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【書評】チャールズ・ウィルフォード/浜野アキオ訳「拾った女」(扶桑社)−行きずりの女を男は愛しいと感じた。ふたりは愛を交わし、そして落ちた。行き着く先には悲劇があった。

拾った女 (扶桑社文庫)

拾った女 (扶桑社文庫)

 

チャールズ・ウィルフォード「拾った女」は、文字通りあるひとりの女を拾った男の物語だ。

サンフランシスコのカフェで働くハリー・ジョーダンは、その夜もいつものように店に出ていた。間もなく深夜11時になろうかという時間。慌ただしく食事を終えた客が店を出るのと入れ違いに入ってきた女は、明らかに酔っていた。ハリーは、彼女ヘレン・メレディスを“拾った”。

身元もよくわからない飲んだくれのアル中女を拾ったハリーは、そこから彼女に翻弄される。アル中で精神的も不安定なヘレンは、ハリーのアパートに転がり込むことになるのだが、その不安定さゆえにハリーを振り回すことになる。ヘレンが所持していた金が尽きてハリーが仕事に出るようになると、ハリーが不在の間に酒に酔った状態で街に出て騒動を起こす。それでも、ハリーはヘレンを愛し続ける。そして、ふたりはゆっくりと悲劇の底へと落ちていく。

以下ネタバレ

 

物語の中盤、ハリーはヘレンの首に手をかける。ヘレンを殺した後で自分も死ぬつもりだった。だが、ガス自殺を図ったはずのハリーは生き残り、殺人容疑で逮捕される。ハリーは彼女に対する殺意を認め、自らの罪を認める。しかし、ヘレンの死はハリーの手によるものではなかった。彼女の死因は冠状動脈血栓症という病気によるものだった。ヘレンを愛し、彼女が望む死を自らの手で彼女に与えたと思っていたハリーにとって、それは衝撃の奥底に彼を叩き落とす結果にしかならなかった。ハリーは自由の身となり、サンフランシスコを出て行く決心をする。

物語の全編をモノクロームのイメージが包み込んでいる。夢も希望もなく、ただ生きているだけの退廃的なふたりの人生に存在するのは、薄汚れた酒場の風景と焼けつくように喉を滑る酒だけだ。人生に絶望しているから、ふたりは互いに惹かれ合うのだろう。

1954年に書かれた本書は、その時代を背景にした物語であるが、60年以上経過した現代の読者からすると、やはり古めかしい印象は拭えない。読んでいて、途中でちょっと退屈さを感じたのも確かだ。だが、本書にはラストにある衝撃的な事実が待ち受けている。ラスト2行に書かれたその事実は、読んでいて思わず「エェ!」と声を出してしまうような衝撃だ。巻末の書評家杉江松恋さんの解説にも、その衝撃について次のように書かれている。

(前略)進行するドラマに終止符が打たれた後で本当の意味での物語の幕は上がる。あれ、と呟いて読者はもう一度最初のページから本編を読み返したくなるだろう。(以下略)

確かに、ラストで明かされる事実を知った上で物語のさまざまな場面を読み返してみると、最初に読んだときと印象が変わるところが出てくるのは確かだ。ただ、その事実だけをもってしてすべての印象が変わるというわけではない。その事実を知る前後で物語の印象を変化を認識するには、本書が書かれた1950年代のアメリカ、そしてその時代から今にいたるも綿々と続いているアメリカの抱える問題を理解しているべきだろう。そうしたすべての要素があって、本書ラストの衝撃が作品の印象を変えることがわかる。