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【書評】石原慎太郎「天才」(幻冬舎)-金権政治の象徴か、不世出の政治家か。田中角栄と戦い続けた著者が描く天才政治家の実像

片手に扇子を持って顔をパタパタと仰ぎながら、ややふてぶてしく憎たらしい傲岸な雰囲気を醸しつつダミ声で一言「ま、このぉ~」

天才 (幻冬舎単行本)

天才 (幻冬舎単行本)

 
天才

天才

 

昭和世代のオッサンならば、田中角栄元首相のモノマネを誰でも一度くらいやってみたことがあるのではないだろうか。とにかく、ダミ声で「ま、このぉ~」と言っていれば誰でも田中角栄になれた。もちろん、似ているか否かは個人の心持ち次第だ。

 

石原慎太郎「天才」は、かつて政界で対立もしていた著者が、はじめて田中角栄という人物を正面から描いた作品である。新潟に生まれた角栄の生い立ち、成長、家族との関係、政界進出のきっかかけと政治の世界でのし上がっていくプロセス、総理総裁の椅子をめぐって切磋琢磨し、“角福戦争”などと言われた福田赳夫との関係、角栄軍団とよばれ金権政治の象徴的存在であった越山会の隆盛と没落、そしてロッキード事件、病との戦い、晩年を田中角栄の一人称形式で描き出していく。

最近になって、田中角栄という政治家を再評価する流れがあるようで、本書にとどまらず田中角栄を扱った本が数多く出版されている。

田中角栄が亡くなったのは1993年で、今年で没後23年ということになる。死後20年以上経ったひとりの政治家が、こうして今注目されているのはなぜなのだろう。

私の個人的な印象で言えば、田中角栄というのは実に泥臭い、今の時代においては明らかに古臭いタイプの政治家である。金権政治の象徴的存在であり、ロッキード事件では巨額の賄賂を受け取っていたとして逮捕、起訴されて最高裁まで争った挙句に有罪判決を受けるなど、金に絡む事件や噂が絶えることがなかったし、総理大臣を退任後ロッキード事件の被告人となってからも政界には影響力を持ち続けて、“政界の闇将軍”と言われた。頭の先から爪先までダークなイメージがつきまとっている。

その一方で、田中角栄には政治家としての実績も華々しいものがある。総理大臣になる直前に発表した「日本列島改造論」は、新幹線や高速道路を日本中に張り巡らし、各都道府県に最低1つずつの空港を整備して、日本の都市と地方の距離を縮めようという施策論であり、石油を外国からの輸入に頼らざるをえない日本の状況を踏まえた原子力発電への転換についても言及されているという。

また、総理大臣就任後は日中国交正常化を実現させた。両国の友好の証として、“ランラン”と“カンカン”という2頭のパンダが贈られ、上野動物園にはパンダを見るための行列が2キロ以上にも及んだとされる。

こうした田中角栄の政治的な実績(特に日中国交正常化の実現)がアメリカの機嫌を損ね、そのことで後のロッキード事件がアメリカの意向によって仕組まれ、田中角栄が失脚に追い込まれることになった、ということが言われている。それが事実がどうかはなんとも言えないが、本書の中でも、石原慎太郎ロッキード事件は誤りであると完全否定している。そもそも、石原は田中角栄の政治姿勢、金権政治を鋭く批判し対立することで政治の世界を歩んできた政治家である。それが、角栄を“天才”と評価し、総理大臣経験者が逮捕されるという戦後最大ともされる政治汚職事件を「アメリカの意向によるでっち上げ」という。そこには、今あらためて田中角栄という政治家を思い返したときに、その政治手腕と人間性を再評価したくなるような魅力を感じたからなのではないか。

後書きの中で、石原は角栄とのあるエピソードをあげている。

田中金権政治批判の急先鋒であった石原は、ある日テニスクラブのクラブハウスにあるテラスで偶然に田中角栄と遭遇する。石原に気づいた角栄は、石原を同じテーブルに同席させて話をする。石原が「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げる(謝罪というよりは、角栄への当て付けのつもりだったのかもしれない)と、慌てる側近議員を尻目に豪快に笑い飛ばしたという。石原は、角栄の人間としての度量に圧倒された。

“これは何という人だろうか”と思わぬ訳にいかなかった。私にとってあれは他人と関わりに関して生まれて初めての、そして恐らくたった一度の経験だったろう。

政治家という存在に対して、私たちは常に厳しい目を向けている。だが、あまりに厳しく凝視し続けてしまったことで、あまりに些細な出来事であっても極悪非道な所業を犯したかのように政治家を責めたて、結果として政治家が世論におもねって思うように動けなくなってしまっているのではないだろうか。田中角栄という政治家が注目され再評価されている理由の根本には、現在の政治家に対する批判が存在しているのかもしれない。