強いストレスを感じたり、どうしようもなく辛いことがあったり、激しく後悔したくなるような失敗をしてしまったとき、そのすべてを忘れてしまいたいと思ったことがある。
何かを忘れようとしたときに、どんな方法をとるだろうか。ただじっと耐えるだけという人がいる。身体がヘトヘトになるまでスポーツに没頭する人がいる。そして、何かを食べることで忘れようとする人もいる。
「忘却のサチコ」の主人公佐々木幸子は、文芸誌の編集者をしている。竹を割ったような性格というか、堅物というか、冗談の通じない真面目な性格の女性である。
第1巻の冒頭で、サチコは結婚式の最中に新郎である俊吾に逃げられてしまう。その場では気丈に振る舞って場を収めたサチコだったが、心の同様は隠しきれず仕事にも影響してしまう。
そんなとき、サチコは大衆食堂でサバの味噌煮定食を食べる。一口食べたサバ味噌の美味しさに我を忘れ、一心不乱に食べ進めるサチコ。そして、食べ終わったとき、彼女は俊吾の存在が食べている間ずっと忘れられていたことに気づく。
「美味しいものを食べていれば、俊吾のことを忘れられる」
そのことに気づいたサチコは、それから美食を求めるようになる。
阿部潤「忘却のサチコ」は、いわゆる《グルメマンガ》である。特定の店や特定の料理を紹介することがメインではない。本作品のメインテーマは、「食べることで嫌なことを忘れられる」ということだ。
第1話のあらすじに書いたように、主人公のサチコは結婚式の最中に新郎の俊吾に逃げられてしまう。しかし、心に深い傷を負ったまま食べたサバの味噌煮の美味しさが、彼女の記憶にあった俊吾の記憶を食べている間のほんのひととき忘れさせてくれたことで、彼女は美味しいものを食べることが、彼女にとってのストレスや嫌なことを解消させ、忘れさせてくれることを知るのである。
確かに、本当に美味しいものを食べているときは、この世に存在するありとあらゆるすべてのことがどうでもいいことのように思えるときがある。逆にいえば、食事が美味しくないときには、体調的な面もそうだけど、気持ちの面で落ち込んでしまっていると感じることがある。
ただ、こうした美食グルメは東京だけ、大阪だけという特定の場所だけで成立させることが難しいのか、サチコはけっこう日本各地のグルメを堪能している。北海道の生うに、沖縄のソーキそば、香川の讃岐うどん、高知のカツオの塩タタキに鍋焼きラーメン。なので、全国ご当地の美味いものガイド的な読み方もできる。
様々なグルメマンガが続々と刊行されている中で、本書は作品として、それほど特筆するようなものはない。繰り返しになるが「食べることで忘れる」という基本的なコンセプトがすべてなのだ。なので、1話ごとに読んでいる分には楽しめるけど、全体を通じてみると、あまり印象に残りにくい作品である。ストーリー全体を楽しむよりも、各話に登場するメニューを楽しむ作品ということなのかもしれない。