスティンとして。

主人公は、違う身体で目覚めてもリアノンになんとかして接触しようとする。宿主の1日を借りてリアノンのところへ向かう。もちろん、リアノンには相手はいつも別の人だ。そして、主人公の行動が大きな騒動を招くことになる。

さて、ここまでずっと本書の主人公を『主人公』と書いてきた。というのも、主人公は男でもあり女でもあるからだ。

自分の秘密をリアノンに話して以降、主人公は自分を『A』と呼ぶ。このレビューでもここからはAとしよう。

Aにとって性別にはなんの意味もない。自分が男か女かは、入れ物の形の問題でしかなくて、コーラ(A)がペットボトル(男)に入っているか缶(女)に入っているかの違うでしかない。

だけど、それはリアノンにはなかなか理解できない。いま自分の目の前にいるAは、男の子の姿をしたAであり、明日には女の子の姿をしたAと会うかもしれない。どちらも同じAだと、頭では理解しようとしても気持ちでは理解ができない。

「Aは本当に男でも女でもないの?」とリアノンは訊ねる。

リアノンがこのことにこだわりつづけるのが、面白く思えた。
「自分は自分だからね。いつだってしっくりくるって言えばくるし、こないって言えばこない。そんなもんだよ」

読者である私も含め誰もがリアノンと同じ側にいる。視覚や聴覚から入ってくる情報が相手を見極めるものであって、その内面に何が存在しているのかは考えもつかない。だけど、Aが言うように『自分は自分』なのであり、逆に『相手には相手』の人生や人格がある。肌の色が黒いとか白いとか、背が高いとか低いとか、異性愛者とか同性愛者とか、男とか女とか、そういうことだけで相手をみて判断するものではないのだ。

本書でも、Aは多様な人間の身体を借りる。平凡な人間もいるし、同性愛者もいる。真面目な人もいれば、自分を着飾ることに執着する人もいる。明るい人もいれば、病んでいる人もいる。

環境の違い、教育の違い、考え方の違い、人はそれぞれに同じようでいて全然違う。この本は、そういう当たり前のことをあらためて教えてくれる。

イアン・フレミング作、ジョン・バーニンガム絵/こだまともこ訳「チキチキバンバン〈2〉海辺の大ぼうけん」(あすなろ書房)-ポットさん一家危うし!チキチキバンバンのまほうでピンチを切り抜けろ!

※説明の都合上『チキチキバンバン〈1〉チキチキバンバンはまほうの車』のネタバレしてます。未読の方はご注意ください。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

チキチキバンバンのまほうで、大渋滞の上をブーンと飛んで(そう、チキチキバンバンは空を飛べるのです!)海のまんなかの大きな砂州にやってきたポットさん一家。みんなで思いっきりあそんでねむってしまったポットさんたちにピンチがせまっていました。さて、ポットさん一家とチキチキバンバンの運命やいかに?

というところまでは前巻のお話。第2巻となる本書では、ポットさん一家がまたしてもチキチキバンバンのまほうでピンチを脱します。

大きな砂州で眠り込んでしまったポットさん一家とチキチキバンバン。その間に海の潮が満ちてきて、ポットさんたちはあわや海に沈んでしまうところでした。

そのことに最初に気づいたのはチキチキバンバンです。彼女(覚えてますか?チキチキバンバンは女性なのですよ)は、ポットさんたちに危険を知らせます。そして、またしてもまほうの力でみんなのピンチを救うのです。

ピンチを脱したポットさん一家、そのまま家に買えるのかと思いきや、なんとフランスへ向かいます。このままフランス旅行も楽しんでしまおうというのです。そして、フランスの海岸に上陸します。そしてそして、そこでなんとも大きな発見をしてしまうのです。でも、その発見をきっかけに、ポットさん一家とチキチキバンバンは、今度はこわいギャングたちに目をつけられてしまうのです。

チキチキバンバンの物語を読んでいると、さすがはジェームズ・ボンドを生み出したイアン・フレミングの作品だと思うところがたくさんあります。

まずはなにより、この物語の主役といってよい、まほうの車チキチキバンバンの存在です。チキチキバンバンが次々と繰り出すまほうのギミックは、ジェームズ・ボンドが乗りこなす“ボンドカー”を思い起こさせます。次々と登場するチキチキバンバンのまほう。次はどんなまほうを見せてくれるんだろう。読んでいて、ワクワクしてしまいますね。

さて、こわいギャングたちに目をつけられてしまったポットさん一家とチキチキバンバン。彼らはこのピンチを脱することができるのでしょうか?

それは、次の巻のお楽しみ。

 

デイヴィッド・グラン/倉田真木訳「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」(早川書房)-謎の連続怪死事件とその真相にせまる緊迫のノンフィクション。私の中ではオールタイム・ベスト級の作品。

この物語はフィクションです。登場する人物、団体、名称などはすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。

ドラマの最後に流れるテロップがある。ときどき、ミステリ小説などのフィクションでも掲載されていることがあったりする。それに倣うなら、本書はこう書くべきだ。

この作品はノンフィクションです。本書に書かれていることは、すべて実際に起きたことであり、登場する人物、団体、名称などに架空のものはありません。

デイヴィッド・グラン「花殺し月の殺人」は、1920年代のオクラホマ州オセージ族の保留地で起きた謎の連続怪死事件の真相と、その事件をきっかけに組織として設立、拡大することになる連邦捜査局(FBI)の誕生を記したノンフィクションである。

事件は『花殺し月』とオセージ族が呼ぶ5月に起きる。オクラホマ州グレーホースに住むモリーバークハートは、数日前から行方不明の姉アナを心配する日々を送っていた。アナは奔放な人で、数日家に帰らないことはそれまでにもあったが、今回はどこか様子が違っていた。

モリーの心配は的中する。アナが頭部を撃たれた死体となって発見されたのだ。モリーは、夫アーネストのおじで『オセージヒルズの王』と崇められたウィリアム・ヘイルの力を借り、アナ殺害事件の捜査がされるようにするが思うようにならない。それどころか、次々とモリーの周囲の人たちが不審な死を遂げていく。

連続怪死事件の背景にあるのはオイルマネーの存在だ。モリーたちオセージ族が住む地域には、地下資源として石油があった。石油を採掘するためには、土地を所有するオセージ族にリース料とロイヤリティを支払う必要があり、その金によってオセージ族は富める部族となっていたのである。

オイルマネーという巨万の富をめぐる思惑があり、謎の連続怪死事件が起きる。この展開が、1920年代のオクラホマ州で実際に起きた事件であると、にわかには信じられなかった。本書を読んでいる間、ずっと頭の片隅で「本当はフィクションなんじゃないか」と疑っている自分がいた。

事件は、解決する目処もまったくつかないまま時間ばかりが経過した。そこに登場するのが後に連邦捜査局(FBI)となる組織の捜査員だ。局長フーヴァーの指示を受けてトム・ホワイトがオクラホマに赴任したことで事件は解決に向けて歩み始めるのである。

様々な証言、あらゆる証拠を積み重ねて、ホワイトたちは事件の核心へと近づいていく。ホワイトたちに対抗するように犯人グループも買収や脅迫などさまざまな手段で抗う。

以下はネタバレとなるので、未読の方はご注意ください。

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イアン・フレミング作、ジョン・バーニンガム絵/こだまともこ訳「チキチキバンバン〈1〉チキチキバンバンはまほうの車」(あすなろ書房)-あの『007』の生みの親イアン・フレミングが描くファンタジー。チキチキバンバンには夢がたくさんつまっている!

ジェームズ・ボンドが活躍するスパイ映画「007シリーズ」の原作者イアン・フレミングによる子ども向けのファンタジー小説が「チキチキバンバン」です。「007シリーズ」と同じように「チキチキバンバン」も映画になっています。

 

登場人物は、お父さんのカラクタカス・ポットさんとお母さんのミムジーさん、8歳になる双子のジェレミー(黒髪の男の子)とジェマイマ(金髪の女の子)のポットさん一家と、彼らの愛車のまほうの車チキチキバンバンです。

チキチキバンバンという名前は、エンジンをかけるときに、

チキ、チキ、バン、バン

と、大きな音がするから。小さな修理工場の裏でおんぼろになっていた彼女(とポットさんは言います)を買って、ポットさんがていねいに修理して整備したチキチキバンバンをポットさん一家はみんなとっても気に入っています。

それに、チキチキバンバンはとっても不思議な車なんです。まるで心があるみたいに思えるし、ポットさんにも想像がつかないスイッチやレバーがダッシュボードに並んでいます。

土曜日のドライブで、チキチキバンバンは、とってもステキなまほうを起こします。ポットさん一家は、チキチキバンバンのまほうのおかげで、それはそれは楽しい休日を過ごすことができました。

でも、チキチキバンバンのお話はこれで終わりではありません。この本のタイトルをよく見てください。

チキチキバンバン〈1〉チキチキバンバンはまほうの車

そうです。この本はポットさん一家とチキチキバンバンのお話シリーズの第1巻なのです。「チキチキバンバンシリーズ」は全部で3巻あります。

楽しい休日を過ごしたポットさん一家とチキチキバンバンですが、この本の最後の最後にあるハプニングが起きます。ポットさんたちはいったいどうなってしまうのでしょう。この本のラストはこうしめくくられています。

ああ、ポットさん一家とチキチキバンバンの運命は!
それは次の巻のお楽しみ。

 

 

 

チャールズ・ブコウスキー著、ロバート・クラム画/中川五郎訳「死をポケットに入れて」(河出書房新社)-浴びるように酒をのみ、競馬場に入り浸る。ブコウスキー晩年の日記に記されたことは、どこまで彼の本音なのだろうか。

チャールズ・ブコウスキーといえば、男臭く、下卑て厭らしい作品の印象が強い。

「死をポケットに入れて」は、ブコウスキーの晩年、1991年から93年に散発的に記された日記である。だが、その内容は日記というよりもエッセイであり、世の中に対する批評(というか愚痴)となっている。

全編にわたって記されるのは、浴びるように酒をのみ、競馬場に入り浸ってギャンブルに興じるブコウスキーの姿だ。そして、彼が酒場や競馬場で見聞きした市井の人々の滑稽な姿である。

ブコウスキーは、人間観察力に長けた人だと感じる。彼のところへ訪ねてくるファンを自称する人たちを観察し、酒場に集い世の中のあらゆる事柄に不平不満をぶちまける酔っ払いたちを観察し、競馬場で借金をしてまで賭け続ける敗北者たちを観察する。

彼が観察し、記録するすべての人たちは、そのまま彼自身を映している。人嫌いで世の中から一歩どころか百歩も千歩も離れたところにいて、いつも何かに不満を抱えている。そんな自分自身を市井の人々の姿を借りて客観的に描き出そうと試みているような、そんな印象を受ける。

91年8月28日の日記。競馬場から帰宅しスパに入ってくつろぐブコウスキーの家のドアを誰かがノックする。金髪の若い男と太った女、中肉中背の女。彼らはブコウスキーのサインがほしいという。なのに、誰もサインをするための紙もペンももっていない。そのことを指摘すると、彼らは笑いながら去っていく。

作家は自分が書いたこと以外、何に対しても責任を負うことはない。作品が及ぼす効果以外、読者に対して負うべきことはなにもないのだ。

ブコウスキーにとっては、作品が世に出てしまえば、そのあとのことはどうでもいいのだ。だから、「あなたの作品のファンです」などと読者面して近づかれても、特にどうということもない。

この本には、ブコウスキーの様々な心情が吐露されている。なんだかんだと理由をつけて近づいてくるファンとかいう人たちへの思いもそうだし、過去の作家たちへの思いもそうだ。ドストエフスキー、フォークナー、ゴーリキートルストイヘミングウェイ。過去の作家たちに対してもブコウスキーは毒を吐く。

本書を読みながら思ったのは、はたしてどこまでがブコウスキーの本音なのかということだった。いや、おそらくすべてが彼の本音なのに違いないという気がする。なぜなら、日記のほとんどは彼が酔っている状態で書かれたのではないかと思うからだ。酒の勢いがコンピューターのキーボードを叩く指を軽快にしてしまったのではないかと思うからだ。

それとも、ブコウスキーならば酔っているとかいないに関わらず、すべてを本音で記しているのだろうか。

そもそも、この日記自体が創作なのかもしれないとも考えてしまう。ブコウスキーという作家の本質は、どうにも掴みづらいのである。

サバスティア・スリバス/宇野和美訳、スギヤマカナヨ絵「ピトゥスの動物園」(あすなろ書房)-重い病にかかってしまった友だちピトゥスのために一日だけの動物園をつくろう!少年たちの奮闘を応援したくなる一冊

 

ピトゥスの動物園

ピトゥスの動物園

 

 

今から少し前のこと。スペイン・バルセロナでのお話。登場人物は、男の子6人の仲良しグループです。

リーダーのタネットは10歳。みんなからたよりにされているしっかりものです。

タネットと同じ10歳のレミングはものづくりの天才。なんでも器用につくってしまうから発明家の名前で呼ばれています。

ジュリは、タネットやフレミングよりひとつ年下で9歳。のっぽで、字を書くのが大好きです。

マネリトゥスは、動物が大好きです。いつも元気で人一倍勇気のある少年ですが、あわてんぼうで、いつもでれっとだらしないところがあります。

豆タンクは、6人組の中では一番年上の11歳。いつも何かもぐもぐたべていて、小さくてころっとしています。

そしてさいごは一番年下のピトゥス。まだ7歳になったばかりです。まだまだ小さくて何もできないけれど、みんなからかわいがれている人気者です。

物語は、6人の中の最年少、ピトゥスが重い病気にかかってしまったことから始まります。ピトゥスの病気を治すには、スウェーデンのえらい先生の治療を受けなければなりません。下町のひとたちは、ピトゥスと家族がスウェーデンに行くための費用を作ろうと教会でチャリティコンサートを開いたりしましたが、まだまだお金は足りない。そこで、タネットたちは考えます。

タネットには、ひとつのアイディアがありました。動物園です。自分たちでいろいろな動物を集めて、広場で一日だけの動物園を開こうというものでした。タネットたちは、他の子どもたちにも声をかけて、ピトゥスのための動物園づくりをはじめます。

はじめは子どもたちだけでどこまでできるか疑っていた大人たちも、次第に子どもたちの熱意に感化されて手伝うようになっていきます。プジャーダスさんという有名な動物学者にも手伝ってもらえることになり、動物園づくりは続けられます。

子どもたちだけで動物園をつくる。

その発想は、凝り固まった大人の考え方ではきっと出てこないものです。現実的な冷めた言い方をしてしまえば、タネットたちからそういう計画を持ちかけられたら、「そんなのムリに決まってる。やめなさい」と言ってしまうかもしれません。(実際、彼らからの相談を受けた神父さんは、「むちゃだ」と言いそうになっています)

でも、この物語では、神父さんも下町の大人たちも、誰も子どもたちの思いをはねのけたりしません。子どもたちのチャレンジをしっかりと見守り、彼らの自主性を尊重し、必要なサポートは惜しまずに与えるのです。

子どもの発想や行動というのは、いつだって好奇心が先走っていて、とても危なっかしいものです。だけど、危ないからといってなにもさせずにおとなしくさせていても、子どもは成長できません。

「ピトゥスの動物園」は、子ども向けのお話です。この本を読む子どもたちは、きっと自分をタネットやフレミング、マネリトゥスに重ねて物語を楽しむでしょう。

みんなの中心になって遊ぶのが大好きな子は、タネットを自分に置き換えて読むかもしれません。

動物が大好きな子は、マネリトゥスのように野原を駆け回って虫や動物を捕まえる自分を想像するかもしれません。

では、大人である私たちはこの本をどう読むでしょうか。童心にかえって、子どもたちと同じ目線で動物園づくりを楽しむ自分を想像しながら読む大人もいるでしょう。あるいは、大人として、子どもたちを優しく、ときには厳しく見守る役割としての自分を想像しながらよむ大人もいるかもしれません。

大人になって児童文学を読んで感じるのは、大人になったからこそ見えてくる景色があるということです。大人になったからこそ、遠い昔の子どもの頃を想像することもできるし、今の自分=大人の立ち位置から読むこともできる。想像の幅が広がるように感じます。

それは「ピトゥスの動物園」に限らず、いろいろな児童文学、ヤングアダルト小説に共通して言えることだと思います。読書って、本当に奥が深いと改めて考えています。

 

ヴァレリー・ゼナッティ/伏見操訳、ささめやゆき絵「バイバイ、わたしの9さい!」(文研出版)-子どもたちの純粋でまっすぐな「なぜ?」に、大人たちはしっかり答えられるだろうか?

 

バイバイ、わたしの9さい! (文研ブックランド)

バイバイ、わたしの9さい! (文研ブックランド)

 

 

人生には三度、すごくだいじなときがあるって、わたしは思ってる。それは生まれて一分後と、十さいと、百さい。

「バイバイ、わたしの9さい!」の主人公は、タマラという女の子です。彼女は、『あとひと月と六日』で十さいになります。

冒頭にあげたのは本書の書き出しのところ。タマラが人生の中で大事と考えている3つのポイントです。

・生まれて一分後は、まだおかあさんのお腹から出てきたばかりだから。
・十さいは、もう二度と自分の年を一文字で書けなくなるから(タマラは「人生ではじめて、ほんのちょっとだけ『死ぬ』ようなもの」と言っています)。
・百さいは、一世紀をまるまる生きてきたってことだから。

そして、タマラはあと少しで十さいになるのです。タマラは、いってもたってもいられない感じがします。十さいになるってどういう感じなんだろう。自分はどう変わるんだろう。でも、どうやったらその変化を見ることができるんだろう。タマラは、先生やパパ、ママ、友だちに聞いてみますが、はっきりと答えられる人は誰もいません。

そんなある日、タマラは新聞にこう書いてあるのを見つけます。

世界では、四秒にひとりが、飢えで命を失っています。

タマラはママに訴えます。

「ちっちゃい子どもが苦しんでいるんだよ!飢え死にしてるんだよ!心がいたまないの?」

タマラは、テレビのニュースや新聞で世界中にはたくさんの不幸が起きていることを知ります。彼女にとって、世界はとつぜんに不安だらけになってしまいます。

タマラは、不安でしかたありません。でも、パパもママもなにか行動をしているようにはみえません。

「どうしてなにもしようとしないの?」というタマラに、ママは答えます。「わたしたちもできることはしているのよ」と、でも続けてこう言うのです。「世の中の変えることなんて、できるのかしらね」

子どもというのは好奇心にあふれ、いつだって「なぜ?」を考えています。本書でタマラは、なぜ世界にはこんなに不安がたくさんあるのに、おとなたちはなにもしようとしないのか、と考えています。タマラの「なぜ?」にパパもママも先生も明確な答えを返してあげることができません。

タマラの両親や先生のように、きっと私もタマラの「なぜ?」に答えることはできないでしょう。「なぜ答えられないの?」と問われても、その答えも返せないと思います。なぜなら私は、「なぜ?」と疑問に思うことからも逃げているからです。

『はじめての海外文学vol.4』の推薦作(推薦者は伏見操さん)ということで読んでみましたが、タイトルや装幀からもっと子ども向けのやわらかい作品だと思っていました。実際に読んでみると、おとなである私たちに対して、高いレベルで課題をつきつけてくるような厳しさすら感じさせる内容で驚きました。そして、タマラをはじめ子どもたちの純粋な「なぜ?」に答えられない自分を大いに反省しました。

周囲のおとなたちに答えてもらえなかったタマラは、世の中を動かせる人に話をきいてもらおうと考えます。彼女は、フランス大統領とアメリカ大統領、そしてもうひとり、世界中のどの大統領よりも有名な人、サッカー界の大スターのジダンに手紙を書きます。

タマラの手紙は、3人の人に届くでしょうか。誰かが、話を聞いてくれるでしょうか。その結末はぜひ本書を読んで確認してみてください。さいごには、とても胸が熱くなれると思いますので。