ガタガタ書評ブログ

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【書評】閻連科/谷川毅訳「年月日」(白水社)-干ばつの村にたった1本残ったトウモロコシを守るひとりの老人と1匹の盲犬の戦いのはてにあるもの

年月日

年月日

 

ついに『年月日』が日本でも出版されました。この作品は中国でもほかの国でも広く愛され、論争になることも非難されることもほとんどありませんでした。日本でどのように受け入れられるかはわかりませんが、日本の読者の皆さんが読み終えた後、軽くため息をついて、「へえ、これは彼のほかの小説とぜんぜん違う、まったく別の閻連科だ」と言ってくださるなら、それは私が病気と闘いながら書いたこの作品への最高のご褒美です。

2014年に翻訳刊行されて高い評価を得た傑作「愉楽」で閻連科という作家の存在を知り、作品の世界観に魅了されてファンになった読者にとって、この「年月日」はかなり異質な作品に感じる。

 

この異質な感覚は、冒頭に引用した著者あとがき「もう一人の閻連科-日本の読者へ」に書かれた著書の一節からも明らかなのかもしれない。この一節で著者が書いている読後の『軽くため息をついて、「へえ、これは彼のほかの小説とぜんぜん違う、まったく別の閻連科だ」 』という感想が、まさに本書を読み終えて感じた“異質性”を立証しているように思うのだ。

閻連科「年月日」は、大日照りに見舞われた山間の村で、たった1本残されたトウモロコシを苗を守るために村に残った“先じい”という老人と、彼と行動をともにする1匹の盲犬“メナシ”の物語である。容赦なく照りつける太陽に村は焼かれ、すべての村人が村での生活を捨てて他の土地へと移っていった中で、先じいとメナシだけが村に残り、1本きりのトウモロコシを懸命に育てる。それは、希望など欠片も見出すことのできない、絶望でしかない生き方だ。焼けつくような太陽の陽射しに抗い、飢えと渇きに苛まれ、ネズミやオオカミとの闘いに神経をすり減らしながら、先じいはトウモロコシを守り続ける。

先じいの闘いの日々は読んでいて苦しく、ときに目を背けたくなるようなつらさがある。先じいとメナシの日々には、安穏という事はありえない。彼らは日に日に痩せ細り、体力を失っていく。先じいが期待するような展開は一切といっていいほど訪れず、ただ苦難だけが待ち受ける。

いったい彼は、どうして村に残ることを選んだのだろう。
たった1本残ったトウモロコシの苗を、自らの命をかけて守り抜くことに何の意味があるというのだろう。

読めば読むほど、胸の苦しさは増していき、「なぜ闘うのだ?」、「なぜ逃げないのだ?」という思いばかりが頭を支配していく。だが一方で、先じいの生き方に共感し、応援している自分にも気づかされる。

先じいの生き様は、彼自身が胸の奥底に抱えている“プライド”だ。無謀で、無様で、無意味と思える闘いを続けることは、たったひとりでも村を守るという矜持であり、土地を守るという矜持であり、農民として作物を守るという矜持である。先じいの矜持を感じるから、彼をリスペクトし応援したくなるのだ。

先じいとともに重要な存在となっているのは、盲目の犬メナシだ。正直、先じいに健気に仕えるメナシの存在に、ところどころグッとくることがあった。希望を失いかけた先じいの傍らにそっと寄り添い、見えない目から涙をポロポロとこぼしながら先じいを見つめるメナシ。ひとりと1匹は、人間と犬という関係を超越し、同じ目的に向かって闘う同志であり、互いの存在が互いを支えている。だからこそ、先じいは最後までメナシを信じ、メナシは先じいを信じた。その結末は、切なくつらいけれど、やはり感動的である。

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炸裂志

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