タカラ~ムの本棚

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

「ミサイルは弾薬」というならば、この愚劣な人間ミサイルも「弾薬」だというのか?-小林照幸「父は、特攻を命じた兵士だった 人間爆弾「桜花」とともに」

戦後70年ともなると戦争の記憶は確実に風化していく。当時子供で空襲を経験したり、学童疎開を経験した世代はまだギリギリ70代という方もおられるので、元気で存命の方も多いが、実際に従軍した経験を有する人はほとんどが80代〜90代であり、もうすでにその多くが鬼籍に入っている。

小林照幸「父は、特攻を命じた兵士だった」は、2010年に刊行されたノンフィクションである。

本書に登場する林冨士夫氏は、当時80代後半だったので、あれから5年が経過した現在では90代になっているはずだ。当時から、若干認知症の症状が見え始めていたが、こちらも存命であればさらに病状が進んている可能性もある。

場面は、林氏が特別養護老人ホームに入所する日の様子から始まる。林氏は、太平洋戦争当時に海軍航空隊の大尉をつとめていて、海軍が計画、実践した特攻作戦"桜花"に携わっていた。鹿児島県鹿屋市にある基地で、桜花に乗員するメンバーを選任し、黒板に書き出すのが林氏の任務だ。

林氏自身も、桜花で華々しく国のために散ることを願っていた。彼は、志願して桜花作戦に参加していたのである。だが、そんな彼に与えられた任務は、桜花の乗組員として特攻させる兵士を選ぶこと。つまり、死んでいく者を選ぶという非情な役回りだったのである。

日本軍が実施した特攻作戦というと、零戦による神風攻撃や人間魚雷回天がよく知られている。しかし、日本軍が考案した特攻兵器はそれだけではなかった。桜花も神風特攻隊や人間魚雷に匹敵する馬鹿げた特攻作戦である。

桜花は、自ら飛行、着地する能力を持たない木製の一人乗り滑空機である。大型飛行機に吊り下げられた形で出撃し、敵艦上空で切り離されるとそのまま相手艦船に突撃する。いわば、“人間ミサイル”だ。

桜花は、一撃必殺の特攻兵器という触れ込みで1945年に実戦投入された。しかし、その頃には連合軍側に完全に制空権を握られていたため、思うような戦果はあげられず、ほとんどが撃墜されるなどしている。

桜花が、実戦で戦果を期待できないことは、林氏をはじめ飛行隊の面々は重々承知していた。それでも彼らはその作戦に志願した。それは、通常の感覚からすれば信じがたいことだ。しかし、当時の若者にとってはそれが当たり前のことだった。

終戦後、林氏は多くの戦友を死地に追いやったことに苦悩するようになる。結婚して家庭を築き、自衛隊に入隊した彼は、傍目には平凡で幸せな生活を送っているように見えたが、その陰で仲間への深い懺悔の気持ちを抱えていた。桜花に関する様々な慰霊行事に参加し、戦友会の代表を務め、遺族に謝罪して歩いた。

戦争とは、いかに愚劣で不幸なことであるか。その始まりは、もしかすると瑣末なきっかけであったかもしれない。しかし、一度始まってしまった戦争は、あっという間に拡大していき、やがて人々の感覚は麻痺していく。戦争が当たり前のように生活と共存し、前線で戦う兵士だけでなく、“銃後の守り”と称して一般市民を巻き添えにしていく。その結果がどうなるかは言うまでもない。

戦争末期に、特攻という究極の軍事作戦に走った日本。その行為は、今の我々からすればバカげた愚行にしかみえない。しかし、戦争という極限の状況は、人間の正常な判断能力を著しく麻痺させる。おそらく、当時この作戦を考えた軍上層は、これが日本が劣勢を巻き返す起死回生の作戦と考えたのかもしれない。

2015年、戦後70年目の今年、戦争の記憶を生々しく抱える世代は、次第に少なくなっている。私をはじめ、国民の多くは、直接に戦争を知らない。戦争とは、日本から遠く離れた場所でいつの間にか行われている、ニュースの映像でしか見ることのないものになっている。でも、それって実はとても幸福なことなのだ。そして、その幸福はこれからも続けていかないといけないのだ。私たちが本当に取り組まなければいけないのは、我が国の安全保障のためと称して、集団的自衛権などという抑止力を強化することではなく、どうしたら世界中から戦争や紛争をなくすことができるのかを考えることではないかと思うのである。