タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

堀部篤史「90年代のこと 僕の修業時代」(夏葉社)-インターネットもSNSもなかった時代を振り返りつつ今を生きる。

 

90年代のこと―僕の修業時代

90年代のこと―僕の修業時代

 

 

インターネットが普及し、誰もがスマートフォンを片手に“インスタ映え”を狙って料理や風景や自分自身を写真に撮っては不特定多数の人たちと共有し、名前も知らないどこに暮らしているかもわからない人から“いいね”と言われる時代。2018年末の世界は、常に誰かとつながっている時代だ。

TwitterInstagramに投稿して誰かの反応を待っている。“いいね”がつかないと落胆しコメントの内容に一喜一憂する。エゴサーチをしては、誰かが自分のことをどこかで語っているのを必死に探す。フォロワーの数が増えた減ったと騒ぐ。

私もこうして、自分が読んだ本の感想を拙い文章として綴りネットに公開しては、誰かが反応してくれるのを待っている。“いいね”と押してもらえば喜ぶし反応が薄ければ落胆する。

でも、1990年代にはそんなことを気にする人はほとんどいなかった。

「90年代のこと 僕の修業時代」は、堀部篤史さんが高校生、大学生時代を過ごした90年代について記したエッセイであるともに、過剰につながりを求める現在とのギャップを記した評論としても読める。

堀部さんは、京都で『誠光社』という本屋さんを営んでいる。元は同じ京都にある『恵文社一乗寺店』の書店員であり、独立して誠光社をはじめられた。

堀部さんの書店員としての源流となっているのが、90年代に経験した様々な音楽や映画、テレビそして本である。そして、それらを共有してきた“顔の見える”仲間たちとの交流である。だから本書のサブタイトルが『僕の修業時代』なのだ。

90年代には、まだインターネットは普及していなかった。SNSも存在していなかった。

堀部さんにとって90年代とはどのような時代だったのか。本書ではまずそのことを「バック・トゥ・ザ・パラレルワールド」と題するプロローグとして記している。フリーペーパーを作ったり音楽イベントを企画したり、それらは近しい仲間内で共有される自意識の発露でしかなく、趣味のあう友人との関係性をより深く濃くしていくことだった。

やがて時が過ぎ、社会との接点が不特定の広い範囲に拡散するようになる。次第に違和感が広がっていく。それは、堀部さんと同じようにインターネットもSNSもない時代を経験してきた同世代人に共通する感覚かもしれない。

私は堀部さんよりも年上だが、本書で堀部さんが書いているような、いろいろなレコードやCDからカセットテープに自分で好きな音楽を編集しオリジナルテープを作ったり、テレビ番組をみて翌日に学校で友人とその話題でもりあがったりといった経験をしてきた。おそらく、いま30代半ば過ぎの世代の人は、みんな同じような経験をしていて、本書に書かれているようなことにもほとんど共感するのではないだろうか。

やはり、インターネットとSNSの普及は時代も文化も大きく変えたのだと改めて実感する。

しかし、変わってしまった時代や文化を以前の状態に戻すことはできない。

スマートフォンも、SNSも、アマゾンも、Googleも、一度手にしてしまった以上、それらを手放すことなど懐古趣味にほかならない。自分だけが立ち止まろうとも、それらが存在する世界を変えることはできないのだ。

インターネット普及前の時代を生き、「あの頃はよかった」とつぶやくことはできても、結局のところ私もインターネットやSNSの恩恵を享受している。出会うこともなかった方々と知り合えたり、知ることのなかった店や商品に触れることができるのもインターネットやSNSのおかげだ。

堀部さんは、誠光社を作ることで『本屋というオールドスクールな商売』を続けている。インターネット普及前後の変化を知る私たちにできることはなにか。本書を読みながら自分にはなにができるか考えてみようかと思った。