「あなたのお子さんがお友だちに怪我をさせてしまったみたいです」
「おたくの○○ちゃん、ウチの子に怪我させちゃったみたいなんだよね」
学校やママ友からそう言われても、我が子が「自分はやってない」と主張したら、親として子供を信じるのが、まずは正しいのだろうと思う。
辻村深月「朝が来る」の冒頭の場面、一人息子の朝斗が通う幼稚園から連絡を受けた栗原佐都子は、まさにそういう場面を経験し、迷いなく息子・朝斗を信じようと決める。もしかすると、朝斗がウソをついているのかもしれない。けれど、もしウソだとバレても、そのときに素直に相手に謝ればよいと腹をくくるのである。
このエピソードが印象深いものとして読者に響くのは、栗原家にとっての朝斗の存在を知るからだ。夫・清和が無精子症と診断され、不妊治療を繰り返した末に子供を諦めていた二人が、特別養子縁組という制度によって迎え入れたのが朝斗なのである。
「朝が来る」に描かれるのは、特別養子縁組で子供を受け入れた家族と、特別養子縁組によって我が子を託した少女の物語。特に胸を抉るのは、子供を託した側の片倉ひかりの物語だろう。
親、特に母親への反発から反抗的な日々を送っていた少女は、性に関する知識の乏しさから望まない妊娠をする。すでに中絶もできない状態まで至ってしまったことから、特別養子縁組の制度を利用し、ひかりが秘かに産んだ赤ん坊は、栗原清和・佐都子夫婦のもとに引き取られる。
それから6年。朝斗と名付けられた赤ん坊は、清和と佐都子から親としての愛情をたくさん注がれて成長する。そんなある日、かかってきた1本の電話。片倉ひかりを名乗る若い女性は「子供を返してほしい」と佐都子に告げる。「返してもらえないなら、お金がほしい」と。
なぜ、ひかりは栗原家を脅迫するまでになってしまったのか。それとも、連絡してきた若い女性は、ひかりとは別人なのか。
ここで著者は、子供を産んでからのひかりの人生を描き出す。どうして、彼女が転落していったのか。様々な人と出会う中で、まだ世間知らずの少女は様々な苦難に直面し、そのたびに逃げまわる。本書は、片倉ひかりの転落がメインストーリーなのでは、と思うほどに、彼女のその後の人生を描き続ける。
これについては、毎日新聞のインタビューで著者はこう答えている。
「刹那(せつな)刹那の感情にはうそはないけれど、全体の生き方を見るとちょっとずつ踏み外して矛盾がみえる。矛盾が生じてしまう繊細な部分を扱えるのはジャーナリズムやノンフィクションでなく、小説ではないでしょうか」。そして、「ひかりを書くうちにどんどん血が通い、結果的にこの子が書きたかったんだと思ったほどです」とも。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150630dde012070007000c.html
ひかりの転落人生は、読んでいて胸が締め付けられるほどに切なく、そしてもどかしい。ひかりの生き方を「子供のくせに」とか、「自業自得だ」と吐き捨ててしまうのは簡単なことだ。だが、ほんのちょっとしたボタンの掛け違いが、進むべき道を誤らせ、後戻りのできない転落の道へと誘う。それは、ひかりだけでなく、誰にでも起こりうることのはずだ。
清和と佐都子は、意を決して家族が住むマンションに現れたひかりが、6年前に朝斗を引き取ったときに、涙をこらえてふたりに子供を託した少女とは思えなかった。それほどに、ひかりは容姿さえも様変わりしていたのだ。
ラストシーンで、いよいよ追い詰められたひかりが死を考えたとき、すべてを知った佐都子が現れる。ひかりの抱えてきた苦悩を、朝斗を与えてくれた“広島のお母ちゃん”に対する佐都子や朝斗の受け入れる心が包み込んだ時に溢れ出す感情が強く心に響く場面だった。