タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「レス」アンドリュー・ショーン・グリア/上岡伸雄訳/早川書房-元恋人の結婚式にを欠席するために世界をめぐる旅に出たアーサー・レス。中年作家の出会いと気づき、そして再生の物語

 

 

「違う! アーサー、違うって、その逆だよ! 僕は成功だったって言ってるんだ。喜びと支援と友情の二十年っていうのは成功だ。何であれ、ほかの人と二十年一緒に過ごしたのは成功なんだよ。バンドが二十年、活動を続けたら奇跡だろ。お笑いの二人組が二十年続けたら、それは大成功さ。夜がもうすぐ終わるからって、それが失敗だったことになるか? 太陽が十億年で燃え尽きるからって、失敗したことになるか? ならない、それでも太陽は太陽だ。どうして結婚もそうじゃないんだ? 一人の人間と永遠につながっているなんて、我々の本性ではない--人間の本能と違う。シャム双生児って悲劇じゃないか。二十年と、最後に幸せな車での旅。僕は思ったよ。まあ、素敵だった、成功のまま終わろうって」

アンドリュー・ショーン・グリア著/上岡伸雄訳「レス」には印象的な場面、言葉がたくさんある。引用したのは、主人公のアーサー・レスが、モロッコを訪れて、古くからの友人ルイスと交わした会話でのルイスの言葉だ。レスは、ルイスからパートナーと離婚したことを告げられる。「素敵だった、いい結婚だった」と言うルイスに対してレスは、「でも、別れたんだね。どこかが間違っていた。何かがうまくいかなった」と言う。それに対するルイスの言葉が冒頭の引用だ。

離婚にはどうしてもネガティブなイメージがある。長年連れ添ったパートナーとの関係を解消するというのは、レスが言うようにどこかに『間違い』があったり『うまくいかない』ことがあったのだろうと考える。だが、ルイスは離婚を失敗とはとらえていない。むしろ成功なのだと言う。彼の言葉には、彼の信念があり、彼とパートナーとの間に築き上げられた信頼20年間の生活で積み上げてきた幸福な時間があるのだ。その軌跡を作ってこれたことは奇跡なのであり、だから二人の結婚生活は成功だったと言っているのだ。

なんと前向きな考え方だろう。なんだか勇気をもらえる気がする言葉だ。

「レス」は、元恋人の結婚式を欠席する口実として、世界中の文学イベントをめぐる旅にでた作家アーサー・レスが主人公のユーモア小説である。2018年のピュリッツァー賞受賞作。

元恋人の結婚式を欠席するために、レスは無茶苦茶な旅程を作りあげる。

一番目、ニューヨークシティでH・H・H・マンダーソンとの対談(サンフランシスコからニューヨークシティへ)
二番目、メキシコシティで学会出席(ニューヨークシティからメキシコシティへ)
三番目、トリノ文学賞の授賞式に出席(メキシコシティからトリノへ)
四番目、ベルリン自由大学の冬季講座で5週間の授業(トリノからベルリンへ)
五番目、モロッコでゾーラという女性の誕生日旅行参加(ベルリンからモロッコへ)
六番目、インドで執筆中の小説の最終稿を仕上げる(モロッコからインドへ)
七番目、日本で伝統的な懐石料理を取材(インドから京都へ)

こうしてレスは、世界一周の旅の最中で元恋人の結婚式と自分の50歳の誕生日を迎えることになるのである。

「レス」は、レスが訪れた先々で巻き起こしたり巻き込まれたりするエピソードを笑いどころとするユーモア小説であるが、レスの気づきと再生の物語でもある。

レスが抱えているのは、元恋人への感情だけではない。作家としての迷いもあるし、50歳という年齢を迎えることへの不安もある。現在の彼には、その胸に抱え込んでいる問題や不安がたくさんあるのだ。

長い旅の中でレスは、彼の胸のうちに抱える不安をどう払拭していくのか。旅の中で経験する出来事が、彼にどのような変化を起こすのか。そして、旅の終わりにはどのような結末が待ち受けているのか。ユーモア小説としての一面だけでは収まらない魅力が、本書にはつまっているのだ。冒頭にあげた引用は、まさにその魅力のひとつだと思っている。

「今日もパリの猫は考え中 黒猫エドガーの400日」フレデリック・プイエ+シュジー・ジュファ/坂田雪子訳/大和書房-猫を飼っているみなさん、あなたのおうちの猫もエドガーみたいに考えているかもしれませんよ

 

 

エドガーは6ヶ月の子猫。フレデリック・プイエ+シュジー・ジェファ著、坂田雪子訳「今日もパリの猫は考え中 黒猫エドガーの400日」は、エドガーが“アホ家族”と呼ぶ一家との日々を、エドガーの目線で語る物語だ。

物語は、「とらわれて1日目」からはじまり「とらわれて400日目」まで続く。野良猫で自由気ままに生きてきたエドガーは、保護施設に入れられていたところを“アホ家族”一家に引き取られる。“アホ家族”には、マルクとセヴリーヌというありふれた夫婦とふたりの子ども(5歳のロドルフ、14歳のレア)、ポテロンという犬がいる。

エドガーにとって、“アホ家族”にもらわれてからの日々は苦難の日々でもある。「とらわれて2日目」、“アホ家族”たちになでまわされてエドガーはウンザリしている。それに、赤ちゃんに話しかけるみたいな言葉で話しかけるのもやめてほしい。でも、それも仕方ないのだ。だってエドガーはカワイイのだから。それは自分でもわかっている。

あんまり追い回されるのに辟易したエドガーは、「とらわれて5日目」の朝、ネズミを捕まえてマルクとセヴリーヌ夫婦のベッドに運んでやった。これで、エドガーがただカワイイだけの猫じゃなく、野蛮なこともできるとわからせることができるはずだ。だけど、エドガーの思惑ははずれ、夫婦は怖がるどころか彼を褒めちぎる。「なんてかしこい子なんだ!じょうずにネズミを捕ってきた!」って。

こうして、エドガーと“アホ家族”のたたかいは続く。イタズラを繰り返し、ライトタイプのカリカリには抗議の声をあげる。抱っこやなで回し攻撃をかいくぐり、お気に入りの場所でひとときの休息をとる。

すべてが、エドガーの目線なので、猫が人間をどうみているのかの描写が面白い。人間の考えていることと猫の考えていることのギャップが面白い。

犬と違って、猫は気まぐれというイメージがある。犬は、いかなるときも飼い主に無償の愛を注いで、飼い主になでてもらったり抱っこされたりするのが大好きだ。一方、猫はそのときの気分で態度が全然違ってくる。甘えたいときにはグイグイと「なでろ」「抱っこしろ」と寄ってくるけど、かまってほしくないときには「近づくな」オーラを放つ。人間は、「今なら触ってもいいかな?」とか「抱っこしても怒らないかな?」と様子を伺う。

そういう気分屋さんなところが猫の魅力なのだと、猫好きの人間は言うだろう。私は犬を飼っていて、どちらかといえば犬派だけど、猫も嫌いではないので、猫好きの気持ちもわかる。無理に撫でたり抱っこしたりしなくても、お決まりの場所で丸まってウトウトしている猫を見ているだけでもカワイイと思う。

エドガーは、“アホ家族”と一日一日を過ごしていく中で、少しずつ家族になじんでいく。家族との暮らしの中に自分の居場所をつくっていく。野性的なところは少し薄くなってしまうけれど、その分かわいさが増していく。

そしてなにより、エドガーは“アホ家族”が好きになっていく。大好きになっていく。

エドガーが家族と暮らした400日を読んできた読者は、彼の日々を、ケラケラと笑いながら、フムフムと頷きながら、オヤオヤと眉をひそめながら楽しむだろう。猫を飼っていたら、自分の猫もエドガーみたいに考えているのかなと思うだろう。飼っていなくても、猫ってこんなことを考えているのかもと思うだろう。猫好きならエドガーを愛しく思うかもしれないし、猫嫌いでも、なんだか楽しく思えてしまうかもしれない。

ようするに、猫が好きでも嫌いでも、本書は面白いと思うよということである。

 

「エレベーター」ジェイソン・レナルズ/青木千鶴訳/早川書房-兄を殺された少年ウィルが復讐に向かうために乗り込んでエレベーターで経験する出来事。ラストの言葉に心が震える。

 

 

#掟

何があろうと、
けっして泣いてはならない。

何があろうと、
けっして密告してはならない。

愛する誰かが
殺されたなら、
殺したやつを
見つけだし、
かならずそいつを
殺さなければならない。

 

兄のショーンが殺された。ウィルは、掟にしたがって兄の復讐を誓う。兄を殺したやつはわかっている。ダークサンズのリッグスだ。そうに違いないとウィルは確信していた。

そしてウィルは、銃を手にエレベーターに乗り込む。8階からロビーに向かって降りていく。そのエレベーターの中で不思議な体験をする。

ジェイソン・レナルズ「エレベーター」は、詩の形態で書かれ、工夫を凝らしたページレイアウトで構成される本だ。言葉に意味があり、場面や登場人物の感情がそれぞれで表現されている。

物語は、タイトルの通りエレベーターの中を舞台にしている。ウィルは、掟にしたがって兄を殺したやつを殺しに行くためにエレベーターに乗る。そこで、過去にウィルと関わってきた人々と出会う。

7階から乗り込んできたのは、ショーンの兄貴分だったバック。
6階から乗り込んできたのは、ガキの頃に幼馴染みだったダニ。
5階から乗り込んできたのは、マーク伯父さん。
4階から乗り込んできたのは、マイキー・ホロマン。ウィルの父さん。
3階から乗り込んできたのは、フリックという見知らぬ男。バックを殺した男。
そして、2階から乗り込んできたのは、ショーンだった。

復讐のため、兄を殺した相手を殺すためにエレベーターに乗り込んだウィルの前にあらわれたのは、いまはもういない人たち。すでに死んでいる人たち。彼らは、ウィルに語りかける。

お前に銃が使えるのか?
なんで銃を持っているのか?
相手に向けて銃が撃てるのか?
ショーンを撃ち殺したのは、本当にリッグスなのか?

彼らの言葉は、ウィルの心の葛藤の声だ。掟にしたがって涙も見せず、密告もせず、兄を殺したやつを殺すために銃をもつ。復讐の相手に会って、躊躇なく撃てるのか。復讐の相手は、リッグスで間違いないのか。

ほんとは怖いんだ。
正しいことをしてるんだ
っていう、確信が
ほしいんだ。

エレベーターがロビー階について、人々が降りていく。ウィルはひとり取り残される。エレベーターを降りて振り返ったショーンが、そんなウィルに向かって投げかける言葉が、この物語の最後の言葉だ。最後のページの真ん中に大きく書かれたその言葉に、思わず息をのんだ。それは、ウィルの運命を決める言葉だからだ。

本書の冒頭に著者はこう記している。

全国各地の少年院にいる、
すべての少年少女に捧げる。
ぼくが会ったことのある子も、ない子も、
きみたちはみんな愛されている。

ウィルが選ぶのは、エレベーターから一歩を踏み出す運命か、それともエレベーターにとどまる運命か。彼の選んだ運命の結果がどうであれ、彼は罪を背負って生きることになるだろう。著者が記した少年少女たちへのメッセージは、いかなる運命を選ぼうとも、いかなる結果になろうとも、きみたちは愛される存在なのだと伝えている。自分も、相手も、どこかの誰かも、みんな愛されているんだと伝えている。

ウィルは、自分が愛されていることに気づいているだろうか。愛されているからこそ、勇気をもって正しい運命を選択しなければならないと気づいているだろうか。

彼の運命が気になる。

「ロンドン・ジャングルブック」バッジュ・シャーム作/三輪舎-色鮮やかに描かれる作品たち。そこに表現される作者のイメージ。それらを引き立たせる本づくりの技

 

 

本の感想を書くのに、こういう話から始めるのは違うと言われてしまうかもしれませんが、この本についてはこの話を抜きにはできないと思うので、そこから始めます。

紙の本ってすばらしい!

何を言っているのか? と思われたかもしれません。これは、私が「ロンドン・ジャングルブック」の実物を手にとって最初に感じたこと。そして、何度も繰り返し本書を読み返して見るたびに感じることなのです。

表紙の手触り。ページをめくるときに指に吸い付いてくるような感触。私は、紙の種類とか紙質とか印刷の技法とかの知識はありません。ただただ、この本の肌触りに愉楽を感じるばかりです。いつまでも触っていないと感じるばかりです。

「スゲェ肌触りのよい本だから、みんな買うといいよ!」で話を終わらせてもよいのですが、そういうわけにもいかないので本書の内容について。

「ロンドン・ジャングルブック」は、インドの独立系出版社『タラブックス』から刊行されたバッジュ・シャームの作品です。インドの画家で、インド国内だけでなく、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、ロシアなど世界各国でその作品が高く評価されています。

本書は、2002年にレストランの壁に絵を描く仕事でロンドンに滞在したバッジュ・シャームが、帰国後に制作した作品です。インドの片田舎から絵描きになることを目指して出てきた若者が、ロンドンという大都会で経験したこと、その目で見てきたことが、鮮やかな色使いで壮大なイメージとして表現されています。

バッジュ・シャームの描く絵は、もともとがインドで家の壁などに描かれてきた『ゴンド画』という民俗画がベースにあります。ゴンド画について、ネットでは「ポップで印象的」という評価が見られますが、本書に掲載されているバッジュ・シャームの作品も、どれもポップで印象的な作品ばかりです。見たもの、感じたこと、経験したことからイメージされる世界を描き出した作品を見ていると、人間の感受性というものの大きさや深さを感じます。表現の力を感じます。

本書を刊行した出版社『タラブックス』についても少し触れておきます。タラブックスは、南インドのチェンナイにある独立系出版社です。本づくりに対するこだわりが強く、ハンドメイドで本を作ったりしています。日本では、2017年から2018年にかけて、全国各地で『世界を変える美しい本 インド-タラブックスの挑戦』と題した美術展が開催されています。

本書に付属している「『ロンドン・ジャングルブック』のあとで」の中で、三輪舎の中岡さんが書いているように、この本がどういう本なのかを説明するのは難しいです。結局のところ、インドの美しい本を日本の本づくりの匠たちが美しい本に仕上げた作品、としか言いようがありません。

言葉で魅力を伝える本ではなく、書店の店頭で実際にその手で感じてほしい、その目で確かめてほしい本です。

 

「わたしがいどんだ戦い1940年」キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著/大作道子訳/評論社-エイダの身体の回復と心の成長を見守るように読みました。

 

 

キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー(大作道子訳)「わたしがいどんだ戦い1940年」は、2018年度の「第64回 青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書に選ばれた「わたしがいどんだ戦い1939年」の続編であり完結編になる作品です。

 

s-taka130922.hatenablog.com

 

続編の存在は、2018年1月に開催された『やまねこ読書会』で知り、翻訳されるのを待ち望んでいました。

物語は、エイダが内反足の手術を受けるために入院している場面からはじまります。前作で描かれていたように、主人公のエイダは、右足に内反足という障害を抱えています。そのせいで、実の母親からアパートの一室に閉じ込められて暮らしていました。エイダは、必死に母親のもとから逃げ出し、弟ジェイミーとともにスーザンの家で疎開生活を送ることになりました。そこで、多くの人たちと出会い、馬たちと出会って、少しずつ変わっていったのです。

エイダを肉体的にも精神的にも苦しめていた内反足は、手術によって治療され、彼女は普通の生活を取り戻します。でも、肉体の障害が取り除かれても、彼女の心はまだ完全に開放されたわけではありません。

前作でも、エイダの素直になれない卑屈とも思えるような態度や言動は、読書にとって困惑であり批判を受けました。そのときは、障害を持ち、そのことが理由で母親からもつらい仕打ちを受け続けてきたのだから、大人を素直に信用できないまま成長してしまうのは仕方ないと、同情する気持ちもありました。

手術によって自由に動ける身体を得られれば、エイダの心も変わるだろう。読み始めたときはそう思っていました。ですが、すぐにそれは淡い期待だったと気づきます。一度形成された心は、そう簡単に変わるものではないと知ります。エイダは、まだ手術前のエイダのままでした。

本書の読みどころは、身体の自由を得たエイダが、どのようにして心の自由を取り戻していくのかだと思います。エイダはたくさんの人々に支えられています。ロンドン大空襲で母親を亡くした彼女と弟ジェイミーの後見人として、母親代わりとなるスーザン。家を失ったエイダたちに家を提供してくれるソールトン夫人(彼女はエイダの手術費用も負担してくれています)、その娘でエイダの唯一の友人といっていいマギーやその兄ジョナサン。エイダが愛する馬バターをはじめソールトン家の馬たちの面倒を見ているフレッド。エイダを見守る人たちは、ときに優しく、ときに厳しく彼女に接してくれます。

エイダにはわかっているのです。スーザンや他のみんなが自分ときちんと向き合ってくれていることを。彼女のために、いろいろと面倒をみてくれたり、素直になれない彼女を根気よく見守ってくれていることを。

エイダは、いろいろな経験を過ごすことで、そのことに気づき、少しずつ変わっていきます。そして、そこには戦争が大きな影響を与えています。

イギリスとドイツの戦争は、ますます激化しています。エイダたちとともに疎開していたスティーヴンは、ロンドンの空襲で母親と兄弟たちを失い、自分は父親とともに戦地へ物資を運ぶ輸送船に乗り込みます。ソールトン家の長男ジョナサンは、戦闘機のパイロットとして戦いに参加します。

戦争によって苦しんでいるのは、エイダたちイギリス国民だけではありません。ある日、ソールトン卿がひとりの少女を連れてきます。彼女の名前はルース。ドイツから逃げてきたユダヤ人でした。

ルースの存在が、エイダに影響を与えることになります。ルースは、ユダヤ人です。しかし、ドイツ国民でもあるためエイダたちイギリス人からは敵国民でもあります。ヒトラーユダヤ人にどのような非道な扱いをしているかを知らないエイダたち、とくにソールトン夫人はルースを簡単には受け入れられません。

エイダは、ルースにかつての自分を重ねたのでしょう。ルースとの交流を深めることで、エイダは次第に変わっていくのです。ルースが経験してきたこと、いま置かれている状況を知り、わからないところはあっても理解しようと努め、ルースの心を開こうとする。それは、エイダ自身の心を開放することと同じなのです。ルースの心の扉の鍵は、エイダの心の扉の鍵でもあると思います。

多くの人がエイダのところに集まり、やがて去っていく。出会いがあり、別れがある。そのひとつひとつを経験し、喜びや悲しみを共有していくことが人間を大きく成長させていく。本書は、そのことを私たちに伝えてくれる、気づかせてくれる作品だと思います。前作「わたしがいどんだ戦い1939年」を未読の人は、ぜひ前作から続けて読んでください。そして、エイダに反感を覚えても優しく見守ってあげてください。スーザンたちがエイダを優しく見守り続けたように。

エイダはきっと、すてきな大人になってくれるはずだから。

 

「ペーパータウン」ジョン・グリーン著/金原瑞人訳/岩波書店-自由奔放な少女に振り回されるおとなしい少年。Qとマーゴの関係は、どこにでもありそうだからこそ、放っておかれない気持ちにさせられる。

 

 

まだ本当に小さな子どもの頃に、とても仲の良い女の子がいたことだけを覚えている。

覚えているのは仲の良い女の子がいたことだけ。その子の名前も顔も全然思い出せない。幼稚園に通っていたときによく一緒に遊んだらしいことはなんとなく覚えている。幼稚園の途中で父が家を買って引っ越すことになり、それきり二度と会うことはなかった。

なぜそんな話からはじめたかというと、ジョン・グリーン「ペーパータウン」に出てくる僕・クエンティン(Q)とマーゴの関係がなんだかいいなと思ったからだ。子どもの頃はおとなしくて(今でも自分ではおとなしい性格だと思っている)、早熟な女の子に翻弄されるような男の子だったから、きっとあのまま幼馴染の関係が続いたまま成長していたら、Qとマーゴみたいな関係になっていたかも、と想像してみた。

Qとマーゴは、フロリダの数ある分譲住宅地の中の隣り合う家に住んでいる。Qにとって、マーゴの家のとなりに住めたことは奇跡だった。

Qはマーゴへの想いを募らせ続け、一方でマーゴはそんなQの気持ちを知ってか知らずか奔放な少女として成長していく。

高校最後のシーズンを迎えて事件は起きる。ある夜、マーゴがQの部屋にあらわれる。黒のフェイスペイントに黒のフード。なんだかよくわからないままに、Qはマーゴの計画実行に巻き込まれる。それは、とっても危なっかしくて、でもとっても楽しい一夜の冒険。Qにとっては、大好きなマーゴと過ごす夢のような一夜。そして、彼女は消えてしまった。

子どもの頃から、ほとんど一方的な片思いを募らせているQ。そんな彼の思いに、たぶん気づいているんだけれど、それ以上に自分の気持ちを優先して行動するマーゴ。そんなふたりの関係性があるから、この物語は成り立っている。

一夜の冒険を最後に、マーゴはQの前から姿を消す。周囲は、マーゴの失踪にはあまり関心がない。これまでにも、マーゴは家出騒ぎを繰り返していたから、今回も数日でひょっこり帰ってくると思われている。だけど、Qは今回の失踪はこれまでと違うと思っている。だから、友人のベンやレイダーも巻き込んで、マーゴの行方を追いかける。彼女が残したメッセージを読み解き、彼女が辿ったであろう道筋を追いかける。

フロリダ州のジェファソンパークからニューヨークのアグローまで、Qたちが車を走らせ続ける第3章の展開がこの物語のクライマックスだ。それは、マーゴへの想いをしっかりと胸に抱えたQの大人への成長の道である。この長い道程を通じて、Qはそれまでに抱き続けてきたマーゴへの感情を捨てる。だがそれは、マーゴとの決別を意味しているわけではない。Qとマーゴの関係は、次のステップに続いていく。

大いなる別れが、次の大いなる成長を生み出すエネルギーとなる。Qが経験する物語は、かつてティーンエイジャーだった大人たちから、今まさにティーンエイジャーとして生きる若者たち、そしてこれからティーンエイジャーになっていく子どもたちの誰もが経験する物語でもある。

 

「アナーキストの銀行家-フェルナンド・ペソア短編集」フェルナンド・ペソア著/近藤紀子訳/彩流社-はじめてのペソア。最初の一文で魅了されてしまいました。

 

 

それは、第十五回をむかえるベルリン美食協会定例会の席上のことであった。

これは、本書「アナーキストの銀行家-フェルナンド・ペソア短編集」の冒頭に収録されている「独創的な晩餐」の書き出しである。パッと読むと普通のありがちな書き出しなのだが、この一文を読んだ瞬間に、私は「これはスゴイ」と感じた。最初の一文を読んだだけなのに。そして、「独創的な晩餐」を読み終わる頃には、フェルナンド・ペソアという作家にすっかり魅せられてしまっていた。

著者のペソア(フェルナンド・アントニオ・ノゲイラペソア)は、1888年ポルトガルリスボンに生まれた。訳者まえがきのペソア紹介によれば、大学を中退したあと、なかなかに独創的な生活を送っていたようだ。

(略)リスボン大学文学部に籍をおくも、二年後にはみずからすすんで中退。国立図書館で、興味のおもむくままに書を読んで学ぶ道を選ぶ。

ある意味では憧れる生き方であるが、現実としてはそう甘いものではなかっただろう。ペソアは、英語やフランス語の商業翻訳の仕事で収入を得ながら、この生活を送り、その中で創作活動を続けた。しかし、生前はほとんど評価されることはなく、1935年に無名のまま47歳で亡くなっている。

本書に収録された7篇の短編は、ペソアの死後に彼が遺したトランクの中から発見された作品たちだ。『ペソアのトランク』には、彼が書いた小説や詩、翻訳作品から戯曲、評論などが、ある作品は完成されたものとして、ある作品は構想段階のメモとして収められていた。その数、2万5千点以上。そこから選ばれた7篇なのである。

独創的な晩餐
忘却の街道
たいしたポルトガル
夫たち
手紙

アナーキストの銀行家

7篇は、それぞれに個性的な作品である。ホラーの要素を含みつつどこかユーモラスな作品があれば、幻想的な景色を思い浮かべるような作品がある。皮肉をたっぷりと込めた社会風刺があれば、盲目的でいびつな愛の形があり、人間が残酷さをむき出しにするディストピアがある。

表題作の「アナーキストの銀行家」は、そのタイトルの秀逸さに惹かれる。『アナーキスト』とは、政府や権威といった体制の存在、思考を批判し、対立する立場の活動家であり、『銀行家』とは、その対立対象である。つまり『アナーキストの銀行家』とは、対立する真逆の思想がひとつの人格の中に共存する状態であり、矛盾した状態であるといえる。

アナーキストの銀行家」は、自らをアナーキストを標榜する銀行家とその友人の会話によって構成される。アナーキストの銀行家は、自分がどういう思考プロセスを経て、自らのアナーキストとしての存在を確立していったか、ブルジョワである銀行家がアナーキストであるという矛盾をどう正当化できるかを友人に饒舌に説明する。ふたりの会話は、真面目な議論を闘わせているように見えるが、よくよく読んでいくと高度な漫才をみているような面白さが浮かび上がってくる。アナーキストの銀行家がボケ担当、友人がツッコミ担当というわけだ。そこには、ペソアによるブルジョワジーアナーキストの双方に対する痛烈な皮肉があらわれている。

本書の巻末には「『アナーキストの銀行家』補遺」が付録として収録されている。これは、ペソア自身が構想していた作品の増補・改訂のための草稿である。草稿は、手書き、タイプ原稿、タイプ原稿への書き込みなどがあるようだが、本書ではその現物は掲載されていない。リスボン国立図書館には遺稿として保管されているとのことなので、実際の原稿をみたいならポルトガル旅行を計画しなければならないだろう。個人的には、一部だけでも写真などで原稿を掲載してほしかったなと思う。

本書は、フェルナンド・ペソアの魅力を知るきっかけとなった。バラエティに富んだ短編は、どれも面白くすっかりペソアのファンになってしまった。はじめてのペソアが本書だったことは、きっとラッキーなのだろうと思う。別の作品も読んでみたい。