読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

彼女はただ待ち続ける。誰でもない、見知らぬ誰かを−太宰治「待つ」

書評 太宰治

省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。

待つ

待つ

 

太宰治「待つ」を初めて読んだのは、2011年から刊行をスタートした集英社の全集「戦争と文学」の第1回配本だった「アジア太平洋戦争」の巻でした。

日本が勝ち目のない泥沼の戦争へと突き進んだ太平洋戦争を題材にして、作家たちが書き残した作品の中のひとつとして、太宰治「待つ」が選ばれ、書籍の巻頭を飾る構成になっており、ページを開いて最初に目に飛び込んだのが、最初に引用した冒頭の一節でした。

私が、「戦争と文学-アジア太平洋戦争」の巻を読んで感じたのは、この太宰治「待つ」が醸し出す妙な違和感でした。

「戦争と文学-アジア太平洋戦争」には、真珠湾攻撃に始まり日本敗戦までの、日本が次々と負け続け国力を失っていく、いわば狂乱の時代に対応した作品が選定され収録されています。例えば、

など。これらのラインナップの中で、「待つ」の静謐さは際立っていたように思ったのです。

そのときに書いたレビューを引用してみます。

本書は、真珠湾攻撃から日本敗戦までを時系列に流して、対応する作品が収録されている。しかし、第1編として収録されている太宰治「待つ」はその流れからは少し浮いた存在だ。身内が従軍していると思われる若い女性が毎日のように駅に出向いては、帰るあてのないその人を待つという作品には、戦争の中のある状況を切り取った他の作品とは異なる、戦争全体を通じた根本的な思想を有しているように思う。太宰治反戦、厭戦の思想の持ち主であったのかは知らないが、少なくとも「待つ」という作品には、戦争を賛美するという観念は存在しない。太平洋戦争をテーマとした作品の一番最初にこの作品を配置した編者の意図が十分に感じられる気がした。

改めて今回「待つ」を読んでみて、以前のこの読解が誤りであったとわかりました。

「待つ」は、決して「出征した誰か」を「待つ」ことを描いた作品ではありません。

主人公は、「誰とも、わからぬ誰か」を待っている。つまり、戦争に従軍した人だけでなく、すべての人を待っているのです。もっといえば、待っているのは「人」ではないのかもしれないのです。

いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりとした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。

と太宰は書いています。そして、

私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。
もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。

彼女が待っているものは、彼女にもわかっていません。けど、それこそが太宰の気持ちのあらわれ、気持ちのゆらぎを示しているのではないでしょうか。

「待つ」の彼女が待っているもの=得体のしれない何か=太宰の心奥にある言い知れぬ不安感

そんな図式が、垣間見える気がするのです。

「待つ」が、「戦争と文学-アジア太平洋戦争」に感じた違和感は、「待つ」が、書かれた時期は戦争の最中であったとしても(発表は昭和17年)、決して直情的に戦争を描いていないこと、戦争を直接的に意識していないのに、読み手たる読者には戦争の影を深く直接的に感じさせること、によるものなのではないでしょうか。

「待つ」は、とても短い作品です。ですが、深く考えさせられるとともに、深く心に刻まれる作品だと思うのです。