タカラ~ムの本棚

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母国語とは違う言葉で表現をするということ-ジュンパ・ラヒリ「べつの言葉で」

私は、日本で生まれて日本で育ってきた。《日本人》であることが自らのアイデンティティである。

日本人として育ってきた中で、日本語を母語としてきた私は、恥ずかしながら英語をはじめとする他国の言語を話すことができない。日本語で話し、日本語で考えることで、これまで生きてきたわけである。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

ジュンパ・ラヒリは、インド系イギリス人でありアメリカで育った。彼女の両親は、インド・カルカッタ出身であり、その母国語となるのはベンガル語である。ロンドンで生まれてアメリカで育ったラヒリは、ベンガル語と英語を話すことができるが、どちらが本当の母国語なのかはあいまいで、それゆえに「祖国も真の母国語も持たない」という、アイデンティティの喪失ともいえる境遇にある。

本書「べつの言葉で」は、ジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ集である。

ラヒリは、旅行で訪れたイタリア・フィレンツェで、イタリア語に魅了され、10年の時を経て実際にローマに移住し、イタリア語を習得する。その過程の中で、最初はまだまだおぼつかないイタリア語で文章を書き始める。

私のように、日本語という明確な母国語を持っていると、常にその言語世界に身を置き、別の言葉を理解したり、習得する必要性を感じることがない。日本語さえ話すことができれば、生活に困るようなことも、ほとんどない。ときどき、翻訳小説などを読んでいるときに、「原書で読めれば面白さが倍増するかも」と考えることもあるが、しょせんはその程度のことだ。

ラヒリが、イタリア語に魅了されたのは、彼女が明確な母国語を持たないこととも関係しているように思う。彼女は、自分自身が意識的に母国語=メイン言語として利用する言葉を探し求めてきたのではないか。そして、巡りあった言葉が、イタリア語なのではないか。

さて、まったく未知の言葉であったイタリア語を学び、その言語を用いて作品を執筆したラヒリの努力もすごいのだが、イタリア語で書かれた本書を翻訳した訳者・中嶋浩郎氏の訳業もすごい。

ラヒリ自身が、イタリア語を学びながら本書を執筆している。もし、本書の各エッセイが時間軸に沿って執筆し収録されているならば、はじめのエッセイはまだイタリア語がおぼつかないレベルで書かれ、それが後半に進んでいくとイタリア語の文章が洗練されていっているのだと思う。本書の翻訳では、前半のおぼつかない感じから少しずつレベルが高まっていく状況を翻訳した日本語で読者に感じてもらわなければならない。そして、本書を読んでいくと、そのニュアンスの違いが訳文に表現されているように感じられるのだ。

本書を読んで、自らのアイデンティティを形成する素地としての言語の意味を考えさせられると共に、日本の翻訳家のレベルの高さを改めて実感できたように思った。