タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「標本作家」小川楽喜/早川書房-評価が両極端にはっきりとわかれそうな作品

 

 

読み終わって考え込んでしまいました。自分はいったい何を読んだのでしょうか。これは、いったいどんなお話なのでしょうか。

舞台は西暦80万2700年、人類が滅亡した地球です。“玲伎種”という新たな高等知的生命体が、滅亡した人類に代わって地球を支配しています。玲伎種は、人類の文化を研究するために作家を生命体として再生させ、〈終古の人籃〉という収容施設で小説の執筆をさせています。

収容された作家たちは、玲伎種によって不死固定化処置と呼ばれる不老不死の処置を施され、永遠の命を与えられて永遠に作品を書き続ける“標本作家”として生きています。そんな作家たちを見守り、執筆の管理役を与えられているのがメアリ・カヴァン。彼女は、“巡稿者”と呼ばれます。

メアリは、標本作家たちの中心人物となるセルモス・ワイルドが現実として存在していたときに、彼のそばで彼を見守っていた女性でもあります。そして、〈終古の人籃〉において巡稿者としての役割を果たす中で、作家たちに自分自身のための作品を書いてほしいと願っています。

あらすじというか作品の舞台設定は、おおよそこんな感じです。物語は、当然ながらここから深くなっていくのですが、途中から自分がなにを読んでいるのかがわからなくなってきました。けっして面白くないわけではないのです。むしろ、ひとつひとつのエピソードであったり、実在の作家をモチーフにしたと思われる標本作家たちや、人類最後の作家とされる作家などのキャラクターも興味をそそるものとなっています。ですが、物語を読み進めていくごとに、この作品が描こうとしている世界観が膨らみすぎて、ポツンと置いてけぼりにされるような不安を感じるのです。いや、そもそも、膨らみすぎたという感覚ですら誤っているのかもしれません。方向音痴という言葉がありますが、私はまさに作品を読み進める中で方向音痴に陥ってしまったようです。

〈終古の人籃〉には、10人の標本作家が収容されています。19世紀に「痛苦の質量」という作品を書いたとされるセルモス・ワイルドのモデルは、オスカー・ワイルドでしょう。人類史上もっとも商業的な成功をおさめたとされる21世紀の恋愛作家バーバラ・バートン。人類史でもっとも偉大な幻想文学を立ち上げた20世紀のファンタジー作家ラダガスト・サフィールドは、彼の著書「はざまにて沈まざりし地」の内容から考えるに「指輪物語」のJ・R・R・トールキンがモデルかと思います。また、吸血鬼や人造人間といった様々な魔人を生み出した18世紀のゴシック作家ソフィー・ウルストンは、「フランケンシュタイン」の作者メアリー・シェリーを思い起こさせます。他にも、20世紀のSF作家ウィラル・スティーヴンのモデルは、「スターメイカー」などで知られるオラフ・ステーブルトンでしょう。

さらに、物語が西暦80万2700年の遠未来が舞台なので、私が生きている現在から先の未来に現れる作家たちもいます。22世紀のミステリー作家ロバート・ノーマン、24世紀のホラー作家エド・ブラックウッド、28世紀の児童文学作家マーティン・バンダースナッチ、そして、おそらく人類最後の作家クレアラ・エミリー・ウッズ。彼らを語る中では、未来におけるミステリー小説の変化やさまざまな技術が発達した中でのホラー的要素の変化、あるいは社会情勢が変化する中での作家性の変化などといったことが描かれます。

もうひとり、19世紀最大の小説家チャールズ・ジョン・ボズ・ディケンズがいます。モデルは「大いなる遺産」などで有名なチャールズ・ディケンズです。彼はメアリの相談役的な立ち位置で登場します。また、第3章に入るとディケンズは退場し、辻島衆という日本人作家が〈終古の人籃〉に加わります。彼のモデルは太宰治です。

〈終古の人籃〉に収容される10人の標本作家たちは、玲伎種によって他者の作風や才能を感じ取り自分のものとする〈異才混淆〉を与えられ、共著の創作を行っているのです。その状況をメアリは終わらせたいと考えているのです。

物語はここからさらに混沌としてきます。第3章から第4章、第5章と進む中で私は次第に、そして確実に迷路に迷い込みました。どこをどう歩いたかよくわからないままに物語は進んでいき、さまざまな風景を見せてきます。途中、ストーリーの軸が見えたと思ったとしても、すぐにまた自分の居場所を見失ってしまう。本書を読み進めるのは、そういう状況に身を置くということに他なりませんでした。そして、結局のところ最後までよくわからないままに導かれ、気づけば物語は終わっていたのです。小説とはなにか、作家はどう書くべきかという創作することや作家であることの意味といったテーマで書かれた作品のようでもありますが、その理解が正解なのかはわかりません。

本作は、第10回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しています。巻末に選考委員5名の選評が掲載されています。それぞれに評価のレベル感は違いますが、「標本作家」についてはほとんど全員が高く評価していました。大賞受賞作なのですから当たり前かもしれません。

「謝辞」の中で著者は、本作がハヤカワSFコンテスト大賞を受賞するまでに、別の新人賞に3度応募してすべて落選しており、そのすべてが一次選考すら通過しなかったと記しています。4度目の挑戦となるハヤカワSFコンテストで大賞を受賞したのは、やはり作品がコンテストとマッチしていたからなのだと思います。一方で他の新人賞ですべて一次選考落選ということは、作品に対する読み手の評価が両極端にはっきりと分かれるからなのではないかとも思います。否定するというよりは、どう評価してよいのかわからないというのが実際かもしれません。私自身、こうして長々とレビュー的なものを書きましたが、これだけの分量を書いてみても、「よくわからない」という答えしか出てきていません。もう一度、あるいは二度、三度と読み返せば理解できてくるのかもしれませんが、正直この本を再読する気力は湧いてきません。

ガチのSF読者やプロの書評家ではなく、一般読者が本作を読んでどう評価するのか。それがとても気になります。