ガタガタ書評ブログ

読んだ本の感想などをボチボチと綴るブログ

上巻を読んだだけではわからなかった。最後まで読むことで胸に入る人間の生きる道のようなもの-西加奈子「サラバ!」

大変な誤解をしていた。それが、西加奈子「サラバ!」の下巻を読み終わっての感想だった。

サラバ! 上

サラバ! 上

 
サラバ! 下

サラバ! 下

 

“誤解”の意味を説明しておいた方がいいだろう。「サラバ!」の上巻を読み終えて、私は書評サイト「本が好き!」に上巻の書評を投稿した。(書評はこちら

その中では、本書の構造を個性の強い母と姉に翻弄される凡庸な長男の物語であるという主旨を書いた。しかし、下巻を読み進めていくうちに、その考えが少しズレていたのではないかと感じるようになった。むしろ、主人公である圷歩こそが、誰よりも自意識の高い痛い人なのだ。母・奈緒子や父・憲太郎、姉・貴子という圷家の面々に中に置かれることで、歩があたかも凡庸な男のように錯覚してしまったのではないかと考えたのだ。

「サラバ!」は、主人公・圷歩(あくつあゆむ)が生まれてから37歳になるまでを描く。上巻は、イランで生まれ、日本、エジプトで幼少期を過ごした歩が、両親の離婚に伴って今橋歩となり、大阪で高校卒業までを描き、下巻は、大学入学に伴って上京してから、現在までを描く。

上巻を読んでいる段階では、わりとオーソドックスな成長ストーリーで、個性の強い家族の中で平凡だけど堅実に歩は大人になっていくのだと考えていた。だけど、下巻を読み始めて、その認識に対する疑問符が頭の上にチラつき始めた。「おや?何か思っていたような展開と違うぞ?」と感じたのだ。

下巻に入ってから、圷家の家族それぞれの生き方に変化が出てくる。歩は、上京して圷家の呪縛を逃れたことで、タガが外れたように放蕩生活を送るようになる。多くの女性と関係をもち、映画サークルの部室に入り浸る。就職もせず、ライターとしてに入って友人たちとの時間を楽しむようになる。

歩は、大学を卒業しても就職もせず、偶然彼の書いたフリーペーパーのコラムを読んでくれた編集者の計らいによってライターとしての仕事をはじめることになる。仕事も増え、順風満帆な人生を歩み始めたかに見えた歩だが、またも姉・貴子の存在に翻弄され、それをきっかけに歯車が狂い始める。祖母の死、母の再婚、父の出家、矢田のおばさんの死といった出来事が続いたり、髪が薄くなってきて人目を避けるようになったり、いつも一緒だった親友の結婚に動揺したりする。

上巻での歩と下巻の歩は、何かが変わったのだろうか。いや、歩という人間の本質は作品全体を通じて何も変わってはいない。だが、彼を取り巻く世界観が変わっていったのだ。鬱陶しいと思いながらも家族の庇護の下で生きていた少年時代も、家族から離れて彼なりの自由を得たと錯覚していた青年時代も、歩はただただ自分を押し殺して、家族も他人も信頼できず、自分が被害者であると自分に言い聞かせるようにして生きてきたのではないか。その考えが強すぎたがために自分を見失ってしまったのではないだろうか。

そういう意味で、歩以外の圷家の家族は、憲太郎も奈緒子も貴子も特異な人物でありながら、誰も自分を見失っていない。それぞれが自分の生きる中で、自分の位置を理解し、自分ができること、したいことにストレートに行動する。上巻の書評で憲太郎が奈緒子や貴子の存在感に圧倒されて存在感の薄い男であると記したが、それは誤読であり、憲太郎こそが一番自分の位置づけと信念を固く貫いている強い人物である。

歩は、貴子に諭され、憲太郎から奈緒子との馴れ初めから離婚に至るまでの経緯を聞く。そして、彼は、自分が子供時代を過ごしたエジプトに向かう。彼は、そこで親友だったヤコブと再会する。長い歳月を隔てて再会を果たした二人には、しかし、長い時間の壁は存在しなかった。歩は、ヤコブと会ったことで、自分がどこに立てばいいのかに気づいたのに違いない。だからこそ、彼は自らの生い立ちと人生を振り返り、小説を書こうと決めたのだ。

「サラバ!」とは、歩が、それまで歩んできた自らの人生に決別し、新しい自己を見い出すための言葉なのかもしれない。昨日までの自分に別れを告げ、明日からの新しい自分を生きていく。本書は、そんな大仰な人間再生物語なのではないだろうか。

 

【追記】
直木賞選考委員の林真理子による選評では次のようにある。

「受賞作にこんなことをいうのはなんなんですが、本当に欠点は多い(笑)。上巻と下巻で整合性がとれないとか。でもそれをしのぐ強いメッセージを感じました。(以下略)」 

自分が上巻を誤解していて、下巻で違和感を感じたところが、意味合いは違うけど直木賞選考委員も欠点として取り上げていたことにちょっと安心してたりする(笑)。